第4話:結合セルに残るエラー値 〜ステータスの残滓と夜の帳〜
へたり込んだ尻の下で、枯れたシダ植物がカサリと音を立てた。
荒い呼吸だけが、静寂を取り戻した森に響いている。
自分の腕を見る。
先ほどまでトカゲの牙が食い込んでいた左腕の前腕部は、ワイシャツの袖こそボロボロに破け、赤黒い血痕が染み付いているものの、その下の皮膚は嘘のように滑らかだった。傷跡一つない。まるで新品のパーツに取り替えたかのような違和感がある。
俺は震える手で、地面に落ちている「それ」を拾い上げた。
フォレストリザードの抜け殻。
いや、正確には抜け殻ですらない。中身のデータをごっそりと抜き取られた、テクスチャデータの残骸のようなものだ。
触れると、カサカサとした乾いた感触がした。重さはほとんど感じない。
視界にウィンドウが表示される。
`フォレストリザードの皮(空)`
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[Type]: 素材
[Quality]: N/A
[Memo]: 内部データが欠損しています。
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「内部データが欠損」……その表現に、背筋が寒くなった。
俺は生き物を殺したのだ。
ナイフで刺したわけでも、魔法で燃やしたわけでもない。
Excelの機能で、存在そのものを「上書き」して消し去った。
その事実は、血が流れるよりも遥かに無機質で、それゆえに得体の知れない恐怖を伴っていた。
ふと、身体の奥底に違和感を覚えた。
胃袋のあたりが、熱い。
さっきの空腹感とは違う。満腹感とも違う。
まるで、消化しきれない異物が腹の中に居座っているような、重苦しい感覚。
俺は自分のステータス詳細(詳細プロパティ)を開いてみた。
数式バーの横にある小さな矢印を展開するイメージだ。
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[Name]: 工藤聡
[Level]: 2
[HP]: 150/150
[MP]: 10/10
[Skills]:
- Excel操作 (Lv.Max)
- セルの結合 (New!)
[Buff/Debuff]:
- 結合エラー:消化不良 (Time: ∞)
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「結合エラー:消化不良」。
嫌な文字が見えた。
詳細を確認するためにカーソルを合わせる。
`結合されたデータ(monster_lizard_forest)の一部に、互換性のない形式が含まれています。完全に統合するには、データのクレンジングが必要です`
トカゲの野性、あるいは生物としての本能といったものが、元人間である俺のシステムと完全には噛み合っていないらしい。
時折、視界の端にノイズが走る。
そして、嗅覚が鋭敏になりすぎている気がした。
風に乗ってくる微かな獣臭や、腐敗臭が、鼻を突くほど強烈に感じられる。
「……うぷっ」
胃液がせり上がってくる。
だが、吐き出そうとしても何も出ない。これは物理的な消化不良ではなく、データ上の不整合なのだ。
どうすれば「クレンジング」できるんだ?
マクロでも組めばいいのか?
今の俺には、VBAのエディタを開く余裕も、気力も残っていなかった。
太陽が傾き始めていた。
森の木々の影が長く伸び、オレンジ色の光が、緑色の世界を深い陰影で塗りつぶしていく。
気温が少しずつ下がり始めている。
昼間の蒸し暑さが嘘のように、肌寒さが忍び寄ってくる。
夜が来る。
照明のない、完全な闇夜が。
そして、夜行性のモンスターたちが活動を始める時間が。
俺は恐怖を振り払うように立ち上がった。
ここにいてはいけない。血の匂い(俺のシャツについた血だ)を嗅ぎつけて、他の捕食者が来るかもしれない。
安全な場所を確保しなければ。
できれば、背後を守れる場所。洞窟か、あるいは木の上か。
ふらつく足取りで歩き出す。
レベルが上がったせいか、あるいはHPが増えた(=体力の最大値が上がった?)せいか、足取りは先ほどよりも軽かった。
視界のグリッド線は、薄暗がりの中でも淡く発光しており、ある種の暗視スコープのような役割を果たしてくれているのが救いだった。
しばらく歩くと、巨大な岩壁に突き当たった。
高さ二十メートルはあろうかという断崖絶壁だ。
その岩壁の根元に、小さな亀裂のような窪みを見つけた。
大人が一人、ようやく身を縮めて入れる程度のスペースだ。
奥行きは一メートルほどしかないが、雨風は凌げそうだ。
俺はその窪みを「仮拠点」と定めた。
窪みの入り口付近には、枯れ木や落ち葉が吹き溜まっている。
これを使って入り口を塞げば、カモフラージュにはなるだろう。
俺は落ちている枝を拾い集めた。
枝を拾うたびに、`木の枝(小)` というポップアップが出るのが少し鬱陶しいが、慣れるしかない。
窪みに入り込み、集めた枝で入り口を覆う。
狭い。暗い。土臭い。
だが、背中が岩壁に守られているという事実が、ほんの少しの安堵をもたらしてくれた。
完全に日が落ちた。
森は漆黒の闇に包まれた。
だが、静寂ではない。
むしろ、夜の方が森は饒舌だった。
ホー、ホー、というフクロウのような鳴き声。
ガサガサと草むらを掻き分ける音。
遠くで響く、大型獣の咆哮。
それらが四方八方から聞こえてくる。
俺は膝を抱え、身体を小さく丸めた。
寒い。
破れたワイシャツ一枚では、夜の森の冷気は防ぎようがない。
歯の根が合わず、カチカチと音を立てる。
火が欲しい。
だが、マッチもライターもない。
原始的な火起こしの方法なんて知らない。
魔法?
