第2話:再起動(リブート) 〜未保存の風景と、A1セルの青空〜
無。
あるいは、完全なる静寂。
そこには、時間の概念も、空間の広がりも存在しなかった。
まるで、電源ケーブルを引き抜かれたサーバー室のような、絶対的な停止。
思考というプロセスが強制終了され、メモリ上のデータが揮発していくような感覚だけが、朧げな残響として漂っていた。
だが、その虚無は永遠ではなかった。
チチチ、チチチ……。
どこか遠くで、断続的な高周波音が鳴っている。
それは電子的なビープ音ではなく、もっと有機的で、不規則な揺らぎを含んだ音波だった。
鼓膜……いや、意識の入力端子が、その信号を微弱にキャッチする。
次に訪れたのは、嗅覚への強烈な割り込み処理だった。
鼻腔をくすぐるのは、あの乾いた埃とトナーインクの混じったオフィスの臭いではない。
もっと湿り気を帯びた、重厚で、圧倒的な情報の奔流。
濡れた土の匂い。腐葉土が発酵する甘酸っぱい香り。青草が千切れたときに放つ、鮮烈な青臭さ。それらが渾然一体となって、俺の呼吸器系を強制的に再稼働させた。
「……う、あ……」
喉の奥から、錆びついた蝶番がきしむような音が漏れた。
自分の声だ。
しかし、その音は、俺が記憶している「工藤聡」の声よりも、少しだけピッチが高く、そしてクリアに響いた気がした。
俺は、重い瞼を持ち上げようと試みた。
眼球を覆う皮膚が、やけに重い。まるで、長い間使われていなかった機械部品が、固まったグリスに阻まれているようだ。
眼輪筋に意識を集中させ、信号を送る。
開け。起動しろ。ディスプレイを表示させろ。
ズズ……と、視界の幕が上がる。
瞬間、網膜を刺したのは、暴力的なまでの「光」と「色」だった。
白い蛍光灯の無機質な明滅ではない。
もっと根源的で、圧倒的な光量を持つ光源。
それが、幾重にも重なる半透明の緑色のフィルターを通して、優しく、しかし確かな熱量を持って降り注いでいた。
木漏れ日だ。
俺の脳内データベースが、その現象に該当する単語を検索し、ヒットさせた。
風に揺れる梢。葉と葉の隙間からこぼれ落ちる太陽光が、視界の中で不規則な乱舞を繰り広げている。
チンダル現象によって可視化された光の粒子が、空気中を漂う塵や胞子を照らし出し、幻想的な光の柱を作り出していた。
――ここは、どこだ?
思考処理が追いつかない。
俺はオフィスの床で倒れたはずだ。
ならばここは病院か? いや、病院にしては空調管理がされていない。
頬に触れる空気は生暖かく、少し湿気を含んでいる。時折、風が通り抜けるたびに、肌の産毛が粟立つような生々しい触覚があった。
背中の感触もおかしい。
硬いタイルの床でも、病院のベッドのシーツでもない。
ゴツゴツとした不快な硬さと、柔らかいクッション性が混在している。
指先を動かしてみる。
湿った苔の感触。指の腹に絡みつく、細い草の茎。そして、爪の間に潜り込む土の粒子。
俺はゆっくりと、時間をかけて上体を起こそうとした。
腹筋に力を入れる。
意外なほど軽く、身体が持ち上がった。
七年間、デスクワークで凝り固まり、猫背に固定されていた背骨が、滑らかに伸展する。関節の節々から鳴るクリック音さえも、どこか軽やかだった。
視界が広がる。
目の前に広がっていたのは、深い、深い森だった。
見上げるような巨木が林立している。その幹は、大人が三人で手を繋いでも届かないほど太く、樹皮は幾重もの年輪を感じさせる深い溝を刻んでいた。
足元にはシダ植物のような草が生い茂り、所々に見たこともない毒々しい色のキノコが群生している。
「……夢、か」
俺は呆然と呟いた。
あまりにもリアルすぎる夢だ。
あるいは、死後の世界か。過労死した社畜が行き着く先が、天国でも地獄でもなく、こんな手つかずの原生林だというのは、なんとも皮肉が効いている。Wi-Fiも飛んでいなさそうだ。
だが。
俺が「夢だ」と断定しきれない理由が、一つだけあった。
あまりにも異質で、この牧歌的な自然の風景の中に決して存在するはずのない「それ」が、視界の全面に張り付いていたからだ。
グリッド線。
Excelの、あの薄い灰色の格子模様だ。
それが、空にも、木々にも、地面にも、視界の全てにオーバーレイ表示されていた。
幻覚だと思った。
あまりにもExcelを見すぎて、網膜に焼き付いてしまった残像だと。
俺は何度も瞬きをした。
手で目を擦った。涙が滲むほど強く、眼球を圧迫した。
しかし、グリッド線は消えなかった。
それどころか、俺が視点を動かすと、その動きに追従してグリッドも移動した。
いや、違う。
移動しているのではない。
この世界そのものが、この格子によって区切られているのだ。
俺は震える手で、目の前にあった手頃な石ころに視線を向けた。
握り拳ほどの大きさの、苔むした灰色の石。
俺がその石を凝視した、その瞬間。
ピッ。
脳内で、セルを選択した時の効果音が鳴った気がした。
石の周囲が、太い緑色の枠線で囲まれたのだ。
さらに、視界の上部――ちょうど額のあたりに、半透明の白い帯が出現した。
そこには、見慣れた「fx」の文字と、入力フォーム。
数式バーだ。
俺の心拍数が跳ね上がる。
ドクン、ドクン、ドクン。
現実と非現実の境界線が溶解し、脳の処理能力(CPU使用率)が100%に張り付く。
数式バーの中に、文字が浮かび上がっていた。
俺が思考したわけではない。
石を認識した瞬間に、自動的にプロパティが読み込まれたかのように。
`ただの石`
あまりにも簡潔で、そっけない文字列。
俺は恐怖と好奇心が入り混じった奇妙な感情に突き動かされ、恐る恐る右手を伸ばした。
その緑色の枠線で囲まれた石に、指先で触れる。
冷たく、ざらついた感触。
物理的なフィードバックは確かにある。
だが、触れた瞬間、視界の右側に新たなウィンドウがポップアップした。
「セルの書式設定」ではない。「プロパティ」ウィンドウだ。
----------------------------------
[オブジェクト名]: item_stone_small
[Value]: ただの石
[Type]: 物質(無機物)
[Weight]: 0.35 kg
[Hardness]: 15
[Mana]: 0
----------------------------------
「……なんだよ、これ……」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
AR(拡張現実)グラス?
