22話 天才VS奇才
王都の一角に建つ高級集合住宅の最上階。
重厚なカーテンで閉ざされた薄暗い部屋には、インクと紙の匂いが漂っていた。
掃除は行き届いているのだろう。床や家具に塵一つ落ちてはいないが、足の踏み場もないほどに五線紙が散乱している。
その紙の海の中心に鎮座する黒いグランドピアノの前に、一人の女性が腕を組んで座っていた。
ソフィア・ツー・ロイス。
肖像画のベートーヴェンを思わせる奔放な黒髪は逆立ち、背中へと乱れ落ちている。だが、その隙間から覗く横顔には隠しきれない貴族としての気品と、汗ばんだ首筋が放つ大人の色香が漂っていた。
彼女は値踏みするような冷ややかな視線を、目の前の青年に向けていた。
「さあ、始めなさいよ」
ソフィアは顎をしゃくった。
「ただし、言った通りよ。私の琴線に触れなければ、即刻退場。二度と私の視界に入らないで」
それは脅しではなく、純然たる通告だった。
彼女にとって、退屈な音楽を聴かされる時間は、呼吸を止められる苦痛に等しいのだ。
部屋の隅では、護衛のライラと、お忍びの公爵令嬢ミア、そして二人のメイドたちが固唾を飲んで見守っている。
メイドたちは、主人がいつ癇癪を起こして楽譜を投げつけるかとヒヤヒヤしていた。ライラは万が一の事態に備え、ミアは祈るように手を組んでいる。
奏は、静かに黒いフルートを構えた。
恐怖はない。あるのは、これから始まる対話への静かな高揚感だけだ。
彼は知っていた。言葉が通じない相手でも、心を閉ざした相手でも、音ならば届くことを。
奏が選んだ曲は、ニコロ・パガニーニの『カプリース第24番』。
本来はヴァイオリンのための独奏曲であり、超絶技巧の代名詞とも言える難曲だ。跳躍、アルペジオ、スタッカート。フルートで演奏するには、構造的に極めて困難な技術を要求される。
中途半端な小品では、この魔女の興味を引くことはできない。最初の一撃で、彼女の常識を破壊する必要があった。
奏が息を吸う。
その呼吸音が、静寂を引き裂く合図となった。
最初の主題が放たれた。
たった一小節。
わずか数秒の旋律が響いた瞬間、ソフィアの組んでいた腕が解かれた。
眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれる。
音の立ち上がり、粒立ち、そして芯のある響き。
凡百の奏者とは、息の密度が決定的に違っていた。
ただの薄っぺらな金属音ではない。深く、艶があり、空間を支配する魔力を帯びた音色。
(……本物だわ)
ソフィアの脳裏に走った「退屈」という文字が、瞬時に消し飛ぶ。
彼女は前のめりになり、食い入るように奏を見つめた。
主題が終わり、第一変奏へと突入する。
細かい音符の羅列が、奔流となって溢れ出す。
奏の指は目にも止まらぬ速さでキーの上を滑り、正確無比なリズムで音を刻んでいく。
だが、真の驚愕はそこではなかった。
音が、途切れないのだ。
通常、フルートという楽器は呼吸の制約を受ける。
どんなに長いフレーズでも、どこかで息継ぎ(ブレス)をしなければ音は止まる。それが管楽器の宿命であり、限界だ。
しかし、奏の演奏は違った。
変奏曲の一つ一つを、あたかも一本の長い糸のように、途切れさせることなく吹き切っている。
まるで、弓を返し続けることで無限に音を紡げるヴァイオリンのように。
「……嘘でしょう」
ソフィアの唇が震えた。
循環呼吸。
鼻から空気を吸い込みながら、同時に口の中に溜めた空気を押し出して音を鳴らす技術。
現代地球では確立された奏法だが、この世界の、特にクラシックな奏法においては未知の魔法に等しい。
奏は変奏と変奏のわずかな隙間でだけ、深く短いブレスを入れる。
そして再び、終わらない旋律の嵐を巻き起こす。
さらに曲は進み、音域が高音部へと跳躍する。
フルートの超高音域は、得てして耳を劈くような鋭利な音になりがちだ。音程も上ずりやすく、制御が難しい。
ベン・フォン・ホフマンの演奏がまさにそれだった。ただうるさく、不快な高音。
しかし、奏の音は違った。
高く、どこまでも高く駆け上がる旋律。
その頂点の音が、驚くほど柔らかく、そして正確なピッチで響いたのだ。
突き刺さるような痛みはない。絹糸のように繊細で、それでいてホールの隅々まで届く遠達性を持った、極上の高音。
ソフィアの背筋に、冷たい戦慄が走った。
それは恐怖ではなく、未知なる美への歓喜の震えだった。
(何よ、これ……。何なのよ、この男!)