試してみた。「ファイア!」と小声で叫んでみたが、`#NAME?` (その名前の関数は見つかりません)というエラーが出ただけだった。
俺にあるのはExcelだけだ。
Excelで暖を取る方法なんてあるのか?
CPUに高負荷をかけてPCを発熱させる、なんて冗談なら言えるが、今の俺の身体が発熱したらただの発熱(病気)だ。
……待てよ。
俺はふと思いついた。
「セルの書式設定」。
あれで、セルの背景色を変えられるんじゃないか?
色には心理的な効果がある。暖色系の色なら、少しは暖かく感じるかもしれない。
いや、もっと物理的なアプローチができないか?
俺は自分の身体を選択し、右クリックメニューから [セルの書式設定] を開くイメージをした。
ウィンドウが浮かぶ。
[表示形式] [配置] [フォント] [罫線] [塗りつぶし]……
[塗りつぶし] タブを選択する。
色見本が並んでいる。
その中に、[パターンの種類] という項目があった。
網掛けや、ドット柄などを選ぶ項目だ。
もし、この「塗りつぶし」が、物理的な素材感や性質を付与するものだとしたら?
例えば、断熱材のようなパターンがあれば……。
しかし、あるのは単純な幾何学模様だけだ。
俺は視点を変えた。
[罫線] タブ。
線のスタイルを選ぶ。
実線、点線、二重線……そして、「太線」。
線の色を選ぶ。黒。
俺は、自分がうずくまっているこの狭い窪みの入り口のセル(座標で言えば、俺の目の前の空間)を選択した。
そして、そのセルの「外枠」に、「極太の実線」を設定した。
決定。
ブォン。
低い音がして、目の前の空間に、黒い線が浮かび上がった。
それはただの線画ではない。
触れてみると、硬質で、冷たい壁のような感触があった。
罫線だ。
Excelの罫線が、物理的な障壁として具現化したのだ。
風が止まった。
入り口を塞ぐように引いた罫線が、外からの冷気を遮断してくれている。
完全な密閉ではないが、風が直接当たらないだけで体感温度は劇的に変わる。
「……すげぇ」
俺は罫線を撫でた。
厚みはない。二次元的な平面の壁だ。
だが、叩いてもビクともしない強固さがある。
これなら、小動物の侵入も防げるかもしれない。
少しだけ、心に余裕が生まれた。
俺は再び膝を抱え、目を閉じた。
疲労が押し寄せてくる。
今日の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
深夜の残業、心停止、森への転生、トカゲとの死闘、そしてセルの結合。
腹の中の「消化不良」エラーはまだ消えない。
時折、トカゲの視点らしき映像フラッシュバックする。
地面に近い視点、獲物を狙う高揚感、そして死の瞬間の恐怖。
それが俺の記憶と混ざり合って、悪夢を見せそうだ。
だが、眠らなければ。
HPは回復しても、精神的な疲労(MP的なもの?)は限界だ。
俺は「罫線」という薄い結界に守られた、暗く狭い `AC4525` 番地で、泥のような眠りへと落ちていった。
遠くで、狼の遠吠えが聞こえた気がした。
その声は、`#VALUE!` というエラー音のように、不快に耳に残った。




