23話 音楽の同居生活
王都の一等地にある高級集合住宅の最上階。
その一室で、音瀬奏とソフィア・ツー・ロイスの奇妙な共同生活が幕を開けた。
そこは、音楽の実験室であり、同時に戦場でもあった。
コンクール本番まで、残り三ヶ月。
長いようでいて、新たなパートナーシップを築き上げ、優勝を狙うレベルまで完成度を高めるには、あまりに短い時間だ。
朝、太陽が昇るよりも早く、奏は叩き起こされる。
目覚まし代わりの、ピアノの轟音によって。
「遅い! 日が昇る前に基礎練習を終わらせなさいと言ったでしょう!」
寝ぼけ眼をこする間もなく、寝癖だらけの髪をしたソフィアが仁王立ちで奏を見下ろしている。
彼女はすでに覚醒しきっており、その瞳は創作意欲と、獲物を追い詰める捕食者のような光でギラギラと輝いていた。
「おはようございます、ソフィアさん……。まだ朝の4時ですよ……」
「芸術に時間は関係ないわ。さあ、フルートを持って。昨日の続きよ。あの循環呼吸のフレーズ、あと十回繰り返して」
「十回……。わかりました」
朝食前の準備運動がこれである。
日中はさらに過酷だ。
ソフィアは奏の演奏を一音たりとも聞き逃さない。彼女は五線紙とペンを片手に、奏の周りをぐるぐると回りながら、まるで検品官のように厳しくチェックする。
「違う。今の『ラ』の音、ピッチが下がったわ。修正して」
「ヴィブラートの波が荒い。もっと細かく、絹糸を紡ぐように」
「そこ! 息継ぎの音がうるさい。気配を消して」
彼女の要求は、宮廷楽団の指揮者カールよりも遥かに緻密で、そして理不尽なほどに高レベルだった。
しかし、奏はそのすべてに応えようと必死に食らいついた。
なぜなら、彼女の指摘通りに修正すると、確実に音が良くなるからだ。彼女の耳は、奏自身さえ気づいていない癖や、楽器のポテンシャルを完璧に見抜いている。
二人は食事の時間さえ惜しんで音楽に没頭した。
サンドイッチを片手で齧りながら、もう片方の手で鍵盤を叩くソフィア。
スープを飲みながら、左手だけで運指の確認をする奏。
傍から見れば狂気の沙汰だが、二人にとっては至福の時間だった。
音と音がぶつかり合い、溶け合い、高まっていく感覚。
言葉などいらない。音楽という共通言語だけで、二人の魂は深く繋がっていた。
§
そんなある日の午後。
奏が客間で、課題曲の譜読みをしていた時だった。
「カナデ! ちょっと来なさい! 急いで!」
寝室の方から、ソフィアの切羽詰まった声が響いた。
奏は顔を上げて、やれやれと溜息をついた。
またか。
この数日、彼女がこうして叫ぶのは日常茶飯事だ。大抵は「インクが切れた」とか「譜面が見当たらない」とか、あるいは「突然メロディが降りてきたから今すぐ吹け」といった要求だ。
「はいはい、今行きます」
奏はフルートを置き、小走りで寝室へと向かった。
どうせまた、部屋のどこかに埋もれたペンを探せとか、そういう類のことだろう。
「どうしました、ソフィアさ――」
軽い調子で扉を開けた奏は、その場で凍りついた。
そこは、女性の園だった。
豪奢な鏡台の前。
ソフィアが立っていた。
ただし、いつものよれよれのシャツ姿ではない。
彼女は今まさに、着替えの真っ最中だったのだ。
上半身は、白く薄い肌着一枚。
その上から、メイドのマーサともう一人の若いメイドが、二人がかりでコルセットの紐を締め上げているところだった。
「う、うわぁっ!?」
奏は顔を真っ赤にして、反射的に手で目を覆った。
しかし、指の隙間から見えてしまった光景が、網膜に焼き付いて離れない。
ソフィアは小柄だ。背はマリーよりも少し高いくらいで、普段のダボダボな服のせいで痩せぎすな子供体型だと思っていた。
だが、それは大きな間違いだった。
コルセットによって締め上げられたウエストは、折れそうなほど細くくびれている。
その対比として強調されているのが、豊かな胸元だった。
薄い生地越しにもわかる、重力に逆らうようなハリと、柔らかそうな曲線。深い谷間が、白い肌に影を落としている。
腰から臀部にかけてのラインも、驚くほど女性的で肉感的だ。