いや、そんなものを装着している感覚はない。裸眼だ。
それとも、俺の脳みそがいよいよバグって、現実世界をExcelとして解釈し始めたのか?
俺は慌てて視線を逸らし、自分の手を見た。
両手を開いて、目の前にかざす。
ピッ。
自分の手が、緑色の枠で囲まれる。
数式バーの表示が変わる。
`工藤聡(Lv.1)`
レベル1。
RPGのような表記に、俺は思わず脱力した。
だが、そこには違和感があった。
通常、ゲームのステータス画面なら、HPやMP、攻撃力といった数値が並ぶはずだ。
しかし、俺の視界に見えているのは、あくまで「表計算ソフト」のインターフェースだった。
視界の上部には、A、B、C……という列番号が空の彼方まで続いている。
視界の左端には、1、2、3……という行番号が地面の底まで続いている。
俺が座り込んでいるこの場所は、どうやら `AC4520` あたりのセルらしい。
風が吹き、頭上の枝が揺れた。
パラパラと落ちてきた一枚の枯れ葉が、俺の膝の上に舞い落ちる。
その動きさえも、俺の目には「セルからセルへのデータの移動」として映った。
`AC4518` のセルにあった `枯れ葉` というデータが、重力という関数に従って `AC4519` を経由し、俺の膝がある `AC4520` にペーストされた。
俺は膝の上の枯れ葉を摘み上げた。
パリ、と乾いた音がする。
数式バーの表示が変わる。
`枯れ葉`
俺はその葉を睨みつけ、無意識のうちに――かつて何万回と繰り返してきた動作として――「右クリック」の感覚をイメージした。
マウスはない。
だが、意識の中で「右クリック」と念じた瞬間。
フワッ。
枯れ葉の横に、コンテキストメニューが空中に浮かび上がった。
[切り取り]
[コピー]
[貼り付けのオプション]
[数式と値のクリア]
[削除]
[セルの書式設定...]
...
息を呑む。
心臓の音が、耳元で警鐘のように鳴り響く。
もし、これが幻覚でなければ。
もし、このメニューが、俺の知っている機能と同じ働きをするならば。
俺は震える意識のカーソルを、[削除] の項目に合わせてみた。
そして、決定(左クリック)を念じる。
[セルの削除] ダイアログが出る。
「上方向にシフト」が選択されている。
俺はそのまま [OK] を押した。
シュンッ。
音がしたわけではない。
ただ、世界の一部が「消滅」した。
俺の指先にあったはずの枯れ葉が、塵一つ残さず、忽然と姿を消したのだ。
後には、何もない空間と、少しだけひんやりとした風が残っただけ。
燃えたわけでも、風に飛ばされたわけでもない。
データとして、削除されたのだ。
「……う、そだろ」
俺は自分の手を見つめた。
枯れ葉を摘んでいた指の形そのままで、そこにはもう何もない。
背筋に、冷たい汗が伝うのを感じた。
これは夢ではない。
ましてや、ただの幻覚でもない。
俺は今、この世界の「編集権限」を持っているのかもしれない。
だが、その強大な事実を飲み込むよりも先に、俺の身体はある生理的な警告信号を発していた。
極度の緊張と混乱、そして再起動したばかりの脳のオーバーヒート。
そして何より、腹の底から湧き上がる、強烈な飢餓感。
グゥゥゥゥゥ……。
間の抜けた音が、静寂な森に響き渡った。
セルの削除はできても、空腹というパラメータは削除できないらしい。
俺はよろめきながら立ち上がった。
まずは状況把握だ。そして、水と食料の確保。
社畜時代に培った「トラブル発生時の初動対応マニュアル」が、混乱する思考の片隅で冷静に指示を出していた。
俺は、視界いっぱいに広がるグリッド線の向こう側、鬱蒼とした森の奥へと一歩を踏み出した。
セル `AC4521` へと。




