25話 ベン・フォン・ホフマンの苦悩
王都の貴族街の片隅に、かつての名門、ホフマン伯爵家の屋敷がある。
煉瓦造りの立派な外観は、往時の栄華を偲ばせるには十分だった。
しかし、一歩敷地に入れば、その衰退ぶりは隠しようもなかった。
庭木は手入れされずに伸び放題で、石畳の隙間からは雑草が顔を出している。広い屋敷を維持するための使用人を雇う余裕がないのだ。
屋敷の中も同様で、廊下の隅には埃が溜まり、調度品の色も褪せている。
その屋敷の一室にある音楽室から、神経質なフルートの音が響いていた。
「違う! そこはもっと僕を引き立てるように!」
ベン・フォン・ホフマンの怒鳴り声が飛んだ。
彼は黄金のフルートを振り回し、伴奏を務める雇われのピアニストを睨みつけた。
「君のピアノは重すぎるんだよ。僕の華麗な超絶技巧が死んでしまうじゃないか」
ベンは苛立ちを隠そうともせず、乱暴に髪をかき上げた。
対するピアニスト――中年で、生活のためにあちこちの貴族の伴奏をしている男――は、鍵盤の上でため息をついた。
「……ベン様。指定のテンポよりもかなり速く走っておられます。それでは伴奏が追いつけません」
「ハッ! 僕についてこられないのを棚に上げて、言い訳か? これだから三流は困る」
ベンの傲慢な言葉に、ピアニストは呆れたように肩をすくめた。
彼もプロだ。言いたいことは山ほどある。リズムが正確でないこと、ブレスの位置が独りよがりなこと、そして何より、音が「うるさい」こと。
だが、彼は反論しなかった。
この落ちぶれた家の若当主に何を言っても無駄だと悟っているし、金さえ貰えればそれでいいと割り切っているからだ。
「……申し訳ありません。もう一度、合わせましょう」
ピアニストの心のこもっていない謝罪に、ベンは鼻を鳴らした。
「分かればいい。光栄に思うんだな。この天才ベン・フォン・ホフマンの練習に付き合えるんだから」
ベンは再びフルートを構えた。
しかし、その表情は晴れない。
吹けば吹くほど、胸の中にどす黒い焦燥感が溜まっていく。
なぜだ。なぜ、誰も僕の演奏を心から称賛しない?
宮廷楽団でもそうだ。団員たちは表向きは従うが、その目は冷ややかで、陰では「前の首席の音が恋しい」と嘆いているという噂も聞く。
あの平民。音瀬奏。
ルミナス川のほとりで聴いた、あの生意気な音が、耳から離れない。
「くそっ……!」
ベンが激情に任せて吹き始めようとした、その時だった。
「ベン・フォン・ホフマン!!」
雷のような怒声が、音楽室の扉を震わせた。
ベンは驚いて肩を跳ねさせ、ピアニストも手を止めた。
扉が荒々しく開かれ、恰幅の良い初老の男が入ってきた。
宮廷楽団の人事権を握る実力者であり、ベンの叔父でもある、サン・ツー・ゲルマン伯爵だ。
「お、叔父上……。いらしていたのですか」
ベンがへつらうような笑みを浮かべて歩み寄ろうとすると、ゲルマン伯爵は軽蔑しきった視線を投げつけた。
「いらしていた、ではない! お前の不甲斐なさに、わざわざ足を運ばねばならなくなったのだ!」
伯爵はステッキで床を強く叩いた。埃が舞い上がる。
「楽団の評判はどうなっている? 先日の夜会でも、貴族たちから『今年の楽団は品がない』と嫌味を言われたぞ。指揮者のカールからも、お前の独断専行にはこれ以上耐えられないと苦情が来ている」
「そ、それは……周りのレベルが低すぎて、僕の芸術を理解できないだけで……」
「黙れ!」
伯爵の怒鳴り声に、ベンは身体を竦ませた。
ピアニストは関わり合いになるのを避けるように、気配を消して譜面を見つめている。
伯爵はベンの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「いいか、ベン。私がなぜ、落ちぶれたホフマン家に援助をしていると思っている。お前の亡き父への情け? そんなものはない」
冷酷な言葉が、ベンの心臓を刺す。
「お前が『使える』と思ったからだ。首席奏者という地位を利用し、楽団を我が派閥の手駒にする。そのための看板として据えたのだ。……だが、看板が泥だらけでは意味がない」
「も、申し訳ありません……挽回します。必ず」
