29話 最強の防衛部隊
深夜の静寂に包まれた、ソフィアの屋敷。
その二階、東側にある客間には、音瀬奏が眠っていた。
窓から差し込む月明かりが、枕元に置かれた黒いフルートを照らし出している。
奏は無防備に寝息を立てていた。日中の激しい練習の疲れからか、その眠りは泥のように深い。
その寝顔を見下ろす影があった。
裏社会の仕事人、「影縫い」だ。
彼は音もなくバルコニーから侵入し、すでに部屋の中央まで歩を進めていた。
足音は皆無。呼吸の音さえ消している。
(……チョロいもんだ)
影縫いは覆面の下で冷笑した。
警備の騎士もいなければ、魔法による結界もない。
ただの無防備な貴族の屋敷だ。
彼は懐から、すり替え用の「偽のフルート」を取り出した。
見た目は精巧に模倣されているが、中身はスカスカの粗悪品。これを本番で吹けば、音程は狂い、奏者の評価は地に落ちる。
影縫いは、ゆっくりと手を伸ばした。
ターゲットは、テーブルの上にある本物のフルート。
あと数センチ。
指先が黒い管体に触れようとした、その瞬間だった。
闇の底から湧き上がるような、低く、震える音が室内に満ちた。
影縫いは反射的に手を止め、周囲を探った。
何かがいる。
人間ではない。もっと原始的で、鋭利な殺気を持った何かが。
テーブルの下。
暗闇の中で、二つの金色の光が灯った。
次の瞬間、金色の光が軌跡を残して跳ね上がった。
影縫いが反応する間もなく、彼の手首に鋭い痛みが走る。
革手袋ごと皮膚を切り裂かれた感触に、彼は思わず声を漏らしそうになり、慌てて飲み込んだ。
テーブルの上に、一匹の茶トラ猫が着地していた。
トラだ。
だが、普段の愛らしい姿はそこにはない。
全身の毛を逆立て、瞳孔を極限まで開き、筋肉を鋼のように強張らせている。
それは、街の片隅で生きる愛玩動物ではなく、自然界の頂点に立つ捕食者の姿だった。
影縫いは舌打ちをした。
たかが猫一匹。驚かせやがって。
「どけ、野良猫。痛い目にあいたくなけりゃあな」
彼は短剣を抜き、威嚇するように切っ先を向けた。
普通の動物なら、金属の匂いと殺気を感じて逃げ出すはずだ。
だが、トラは引かなかった。
むしろ、獲物を狩る猛獣のように身を低くし、飛び掛かる機会を窺っている。
影縫いが一歩踏み出した瞬間、トラの姿が掻き消えた。
速い。
人間の動体視力を遥かに超える速度で、トラは壁を蹴り、影縫いの死角へと回り込んでいた。
背後からの衝撃。
首筋に熱い痛みが走る。
影縫いは振り払おうとしたが、トラの爪は深く服と肉に食い込み、離れない。
猫科の動物特有の、一度捕らえた獲物を逃さない執拗な攻撃。
鋭利な牙が肩口に突き立てられ、影縫いは苦悶の表情を浮かべた。
「ぐっ……! このっ……!」
影縫いは壁に背中を打ち付け、ようやくトラを引き剥がした。
だが、着地したトラは体勢を崩すこともなく、即座に次の跳躍姿勢に入っている。
その目には、人間に対する恐怖など微塵もない。あるのは、侵入者を排除するという冷徹な意志のみ。
プロの暗殺者である自分が、たかが小動物に圧されている。
恐怖にも似た焦りが、影縫いの理性を揺さぶり始めた。
異変はそれだけではなかった。
頭上から、何かが降り注いだ。
硬質な打撃音が連続して響く。
カーテンレールの上に並んだ数匹のシマリスのチップが、頬袋からドングリを連射していたのだ。
まるで訓練された投石兵のように、正確に影縫いの顔面を狙っている。
さらに、足元に衝撃が走る。
ベッドの下から飛び出した白ウサギのミミが、弾丸のような速度で脛に体当たりを食らわせたのだ。
視界を奪われ、足元を崩され、そこへ再びトラが襲いかかる。
今度は顔面だった。
覆面の上からでも分かる、肉が裂ける感触。
影縫いの口から、ついに悲鳴が漏れた。
もはや仕事どころではない。
この部屋は、小動物たちの巣窟などではない。
奏を守るために組織された、最強の防衛部隊の要塞だったのだ。
その騒ぎで、ようやく奏が目を覚ました。