ベートーヴェンのようなボサボサ頭と、黒縁眼鏡。
その下にある身体は、成熟した大人の女性のそれだった。
無防備に晒された白磁のような肌が、午後の光を浴びて艶かしく輝いている。
「な、何やってるのよカナデ! 早くこっちに来て!」
ソフィアは奏の動揺など意に介さず、手招きをした。
恥じらう様子は微塵もない。彼女の頭の中は、今ひらめいた音楽のことでいっぱいのようだ。
「い、いや、着替え中じゃないですか! 出直します!」
「待ちなさい! 今じゃなきゃダメなの! このコルセットの締め付け……これよ!」
ソフィアは自分の胸元を指差して叫んだ。
「この圧迫感! 息が吸いにくいこの状態で、極限までブレスをコントロールする感覚……これがあの曲の第2楽章の『苦悩』を表現する鍵になるはずなの!」
「は、はあ……?」
「あんたもやってみて! マーサ、カナデにもコルセットを持ってきて!」
「無茶言わないでください! 僕は男です!」
奏は必死に抗議するが、ソフィアは聞く耳を持たない。
彼女はメイドたちに紐を引かせながら、苦しげに、しかし恍惚とした表情で歌い始めた。
「んっ……くぅ……そう、この苦しさ……。肺が圧迫されて、声が出ない……。このギリギリの状態で紡ぐメロディこそが、魂の叫びになるのよ……!」
締め上げられるたびに、彼女の豊かな胸が上下に揺れる。
上気した頬。潤んだ瞳。苦悶と快楽が入り混じったような艶っぽい声。
それは音楽的な探求なのだが、端から見れば背徳的な儀式にしか見えなかった。
メイドのマーサが、困り果てた顔で奏を見た。
『諦めてください、いつもの発作です』という目が語っている。
奏は天井を仰いだ。
この人は、音楽のためなら羞恥心さえも捨て去るのか。
いや、そもそも彼女の中に「男性に見られている」という意識がないのかもしれない。奏のことは、便利な楽器か、あるいは同性の同居人程度にしか思っていないのだ。
それが少しだけ悔しくて、そして目の前の扇情的な光景にドキドキしている自分が情けなかった。
「……わかりました。音のイメージは分かりましたから、とりあえず何か羽織ってください。目のやり場に困ります」
奏が顔を背けて言うと、ソフィアはようやく動きを止めた。
「あら、ウブなのね。減るもんじゃなし」
彼女はクスクスと笑い、メイドからガウンを受け取って羽織った。
だが、その隙間から覗く谷間は隠しきれていない。
「でも、参考になったでしょう? 人間は、制限された時ほど美しくあろうとするのよ」
ソフィアは眼鏡の位置を直し、挑発的に奏を見上げた。
「さあ、今のイメージを忘れないうちに音にするわよ。ピアノの前に集合!」
彼女はガウンの裾を翻し、風のように部屋を出て行った。
残された奏は、熱くなった頬を手で扇ぎながら、深いため息をついた。
天才との共同生活は、心臓に悪い。
§
その日の夜。
激しい練習を終えた二人は、リビングのソファでぐったりとしていた。
窓の外には満月が浮かび、静寂が部屋を包んでいる。
テーブルには、マーサが用意してくれたハーブティーと、焼き菓子が置かれている。
「……ふう。今日は進んだわね」
ソフィアがカップを手に取り、満足げに息を吐いた。
昼間の騒動が嘘のように、今は静かで落ち着いた空気を纏っている。
「ええ。第2楽章の構成、すごく良くなりました。あの『苦悩』の表現、鳥肌が立ちましたよ」
奏も同意する。
ソフィアの奇行は常軌を逸しているが、そこから生まれる音楽は本物だ。悔しいけれど、彼女の感性には脱帽するしかない。
「そうでしょう? 私の身体を張った実験の成果ね」
ソフィアは自慢げに胸を張った。
その拍子に、乱れていた黒髪がさらにバラバラと顔にかかる。
奏は何気なく言った。
「ソフィアさん、髪。……目に入りますよ」
奏は言葉と共に、彼女の顔を覗き込んだ。
その視線に、ソフィアの体がビクリと震えた。
時間が止まったような沈黙。
至近距離で見つめられ、ソフィアは急に自分の格好――ボサボサの髪とよれよれのシャツ――が気になり始めたようだった。
「……な、何よ」
彼女は俯き、長い前髪で表情を隠した。
