第8話:文字列置換による洗濯(クリーニング) 〜汚れという名のノイズ除去〜
小鳥のさえずりが、アラームの不快な電子音よりも優しく、しかし確実に俺の意識を浮上させた。
目を開けると、視界の端にまだ `マクロ記録 (記録中...)` というステータスが残っていないか、無意識に確認してしまった。もちろん、昨夜のうちに停止している。
身体を起こす。
背中の節々がバキバキと音を立てた。硬い倒木に寄りかかって寝た代償だ。
焚き火は白い灰の山に変わっていた。中心部にはまだ微かに赤い熾火が残っているが、熱はほとんど感じられない。
森の朝は、湿度を含んだ白い霧に包まれていた。
ひんやりとした空気が肺に入り込み、昨夜の肉の脂っこさを浄化してくれるようだ。
俺は立ち上がり、自分の姿を見下ろした。
惨憺たる有様だった。
高級ブランドではないが、愛用していた紺色のスーツのズボンは泥まみれ。
ワイシャツに至っては、トカゲの返り血、ウサギの解体時の汚れ、そして焚き火の煤で、元の色が判別できないほど黒ずんでいる。破れた袖口は貧相に垂れ下がっていた。
社会人として、いや、人間として、この不潔さは精神衛生上よろしくない。
それに、もしこの先、人里に出たとして、この格好では「遭難者」ならまだしも、「狂人のアンデッド」と間違われて討伐されかねない。
洗濯機はない。クリーニング屋もない。
川で洗う? 石鹸なしでこの頑固な汚れが落ちるとは思えない。
俺はワイシャツの袖口についた、どす黒い血痕を凝視した。
緑色の枠線が表示される。
`血痕(凝固)`
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[Target]: ワイシャツ(綿65%, ポリエステル35%)
[Status]: 付着物
[Adhesion]: High (繊維の奥まで浸透)
----------------------------------
ふむ。
俺の視点(Excel)において、この「汚れ」は、ワイシャツというオブジェクトに付随する「余計なデータ」あるいは「不純物」として認識されている。
ならば、修正可能だ。
俺は `置換(Replace)` ウィンドウを脳内で呼び出した。
通常、文字列を置き換える機能だが、この世界では物質的な構成要素を置き換えることができるはずだ。
昨日の「泥水」の書き換えは失敗した。あれは「本質的な価値」を変えようとしたからだ(シート保護)。
だが、今回は「付着物」を取り除くだけ。本体のプロパティはいじらない。権限エラーは出ないはずだ。
[検索する文字列]: `汚れ` (ワイルドカード `*汚れ*` を指定して、血も泥も含める)
[置換後の文字列]: `` (空白。つまり削除)
[検索場所]: `選択範囲` (俺の着ている衣服一式)
MPの消費を意識する。
範囲が広い。全身だ。少し負荷がかかるかもしれない。
「すべて置換」を実行。
シュゥゥゥ……。
音がしたわけではない。
だが、視覚的なエフェクトとして、衣服の表面から黒い粒子が霧散していくのが見えた。
繊維にこびりついていた泥が、血が、煤が、デジタルノイズのように分解され、虚空へと消えていく。
数秒後。
俺の体は、クリーニングから戻ってきたばかりのような清潔さを取り戻していた。
ワイシャツは白く輝き、ズボンの折り目さえ復活している気がする。
破れた袖口だけはそのまま(物理的な欠損は汚れではないため)だが、それでも見違えるようだ。
`[Result]: 4582箇所の汚れを置換しました`
ポップアップが出る。
俺は匂いを嗅いでみた。
無臭。
汗の臭いも、生臭さも、完全に消えている。
柔軟剤の香りがしないのが少し寂しいが、贅沢は言えない。
ついでに、自分の身体(皮膚)も選択範囲に含めてもう一度実行してみた。
ベタつく汗、髪の汚れ、歯の表面のぬめり。
それらが一瞬でリセットされる。
まるで風呂上がりのような爽快感。
MPバーが `4/10` → `2/10` に減ったが、この快適さには代えられない。清潔感は士気に直結するのだ。
さて。
身なりも整ったところで、今後の指針だ。
このままここでサバイバル生活を続けるのも悪くない(Excelスキルがあれば不自由はしないだろう)が、やはり文明社会への接触を図りたい。
情報が欲しい。ここがどこなのか、元の世界に帰れるのか、そしてこのExcelスキルの正体は何なのか。
俺は `気配察知` のレーダーを展開した。
相変わらず、周囲には白いドット(小動物)が点在している。
だが、レーダーの端、半径五百メートル付近に、今まで見たことのない色の反応があった。
黄色いドット。
それが三つ。固まって動いている。
赤(敵対)でも白(中立・動物)でもない。
黄色。
Excelにおける条件付き書式で、黄色はしばしば「注意」や「要確認」を表す。
あるいは……「知的生命体」?
動きに規則性がある。
動物のようにランダムに徘徊しているのではなく、明確な意思を持って、獣道を避けて進んでいるように見える。
こちらに近づいてきている。
俺は緊張に身を固めた。
人間か? 亜人か?