退屈で世間知らずな「伴奏者探し」の平民だと思っていた。
だが、目の前にいるのは、音楽の悪魔に魂を売ったかのような怪物だ。
フルートという楽器の限界を、この男は軽々と超えている。
演奏は佳境に入る。
最後の変奏。
アルペジオとトリルが入り乱れ、音の奔流が螺旋を描いて昇っていく。
奏の体から発せられる熱量が、室内の空気を灼熱に変えていくようだった。
鮮やかに、そして圧倒的な迫力で、最後の音が奏でられた。
完璧なフィニッシュ。
残響が天井へと吸い込まれ、静寂が戻ってくる。
奏は肩で息をしながらフルートを下ろし、額の汗を拭った。
全力を出し切った。これ以上ないほどの演奏だった。
部屋の中は、完全な沈黙に包まれていた。
誰も言葉を発しない。呼吸すら忘れているかのようだ。
その静寂を破ったのは、乾いた拍手の音だった。
ソフィアだった。
彼女は呆然とした表情のまま、無意識に両手を打ち合わせていた。
最初はゆっくりと、やがて激しく、衝動的に。
「……素晴らしい」
彼女の口から、掠れた称賛が漏れた。
それを合図に、魔法が解けたように周囲も動き出した。
ライラが感嘆のため息をつきながら力強く手を叩く。
ミアが目を輝かせて拍手をする。
そして、控えていた二人のメイドたちまでもが、仕事を忘れて夢中で拍手を送っていた。
部屋中が、温かく、熱狂的な拍手に包まれる。
奏は少し照れくさそうに、しかし誇らしげに一礼した。
ソフィアが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
彼女は乱れた髪も気にせず、ツカツカと奏の元へ歩み寄る。
眼鏡がずり落ち、その奥の瞳は異様なほどギラギラと輝いていた。
「名前は!」
彼女は奏に詰め寄った。小柄な体躯からは想像もできない迫力だ。
「え、あ、音瀬奏です」
「カナデ! あんた、さっきのあれは何? 息継ぎをしていないように聞こえたわ。どういう呼吸法? それにあの高音の処理、倍音の構成比率が異常よ。どうやってるの?」
彼女は奏の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
その顔は紅潮し、目は血走っている。興奮が頂点に達し、理性が焼き切れそうになっているのだ。
研究対象を見つけた科学者のような、貪欲で純粋な知的好奇心。
「ちょ、ちょっと待ってください。近いです」
奏がたじろぐと、ソフィアはハッとして手を引っ込めたが、その視線は舐めるように奏の全身と、黒いフルートを観察していた。
「……信じられない。こんな素材が、この国に転がっていたなんて」
彼女はブツブツと呟きながら、自分の爪を噛んだ。
「完璧だわ。私の曲を理解し、再現し、さらに超えてくる可能性がある。……悔しいけど、認めざるを得ない」
彼女は乱暴に髪をかき上げ、キッと奏を睨みつけた。
「合格よ」
短く告げられた言葉に、奏は目を丸くした。
「えっ……本当ですか?」
「私の耳を疑う気? あんたの音は、私の退屈を殺したわ。……少なくとも、窓から投げ捨てる価値もないゴミではない」
彼女なりの、最大限の賛辞だった。
ソフィアは床に落ちていた楽譜の束を拾い上げ、ピアノの上に放り投げた。
