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転生したフルート吹きの少年が現代音楽で異世界に癒しをお届けします!  作者: ト音ソプラ


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18話 父と娘の和解

 ルミナス川のほとりを包み込んでいた緊張が、一つの呼吸音とともに静止した。


 奏が息を吸う。


 それは攻撃のための構えではなく、世界と調和するための合図だった。


 隣に座るミアが、小さく頷く。彼女の細い指が、持ち運び用の小型鍵盤楽器の上に音もなく置かれた。


 兵士たちの包囲網。騎士たちの警戒。そして、目の前で仁王立ちする公爵ルドルフの冷徹な視線。


 すべての圧力を受け流し、奏は最初の音を紡ぎ出した。


 選んだ曲は、エドワード・エルガーの『愛の挨拶』。


 優雅で、どこか懐かしさを感じさせる旋律が、夕暮れの空気に溶け出していく。


 奏のフルートが、優しく語りかけるようにメロディを歌う。


 それに呼応して、ミアの指が鍵盤を叩く。


 ポロン、と和音が重なる。


 その瞬間、ルドルフの眉がピクリと動いた。


 彼が予想していたのは、もっと騒がしく、下品で、耳障りな音だったはずだ。平民が貴族の真似事をして奏でる、調子の外れた雑音。


 だが、聞こえてきたのは、驚くほど洗練された音色だった。


 黒いフルートの音は、深みがありながらも重くない。絹糸のように滑らかで、芯のある響き。


 そして何より、娘のピアノだ。


 ルドルフは知っていた。ミアのピアノの腕前は、貴族の娘のたしなみとしてはごく平均的なものだ。技術的に拙い部分もあり、指がもつれることも珍しくない。教師たちからも「技術が安定しない」と報告を受けていた。


 しかし、今はどうだ。


 技術的な拙さは相変わらずだ。テンポが揺れたり、タッチが不揃いだったりする。


 けれど、それを補って余りある「何か」が、そこにはあった。


 奏のフルートが、ミアの拙い部分を優しく包み込み、支えている。彼女が転びそうになれば手を差し伸べ、走り出せば背中を押す。


 そのサポートを受けて、ミアのピアノはこれまでにないほど自由に歌っていた。


 正確さよりも、「伝えたい」という想いが溢れ出している。


 そこにいるのは、教育係に厳しく躾けられた「公爵令嬢」ではなく、心から音楽を楽しんでいる一人の少女だった。


 ルドルフの脳裏に、古い記憶が蘇る。


 まだ若かりし頃。亡き妻と共に過ごした、穏やかな午後のひととき。


 妻もまた、決してピアノが上手なわけではなかった。ミスタッチをしては「あらあら」と照れ笑いを浮かべるような、そんな愛らしい女性だった。


 けれど、彼女の弾くピアノは、聴く人の心を温かくする不思議な魅力があった。


 ――あの子の音は、貴方に似て生真面目すぎるのよ。もっと自由に、歌うように弾けばいいのに。


 妻は生前、そう言って笑っていた。


 今のミアの演奏は、まさに妻が望んでいた「歌うような」ピアノそのものだった。


 気がつけば、ルドルフの握りしめていた拳から力が抜けていた。


 張り詰めていた肩の力が抜け、眉間の深い皺が薄らいでいく。


 曲が進むにつれ、その場にいた全員が魔法にかかったように動きを止めていた。


 殺気立っていた私兵たちは、武器を下ろし、呆然と聞き入っている。


 ライラ率いる騎士たちも、目を閉じてその調べに身を委ねている。


 そして、動物たち。


 茂みの陰から、シマリスやウサギたちが顔を出し、リズムに合わせて耳を動かしている。


 敵も味方も、人間も動物も関係ない。


 ただ、温かい音楽だけがそこにあった。


 奏は吹きながら、ルドルフの表情の変化を感じ取っていた。


 最初は氷のように冷たかった瞳が、徐々に熱を帯び、潤んでいくのを。


 (届いている)


 言葉では伝えられない想いが、音に乗って彼の心の鎧を溶かしている。


 奏はミアを見た。


 彼女は楽しそうに笑っていた。


 技術不足で指が追いつかない箇所があっても、それを恐れずに音を鳴らしている。父の怒りも、連れ戻される恐怖も、今は忘れている。ただ、大好きな父親に、自分の想いを聴かせたい。その純粋な感情だけが、指先から溢れていた。


