27話 予選開幕
ウェストリア王国の王都に、冬の足音が近づく季節。
王立音楽院の小ホールは、異様な緊張感に包まれていた。
王立音楽コンクール、予選審査会。
華やかな本選とは異なり、ここは一般客の立ち入りが制限された、プロによるプロのための選別の場だ。
客席に座るのは、十名の審査員と、出番を待つ参加者、そして一部の招待客のみ。
その張り詰めた空気が、参加者たちの胃を締め上げていた。
舞台袖の控室。
ここもまた、葬列のような重苦しい沈黙が支配していた。
そんな中、異彩を放つ一団がいた。
周囲の視線を一身に集めているのは、音瀬奏だった。
彼が身にまとっているのは、先日ミアが仕立てた特注の衣装だ。
白のシルクシャツに、深い藍色のベストとパンツ。ゆったりとした袖と裾は、歩くたびに優雅なドレープを描く。
この国では見慣れない、どこか異国の風を感じさせる独特な意匠。
そして何より、ベストの背中と胸元に銀糸で刺繍された「シュタインハイム公爵家」の紋章が、薄暗い袖でも鈍く光っていた。
「……なんだ、あの格好は」
「公爵家の紋章……? 彼が噂の?」
周囲の参加者たちがヒソヒソと囁き合う。
奏自身は、その視線に居心地悪そうに身を縮こまらせていたが、背後には頼もしすぎる応援団が控えていた。
「背筋を伸ばせ、カナデ。敵に弱みを見せるな」
王宮騎士団長のライラだ。今日は非番を取り、私服姿で腕を組んで仁王立ちしている。
「そうよ。その紋章に泥を塗ったら、お父様になんて言い訳していいか分からないんだから」
公爵令嬢のミアも、扇子で口元を隠しながら発破をかける。
「二人とも、ここはお静かに。審査員に聞こえますよ」
宮廷楽団のアメリが、人差し指を立てて二人をたしなめる。
三人のヒロインに見守られ、奏は小さく深呼吸をした。
その時だった。
関係者席へと続く通路から、冷ややかな視線が飛んできた。
「フン。予選という泥仕合には、お似合いの雰囲気だな」
黄金のフルートを手にした金髪の青年、ベン・フォン・ホフマンだ。
彼は予選免除の特権を持っているため、今日は高みの見物を決め込んでいたのだ。
「ベン……」
「奇抜な衣装で誤魔化そうとしても無駄だぞ、平民。ここは審査員が絶対の場だ。小手先の芸など通用しない」
ベンは奏の衣装を見て鼻で笑った。
「せいぜい、厳格な審査員たちの前で赤っ恥をかかないことだな」
彼は捨て台詞を残し、審査員席の後ろにある特別席へと消えていった。
「……感じ悪いわね」
ミアがむくれるが、奏は不思議と落ち着いていた。
ベンの言葉は、どこか自分自身に言い聞かせているように聞こえたからだ。
「……行きましょう、カナデ」
声をかけたのは、それまで壁際で黙って精神統一をしていたソフィアだった。
彼女もまた、今日は正装だ。
いつものボサボサ髪は綺麗に結い上げられ、漆黒のベルベットのドレスが、彼女の白い肌と知的な美貌を引き立てている。
「ええ。行きましょう、ソフィアさん」
二人は視線を交わし、頷き合った。
§
事務的なアナウンスが響き、二人はステージへと歩み出した。
『エントリーナンバー42番。フルート、オトセ・カナデ。ピアノ、ソフィア・ツー・ロイス』
冷たい照明。
がらんとした客席。
そして、机に書類を積み上げ、眼鏡の奥から鋭い視線を向ける審査員たち。
奏たちが姿を現した瞬間、審査員たちの手が止まった。
見慣れない衣装。
そしてピアノの前に座るのは、かつて神童と呼ばれながら表舞台から消えた『鍵盤の魔女』ソフィア。
審査員長である老教授が、眉をひそめて眼鏡の位置を直した。
無言の圧力が、ステージ上の二人にのしかかる。
だが、奏は動じなかった。