「いいでしょう。そのコンクールとやら、私がピアノを弾いてあげる。感謝なさい」
「ありがとうございます! 助かります!」
奏が礼を言うと、後ろで見ていたライラとミアも、安堵の息を吐き出した。
アメリの言った通りだ。毒を食らわば皿まで。この猛獣を納得させるには、圧倒的な実力を見せるしかなかったのだ。
しかし、ソフィアは意地悪く口角を吊り上げた。
「ただし、条件があるわ」
「条件?」
「あんたのその技術、そしてその変な楽器。……全部、私に寄越しなさい」
不穏な言葉に、ライラが即座に反応して一歩前に出た。
「おい、お前。カナデの楽器を奪うつもりか?」
「はあ? 脳筋は黙ってて。物質的な話じゃないわよ」
ソフィアはライラを鼻で笑い飛ばし、熱っぽい視線を再び奏に向けた。
「私が欲しいのはデータよ。あんたの演奏法の全てを解析し、私の作曲に取り入れる。あんたは私の実験台になるのよ」
彼女は舌なめずりをした。
その表情は、新しい玩具を手に入れた子供のように無邪気で、そして冷酷だった。
「これからコンクールまでの期間、あんたはこの屋敷に住み込みなさい。寝る間も惜しんで、私のために吹き続けるの。一音たりとも聴き逃すつもりはないわ」
「す、住み込み!?」
奏が素っ頓狂な声を上げた。
今日の今日で、いきなり同居生活の提案である。
「当然でしょう。コンクールまで時間がないのよ。凡人が天才に勝とうと思ったら、食事と睡眠以外の全ての時間を音楽に捧げるしかないわ。……それとも、怖じ気づいた?」
挑発的な視線。
しかし、その奥には「もっとあんたの音が聴きたい」という純粋な渇望が見え隠れしていた。
奏は覚悟を決めた。
この「魔女」に認められた以上、生半可な覚悟では振り回されるだけだ。
ベンに勝つため、そしてマリーとの約束を守るためなら、どんな修羅場でもくぐり抜けてみせる。
「……わかりました。お世話になります」
奏が頷くと、ソフィアは満足げに鼻を鳴らした。
「交渉成立ね。……マーサ! 客間にベッドを用意して! 今日から新しいペットが増えるわよ!」
彼女は大声でメイドに指示を飛ばすと、再びピアノに向かった。
そして、何やら猛烈な勢いで五線紙にペンを走らせ始めた。
先ほどの奏の演奏で得たインスピレーションを、忘れないうちに書き留めているのだろう。
すでに彼女の意識は、奏たちから離れ、音楽の世界へと没入していた。
取り残された三人は、顔を見合わせた。
「……とんでもないことになったな」
ライラが疲れたように言った。
「でも、あの人なら大丈夫そうね。性格は最悪だけど、腕は確かだわ」
ミアも苦笑いをしている。
奏は、一心不乱に譜面を書くソフィアの背中を見つめた。
その姿からは、近寄りがたいオーラと共に、音楽に対する誠実さが痛いほど伝わってくる。
変人で、偏屈で、礼儀知らず。
けれど、誰よりも純粋な音楽家。
この人となら、いける気がする。
奏は荷物をまとめるために一度宿へ戻ろうと、部屋の出口へ向かった。
背後からは、ソフィアがピアノを叩く音と、ペンが紙を擦る音が聞こえてくる。
それは、新しい音楽が生まれようとする胎動のようだった。
最強にして最恐のパートナーを得て、奏の挑戦は新たな局面を迎えようとしていた。