「当たり前だ。次はないと思え」
伯爵はベンの顔を指差した。
「来月のコンクールだ。あれには例の平民……音瀬奏も出るそうだな」
「は、はい。身の程知らずにも」
「その平民に、もし負けるようなことがあれば……」
伯爵の声のトーンが、一段低くなった。
「ホフマン家への支援は即刻打ち切る。屋敷も差し押さえる。お前は路頭に迷うことになるぞ」
ベンは顔面蒼白になった。
この屋敷を失えば、彼は貴族としての体面はおろか、住む場所さえ失う。
それは、死ねと言われるに等しい。
「か、勝ちます! 絶対に! あんな平民風情に、この僕が負けるはずがありません!」
「口先だけの報告はいらん。結果で示せ。……優勝以外は許さん」
伯爵はそれだけ吐き捨てると、汚いものを見るような目で古びた音楽室を一瞥し、踵を返して出て行った。
§
重苦しい沈黙が残された。
「……あの、ベン様。練習の続きは?」
ピアニストがおずおずと尋ねる。
「……帰れ」
ベンは絞り出すように言った。
「え?」
「帰れと言ってるんだ! さっさと消えろ!」
ベンは近くにあった譜面台を蹴り飛ばした。
派手な金属音が響く。
ピアニストは「本日の代金は後日いただきます」とだけ言い残し、逃げるように部屋を出て行った。
一人残されたベンは、その場に崩れ落ちた。
広い音楽室。
剥がれかけた壁紙。古びたカーテン。
かつての名門の成れの果て。
彼に残されているのは、この朽ちかけたプライドと、叔父からの「支援」という名の首輪だけだった。
「なんでだ……」
ベンは床に転がった譜面台を見つめ、爪を噛んだ。
「僕は、選ばれた人間のはずだ。最高の楽器を持ち、最高の教育を受けた。……なのになんで、こんなに苦しいんだ」
脳裏に、奏の姿が浮かぶ。
ルミナス川のほとりで、みすぼらしい服を着て、楽しそうにフルートを吹く姿。
彼の周りには、いつも誰かがいる。
王女のマリーも、公爵令嬢のミアも、そしてあの動物たちも。
皆、奏の音に吸い寄せられ、笑顔になっている。
対して、自分はどうだ。
金色のフルートを吹けば吹くほど、人は離れていく。
ピアニストは呆れ、団員は陰口を叩き、叔父は道具としてしか見ていない。
「音が……空っぽ?」
いつか、アメリに言われた言葉が蘇る。
『あんたの音には、誰かに届けたいっていう想いがないのよ』
「うるさい、うるさい!」
ベンは頭を抱えて叫んだ。
想い? そんなもので腹が膨れるか。
僕に必要なのは、勝利だ。名声だ。
誰からも馬鹿にされない、圧倒的な地位だ。
それさえあれば、この惨めな生活から抜け出せる。
ベンはふらりと立ち上がり、窓辺へ向かった。
汚れの目立つ窓ガラス越しに、月が見える。
その時。
風の音に混じって、どこからかフルートの音色が聞こえた気がした。
もちろん、気のせいだ。城壁の外の川辺の音が、ここまで届くはずがない。
だが、ベンの耳には確かに聞こえたのだ。
自由で、優しく、そして恐ろしいほどに「満たされた」音が。
「……僕を笑っているのか?」
ベンは窓枠をギリギリと掴んだ。
悔しい。
妬ましい。
そして何より、恐ろしい。
自分の持っていない全てを持っているあの男が、コンクールという同じ土俵に上がってくることが。
「絶対に……潰してやる」
ベンは血走った目で月を睨みつけた。
「僕の方が上だ。技術も、楽器も、家柄も! あんな奴に負けてたまるか!」
彼は再び黄金のフルートを手に取った。
指が痛くなるほど強く握りしめる。
練習だ。もっと速く、もっと高く、もっと大きく。
誰にも文句を言わせない、完璧な音を出せばいい。
そうすれば、叔父も、アメリも、そしてあの生意気な奏も、僕にひれ伏すはずだ。
ベンは狂ったように吹き始めた。
広い屋敷の、手入れのされていない音楽室に、悲痛なほどの超絶技巧が響き渡る。
その音は鋭く、激しく、しかしどこまでも孤独だった。
誰もいない廊下を、空虚な残響だけが駆け抜けていく。
コンクールまで、あと二ヶ月。
追い詰められたベン・フォン・ホフマンは、闇の中で必死にもがいていた。
その歪んだ執念が、やがて自らを破滅させることになるとも知らずに。