だが、耳まで真っ赤になっているのが見て取れた。
「いえ……髪を下ろしていると雰囲気が変わるから。その、綺麗だなって思って」
奏の口から、素直な言葉がこぼれた。
それはお世辞ではなかった。
黙って座っている彼女は、整った顔立ちをした深窓の令嬢そのものだ。音楽に取り憑かれた狂気も魅力的だが、ふとした瞬間に見せる静かな表情には、ハッとするような美しさがある。
「き、綺麗……?」
ソフィアが顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が、驚きと戸惑いに揺れている。
今まで、彼女の容姿を褒める者はいなかった。
周囲の人間は、彼女の才能を崇めるか、変人扱いして遠巻きにするかのどちらかだったからだ。
一人の女性として扱われたことなど、記憶にない。
昼間の着替えの時は平気だったのに、奏の何気ない言葉が、彼女の防壁を容易く貫通していた。
「……ふん。お世辞が上手なのね、平民は」
彼女はそっぽを向き、乱暴にクッキーを口に放り込んだ。
だが、その咀嚼音はいつもより小さく、どこか照れくさそうだった。
§
翌朝。
いつも通り早朝練習のためにリビングへ向かった奏は、我が目を疑った。
ピアノの前に座るソフィアの姿が、劇的に変化していたのだ。
いつものボサボサ頭ではない。
艶やかな黒髪は丁寧にブラッシングされ、編み込みをして後ろで上品にまとめられている。
眼鏡も綺麗に磨かれ、よれよれのシャツの代わりに、身体のラインに合った清楚なブラウスとスカートを身につけている。
背筋を伸ばして座るその姿は、正真正銘、高貴な「男爵令嬢」だった。
「……おはよう、カナデ」
ソフィアが振り返る。
少し頬を染め、上目遣いに奏の反応を窺っている。
「お、おはようございます……。ソフィアさん、その格好……」
「な、何よ。たまには気分転換も必要でしょう? マーサがうるさいから、着替えてあげただけよ」
彼女はツンとすまして言ったが、部屋の隅に控えているメイドのマーサは、ハンカチで目頭を押さえて震えていた。
(お嬢様が……あのお嬢様が、ご自分で「髪を整えて」と仰ったのです……! これは天変地異の前触れか、あるいは奇跡か……!)
マーサの感動が、部屋中に伝染している。
「すごく似合ってます。……昨日の夜も言いましたけど、本当に綺麗です」
奏が微笑むと、ソフィアは言葉を詰まらせ、ピアノの譜面台に顔を伏せた。
「……うるさい。早く練習するわよ。音出しなさい、音!」
耳まで真っ赤になっているのを隠すように、彼女は鍵盤を叩いた。
その音は、いつもより少しだけ優しく、弾むような響きを持っていた。
その日から、ソフィアの変化は顕著になった。
身だしなみに気を遣うようになっただけではない。
奏に対する態度も、ただの「実験台」から、少しずつ変化していた。
練習の合間に、彼女の方から雑談を振ってくるようになった。
奏の故郷の話、好きな食べ物の話、前の世界での音楽の話。
彼女は興味深そうに耳を傾け、時に笑い、時に驚いた。
孤独な天才だった彼女の世界に、奏という異物が混ざり込み、鮮やかな色彩を与え始めていた。
§
ある夜のこと。
奏がふと目を覚ますと、リビングから微かなピアノの音が聞こえてきた。
時計を見ると、深夜の2時を回っている。
奏はベッドを出て、音のする方へ向かった。
リビングの扉を少し開ける。
薄暗い部屋の中、ピアノの譜面台に置かれた蝋燭の灯りだけが揺れていた。
ソフィアが弾いていた。
激しい曲ではない。静かで、祈るような、美しい旋律。
今作っているコンクール用の課題曲の、緩徐楽章だ。
彼女の背中は、昼間の自信に満ちた様子とは違い、どこか儚く、寂しげに見えた。
奏は音を立てずに部屋に入り、ピアノのそばに立った。
ソフィアは演奏を止めなかった。奏が来たことに気づいているはずだが、拒絶もしない。
そのまま最後の一音まで弾き切り、静寂の中に音を溶かした。
「……眠れないの?」
彼女が静かに問うた。
「音が聞こえたから。……素敵な曲ですね」
「そう? ……これ、私の昔の話なの」
