第12話:#VALUE!の迷宮 〜インクの染みと転記ミス〜
カウンターの跳ね上げ式の扉をくぐり、俺は「あちら側」へと足を踏み入れた。
そこは、空気が違った。
表のホールの熱気や酒の匂いは遮断され、代わりに鼻を突くのは、酸化したインクの鉄臭さと、古びた紙の酸っぱい匂い。そして、過労死寸前の人間が発する特有の、澱んだ二酸化炭素の濃度。
デスク(といっても粗末な長机だ)の上には、未処理の書類が地層のように積み重なっている。
インク壺が倒れた跡、食べかけの乾パン、誰かが引きちぎった髪の毛。
ここは戦場だ。
モンスターのいない、しかし精神を確実に削り取る、終わりのない戦場。
「こ、こちらです! これが問題の『納税報告書』です!」
エリーナが俺を部屋の奥にある大きな机へと案内した。
そこには、百科事典ほどの厚みがある、革表紙の巨大な帳簿が広げられていた。
ページは黄ばみ、無数の数字がびっしりと手書きで埋め尽くされている。
「状況を説明します」
エリーナが震える指で帳簿を示した。
「今月のギルドの総売上(モンスター素材の売却益+依頼手数料)と、経費(報酬支払い+運営費)を差し引いた純利益。その20%を国に納めるんですが……」
「計算が合わない?」
「はい……何度計算しても、金庫にある現金の額と、帳簿上の利益から算出した納税額が合わないんです。その差額、金貨150枚分」
金貨150枚。
カイルが入国税で払ってくれたのが銀貨2枚(金貨の数十分の一の価値だろう)だったことを考えると、とんでもない巨額だ。
横領を疑われてもおかしくないレベルの使途不明金。
「監査官が明日来るんです。それまでに原因を見つけて修正しないと、支部長の首が飛びます。私たちも連帯責任で……」
エリーナの目が死んでいる。
俺は腕まくりをした(破れた袖が邪魔だが)。
「なるほど。典型的な『不整合』ですね。見せてもらいましょう」
俺は帳簿の前に立った。
カイルたちは、カウンターの外から心配そうにこちらを覗き込んでいる。
俺は帳簿のページに手をかざした。
`オブジェクト選択: アルタ・ノヴァ支部_月次決算書.book`
`[Pages]: 240 pages`
`[Rows]: Approx. 12,000`
一万二千行の手書きデータ。
これを電卓なしで、手計算とそろばんで検算していたのか?
狂気の沙汰だ。人間がやっていい作業量じゃない。
俺はスキルを発動させた。
`[データ] タブ` → `[画像からデータを取得 (Data from Picture)]`。
現代のExcelにも搭載されている、画像を解析して表データに変換するOCR機能。
俺の視界から、緑色のレーザースキャン(のような光)が照射されるイメージ。
シュウィィィン……。
俺の網膜上で、手書きの汚い数字たちが次々とデジタルデータとして認識されていく。
「7」なのか「1」なのか判別しにくい癖字も、文脈(前後の行の傾向)から自動補正して読み取る。
数秒で、俺の脳内ワークシートに、一万二千行のデータが展開された。
A列:日付
B列:項目名
C列:入金額
D列:出金額
E列:摘要
さて、ここからがデバッグだ。
まずは合計値の確認。
`SUM(C:C)` (入金合計)と `SUM(D:D)` (出金合計)。
脳内で計算。
入金計:85,420,500 G(ゴールド換算)
出金計:62,100,000 G
帳簿上の利益:23,320,500 G
本来あるべき納税額(20%):4,664,100 G
エリーナたちが弾き出した計算結果を見る。
納税予定額:4,814,100 G。
差額:150,000 G(金貨15枚……いや、この世界のレートだと金貨1枚=10,000Gか。つまり金貨15枚分)。
……あれ?
