11話 月夜の侵入者
月が中天に昇り、王都が深い静寂に包まれる頃。
ルミナス川のほとりは、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
ライラが騎士団の宿舎へ帰ってから、もう数時間が過ぎている。
祭りの後のような少しの寂しさと、心地よい余韻だけが、川辺には漂っていた。
音瀬奏は柳の木の下で、焚き火の始末を終えて一息ついた。
足元には、すっかり満腹になって身を寄せ合う動物たち。
シマリスのチップは奏の上着のポケットの中で、猫のトラは膝の上で、ウサギのミミと水鳥のスイは互いに寄り添って、それぞれ安らかな寝息を立てている。
「……みんな、いい夢見てるかな」
奏はトラの背中を優しく撫でながら、少し離れた茂みの方へ視線をやった。
暗がりでよく見えないが、そこには数人の気配がある。
第三部隊の騎士たちだ。彼らは非番や休憩時間を利用して、こっそりとここへ来て仮眠を取っている。奏はそのことを知っていたからこそ、彼らの安眠を妨げないよう、フルートを仕舞い、静かに過ごしていたのだ。
今日は本当に色々なことがあった。
ライラとの買い物。動物たちとの宴会。そして、少し騒がしい乱入者。
ライラは名残惜しそうにしながらも、「明日の任務に響くから」と、夕暮れと共に帰っていった。
彼女が去った後の静けさは、いつもより少しだけ広く感じられる。
奏は懐から、今日ライラに渡したのと同じ店で買った、小さな手帳を取り出した。
そこには、今日使った金額と、残りの金額が几帳面に記されている。
彼女は「金庫番」と言ってくれたが、彼女にばかり頼るわけにはいかない。自分でもしっかり管理しなければ。
(それにしても、ライラ……喜んでくれてたな)
ブローチをつけた時の彼女の表情を思い出し、奏は自然と頬が緩んだ。
普段は凛々しい騎士団長が見せた、年相応の少女のような照れ笑い。
それは、どんな宝石よりも魅力的に見えた。
その時だった。
乾いた草が擦れるような、微かな音が夜気に混じった。
風の音とは違う、何かが地面を踏みしめる気配。
奏の膝の上で眠っていたトラが、弾かれたように顔を上げ、喉の奥で低く唸った。
ポケットの中のチップもモゾモゾと動き出し、不安そうに顔を出した。
「……誰かいるの?」
奏が声を潜めて闇を見つめると、茂みの向こうから数人の影が音もなく現れた。
月明かりに照らし出されたのは、粗末な革鎧を身につけ、腰に短剣や捕獲用の網を下げた三人の男たちだった。
その目つきは鋭く、そして卑しい欲望に濁っている。
「へっ、噂通りだ。こんなところにガキが一匹と、獲物が群れていやがる」
先頭に立つ男が、下品な笑みを浮かべて言った。
「誰ですか? ここは私有地……みたいなものですけど」
奏は努めて冷静に声をかけた。
心臓が早鐘を打つ。
彼らは明らかに、昼間のベンとは違う。本物の悪意を持った人間だ。
奏の脳裏に、すぐ近くで眠っている騎士たちの顔が浮かんだ。
大声で叫べば、彼らはすぐに飛び起きて助けてくれるはずだ。
奏は息を吸い込み、叫ぼうとした。
しかし。
「――声を出すなよ」
男の一人が、瞬きするほどの速さで間合いを詰めていた。
ギラリと光る短剣の切っ先が、奏の膝の上にいるトラに向けられている。
「騒げば、この猫の首が飛ぶぜ」
奏の声が喉に張り付いた。
騎士たちがここへ駆けつけるには、数秒かかる。その数秒の間に、目の前の刃物は容易にトラの命を奪える距離にあった。
人質ならぬ、「猫質」を取られた状態だ。
「聞いたぜ? こいつらは『ガオケレナ』や『水霊石』を持ってくる賢い獣なんだってな。市場で商人が吹聴してやがったよ」
男たちの狙いは、希少なアイテムではなく、それを運んでくる「供給源」である動物たちそのものだった。
「特にその猫とリス。生け捕りにして俺たちが飼えば、一生遊んで暮らせるって寸法だ。……さあ、大人しくその獣を渡せ」
男が網を構え、もう片方の手で短剣をチラつかせる。
どうする。どうすればいい。
騎士たちを起こす隙がない。
動物たちを逃がそうにも、網を持った男たちが包囲している。
「……断ります」
奏が出した答えは、時間稼ぎでも逃走でもなく、拒絶だった。
奏は武器を持っていない。戦う力もない。
それでも、家族を売り渡すような真似は絶対にできない。
「彼らは道具じゃない。僕の大切な家族です。指一本触れさせません」
奏はトラを抱きしめ、背を丸めて動物たちを自身の体で覆い隠した。
自分が盾になれば、少なくとも一撃目は防げるかもしれない。その騒ぎで騎士たちが気づいてくれれば――。
「あぁ? 家族ぅ? 平和ボケしたお坊ちゃんかよ。たかが獣に入れ込んで命を張る気か? 馬鹿じゃねえの」
「殺しはしねえが、痛い目見な!」
男が腕を振り上げた。
鋭い風切り音が迫る。
奏はギュッと目を閉じ、歯を食いしばった。
(ごめん、みんな……!)
