28話 ゲルマン伯爵の焦燥
王立音楽コンクールの予選から数日が過ぎた頃。
王都全体が熱狂に包まれたわけではない。あくまで予選は、音楽業界の内輪の出来事だ。
しかし、その狭く深い世界の中で、ある噂が静かに、だが確実に広がり始めていた。
『天の踊り子』。
無名の平民と、変わり者の貴族令嬢が披露した、既存の理論を覆す楽曲。
審査員の間で激論が交わされ、賛否両論の末に通過したという事実は、耳の早い貴族たちや音楽愛好家の格好の話題となっていた。
あるサロンでは「野蛮だ」と眉をひそめられ、ある酒場では「新しい時代の風だ」と熱く語られる。
その評価の揺れ幅こそが、彼らの音楽が持つ特異な力を物語っていた。
§
王宮の奥深くにある、宮廷楽団の事務局長室。
重厚な執務机の後ろで、サン・ツー・ゲルマン伯爵は、眉間に深い皺を寄せていた。
目の前には、甥であるベン・フォン・ホフマンが座っている。
ベンは、上機嫌に紅茶を啜っていた。
「叔父上、何をそんなに心配されているのですか?」
ベンはカップを置き、優雅に足を組み替えた。
「予選の結果でしょう? あんなものは、審査員たちが『珍しい見世物』に興味を持っただけですよ。サーカス団の熊が踊るのを見て、拍手をするのと同じです」
彼は軽く笑い飛ばした。
「所詮は平民の芸です。本選という格式ある舞台で、王族の方々の前で披露できる代物じゃありませんよ。……それに引き換え、僕の演奏は完璧だ。伝統と格式、そして圧倒的な技術。勝利は約束されています」
ベンの言葉には、微塵の迷いもなかった。
揺るぎない自信。
あるいは、盲目的な傲慢。
ゲルマン伯爵は、そんな甥の姿を、冷ややかな目で見つめていた。
(……愚か者が)
伯爵は心の中で毒づいた。
彼は、老獪な政治家だ。
芸術のことは分からなくても、人の心の動きや、世間の風向きを読むことには長けている。
予選の録音記録を聴いた時、伯爵は背筋が寒くなるのを感じた。
技術云々ではない。あの音楽には、聴衆を強制的に熱狂させる「何か」がある。
ベンにはそれがない。
技術はあっても、華がない。正確だが、冷たい。
もし、本選の舞台で、あの熱狂の後にベンの冷たい演奏が続けばどうなるか。
聴衆は退屈し、王族はあくびを噛み殺すだろう。
そして、審査員たちは「新しい風」を選ぶかもしれない。
そうなれば、ゲルマン伯爵の面子は丸潰れだ。長年かけて築き上げた楽団内での権力基盤も、一気に崩れ去りかねない。
「ベン。お前は本当に、あの男に勝てると思っているのか?」
伯爵が低い声で問うと、ベンは心外だと言わんばかりに目を丸くした。
「当たり前ではありませんか! 僕が負ける要素などありませんよ。……ああ、もしかして叔父上、あの『悪評』を気にされているのですか?」
「悪評?」
「ほら、審査員の一部が『冒涜だ』と書いたあれですよ。あんな評価をされるような奴に、僕が遅れを取るはずがないでしょう」
ベンはクスクスと笑った。
危機感の欠片もない。
自分が「シード権」という安全地帯にいるからこそ、予選を勝ち抜いてきた者の勢いが見えていないのだ。
伯爵の中で、何かが冷たく決断を下した。
――こいつには、任せておけん。
このまま正面からぶつかれば、十中八九、ベンは負ける。
そして負けた後で「審査がおかしい」と喚き散らす未来まで見えた。
そんな無様な真似は許されない。
ホフマン家のためでも、ベンのためでもない。ゲルマン伯爵自身の保身のために、確実な勝利が必要だった。
「……そうか。お前の自信はよく分かった」
伯爵は表情を消して頷いた。
「本選まで慢心せず、仕上げておくのだな」
「ええ、お任せください。最高の演奏をお届けしますよ」
