第3話:オートフィルなき探索行 〜#N/Aな果実と条件付き書式〜
森を歩くというのは、都会の舗装路を歩くのとは根本的に異なる運動だった。
一歩ごとに地面の硬度が変わる。
腐葉土の柔らかい層に足が沈み込んだかと思えば、地表に露出した木の根が硬質な罠となって足首を狙ってくる。
俺が履いているのは、安物の革靴だ。量販店で二足一万円で買った、底のすり減った合成皮革のビジネスシューズ。グリップ力など皆無に等しい。
湿った苔の上で滑りそうになるたびに、体幹の筋肉が悲鳴を上げ、バランスを取ろうと腕が泳ぐ。
「……はぁ、はぁ……」
呼吸が荒くなる。
湿度が高い。サウナの中にいるような蒸し暑さだ。
額から噴き出した汗が眉毛を伝い、目に入って染みる。ワイシャツの襟元は既にぐっしょりと濡れ、背中に不快に張り付いていた。ネクタイは邪魔くさいので外してポケットに突っ込んだが、第一ボタンを開けた程度では、この熱帯雨林のような気候に対応できるはずもなかった。
喉が渇いた。
自販機もコンビニもない世界で、渇きというのはこれほどまでに恐怖を伴うものなのか。
口腔内が粘つき、唾液がうまく飲み込めない。
俺は立ち止まり、周囲を見渡した。
視界には相変わらず、薄い灰色のグリッド線が張り巡らされている。
これのせいで、遠近感が少し狂う。まるで巨大な方眼紙の上を歩いているような気分だ。
ふと、視線の先にある一本の低木が気になった。
高さは俺の腰ほど。濃い緑色の葉の陰に、赤い実がいくつかなっていた。
サクランボを二回りほど大きくしたような、艶やかな果実だ。
表面には水滴がついており、木漏れ日を浴びて宝石のように輝いている。
――食えるか?
本能が訴えかけてくる。
甘そうだ。水分を含んでいそうだ。
俺は無意識に手を伸ばしかけて、止めた。
異世界の植物だ。毒があるかもしれない。
日本の山でさえ、知らない実を食べるのは自殺行為だと言われている。ましてやここは、物理法則すら怪しい異世界(仮)なのだ。
だが、俺には「これ」がある。
俺は赤い実の一つを凝視した。
視点が固定されると、対象物が緑色の枠線で囲まれる。
ピッ。
数式バーに文字列が表示される。
`ポイズンベリー`
「……そのまんまじゃねーか」
俺は毒づいた。
名前がストレートすぎる。ある意味、親切設計だ。
プロパティウィンドウを確認してみる。
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[オブジェクト名]: item_fruit_poison
[Value]: ポイズンベリー
[Effect]: 摂取時、対象に状態異常「麻痺(小)」を付与。HP減少 -5/sec (Duration: 60sec)
[Taste]: 激甘
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[Taste]: 激甘、という項目が無駄に俺の食欲を刺激してくるのが腹立たしい。
麻痺してHPが減る激甘の実。絶対に食べてはいけない。
俺は踵を返し、その低木から距離を取った。
この能力、鑑定スキルとしては優秀すぎる。
見ただけで名称と効果がわかるなんて、サバイバルにおいて最強の武器だ。
Excel、お前、意外とやるじゃないか。深夜残業の友だっただけはある。
少し歩くと、今度は小さな水たまりを見つけた。
岩の窪みに溜まった雨水のようだ。
透明度は高いが、底には泥が沈殿しており、ボウフラのような小さな虫が泳いでいるのが見える。
凝視する。
枠線が表示される。
`泥水`
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[オブジェクト名]: liquid_muddy_water
[Quality]: 低
[Bacteria]: High
[Effect]: 摂取時、30%の確率で状態異常「腹痛」を付与。
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飲みたくない。
だが、「30%の確率」というのは微妙な数字だ。
ガチャでSSRが出る確率よりはずっと高いが、死ぬ確率ではない。
喉の乾きは限界に近い。背に腹は代えられないかもしれない。
待てよ。
俺はふと閃いた。
さっきの枯れ葉の実験を思い出す。
「セルの削除」ができるなら、「値の変更」もできるんじゃないか?