痛みが走るのを覚悟した、その瞬間。
硬質な金属同士が激突する、凄まじい音が静寂を切り裂いた。
衝撃が来ない。
代わりに聞こえたのは、男の間抜けな声だった。
「あ?」
奏が恐る恐る目を開けると、目の前には、月光を背負って立つ一人の騎士の姿があった。
流れるような赤髪。
昼間の私服姿ではない。いつもの銀色の鎧に身を包んでいる。
一度帰ったはずの彼女が、なぜここに。
「……ラ、ライラ……?」
ライラは振り返らず、抜き身の長剣を片手に、男たちを氷のような視線で射抜いた。
男の短剣は、彼女の一撃で弾き飛ばされ、地面に転がっている。
「……一度家に帰り、装備を整えてきて正解だったな」
彼女は低く呟き、剣先を男たちに向けた。
「私の大切な『場所』で、何をしている」
その声は低く、地獄の底から響いてくるような迫力があった。
怒り。純粋で、強烈な怒気が周囲の空気を震わせている。
「な、なんだこの女! 騎士か!?」
「おい、こいつ……『鉄の女』だ! 王宮騎士団のライラだぞ!」
男たちが悲鳴のような声を上げて後ずさる。
王都の裏社会で生きる者にとって、ライラの名は死神と同義だった。
「ちっ、こんな夜更けに何で隊長クラスがいやがるんだ! 逃げるぞ!」
男たちは即座に判断し、散り散りに逃げようと背を向けた。
しかし。
「逃がすかよ」
茂みの中から、不機嫌極まりないドスの利いた声が響いた。
同時に、逃走経路を塞ぐように、木の上から、土手の影から、ゆらりゆらりと人影が現れた。
屈強な体躯。ギラギラと光る目。
第三部隊の騎士たちだった。
今の剣劇の音と、男たちの騒ぎ声で、彼らは完全に目を覚ましていた。
寝起きを襲われた猛獣の群れに囲まれたようなものだった。
「隊長の剣の音で目が覚めたと思えば……なんだ、この薄汚いネズミどもは」
騎士の一人がボキボキと指を鳴らす。
「俺たちの安眠を妨害した罪は重いぜ。久しぶりの『急速回復』中だったのによぉ……」
別の騎士が、地面に刺さっていた短剣を足で踏み砕いた。
彼らは奏が自分たちを気遣って助けを呼ばなかったこと、そして奏が危険に晒されたことを悟り、静かな激怒を漂わせていた。
「ひ、ひぃぃぃッ!!」
逃げ場を失った密猟者たちは、哀れな子羊のように震え上がった。
ライラが剣を鞘に納め、静かに告げた。
「総員、制圧せよ。ただし、この場所を血で汚すな。……音を立てずに、速やかにな」
騎士たちが無言で頷き、一斉に飛びかかった。
その後の光景は、戦いというよりは一方的なお仕置きだった。
プロの騎士たちによって、密猟者たちは叫び声を上げる暇もなく取り押さえられ、猿ぐつわを噛まされて連行されていった。
すべてが終わるまで、一分もかからなかった。
静寂が戻った川辺で、ライラがゆっくりと奏の方へ向き直った。
「……怪我はないか、カナデ」
その声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように柔らかかった。
「うん、大丈夫。……どうして、ここに? さっき帰ったはずじゃ」
「お前が心配だったからだ」
ライラは少しばつが悪そうに視線を逸らした。
「宿舎に戻ってからも、胸騒ぎがしてな。今日、大金を手に入れただろう。それに、あのような噂が広まれば、必ずよからぬ輩が寄ってくる。だから……鎧に着替えて、すぐに戻ってきたのだ」
彼女は職務だと言い繕っているが、その表情には隠しきれない安堵が滲んでいた。
家に帰っても、奏のことが頭から離れず、居ても立ってもいられなかったのだろう。
「ありがとう、ライラ。……本当に、助かったよ」
奏は心からの感謝を込めて言った。
そして、ふと気づいた。
ライラの銀色の鎧の胸元に、昼間プレゼントしたブローチが輝いていることに。
彼女はわざわざ着替えて戻ってきたのに、あのブローチだけは外さずに、戦闘用の鎧に付け替えていたのだ。
無骨な金属の鎧の中で、その小さな音符の形だけが、優しい彩りを添えていた。
「……それ、付けててくれたんだ」
奏が指差すと、ライラは慌てて胸元を手で覆った。
「こ、これは! その……お守り代わりだ! 貴金属には魔除けの効果があると言うし、たまたま付けていただけだ!」
真っ赤になって言い訳をする彼女を見て、奏は小さく笑った。
「笑うな! 私は真剣に……」
「うん、わかってる。ありがとう、最高のお守りだね」
奏の言葉に、ライラは口を噤み、それから観念したように小さく息をついて微笑んだ。
「……まったく、お前には敵わないな」
彼女は一歩近づき、奏の足元で震えていたチップを拾い上げた。
チップは安心したように鳴き声を上げ、ライラの指にしがみついた。
「もう大丈夫だ。ここは私たちが守る」
ライラは動物たちにも聞こえるように、力強く宣言した。
「今日から、この場所は正式に第三部隊の『特別指定保護区』とする。我々が交代で警備にあたる。……誰にも、お前たちの平穏は乱させない」
その言葉に、木陰から様子を窺っていた騎士たちが、音を立てずに拳を突き上げて同意を示した。彼らにとっても、この安眠できる聖域を守ることは至上命令なのだ。
「特別保護区かぁ。なんか大げさだけど、心強いよ」
「大げさなものか。……私にとって、ここは王宮よりも守るべき場所なのだから」
ライラは最後の一言を、風に紛れるほどの小声で呟いた。
「え? 何か言った?」
「な、何でもない! さあ、夜も遅い。お前も宿に戻って休め。送って行ってやる」
ライラは背を向け、歩き出した。
その背中は、来た時よりもずっと頼もしく、そしてどこか嬉しそうだった。
月光の下、二人の影が並んで伸びる。
密猟者という招かれざる客の訪問は、結果として、この場所の安全と、二人の絆をより強固なものにしたようだった。
ルミナス川のせせらぎが、優しい子守唄のように響いていた。




