第49話:警告ログの嵐 〜崩壊する物理法則と天界からの招待状〜
その異変は、静かな午後のティータイムに、唐突な「ノイズ」として訪れた。
リゾート都市エル・ドラド。
俺が執務室の窓から見下ろす街並みは、今日も平和そのものだった。
大通りを行き交う観光客の笑顔、露店から立ち上る香ばしい煙、遠くに見える青い海と白い砂浜。
俺がExcelで最適化したパラメータ通りに稼働する、完璧な楽園。
だが。
俺がマグカップを持ち上げようとした、その瞬間だった。
ガリッ……。
不快な音がして、マグカップの取っ手が指をすり抜けた。
いや、すり抜けたのではない。
カップの一部が、空間に「埋没」していたのだ。
陶器の質感が、一瞬だけデジタルなモザイク模様に変わり、机の天板と融合してしまった。
「……クリッピング(干渉)エラー?」
俺は眉をひそめた。
通常、物理オブジェクト同士の座標が重なることはありえない。世界の物理エンジンがそれを弾くはずだ。
だが、今の現象は明らかに「当たり判定」が消失していた。
直後。
視界の端に表示していたシステムモニターが、真っ赤に染まった。
[Critical Warning]: Physics Engine Unstable
[Error]: Gravity Constant fluctuating (重力定数が変動中)
[Error]: Texture Missing at Sector 5
ドォォォォォン……!
地鳴りが響く。
窓の外を見ると、広場の中央にある噴水の水が、重力を無視して空へと逆流し始めていた。
さらに、空の色が異常な紫色に変色し、雲が高速で点滅を繰り返している。
「キャァァァァッ!!」
「な、なんだこれは!? 体が浮くぞ!?」
街中から悲鳴が上がる。
観光客たちがパニックになり、逃げ惑うが、地面が波打って彼らの足を掬う。
建物の一部が透けたり、色が反転したりといった、視覚的なバグも多発していた。
「工藤! 大変だ!」
カイルが執務室に飛び込んできた。
彼は剣を抜いているが、その剣先もまた、不自然に歪曲していた。
「外がめちゃくちゃだ! 攻撃じゃねぇ! 世界がおかしくなってやがる!」
「落ち着いてください。……これは攻撃です」
俺は冷静に、しかし険しい顔で空を見上げた。
「ただし、物理的な攻撃ではありません。
『システム管理者』による、パラメータの改竄攻撃です」
この世界を管理する存在。神々。
彼らが、俺の作った秩序を「異物」とみなし、排除するために世界のルールそのものを書き換え始めたのだ。
それも、住民の安全など考慮しない、極めて雑で乱暴なやり方で。
その時。
紫色の空が、バリバリという音を立てて裂けた。
亀裂の向こうから、目を焼くほどの純白の光が溢れ出す。
光の中から、巨大な「階段」が降りてきた。
クリスタルで作られた、天へと続く螺旋階段。
そして、その階段を降りてくる、翼を持った人型の存在たち。
天使。
だが、絵画に描かれるような慈愛に満ちた姿ではない。
顔には目も鼻もなく、ただのっぺらぼうの表面に、幾何学模様が明滅している。
手には、光る槍――おそらく「デバッグツール(修正プログラム)」の具現化したもの――を持っている。
[Identify]: System Enforcer (システム執行者)
[Level]: Unknown
[Role]: Elimination of Bugs (バグの排除)
執行者の一体が、俺たちのいるバルコニーの前に舞い降りた。
顔のない頭部から、直接脳内に響く声が発せられる。
『警告。警告。
特異点、工藤聡。およびその関連オブジェクト群。
貴様の存在により、世界の世界線に深刻な乖離が発生している』
無機質な声。
まるで合成音声だ。
『主(管理者)は、貴様の即時削除を決定した。
だが、その特異な処理能力に免じて、最後に「弁明」の機会を与える。
直ちに「管理領域」へ出頭せよ』
執行者が槍を掲げると、光の階段が俺の足元まで伸びてきた。
招待状というよりは、召喚状。あるいは、処刑台への案内だ。
「……工藤、行くな! 罠だ!」
カイルが俺の肩を掴む。
「罠でしょうね。行けば二度と帰れないかもしれない」
俺は頷いた。
あそこは、彼らのホームグラウンドだ。
俺のExcelスキルが通用するかどうかも分からない。
だが、このままここに居ればどうなる?
世界のバグは拡大し、やがてエル・ドラドは崩壊するだろう。
森の民も、リリムも、カイルも、データの藻屑となって消える。
俺はカイルの手をそっと外し、ネクタイを締め直した。
「カイルさん。留守を頼みます」
「おいっ! 死にに行くのかよ!」
「いいえ。……『監査』に行くんですよ」
俺は不敵に笑った。
その目は、深夜残業でバグの温床を見つけた時の、プログラマーの目だった。
「この世界の管理者は、随分と杜撰な仕事をしているようです。
ユーザー(住人)を危険に晒すような運用をするなら、正してやらなければならない。
……それが、事務の鬼神としての流儀ですから」
俺は懐から、一枚のディスク(記録媒体)を取り出した。
これまで俺が収集してきた、この世界の膨大なログデータ。
そして、昨夜のうちに組んでおいた「対抗策」。
準備はできている。
「行ってきます。……夕食までには戻りますよ」
俺は光の階段に足をかけた。
体が浮き上がる。
重力から解放され、空の亀裂へと吸い込まれていく。
眼下で、カイルが何かを叫んでいるが、もう聞こえない。
視界が白く染まる。
物質界(ローカル環境)を離れ、管理界(クラウド環境)へ。
戦いの舞台は、神々の座す「天上」へと移った。