俺は水たまりを凝視したまま、意識の中で数式バーにフォーカスを合わせた。
キーボードはない。
だが、頭の中で文字を思い浮かべるだけで、入力ができる感覚がある。
俺は、`泥水` という文字列をバックスペースキーで消すイメージをした。
文字が消える。
そして、新たに文字を打ち込む。
`ミネラルウォーター`
Enterキーッターン!
心の中で、あの爽快な打鍵音を響かせる。
……何も起きない。
数式バーの文字は `ミネラルウォーター` に変わったが、目の前の水たまりは泥水のままだ。ボウフラも元気に泳いでいる。
エラーメッセージが出た。
視界の中央に、小さなダイアログボックス。
『値を変更できません。このセルは保護されています。パスワードを入力してください』
「チッ……」
舌打ちが出た。
シートの保護がかかっているらしい。
自然物は、そう簡単に書き換えられないということか。あるいは、俺の権限レベル(Level 1)が低すぎるのか。
管理者(神様?)のパスワードなんて知る由もない。
俺は諦めて、泥水のセルから視線を外した。
安易なチートは許されないらしい。世知辛い。
再び歩き出す。
森は深く、どこまで行っても似たような景色が続いていた。
巨大なシダ植物、絡まり合う蔦、湿った苔。
太陽の位置は高く、正午に近いことが推測できる。気温は上昇し続けている。
しばらく歩いていると、視界のグリッド線に異変を感じた。
特定のエリアだけ、セルの背景色が微妙に異なっているのだ。
通常の地面は無色(透過)なのだが、前方の一帯だけ、うっすらと赤みがかっている。
条件付き書式?
Excelの機能で、特定の条件を満たすセルの色を変えるあれだ。
俺は警戒しながら近づいてみた。
赤いエリアは、草むらの一角だった。
一見すると、何の変哲もない草むらだ。
だが、近づくにつれて、赤色は濃くなっていく。
まるで「危険地帯」を示すハザードマップのように。
俺は立ち止まり、その赤いセルの上にある空間を凝視した。
何もいない……いや。
よく見ると、草の陰に、保護色で同化した何かがいる。
体長一メートルほどの、巨大なトカゲのような生物。
皮膚は樹皮のような茶褐色で、周囲の風景に完全に溶け込んでいる。
だが、俺の「条件付き書式」のような視界は、その存在を明確な赤色で強調表示していた。
凝視して、ステータスを確認する。
`フォレストリザード`
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[オブジェクト名]: monster_lizard_forest
[Level]: 3
[HP]: 85/85
[State]: 睡眠中(浅い)
[Hostility]: Active(敵対的)
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モンスターだ。
レベル3。俺より高い。
しかも敵対的。
心臓が早鐘を打つ。初めて遭遇する、明確な「敵」。
こいつが起きたら、俺は食われるのか?
営業部の佐藤にパワハラされていた時とは違う、生物的な死の恐怖が背筋を駆け上がる。
逃げよう。
刺激しないように、静かに。
俺は息を殺し、抜き足差し足で後退しようとした。
その時だった。
足元の枯れ枝を、無造作に踏んでしまったのは。
パキッ。
静寂な森の中で、その音は銃声のように響いた。
赤いセルの中にいたトカゲの瞼が、カッと見開かれた。
爬虫類特有の、縦に割れた瞳孔が、真っ直ぐに俺を捉える。
[State]: 睡眠中 → 警戒
ステータスの表示が一瞬で書き換わる。
「……あ」
トカゲがゆっくりと体を起こした。
太い四肢が地面を捉え、長い尻尾が鞭のようにしなる。
口の端から、粘度の高い唾液が糸を引いて垂れ落ちた。
低い唸り声が、喉の奥から響いてくる。グルルル……。
[State]: 警戒 → 戦闘態勢(ターゲットロック:工藤聡)
走るか?
いや、革靴でこの悪路を走って逃げ切れるわけがない。
戦う?
武器は? 素手だ。あってもせいぜい、さっき拾い損ねた石ころくらいだ。
トカゲの後ろ足に力が溜まるのが見えた。飛びかかってくる予備動作だ。
距離は五メートル。
一瞬で詰められる。
思考しろ。
工藤聡。お前の武器は何だ。
筋力じゃない。敏捷性でもない。
お前にあるのは、この奇妙なインターフェースと、社畜として磨き上げたExcelの知識だけだ。
俺は必死に視界を走らせた。
トカゲのステータスウィンドウ。
書き換えられないか? 数値は? HPは?