「ん……? トラ? 何してるの……うわっ!?」
起き上がった奏の目に飛び込んできたのは、部屋の中で暴れる黒ずくめの男と、それを一方的に蹂躙する動物たちの姿だった。
「誰ですか!?」
奏が叫ぶ。
見つかった。
影縫いは血走った目で奏を睨んだ。
顔中傷だらけになりながら、彼は標的を変更した。
楽器のすり替えは失敗だ。ならば、口封じをして強引に奪うしかない。
「悪く思うなよ、兄ちゃん!」
影縫いはトラを短剣で牽制しながら、奏に躍りかかった。
「あっ……!」
奏は動けなかった。
平和な日本で育った彼に、殺意を持った暴力をかわす術はない。
刃が迫る。
その時。
轟音と共に、バルコニーの窓ガラスが粉々に砕け散った。
飛び散る破片の中、月光を背に現れたのは、燃えるような赤髪の女騎士だった。
王宮騎士団長、ライラ・フォン・ベルンシュタイン。
彼女は抜刀するやいなや、目にも止まらぬ速さで踏み込み、影縫いの持つ短剣を弾き飛ばした。
金属音が響き、凶器が宙を舞う。
「そこまでだ、下種野郎」
ライラは切っ先を影縫いの喉元に突きつけ、氷のように冷たく告げた。
「なっ、騎士団長!?」
影縫いの目が驚愕に見開かれる。
なぜここにいる?
警備はいないはずだった。屋敷の周囲は確認したはずだ。
「お前、私の勘を甘く見るなよ」
ライラの瞳が、怒りで燃え上がっていた。
「胸騒ぎがしてな。屋敷の外で張り込みをしていたのだ」
実は、ライラは昨日の会議で警備を却下された後も、どうしても不安が拭えずにいた。
そこで、非番を利用して個人的に屋敷の近くで待機していたのだ。
すると、数分前。
一羽の水鳥――スイが、ライラの元へ飛んできた。
スイは必死に鳴き声を上げ、屋敷の二階を指し示すように飛び回った。
それを見たライラは確信したのだ。
『何かが起きている』と。
「動物たちに感謝するんだな。彼らが知らせてくれなければ、貴様を斬り捨てていたところだ」
ライラの背後から、騒ぎを聞きつけたソフィアとマーサ、そして泊まり込んでいたミアが駆け込んでくる。
部屋の惨状を見て、彼女たちは絶句した。
割れた窓ガラス、散乱したドングリ、そして血まみれになって取り押さえられた侵入者。
その男の周りを取り囲むように、トラを筆頭とする動物たちが、未だ警戒を解かずに唸り声を上げている。
「……ライラの言った通りだったわね」
ソフィアが青ざめた顔で呟いた。
「ええ。まさか、本当に襲ってくるなんて……」
ミアも震えている。
奏は、呆然としながらも、足元に擦り寄ってきたトラを抱き上げた。
トラは先ほどまでの修羅の形相が嘘のように、奏の腕の中で甘えた声を上げている。
「みんな、助けてくれたんだね……ありがとう」
奏が撫でると、トラは誇らしげに喉を鳴らし、チップは肩に乗って胸を張った。
§
その後、影縫いは駆けつけた騎士団員たちによって連行された。
全身傷だらけの彼は、騎士団に捕まったことよりも、あの猫から解放されたことに安堵しているようだった。
現場検証の結果、床に落ちていた「偽のフルート」が発見された。
「……なるほど。楽器のすり替えが目的だったか」
ライラが偽物を手に取り、忌々しげに吐き捨てた。
「盗むのではなく、音の出ない楽器を握らせて、本番で恥をかかせる……。なんとも陰湿な手口だ」
それを聞いたソフィアは、怒りで眼鏡を曇らせた。
「許せない。音楽家にとって、楽器は命よりも重いものよ。それを……こんなガラクタとすり替えようとするなんて!」
彼女は偽のフルートを床に叩きつけようとしたが、奏がそれを止めた。
「待って、ソフィアさん。……これは証拠になります」
奏の声は静かだったが、その瞳には珍しく強い光が宿っていた。
彼は自分の黒いフルートを強く握りしめた。
「僕を負かしたいなら、演奏で勝負すればいい。でも、楽器を傷つけたり、僕の友達たちを危険な目に合わせたりするのは……絶対に許しません」
いつも温厚な奏が見せた、静かな怒り。
