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転生したフルート吹きの少年が現代音楽で異世界に癒しをお届けします!  作者: ト音ソプラ


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30話 本選前夜

 本選前夜。


 王都は、雪こそ降っていないものの、骨の髄まで凍みるような寒気に包まれていた。


 ソフィアの屋敷にある音楽室。


 暖炉には火が赤々と燃えているが、音瀬奏の指先は氷のように冷たかった。


 彼はソファに深く沈み込み、黒いフルートを強く握りしめていた。


 テーブルの上には、書き込みで真っ黒になった『天の踊り子』の楽譜が置かれている。


 練習はやり尽くした。


 技術的な不安はない。ソフィアとの呼吸も完璧だ。


 それでも、心の奥底から湧き上がってくる黒い澱のような感情を、拭い去ることができなかった。


(……怖い)


 奏は唇を噛んだ。


 これまで、何度も人前で演奏してきた。


 前世では文化祭やコンクールで。


 ルミナス川のほとりで、動物たちや騎士たちに向けて。


 ルドルフ公爵の屋敷で。


 そして、先日の予選で。


 だが、明日のステージは違う。


 王立大劇場。三千人の観衆。


 そして、その中には自分を敵視するゲルマン伯爵や、かつての同僚たち、そして何より――王族がいる。


 もし失敗したら?


 もし、また「音が大きすぎる」と否定されたら?


 いや、それ以上に……自分のせいで、ソフィアやミア、ライラたちに泥を塗ることになったら?


 先日の襲撃事件が、奏の脳裏をよぎる。


 「影縫い」と呼ばれた男の殺意。


 あれは、遊びではない。


 自分は今、見えない剣が飛び交う戦場の真ん中に立っているのだ。


 大小含めて色んなステージやコンクールに上がってきたけれども他人の命を背負って立つのは初めてだ。


 奏が重い溜息をついた時、扉を叩く音が控えめに響いた。


「カナデ、入るわよ」


 扉が開き、ソフィアが入ってきた。


 彼女は湯気の立つマグカップを二つ持っていた。


「……根詰めすぎよ。ホットミルク持ってきたから、少し休みなさい」


「あ、ソフィアさん……。ありがとうございます」


 奏は慌てて身体を起こし、カップを受け取った。


 温かさが掌から伝わり、少しだけ強張りが解ける。


 ソフィアは向かいのソファに腰掛け、しばらく無言でミルクを啜っていたが、やがてポケットから一通の手紙を取り出した。


「それと、これ」


 テーブルの上に置かれたのは、上質な羊皮紙の封筒だ。


 裏面には、蝋で封蝋がなされているが、紋章はない。ただ、一輪の「雪割草スノードロップ」の押し花が添えられていた。


「これ……」


「ミアが持ってきてくれたの。彼女の侍女が、王宮の古い友人から託されたそうよ。……極秘のルートでね」


 ソフィアが静かに告げる。


「差出人の名前はないわ。でも、あんたなら分かるでしょう?」


 奏の手が震えた。


 分かる。分からないはずがない。


 雪割草は、彼女が一番好きな花だ。


 冷たい雪の中で、春を待ちわびて咲く、白く可憐な花。


「……私はもう寝るわ。あんたも、それを読んだら早く休みなさい」


 ソフィアはそれだけ言うと、立ち上がった。


 彼女なりの気遣いだった。これが極めて私的な手紙であることを察し、一人にしてくれたのだ。


「おやすみ、カナデ。……明日は、頼んだわよ」


 背中越しに手を振り、彼女は部屋を出て行った。


   §


 静まり返った音楽室。


 奏は震える指で封を切った。


 中から出てきたのは、数枚の便箋。


 そこには、震えるような、けれど懸命に丁寧に書かれた文字が並んでいた。


 奏がその文字を目で追うと、不思議な感覚に包まれた。


 文字が、音になり、映像になる。


 彼女の持つ「接触テレパス」の残滓が、手紙に込められた想いと共に、奏の脳内に流れ込んできたのだ。


 ――それは、遠い王宮にいる、孤独な王女の記憶だった。


(先生。お元気ですか?)


 マリーの心の声が聞こえる。


 王宮の、高い塔の上にある彼女の部屋。


 窓の外には、鉛色の空が広がっている。


(私は元気です。……嘘です。本当は、とても寂しい)


 マリーは窓辺に座り、膝を抱えていた。


 言葉を発せない彼女にとって、世界は静寂に包まれている。


 以前は、その静寂が怖かった。


 でも、奏に出会ってからは、静寂の中に「音楽」を見つけられるようになった。


(先生がいなくなってから、王宮の音色は変わってしまいました)


 回想の景色が変わる。


 マリーが廊下を歩いていると、大広間の方からオーケストラの練習音が聞こえてくる。


 かつては、調和のとれた美しい響きがあった。


 だが今は。


 耳をつんざくような、暴力的な音。


 ベン・フォン・ホフマンのフルートだ。


 彼は周囲の音など聞こうともせず、ただ自分の技術を見せつけるためだけに吹き鳴らしている。


 指揮者のカールが何か言おうとするが、ベンの背後に控えるゲルマン伯爵の視線に怯え、指揮棒を下ろしてしまう。


 楽団員たちの目は死んでいる。


 コンサートミストレスのアメリでさえも、苦渋の表情で弓を握りしめていた。


 彼女は何度もベンを諫めようとした。


 だが、そのたびにゲルマン伯爵に「平民風情が」と恫喝され、発言権を封じられてしまっているのだ。


(アメリさんも、皆も、苦しんでいます。あれは、音楽ではありません。……悲鳴です)


