ハルとオクスタシア
「はぁ……。どうやら、聞いてしまったみたいですね」
目の前に立つオクスタシアさんが、深い溜息を吐き出した。 その瞳にはいつもの余裕はなく、見つかったことへの戸惑いと、どこか諦めたような色が混ざり合っている。
「ど、どういうことなんですか。今の話……成功したとか、記憶を失ってるとか……!」
僕は震える声を絞り出し、彼を問い詰めた。 物陰から飛び出した僕の心臓は、まだ早鐘のように打っている。
「困りましたね……。残念ですが、詳しいことをあなたに話すつもりはありません」
「ちゃんと話してください! エンマのことなんだから! 何か隠していることがあるんでしょう!」
僕の必死の訴えに、オクスタシアさんは固く唇を閉ざし、沈黙を貫いた。 その沈黙が、僕の疑念をさらに加速させる。
「話さないのは、やっぱりやましいことがあるからなんじゃないんですか? オクスタシアさん、エンマに何かやったんじゃないですか…」
「違う…」
オクスタシアさんは即座に否定したけれど、その声はどこか力なく響いた。 今の不気味な密談を聞いてしまった以上、どうしても彼が何か恐ろしい策略を巡らせているようにしか見えない。 ……とにかく、エンマに伝えなきゃ。
僕が踵を返そうとしたその時、背後にいたはずのえみおばあさんが、驚くべき速さで僕の行く手を塞いだ。
「まあ落ち着きなさい、ハル……。オクスタシアは話さないんじゃない。話したくても“話せないんじゃよ”」
「話せない……? どういうことですか」
僕は足を止め、おばあさんの顔を見上げた。 彼女の穏やかだった瞳には、今までに見たことのない深い哀しみが宿っていた。
「私から詳しく説明しましょう。まず最初に言っておきますが、私やえみさんのような、千年前からオクスタシアに関わった者たちは皆――記憶が、酷く曖昧になっているのです」
オクスタシアさんが静かに言葉を引き継いだ。
「記憶が、曖昧……?」
「そうじゃ。記憶の一部を単に忘れたというより、思いだそうとすると頭の中に霧がかかったように真っ白になって、思考がうまく回らなくなる……という感じかのう」
えみおばあさんが、自分のこめかみを押さえながら苦しげに呟く。
「そして、その断片を他人に話すこともできない。今ここでこうして話せている内容が、限界なのですよ」
オクスタシアさんの表情に、偽りがあるようには見えなかった。 けれど、そんな催眠術か魔法のようなことが、現実にあり得るのだろうか。
「今、ハル君はそんなのあり得ないと思っているでしょう。その通り、通常の術では不可能です。……ただ一つ、地獄の理を超えた力を使えば、話は別ですがね」
「ただ一つ……?」
オクスタシアさんが見据える先にあるもの。 僕は必死に考えを巡らせたけれど、答えには辿り着かなかった。
「それは――この無間地獄の最上階に位置している『願いの間』ですよ」
願いの間。 それは、この果てしない地獄を踏破した者が、たった一つだけどんな願いも叶えられると言い伝えられている場所。 けれど、それが今の話とどう繋がるのか、僕にはさっぱり分からなかった。
「納得できていないようですね」
「だって、願いの間に辿り着いたのは、今のところエンマだけなんでしょ……? なのに、どうしてエンマに関わっているオクスタシアさんたちの記憶が失われているのか、わけがわからないよ」
「そうですね……。しかし、可能性は一つだけ残っている。それは――“エンマ自身が、自ら望んで記憶を改変した”ということです」
オクスタシアさんの口から出た言葉は、あまりに突飛で、僕はたじろぐことしかできなかった。
「エンマは千年前……『自分の記憶を消すためにこの無間地獄を踏破する』という目標を立てていました。それは、かつてエンマ本人が実際に口にしていたことなのです」
到底、信じられる話ではない。 けれど、これまでの旅路でエンマが見せてきた、不自然なほどの記憶の欠落。 自分の名前さえ忘れていた彼女の様子を思い返すと、そのパズルのピースは、恐ろしいほど正確に噛み合ってしまった。
「な、なんで……なんでわざわざ、そんなことを……!」
僕の震える問いに、オクスタシアさんはひどく困ったような、悲痛な顔をした。
「……うまく、思い出せないのです。確かに理由をエンマから聞いたはずなのに、その核心に触れようとすると、意識が遠のいてしまう」
「わしも全く同じじゃ。ある日突然、大切なはずの記憶を、何一つ思い出せなくなってしまった……」
えみおばあさんの溜息が、雪の中に溶けて消える。
「私たちが言えるのは、ここまでです。どうですか、満足しましたか?」
そう言われても、納得なんてできるはずがない。 結局、エンマが何を目的としているのか、その根本は闇の中のままだ。 それに、そもそもこの二人が言っていることが真実だという保証さえない。
……願いの間というのは、人の記憶を、それも他人の認識まで変えてしまうほど、何でも叶えられる場所なのだろうか。
「まあ、今日聞いたことは――絶対に、エンマには言わないとここで約束してほしい」
オクスタシアさんが、僕の肩に手を置いて、鋭い眼差しで見つめてきた。
「えっ……。どうして、隠さなきゃいけないんですか?」
「……エンマは、自分から望んで記憶を消したのです。それを無理やり思い出させるというのは、彼女にとって、あまりに酷なことかもしれない。それが彼女の“願い”だったのなら、尚更ですよ」
オクスタシアさんの言葉は、重く僕の胸にのしかかった。 もし、エンマが耐え難い苦しみから逃れるために、あえて全てを忘れる道を選んだのだとしたら……。 それを暴き立てることが、彼女にとっての救いになるとは限らない。
僕は固く握った拳を見つめ、静かに、けれど重い沈黙を飲み込んだ。
とりあえず僕はもとにいた客室へと向かっていた。
扉を開けるとエンマが笑顔で出迎えた。その笑顔からさっきの記憶を消したかんぬんの話が信じられなかった。
「おかえり、少し遅くなかった?」
「まぁ、いろいろとあったから。そうだエンマ、カレーって知ってる?」
「え、何。どうしたの急に」
なんか大変そうなことになりましたね。話が説明口調っぽくなっててちゃんと伝わっているか少し不安です。