それは、彼が「戦う覚悟」を決めた瞬間だった。
「犯人の背後関係は、私が必ず吐かせる」
ライラが誓うように言った。
「おそらくゲルマン伯爵の差し金だろうが、証拠がなければ手出しはできない。だが、この男を尋問すれば糸口は掴めるはずだ」
ライラは奏に向き直り、深々と頭を下げた。
「すまなかった、カナデ。私の警備が甘かったせいで、怖い思いをさせた」
「いいえ、ライラさんが来てくれなかったら、どうなっていたか……。本当にありがとうございます」
奏は微笑んだ。
「そうよ。ライラがいなきゃ、カナデは刺されてたかもしれない。……感謝するわ、ライラ」
ソフィアも素直に礼を言った。
「ふん。礼には及ばん。私は私の役目を果たしただけだ」
ライラは照れくさそうに顔を背け、剣を鞘に納めた。
「悪しきを挫き、弱きを助ける。それが騎士の――」
「あら、そういえばライラ」
ソフィアが冷ややかな声で呼び止めた。
「ん? なんだ?」
「さっき、あんたが派手に登場した時……窓ガラス、どうなったか覚えてる?」
ソフィアが指差した先。
バルコニーへと続く大きな窓は、見るも無惨に粉砕され、寒風が吹き込んでいた。
「あ……」
ライラの動きが凍りついた。
「侵入者を捕まえたのはお手柄だけど……。あれ、特注の防音ガラスなのよね。職人を呼んで、枠ごと交換しないといけないわ」
ソフィアは眼鏡の奥の瞳を光らせ、にっこりと微笑んだ。
「請求書、騎士団に回していいのかしら? それとも、ベルンシュタイン家?」
「ま、待てソフィア! あれは緊急避難というか、正当な突入行動で……!」
「あら、窓を割らなくても鍵を開けて入ればよかったんじゃない? あんたの怪力ならノブくらい壊せたでしょうに」
「うぐっ……」
正論だった。
かっこよく登場したいという下心がなかったと言えば、嘘になる。
「べ、弁償する……。私の給料から……」
ライラはガックリと肩を落とした。
王宮騎士団長の給料は決して安くはないが、特注ガラスの値段を考えると、向こう数ヶ月は「塩とパン」の生活になりそうだった。
「ふふっ、ライラさんらしいですね」
奏がクスクスと笑うと、ミアもアメリも吹き出した。
緊迫していた空気が、一気に和らいでいく。
§
騒動が落ち着いた後。
奏はバルコニーに出た。
足元には、砕け散ったガラスの破片がキラキラと光っている。
庭の木々には、まだ興奮冷めやらぬ動物たちの気配があった。
彼らは奏を守りきった満足感に浸りながら、それぞれの巣へと戻ろうとしていた。
「みんな、ありがとう」
奏が心の中で語りかけると、木々のざわめきが返事をしているように聞こえた。
奏は夜空を見上げた。
月は高く、冴え冴えと輝いている。
敵は、本気だ。
手段を選ばず、奏を潰しに来ている。
その事実は怖かった。
けれど、今の奏には恐怖以上に、支えてくれる仲間たちの存在が心強かった。
ソフィア、ミア、アメリ。
不器用ながらも命がけで守ってくれたライラ。
そして、小さな最強の騎士である動物たち。
負けられない。
奏は改めて思った。
自分のためだけではない。
みんなの想いを守るために、最高の演奏をして、必ず勝つ。
そして、遠い王宮にいるマリーにも、この音を届けるのだ。
§
翌朝。
報告を受けたゲルマン伯爵の執務室では、高価な壺が壁に投げつけられ、粉々に砕け散っていた。
「失敗だと……!?」
伯爵の怒声が響く。
「は、はい……。影縫いは捕縛されました。なんでも、屋敷の中に『猛獣』がいたそうで……」
「猛獣? 王都の真ん中にそんなものがいるわけがないだろう!」
伯爵は秘書を怒鳴りつけた。
「ええい、役立たずどもめ! こうなれば……」
伯爵の目が、狂気じみた光を帯びる。
「本選の舞台そのものを、奴の処刑場に変えてやる」
小細工が通じないなら、権力という暴力でねじ伏せるまで。
伯爵の最後の悪あがきが始まろうとしていた。
それが、自らの破滅を招く引き金になるとも知らずに。