 マリーは耳を塞ぎ、その場から逃げ出した。


 胸が苦しい。


 大好きな音楽が、誰かを傷つけ、支配するための道具にされている。


 夜。


 マリーの部屋に、兄のハインリヒ王子が訪ねてきた。


 彼はいつも優雅で冷静な王子だが、その日はひどく疲れた顔をしていた。


「……マリー。まだ起きているかい」


 ハインリヒはマリーの隣に座り、深いため息をついた。


「宮廷楽団は、もう駄目かもしれないな」


 彼は苦笑した。


「ゲルマン伯爵の専横は目に余る。ベンという男も、技術はあるが心が未熟だ。……先日の夜会でも、各国の来賓たちが眉をひそめていたよ。『ウェストリアの芸術も地に落ちた』とな」


 ハインリヒは悔しそうに拳を握りしめた。


 彼は芸術を愛している。だからこそ、今の状況が許せないのだ。


「だが、面白い噂を聞いた」


 ハインリヒの声が、少しだけ明るくなった。


「城下の川辺に、『水の音楽隊』なる一団がいるそうだ。動物たちを手懐け、聴く者の魂を洗うような音色を奏でるフルート奏者がいると」


 マリーはハッとして顔を上げた。


 ハインリヒは、マリーの反応を見て優しく微笑んだ。


「お前の『先生』かもしれないな」


 マリーは何度も頷いた。


 そうです、お兄様。それは私の先生です。


 世界で一番優しくて、温かい音を奏でる人です。


「……明日のコンクール、私も見に行くよ。父上(国王)も臨席される」


 ハインリヒは立ち上がり、窓の外の暗闇を見つめた。


「もし、その男が本物なら……。この腐った流れを変えてくれるかもしれない」


 兄が去った後、マリーは机に向かった。


 伝えたいことが、たくさんある。


 でも、言葉は出ない。


 だから、文字に託す。


(先生。私は信じています)


 ペンを走らせるマリーの瞳には、涙が溜まっていた。


 でも、それは悲しみの涙ではない。


(先生のフルートは、魔法です。凍りついた心を溶かし、離れ離れになった心を繋ぐ、優しい魔法)


 マリーは書き終えた手紙を胸に抱きしめ、祈った。


(どうか、その音色を届けてください。この王宮という、鳥籠の中にいる私に。そして、音を失ってしまった全ての人たちに)


   §


 映像が途切れ、奏の意識は現実に戻った。


 暖炉の薪が、小さな音を立てて爆ぜた。


 奏の頬を、一筋の雫が伝い落ち、手紙の上に落ちて滲んだ。


「……マリー」


 怖かったのは、自分だけじゃない。


 マリーも、あの広い王宮で、たった一人で戦っていたのだ。


 アメリも、楽団の中で必死に耐えている。


 みんな、奏の帰りを信じて待っていてくれた。


 奏は涙を拭い、顔を上げた。


 その瞳から、先ほどまでの怯えの色は消え失せていた。


 あるのは、静かで、燃えるような決意だけだ。


 奏は立ち上がり、窓を開けた。


 冷たい夜風が吹き込んでくるが、もう寒さは感じない。


「ありがとう、マリー」


 彼は夜空に向かって呟いた。


「もう、迷わないよ」


   §


 翌朝。


 リビングには、朝食を囲むソフィアたちの姿があった。


 ミア、ライラ、アメリ。皆、昨夜の奏の様子を気にして、少し沈んだ空気が漂っている。


「……カナデ、大丈夫かしら。あまり眠れていないんじゃない?」


 ミアが心配そうにパンをちぎる。


「うむ。いざとなれば、私が担いででも会場に連れて行くが……」


 ライラも腕を組んで唸る。


 その時、廊下から足音が近づいてきた。


「おはようございます、みんな」


 現れた奏の顔を見て、全員が息を呑んだ。


 昨夜の蒼白な顔色はどこへやら。


 そこには、憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔の奏がいた。


「カナデ……?」


 アメリが目を丸くする。


「はい。……僕、勘違いしてました」


 奏は仲間の顔を見回し、力強く言った。


「コンクールは、誰かを負かすための場所じゃない。……届けるための場所なんです」


 彼は腰に差した黒いフルートに手を添えた。


「ゲルマン伯爵も、ベンも関係ない。僕はただ、マリーに……そして、僕の音を待ってくれている人たちに、最高の音楽を届ける。それだけです」


 ソフィアがパンにバターを塗りながら、嬉しそうに口元を歪めた。


「いい顔になったじゃない。……やっと、私のパートナーらしくなったわね」


「その通りだ」


 ライラが立ち上がり、奏の背中を力強く叩いた。


「お前の背中は、私たちが守る。お前は前だけを見て、思う存分吹けばいい」


「そうよ! 今日は私が一番前の席で応援してあげるんだから、中途半端な演奏したら許さないわよ!」


 ミアが腰に手を当てて発破をかける。


「楽団のみんなも、実は期待してるのよ。……ベンの暴走を止めてくれるのは、あんたしかいないってね」


 アメリも片目をつぶってみせる。


「行きましょう、カナデ。私たちが作った『天の踊り子』で、世界をひっくり返してやるのよ」


 ソフィアが差し出した手に、奏は自分の手を重ねた。


「はい、ソフィアさん。……最高のステージにしましょう」


 その上に、ミア、アメリ、ライラの手が重なる。


 五人の手が固く結ばれた瞬間、窓の外から朝日が差し込んだ。


 それはまるで、勝利を予感させる黄金の光だった。


「よし、出陣だ!」


 ライラの号令で、全員が一斉に動き出す。


 運命の日は来た。


 異世界の王都に、革命の音が響き渡る時は、もう目の前だ。


 待っていて、マリー。


 必ず、君の元へ行くから。


 音瀬奏は仲間たちと共に、光の中へと歩き出した。


 その足取りは軽く、もはや迷いはなかった。


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