 曲がクライマックスを迎える。


 二人の音が重なり合い、夕焼け空に高く舞い上がる。


 そして、静かな余韻を残して、最後の和音が消えていった。


 風の音だけが戻ってくる。


 誰も口を開かなかった。拍手さえも、この静寂を壊すのがためらわれるほどだった。


 長い沈黙の後。


 ルドルフが、ゆっくりと息を吐き出した。


 それは、長年彼の中に溜まっていた重苦しい澱を、すべて吐き出すような深いため息だった。


「……見事だ」


 低く、しかし穏やかな声だった。


 ルドルフはステッキを地面に突き、一歩前へ進み出た。


 ミアが緊張して身をすくめる。


 しかし、父の口から出たのは、叱責ではなかった。


「ミア。……お前は、いつの間にそんな顔で弾くようになったのだ」


「え……?」


「屋敷で聴くお前のピアノは、いつも何かに怯えているようだった。間違えないように、教えられた通りに……そればかりを気にしていた。だが、今は違った」


 ルドルフは娘の前に膝をつき、その小さな手を取った。


「技術はまだまだ未熟だ。ミスタッチも多い。……だが、お前の音は笑っていたよ。まるで、あいつが弾いているようだった」


「お母様……?」


 ミアが呟くと、ルドルフは寂しげに、けれど優しく微笑んだ。


「ああ。自由で、奔放で、誰よりも音楽を愛していた、お前の母上のようだった」


 その言葉に、ミアの大きな瞳から涙が溢れ出した。


 厳格な父が、音楽を認めてくれた。自分の中に、母の面影を見てくれた。


「お父様……私、楽しかったの。上手く弾けなくても、カナデと合わせていると、心が翼を持ったみたいに軽くなるの」


「そうか。……そうだな、見ていれば分かる」


 ルドルフは娘の頭を撫で、立ち上がった。


 そして、奏の方へ向き直った。


 その眼差しには、もう先ほどまでの侮蔑の色はなかった。あるのは、一人の人間としての、対等な評価の光だ。


「音瀬奏、と言ったな」


「はい」


 奏は姿勢を正し、真っ直ぐに公爵を見つめ返した。


「訂正しよう。君の音楽は、下世話などではなかった。……心が洗われるような、清廉な響きだった」


 それは、この国の法務を統括する重鎮からの、最大限の賛辞であり、敗北宣言でもあった。


「私の完敗だ。言葉ではなく、音でねじ伏せられるとはな」


「いえ、ねじ伏せるつもりはありません。ただ、知ってほしかっただけです。ミアがここで何を見つけたのかを」


「ああ、痛いほど分かったよ。……私が、娘を鳥籠に閉じ込めすぎていたこともな」


 ルドルフは自嘲気味に笑った。


 娘を守りたい一心で、彼女の自由を奪い、窒息させていた。


 彼女が求めていた「息継ぎ」の場所を、自分が奪うところだったのだ。


 ルドルフは背後のスヴェンを振り返った。


「スヴェン。お前は知っていたのだな。ミアがここで、このように笑っていることを」


「……はい。報告を怠ったこと、深くお詫び申し上げます」


 スヴェンが深々と頭を下げる。


「罰として、減給処分だ」


「承知いたしました」


「ただし」


 ルドルフは口元を緩めた。


「私の目を開かせてくれた功績に免じて、特別手当を出そう。……相殺して、プラスだ」


 スヴェンは顔を上げ、眼鏡の奥で目を細めた。


「寛大なご処置、感謝いたします」


 ルドルフは再び奏と向き合い、居住まいを正した。


「音瀬奏。君に対する無礼を詫びよう。……そして、礼を言う。娘に、音楽の本当の喜びを思い出させてくれたことに」


 公爵が、平民に頭を下げた。


 周囲の兵士たちが息を呑む。


 奏は慌てて手を振った。


「やめてください、公爵様! 僕はただ、一緒に遊んでいただけですから」


「ふっ、謙遜もそこまでいくと嫌味だな。……だが、君の人柄は理解した」


 ルドルフは顔を上げ、厳しい表情に戻った。ただし、それは父親としての厳しさだ。


「ミアとの交友は認めよう。ただし! 節度を守ることだ。門限は厳守。学業はおろそかにしないこと。そして……」


 彼はちらりと、後ろに控えるライラを見た。