やってみる価値はある。
トカゲが地面を蹴った。
空中に躍り出る巨大な質量。
俺は迫りくる牙を見据えながら、意識のカーソルをトカゲの `[Hostility]: Active` という項目に合わせた。
Active(能動的/敵対的)。
これを書き換える。
時間がスローモーションのように引き延ばされる感覚。
バックスペース。消去。
そして入力。
`Inactive` (非活動的)?
いや、もっと確実なものがいい。
`None` (なし)?
入力確定(Enter)!
トカゲの牙が、俺の喉元に迫る。
生臭い息が顔にかかる。
エラー音。
『値を変更できません。権限が不足しています』
「クソッ!」
ダメか。
生物のパラメータも保護されている。
俺は反射的に左腕を前に出し、顔を庇った。
激痛。
鋭い牙が、ワイシャツごと俺の前腕に食い込む感触。
「ぐあああっ!」
熱い。
痛みよりも先に、焼けるような熱さを感じた。
トカゲの体重に押され、俺は背後の木の幹に叩きつけられた。
目の前に、トカゲの黄色い瞳がある。
俺の腕を噛み砕こうと、顎に力を込めているのがわかる。骨がきしむ音がする。
死ぬ。
こんなところで、訳も分からず、トカゲの餌になって死ぬのか。
嫌だ。
まだローンも残ってる。
録画したアニメも見てない。
やっとブラック企業から解放されたのに。
視界が赤く点滅する。HPバーが表示され、それがガリガリと削れていくのが見える。
俺の血が、トカゲの口元を濡らしている。
血……?
俺の血が、トカゲの口の中に流れ込んでいる。
接触している。
俺と、こいつは、今、物理的に接続されている。
ふと、ある関数が頭をよぎった。
異なるシートのデータを参照する関数。
あるいは、データを統合する機能。
俺はトカゲを睨みつけたまま、自分自身のステータスウィンドウを呼び出した。
そして、自分の `HP` セルと、トカゲの `HP` セルを、意識の中で「範囲選択」した。
マウスの左ボタンを押したままドラッグする、あの感覚。
俺のHPセル(現在値:65/100)と、トカゲのHPセル(85/85)。
二つのセルが、青い枠線で囲まれる。
そして、俺は右クリックメニューを開いた。
そこにある、一つの項目を選択する。
[セルの結合]
通常、値が入っているセル同士を結合しようとすると、警告が出る。
『選択範囲には複数のデータ値があります。1つのセルとして結合すると、最も左上のデータのみが保持されます』
左上にあるのは……俺のセルだ。
俺のセルが優先される。
トカゲのデータは……消える?
イチかバチかだ。
俺は警告ダイアログの [OK] ボタンを、心の指で力強く押し込んだ。
バチバチバチッ!
青白い火花のようなエフェクトが、俺とトカゲの接触面で弾けた。
トカゲの目が、驚愕に見開かれる。
噛みついていた顎の力が、ふっと抜けた。
次の瞬間。
俺の視界の中で、トカゲの身体がノイズのように点滅し始めた。
輪郭が崩れ、テクスチャが乱れ、まるでバグったゲーム画面のように崩壊していく。
ギュオォォォ……!
トカゲが断末魔のような声を上げるが、それはすぐに電子的なノイズ音にかき消された。
トカゲの存在が、俺の中に取り込まれていく感覚。
熱い奔流が、噛まれた腕から体内へと逆流してくる。
そして。
光が収まった時。
目の前には、何もいなかった。
トカゲは消滅していた。
ただ、地面に一枚の「皮」のようなものが落ちているだけ。
俺は呆然と、自分のステータスウィンドウを見た。
`工藤聡(Lv.1 → Lv.2)`
`HP: 150/150` (結合済み)
結合した。
俺のHPと、トカゲのHPが足し算されたわけじゃない。
セルの結合によって、二つの存在が一つの枠に収められ……そして、俺という「左上のデータ」が優先され、トカゲというデータは上書きされて消滅したのだ。
ただし、その器(セルの大きさ=最大HP)だけを残して。
腕の痛みは消えていた。傷口も塞がっている。
それどころか、身体の底から力が湧いてくるのを感じた。
「……マジかよ」
俺はその場にへたり込んだ。
「セルの結合」。
それは、相手を強制的に自分の一部として取り込み、存在を抹消する、凶悪すぎる捕食スキルだったのだ。