彼はステージの中央に立ち、黒い木製のフルートを構えた。
ソフィアがピアノの前に座り、鍵盤に手を置く。
合図はない。
呼吸一つで、二人の世界が始まった。
『天の踊り子』。
その曲は、アカデミックなこの場の空気を一瞬で凍りつかせる、不穏で神秘的な和音から始まった。
カリカリと音を立てていた審査員たちのペンが、一斉に止まる。
重厚なピアノの低音が、大地の鼓動のように響く。
そこに、奏のフルートが入る。
それは、風の音だった。
しかし、教則本にあるような綺麗な音ではない。遠い異国の、霧深い山奥から吹き下ろす、神聖な風。
この世界には存在しない独特の音階。
半音を含んだ浮遊感のある旋律。
解決しない和音。
意図的に作られた「間」。
審査員長が、呆気にとられたように口を半開きにした。
なんだ、これは。
楽典のルールから逸脱している。
不協和音ギリギリの響き。だが、なぜこれほどまでに耳に残るのだ。
曲は、静寂の導入部から、徐々に熱を帯びていく。
巫女が鈴を鳴らして舞うような、煌びやかな中盤へ。
ソフィアのピアノが、正確無比なリズムで変拍子を刻む。
そこに奏のフルートが、自由自在に絡みつく。
装飾音符を多用し、ピッチを揺らし、生き物のようにうねる音。
黒いフルートが、照明を吸い込んで鈍く輝く。
その音色は、物理的な空気の振動を超え、狭いホールの空気を震わせていた。
審査員席に、動揺が走る。
ある者は顔をしかめ、ある者は身を乗り出し、ある者はペンを握りしめて震えている。
そして、クライマックス。
循環呼吸による、終わらない旋律の奔流。
地を這う低音から、一気に三オクターブ上の超高音へと駆け上がる。
天岩戸が開く。
光が溢れ出す。
強烈な最後の和音が叩きつけられ、フルートの残響が天井へと吸い込まれていく。
演奏終了。
……シーン。
完全な静寂が、ホールを支配した。
だが、それは感動による静寂ではなかった。
混乱だった。
「……なんだ今の曲は」
審査員の一人が呟いたのを皮切りに、審査員席がざわつき始めた。
「和声進行が滅茶苦茶だ! 解決していないじゃないか!」
「いや、しかしあの技巧……循環呼吸をあそこまで完璧に使いこなすとは」
「音が汚い! あんな風のような音、クラシックではない!」
「何を言う! あれこそが新しい表現だ! 私は鳥肌が立ったぞ!」
議論が始まった。
いや、それは口論に近かった。
保守的な審査員たちは顔を真っ赤にして否定し、革新的な審査員たちは熱弁を振るって擁護する。
舞台袖のライラたちが、不安そうに顔を見合わせる。
「……どういうことだ? 揉めているのか?」
「賛否両論……って感じね」
アメリが厳しい表情で呟く。
関係者席のベンは、その様子を見てニヤリと笑った。
「見ろ。やはりダメだったな。あんなゲテモノ、格式あるコンクールで認められるはずがない」
ステージ上の奏とソフィアは、そんな騒ぎを静かに見下ろしていた。
不安そうな表情はない。
むしろ、ソフィアの口元には微かな笑みさえ浮かんでいた。
§
結果発表までの時間は、永遠のように長く感じられた。
審査員室からは、怒鳴り合うような声さえ漏れ聞こえていたという。
そして、ついに結果がホールの掲示板に張り出された。
王立音楽コンクールの伝統として、合格者の名前だけでなく、審査員からの「寸評」が全員分公開されるのだ。
人だかりをかき分け、奏たちが掲示板の前に立つ。
ずらりと並んだ参加者たちの講評。そのほとんどは、簡潔なものだった。
『基礎技術は安定しているが、表現力に欠ける』
『選曲ミス。自身の技量に見合っていない』
『可もなく不可もなく。個性が薄い』