「護衛をつけること。ベルンシュタイン隊長、貴公に任せても良いか?」


 話を振られたライラは、即座に背筋を伸ばし、敬礼した。


「はっ! 我が剣にかけて、お嬢様の安全はこのライラが保証いたします!」


「うむ。貴公ならば安心だ」


 ルドルフは満足げに頷くと、ミアに手を差し出した。


「さあ、ミア。今日はもう遅い。帰ろう」


 ミアは涙を拭い、満面の笑みでその手を取った。


「はい! ……また来てもいい? お父様」


「ああ。……たまには、私も聴きに来ようかな」


「えっ!?」


 ミアと奏が同時に声を上げた。


「なんだ、不服か? 最近、仕事で肩が凝っていてな。君のフルートには、医者よりも優れた癒やしの効果があるようだ」


 ルドルフは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。


 その顔は、厳格な公爵ではなく、ただの娘を愛する父親の顔だった。


「……いつでも歓迎しますよ」


 奏が微笑むと、ルドルフは「期待しているぞ」と言い残し、馬車へと戻っていった。


 私兵たちも整列し、撤収を始める。


 去り際、スヴェンが奏の横を通り過ぎざまに、小声で囁いた。


「……お見事でした、奏様。あなた様の音色は、頑固な岩をも砕くようですな」


「スヴェンさんが根回ししてくれたおかげですよ」


「おや、私は何も。……ただ、主人の趣味嗜好を理解していただけです」


 老執事は意味深に微笑み、一礼して去っていった。


 馬車が土手の上へと消えていくまで、奏たちは見送った。


 嵐のような訪問者は去り、川辺には再び穏やかな夕暮れが戻ってきた。


「……やったな、カナデ」


 ライラが大きく息を吐き、奏の背中をバシッと叩いた。


「痛っ……。うん、なんとかなったね」


「なんとか、ではない。完全勝利だ。あの石頭の公爵を、音楽だけで説き伏せるとは……お前は本当に、底が知れない男だ」


 ライラは呆れたように、しかし誇らしげに言った。


 木陰や茂みに隠れていた動物たちも、恐る恐る顔を出した。


 シマリスのチップが奏の肩に駆け上がり、頬を擦り付ける。猫のトラも足元で甘えた声を上げた。


 彼らもまた、奏たちの勝利を祝っているのだ。


「ミアも、よかったな。これでお父様公認だ」


 奏が空っぽになった小型鍵盤楽器の前で立ち尽くすミアに声をかける。


 彼女は遠ざかる馬車の影を見つめていたが、振り返ると目を赤くしながらも、晴れやかな笑顔を見せた。


「うん! ……ありがとう、カナデ。ライラも、みんなも」


 彼女は周囲にいる騎士たちや、物陰から出てきた動物たちにも頭を下げた。


「私、もっと練習するわ。もっともっと上手になって、お父様をびっくりさせてやるんだから!」


「その意気だよ。いつでも付き合うさ」


 奏が答えると、ミアは嬉しそうに頷き、そして急に真面目な顔をした。


「……あと、もう一つ分かったことがあるわ」


「なに?」


「やっぱり、あの『金ピカ男』の演奏は最低だったってことよ!」


 ミアは拳を握りしめた。


「お父様も私のピアノを認めてくれた。つまり、私の演奏に合わせてくれなかったあいつの方が悪いのよ! 次に会ったら、思いっきり文句言ってやるんだから!」


 その剣幕に、奏とライラは顔を見合わせて吹き出した。


「ふふ、頼もしいな。あいつも公爵令嬢に睨まれては形無しだろう」


「違いないね」


 帰り支度をしながら、奏はふと王宮の方角を見上げた。


 そこには、かつての職場であり、今はベンがいる宮廷楽団がある。


 今日の成功は、小さな一歩かもしれない。けれど、この川辺で生まれた音楽の輪は、確実に広がり始めている。


 仲間たちと共に笑い合える幸せを噛み締めながら、奏は静かにフルートをケースに収めた。


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父上も風情の分かる人で良かった。何処かの弁当と違って……
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