エリーナは「金貨150枚分」と言っていた。
桁が違う。
俺はもう一度、エリーナに聞いた。
「差額は金貨150枚と言いましたね?」
「は、はい! 150万ゴールドの不足です!」
俺の脳内計算では、差額は15万ゴールド(金貨15枚)。
つまり、彼女たちの手計算自体も間違っているが、それ以前に「0」が一つ多いエラーが含まれている可能性がある。
俺は `条件付き書式` を発動した。
ルール:`[重複する値]` ではなく、`[桁数の異常]` を探す。
あるいは、特定のパターン、例えば `150000` という数値に関連する入力ミス。
脳内のスプレッドシートをスクロールする。
高速で流れる数字の羅列。
エリーナたちには、俺がただ帳簿をパラパラとめくっているようにしか見えないだろう。
ピタッ。
俺の手が、78ページ目で止まった。
脳内のシートで、1行だけ、背景色が赤くハイライトされたセルがあった。
日付:10月15日
項目:ワイバーンの皮(希少種)買取
出金額:1,650,000
摘要:冒険者パーティ『紅の牙』への報酬
ここだ。
俺はこの行を指差した。
「エリーナさん。この『ワイバーンの皮』の買取記録。165万ゴールドと書いてありますが……これ、正しいですか?」
エリーナが目をしばたたかせて覗き込む。
「え? ワイバーンの皮……相場は1枚15万〜16万ゴールドです。希少種だとしても、少し高いですが……」
「桁を見てください。これ、本来は『165,000(16万5千)』と書くべきところを、ゼロを一つ多く書いて『1,650,000(165万)』にしてませんか?」
エリーナがハッとして、計算盤を弾き直す。
そして、青ざめた顔で倉庫係の書いた伝票(元データ)を探し出した。
「あ……ああああっ!! 伝票は『165,000』になってます! 台帳に転記する時に、誰かがゼロを多く……!!」
単純な転記ミス(Transcription Error)。
だが、手書き会計において、これは致命傷になり得る。
165万 - 16万5千 = 148万5千ゴールドのズレ。
残りの1万5千ゴールドのズレは、細かい計算ミスの累積だろう。
「原因はこれです。出金額が実際より148万5千ゴールド多く計上されていた。だから、帳簿上の利益が減り、逆に現金は(払っていないので)多く残っているように見えた」
俺は赤ペン(がないので近くにあった赤いインクの羽ペン)を取り、帳簿の数字に二重線を引き、訂正印の代わりに自分の拇印を押したくなる衝動を抑えて、修正値を書き込んだ。
「これで、金貨約150枚分の『消えた金』は見つかりましたよ」
カラン……。
エリーナの手から羽ペンが滑り落ちた。
彼女はへなへなと座り込み、そして。
「う、うわあああああん!!」
号泣した。
安堵と、脱力と、三日間の不眠不休が報われた感情の爆発。
周囲の受付嬢たちも、ワラワラと集まってきて、帳簿を覗き込み、そして次々と泣き崩れた。
「あった……金があった……!」
「首が繋がった……!」
「これで家に帰れる……!」
地獄絵図から一転、歓喜の阿鼻叫喚へ。
俺は汚れた指先をハンカチ(はないので袖)で拭った。
その時。
奥の扉――「支部長室」と書かれた重厚な扉が、バンッ! と開かれた。
「騒がしいぞ! 何事だ!」
現れたのは、身長二メートル近い巨漢。
白髪交じりの短髪、顔には古傷、そして丸太のような腕。
どう見ても現役を引退した伝説の戦士、といった風貌の男だ。
彼がこのギルドの支部長、ガントだろう。
だが、その強面とは裏腹に、彼のステータスには哀愁が漂っていた。
`ガント(ギルドマスター)`
`[Level]: 65` (戦闘力は最強クラス)
`[Skill]: 剣聖技, 威圧, ...`
`[Weakness]: 計算, 細かい文字, 監査官`
`[State]: 胃痛 (Severity: High)`
ガントは、泣き崩れる部下たちと、その中心に立つ見知らぬスーツの男(俺)を見て、目を丸くした。
「エリーナ、どうした? まさか、金が見つからず発狂したか?」
「ち、違いますマスター! 見つかりました! この方が、この工藤さんが、一瞬で見つけてくれたんです!」
エリーナが涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げ、俺を指差した。
「……なに?」
ガントの鋭い視線が俺に向けられる。
物理的な威圧感がすごい。レベル65の眼光は、肌がチリチリするほどの殺気を帯びている。
だが、俺は動じなかった。
なぜなら、彼の頭上に `[Weakness]: 計算` と表示されている限り、この場の支配者は俺だからだ。
「初めまして、ギルドマスター。通りすがりの事務員、工藤聡です」
俺は優雅に一礼した。
「帳簿のミスは修正しました。ですが、これは氷山の一角です。このギルドの業務プロセスは、あまりに前時代的で非効率だ。放置すれば、早晩また同じミスが起きるでしょう」
俺は畳み掛けた。
「俺を雇いませんか? このギルドの『経営改善コンサルタント』……いえ、ただの事務員として。俺なら、この山積みの書類をすべて処理し、あなたの胃痛を治して差し上げられますよ」
ガントは口を半開きにして俺を見下ろした。
そして、帳簿の修正箇所と、部下たちの安堵した顔を交互に見て、大きな溜息をついた。
「……計算ができるのか?」
「Excel(卓越した)レベルで」
「……字は読めるか?」
「あらゆる悪筆を解読できます」
「……給料はいくらだ?」
来た。条件交渉だ。
俺は心の中で電卓を弾いた。
宿代、食費、カイルへの借金、そして将来のための貯蓄。
「歩合制でどうでしょう。処理した書類の枚数と、削減した経費の10%。それに、ギルドの裏にある空き部屋を一つ、住み込みで貸してください」
ガントはニヤリと笑った。
その顔は、戦士の顔に戻っていた。
「いい度胸だ。小僧、いや工藤と言ったな。採用だ。今すぐその山を片付けろ。もし明日までに終わらせたら、ボーナスも弾んでやる」
`[Quest Update]: デスマーチからの脱出`
`[Objective]: 残りの書類4,500枚を処理する`
`[Reward]: 正規雇用 + ボーナス`
俺はネクタイ(はないので襟)を締め直した。
「承知しました。では、始めましょうか」
俺は振り返り、カウンターの外にいるカイルたちに声をかけた。
「カイルさん、すみません。少し残業していくことになりました。宿はここで確保できたので、借金は後で必ず」
カイルは呆れて開いた口が塞がらないようだったが、やがて肩をすくめて笑った。
「たくましい奴だな、アンタ。……じゃあな、また明日顔を出すよ」
こうして、俺の異世界での最初の夜は、宿屋のベッドではなく、インクと紙の匂いが染み付いたギルドの執務室で、徹夜の「データ入力作業」と共に更けていくことになった。
俺の目は、深夜三時のオフィスの時と同じように、怪しく輝き始めていた。
さあ、仕事の時間だ。