ソフィアは鍵盤を撫でながら、ぽつりと語り始めた。
「私、昔から友達がいなかったの。貴族の子供たちは私の家の成り上がりを馬鹿にしたし、平民の子たちは私を怖がった。……ピアノだけが友達だった」
彼女の声は、夜の静けさに溶けていく。
「音の世界なら、私は自由になれた。誰にも邪魔されず、誰にも否定されず、完璧な世界を作れた。だから私は、現実を捨てて、音の中に引きこもったの」
彼女は自嘲気味に笑った。
「『鍵盤の魔女』なんて呼ばれて、孤高を気取っていたけれど……本当は、寂しかっただけなのかもしれないわね」
誰かに理解されたかった。
自分の音を受け止めてくれる誰かを、ずっと探していた。
「でも、見つからなかった。私の音は強すぎて、誰もついてこれない。近づく人は皆、私の才能を利用しようとするか、あるいは恐怖して逃げ出すか。……だから、諦めていたの」
ソフィアは顔を上げ、蝋燭の灯りに照らされた奏の顔を見つめた。
「そこに、あんたが現れた」
彼女の手が伸び、奏の頬に触れた。
冷たくて、震えている指先。
「あんたの音は、私の扉をこじ開けた。私の全力の音を受け止めて、それ以上の熱量で返してくれた。……初めてよ。私と対等に、いえ、私以上に音楽を愛している人と出会えたのは」
眼鏡の奥の瞳が潤んでいる。
それは、偏屈な天才が見せた、素顔の少女の涙だった。
「ねえ、カナデ。……コンクールが終わっても、いなくならないで」
懇願するような響き。
「私の音には、あんたが必要なの。あんたのフルートがないと、私の世界はもう完成しないの」
それは、音楽家としての魂からの求愛であり、一人の女性としての精一杯の告白だった。
不器用な彼女が、プライドを捨てて伝えた「ずっと傍にいてほしい」という願い。
しかし、奏はその言葉を、あくまで「音楽的なパートナーシップ」として受け取った。
彼は深く頷き、真っ直ぐな瞳で答えた。
「もちろんです。いなくなりませんよ」
迷いのない即答に、ソフィアの顔がぱっと輝く。
だが、続く言葉がそれを裏切った。
「僕だって、ソフィアさんのピアノがないとダメなんです。あんなに自由に、高く飛べるのは、ソフィアさんが支えてくれるからだから。コンクールで優勝するために、僕らは最高のパートナーですからね!」
爽やかな笑顔。一点の曇りもない信頼。
だがそこには、恋愛感情の機微は1ミリも含まれていなかった。
彼はソフィアの必死の告白を、「最強の相棒への勧誘」として完璧に誤読し、快諾したのだ。
ソフィアの表情が固まった。
輝きかけた瞳から、すうっと光が消えていく。
「……は?」
口を開けたまま、彼女は数秒フリーズした。
そして、がっくりと肩を落とし、深い深いため息をついた。
「……はぁ」
せっかくの決死の告白が、見事に空振りに終わった瞬間だった。
「な、何か変なこと言いました?」
奏が不思議そうに首を傾げると、ソフィアは呆れたように、しかしどこか諦めきったような笑みを浮かべた。
「……ばか」
彼女は小さく呟き、乱暴に鍵盤を叩いた。
ポーン、と間抜けな音が響く。
「ま、いいわ。今は『パートナー』で十分よ。……逃がしはしないんだから」
彼女の瞳には、新たな決意の光が宿っていた。
音楽でも、そしてそれ以外でも、この恐ろしく鈍感なフルート吹きを絶対に振り向かせてみせるという野望が。
ソフィアは立ち上がり、奏に背を向けた。
「さあ、もう寝なさい。明日も早いわよ」
「はい。おやすみなさい、ソフィアさん」
奏は何も気づかないまま、部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、ソフィアは赤くなった頬を両手で包み込んだ。
静寂な夜。
二人の想いはすれ違ったまま、しかし確かな信頼で結ばれていた。
奏とソフィア。
二人のパートナーシップは、この夜、より強固なものとなった。
一方は音楽的な同志として。もう一方は、密かな想いを抱く乙女として。
コンクールに向けての日々は、まだ始まったばかりだ。
前途多難な予感を孕みつつ、夜は静かに更けていった。