友好的ならいいが、盗賊の類なら厄介だ。
俺はスーツの襟を正し、ネクタイがない首元を少し心許なく思いながら、彼らがやってくるであろう方向へ向き直った。
待つこと数分。
ガサガサ、と草をかき分ける音が大きくなってきた。
そして、霧の向こうから、人影が現れた。
三人組だ。
先頭は、革の鎧を身につけ、腰に剣を下げた男。二十代半ばくらいか。赤茶色の髪が目立つ。
その後ろに、長い杖を持った小柄な少女。フードを目深に被っている。
最後尾には、軽装で短剣を持った細身の男。
間違いない。
ファンタジーRPGでお馴染みの「冒険者パーティー」だ。
コスプレイベントの会場ではない。彼らの装備についた細かい傷、使い込まれた革の光沢、そして漂ってくる微かな汗と鉄の匂いが、それが「本物」であることを雄弁に物語っていた。
俺が彼らを視認したのと同時に、先頭の剣士も俺に気づいた。
「――っ! 止まれ!」
剣士が鋭い声を上げ、手を挙げて仲間を制した。
彼らの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
驚愕、警戒、そして困惑。
無理もない。
深い森の奥地。モンスターが跋扈する危険地帯。
そこに、シミ一つない紺色のスーツを着た男が、手ぶらで立っているのだ。
しかも、男の足元には、巨大なトカゲの抜け殻(データ欠損ゴミ)と、綺麗に白骨化したウサギの骨が転がっている。
俺は彼らを「データ」として見た。
彼らの頭上に、ステータスが表示される。
行1:`カイル(剣士)` [Lv.5] [HP: 240/240] [State: 警戒]
行2:`ミリア(魔術師)` [Lv.4] [HP: 90/90] [MP: 120/150]
行3:`リック(斥候)` [Lv.4] [HP: 110/110] [State: 混乱]
レベルは俺(Lv.2)より高い。
まともに戦えば勝ち目はないかもしれない。
だが、俺には彼らの情報が「丸見え」だ。
剣士カイルが、剣の柄に手をかけたまま、慎重に声をかけてきた。
その言葉は、未知の言語のはずだった。
しかし、俺の耳に届いた瞬間、脳内で自動的に `TEXT関数` が働いたかのように、意味のある日本語として変換された。
「……おい、アンタ。こんなところで何をしている?」
低い声。威圧感がある。
俺は、努めて友好的な、営業スマイル(スキルレベルMax)を貼り付けた。
両手を軽く広げ、敵意がないことを示す。
「やあ、おはようございます。少し道に迷ってしまいまして」
俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
社畜時代、理不尽なクレーム対応で培った「心は死んでいても表面上は丁寧」なスキルが、ここで活きるとは。
「道に迷った……だと?」
剣士は眉をひそめた。
斥候のリックが、小声で剣士に囁くのが聞こえた(字幕が表示された)。
`[Whisper]: カイル、気をつけろ。あいつ、気配がおかしい。魔力がないのに、存在感が希薄すぎる。それにあの服……貴族か? いや、あんな仕立ての服、王都でも見たことねぇぞ`
魔術師の少女も、杖を握りしめている。
`[Analysis]: 鑑定不能……? 何よあの人、ステータスが見えない。遮断魔法?`
どうやら、俺のExcelスキルによるプロテクトが働いているらしい。彼らの鑑定スキルでは、俺は `######` (表示幅不足)か、あるいは `Unknown Object` に見えているようだ。
「ええ、気づいたらここにいましてね。装備も持たずに」
俺は苦笑いを浮かべた。
カイルの視線が、俺の足元――焚き火の跡と、ホーンラビットの骨に向けられた。
「装備もなしに、ホーンラビットを食ったのか? しかも、あんな綺麗に骨だけ残して」
「運良く捕まえられまして」
「……そのトカゲの皮は? フォレストリザードだろ。ソロでやったのか?」
「まあ、なりゆきで」
カイルの目が険しくなる。
`[State]: 警戒` が `[State]: 敵対寸前` に変わりかけている。
怪しすぎるのだ。俺の存在が。
武器も持たない優男が、レベル3のモンスターを単独撃破し、無傷で、しかも服も汚さずに森に立っている。
彼らの常識において、これは「高位の魔人」か「正体不明の化け物」のレコードに該当するのだろう。
まずい。
交渉決裂(Runtime Error)の気配だ。
俺は、とっさに次の手を考えた。
戦うか? いや、それは最終手段だ。
彼らを利用して、街へ行きたい。
俺は視界の端で、魔術師ミリアのステータスに「ある異常」を見つけた。
`[Buff/Debuff]` の欄だ。
`ミリア`
`[State]: 疲労`
`[Debuff]: 呪毒(進行中: 15%)`
彼女の左足首あたり。ローブの裾に隠れているが、そこから微弱な `エラー値` のような黒いモヤが出ている。
呪いだ。
彼らがここに来た理由、あるいは急いでいる理由はこれか。
「そこのお嬢さん」
俺は指差した。
カイルが「貴様!」と剣を抜きかける。
構わず、俺は続けた。
「足の怪我、だいぶ悪いようですね。早く処置しないと、データが……いや、足が壊死しますよ」
三人の顔色が、一変した。
図星だ。
「な、なぜそれを……」
ミリアが震える声を出した。
これが、俺の切り札(交渉材料)だ。
俺はニヤリと笑った。
Excel使いにとって、データの「バグ修正」は得意分野だ。たとえそれが、異世界の「呪い」であっても。