淡々とした、数行のコメント。
だが、そのリストの中で、一つだけ異彩を放っている箇所があった。
エントリーナンバー42番。オトセ・カナデ。
その欄だけ、文字が枠からはみ出しそうなほど書き込まれていたのだ。
『既存の音楽理論に対する冒涜である。和声の解決を放棄した構成は不快極まりない(審査員A)』
『いや、これこそが新時代の幕開けだ。未だかつてない音響体験(審査員B)』
『技術は超一流だが、音楽性が野蛮すぎる。品位に欠ける(審査員C)』
『魂を揺さぶられた。満点以外ありえない(審査員D)』
『評価不能。だが、無視することもできない』
絶賛と酷評。
真っ二つに割れた意見が、そのまま羅列されている。
そして、備考欄には審査員長による総評が赤字で記されていた。
『審査員の間で激しい議論となったが、奏者の圧倒的な技術と独自の世界観を鑑み、その真価を問うため、本選への出場を許可する』
結果は、『通過』。
控室に戻った奏とソフィアを、ヒロインたちが迎える。
「よかった……! 通過よ、カナデ!」
ミアが胸を撫で下ろす。
「ヒヤヒヤさせやがって。だが、こんな講評、初めて見たぞ」
ライラが掲示板の方を振り返りながら苦笑する。
しかし、当の奏とソフィアは、顔を見合わせてニヤリと笑った。
「予想通り、ですね」
「ええ。むしろ、上出来よ」
二人の反応に、アメリが目を丸くする。
「ちょっと、あんたたち。半分は悪口よ? 喜んでるの?」
ソフィアは眼鏡の位置を直し、誇らしげに胸を張った。
「当たり前でしょう。芸術において、一番の失敗は『無関心』よ。『綺麗でしたね』で終わる演奏なんて、毒にも薬にもならない。これだけ議論を巻き起こしたなら、それは私たちの勝ちよ」
「賛否が分かれたということは、それだけ審査員の心に爪痕を残したということです」
奏も力強く頷く。
「新しい音楽というのは、いつだって最初は否定されるものですから。僕たちが作った『天の踊り子』は、それだけ革新的だったという証明です」
二人の目には、一点の曇りもなかった。
異例の講評、割れる評価。
それら全てが、彼らにとっては勲章であり、勝利宣言だったのだ。
「……なるほどな。変人同士、気が合うわけだ」
ライラが呆れたように、しかし感心したように息を吐く。
一方、廊下の陰では。
ベンが信じられないものを見る目で、掲示板を睨みつけていた。
「通過……だと?」
ギリリ、と歯ぎしりの音がする。
「あんな……あんな騒音を、本選に出すというのか? 『冒涜』と書かれているじゃないか! 審査員たちは正気か!?」
許せなかった。
自分の信じてきた「正解」の音楽とは真逆の、異質な存在が認められたことが。
そして何より、他の参加者たちが数行のコメントで片付けられている中で、あの平民だけがこんなにも多くの言葉を費やされ、注目されているという事実が、ベンには耐え難かった。
「……認めない。僕は絶対に認めないぞ」
ベンは黄金のフルートを握りしめ、憎悪のこもった目で奏たちの控室を睨んだ。
「本選で思い知らせてやる。本物の音楽とは、高貴で、完璧で、誰からも文句の出ないものだということを!」
彼は荒々しい足取りでその場を去っていった。
奏は、窓の外を見た。
王都の空には、厚い雲がかかり始めている。
予選は突破した。
だが、それは単なる通過点ではない。
「新しい音楽」と「古い権威」との、全面戦争の幕開けだった。
「……行こう、次へ」
奏は黒いフルートを握りしめた。
その温もりが、彼に「間違っていない」と告げているようだった。
賛否両論の嵐を巻き起こし、異端のコンビは本選へと駒を進める。