ベンは上機嫌で立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。
扉が閉まると同時に、伯爵の表情が一変した。
焦燥と、どす黒い悪意が顔を歪める。
「……能天気な男だ」
伯爵は手元のベルを鳴らした。
すぐに、影のように音もなく、私設秘書の男が現れる。
「お呼びでしょうか、閣下」
「『掃除屋』の手配はどうなっている」
「はい。裏社会で『影縫い』と呼ばれる男と接触しました。金さえ積めば、どんな仕事もこなす手練れです」
「よろしい」
伯爵は引き出しから、一枚の紙を取り出した。
そこには、音瀬奏の情報が詳細に記されていた。
住所、交友関係、そして――彼が持つ楽器の特徴。
「ベンを勝たせるには、奴の『翼』をもぐしかない」
伯爵の指が、資料にある「黒い木製フルート」の文字を叩く。
「あの奇妙な音色の源は、この楽器にあるようだ。……これを奪え」
「盗むので?」
「いや、ただ盗めば騒ぎになる。代わりの品とすり替えるのだ。本番直前、気づいた時にはもう手遅れという状況を作り出せ」
伯爵は、唇を歪めて笑った。
音楽家にとって、楽器は命だ。
使い慣れた相棒を失い、粗悪な代用品を握らされれば、どんな天才でもまともな演奏はできない。
焦り、動揺し、自滅するだろう。
そこへ、ベンが悠々と「完璧な演奏」を披露すればいい。
勝負は、舞台に上がる前に決まるのだ。
「実行は?」
「相手の気が緩んだ時だ。……今はまだ、予選通過の浮かれ気分だろうからな」
伯爵は冷酷に告げた。
彼の目には、もはや音楽への敬意など微塵もなかった。
あるのは、権力への執着と、邪魔者を排除する冷徹な計算だけだった。
§
一方、王都の高級集合住宅にあるソフィアの屋敷。
ここでは、本選に向けた準備が着々と進められていた。
予選での「賛否両論」は、むしろ彼らの士気を高める燃料となっていた。
議論を呼ぶということは、それだけ注目されている証拠だ。
本選では、その議論すら封じ込めるほどの、圧倒的な完成度を見せつければいい。
音楽室には、今日も今日とて、二人の奏でる『天の踊り子』が響き渡っていた。
以前よりもさらに緻密に、そして大胆に。
即興的なパートは、二人の呼吸によって毎回違う表情を見せ、聴く者を飽きさせない。
休憩時間。
メイドのマーサが紅茶とお菓子を運んできた。
奏はフルートを丁寧にクロスで拭き、テーブルの上に置いた。
黒い木製の管体が、窓から差し込む冬の陽光を浴びて、鈍く艶やかに光る。
「本当に不思議な笛よね」
ソフィアがカップを片手に、まじまじとフルートを見つめた。
「材質は黒檀に見えるけど、もっと密度が高い。それに、あんたが吹くと、まるで生き物みたいに脈打つのが分かるわ」
「僕も詳しくは分からないんです。この世界に来た時に、銀のフルートがこれに変わっていて……」
「え?」
ソファでくつろいでいたミアが、ピクリと反応した。
「ちょっとカナデ、今なんて言った? 『この世界に来た時』?」
鋭いツッコミに、奏は心臓が跳ね上がるのを感じた。
しまった。気が緩んで、つい余計なことを。
奏が異世界からの転生者であることは、まだ誰にも――ライラやミアにさえも――話していない秘密だ。
下手に話せば、頭がおかしいと思われるか、あるいは王宮の魔術師たちに研究材料にされるかもしれないという恐怖があった。
「あ、いや! その……『この世界』っていうのは、音楽の世界っていうか、プロの世界に飛び込んだ時っていう意味で!」
奏は慌てて両手を振って誤魔化した。
「比喩だよ、比喩! ほら、音楽に没頭すると、別世界に行ったような気分になるじゃない?」
「ふーん……?」
ミアは怪訝そうに目を細めた。
彼女は勘が鋭い。今の説明で完全に納得したわけではなさそうだが、それ以上追及する材料もないようだった。
「ま、いいわ。詩人ぶった表現をするようになったのも、芸術家らしくなった証拠かしらね」
「あはは……」
奏は乾いた笑いを漏らしながら、冷や汗を拭った。
危ないところだった。
この黒いフルートは、現代から持ち込んだ愛機が変質したものだ。
その秘密を知っているのは、自分と、もしかしたらこの笛自身だけかもしれない。
奏は愛おしそうに楽器を撫でた。
言葉の通じないマリーと心を繋ぎ、猛獣たちを手懐け、そしてソフィアとの絆を結んでくれた相棒。
この笛がなければ、今の自分はない。
「これが、カナデの力の源……か」
同席していたライラが、腕を組んで独り言のように呟いた。
彼女の表情は、他のメンバーと違って少し硬い。
「なあ、カナデ。……やはり、警備を強化すべきじゃないか?」
ライラの唐突な提案に、場が静まり返った。
「警備?」
奏がきょとんとする。
「ああ。予選を通過したことで、お前の名は知れ渡った。ファンも増えただろうが、同時に敵も増えたはずだ」
ライラは真剣な眼差しで、窓の外、王宮のある方角をちらりと見た。
彼女が懸念しているのは、もちろんゲルマン伯爵の動向だ。
あの老獪な伯爵が、みすみすベンを負けさせるような真似をするだろうか。
「何か、嫌な予感がするんだ。……根拠はないが、騎士としての勘だ」
ライラは食い下がった。
「屋敷の周りに、私の部下を配置させてくれ。24時間体制で監視をつけるべきだ」
しかし、その提案は、すぐに却下される空気となった。
「えー? ライラ、考えすぎじゃない?」
最初に口を開いたのはアメリだった。
「たかが音楽コンクールの予選通過よ? 確かに話題にはなってるけど、命を狙われるようなことじゃないでしょ」
「そうよ。それに、ここは私の屋敷よ?」
ソフィアも呆れたように眼鏡を直した。
「セキュリティーは万全だわ。それに、知らない男たちが家の周りをうろつくなんて、集中できないからお断りよ」
「私も、少し大げさな気がするわね」
ミアも紅茶を飲みながら同意した。
「相手はホフマン家とゲルマン伯爵でしょう? 腐っても貴族よ。まさか、こそ泥みたいな真似をしてくるとは思えないわ」
彼女たちの言い分はもっともだった。
常識的に考えれば、たかがコンクールのために犯罪に手を染めるリスクを冒す貴族などいない。
ベンがあれだけ自信満々なのだから、なおさら小細工など不要と考えているはずだ。
「僕も……大丈夫だと思います」
奏も申し訳なさそうに言った。
「ライラさんが心配してくれるのは嬉しいけど、これ以上大事にしたくないし……。それに、僕なんかのために騎士団の方を使役するのは悪いです」
「む……」
全員に反対され、ライラは言葉に詰まった。
確かに、具体的な脅威があるわけではない。
ただの「予感」だけで騎士団を動かせば、職権乱用と批判されかねない立場でもある。
「……分かった。皆がそう言うなら、無理強いはしない」
ライラは渋々引き下がった。
だが、その表情から不安の色は消えていない。
「だが、戸締りだけは厳重にしてくれ。油断大敵だぞ」
「はいはい、分かってるわよ。お母さんみたいね」
ソフィアが茶化すと、室内には笑いが起きた。
和やかなティータイム。
勝利への希望に満ちた、穏やかな午後。
ライラは窓の外を見た。
雲の切れ間から、弱々しい冬の太陽が覗いている。
(……私の取り越し苦労なら、それでいいのだが)
彼女は心の中で呟き、淹れられたばかりの紅茶に口をつけた。
その温かさが、胸のざわつきを少しだけ鎮めてくれた気がした。
しかし、彼女の勘は鋭かった。
水面下ではすでに、彼らの想像を超える悪意が、静かに牙を研ぎ始めていたのだ。




