表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冥界の太陽たち 冥界から四人の王子が復活する時、災いの蟲が来て世界は崩壊する。そしてゲームは始まっていた!  作者: あべ舞野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

冥界の太陽たち 第三話 上  糸杉の町 キルヒェガルテン

銀の髪の少年との邂逅 

そして ピドーの母の死が語られる

冥界の太陽たち 第三話  上

      (ノルデン)州 糸杉の町 キルヒェガルテン


 蒸気を吐きだしながらバスが進む。車中泊を挟む行程だった。ようやく目指す町の標識が現れた。

「背中が痛ぇ」

 うんざりとピドーが呻いた。隣はずっと空席だった。二人席を一人で占領だ。寝転がれただけマシだったが、あちこちの筋肉が悲鳴を上げた。前の席にはルプレヒトとシュペトレーゼがいる。彼らの様子は分からない。

 周囲の地面は枯れた黄色だ。替わり映えのない景色が続く。

「まだかよ」

 建物はなかなか姿を現さない。近くに迫るゾンバルト連山は褶曲(しゅうきょく)作用で作られたそうだ。北から吹き付ける風は山で遮られる。雲は水分をすっかり落としてから山を越える。だから乾いた風ばかりが吹き付けるのだ。荒れたこの地はそのせいだ。

 やがて糸杉の森が現れた。それを横目に土の道路を進む。土埃の中に町の姿が見えた。とたんにピドーは座席から飛び上がった。

「見えたっ!」

 その動きに驚いたのか、通路を挟んで座る若い男が目を丸くする。ベージュの丸い帽子は斜めにずれている。脱いで顏を仰いだ。乱れた赤い髪がのぞく。櫛を胸ポケットから出してていねいに撫でつけた。ピドーと目が合うと、目を細くしてほほ笑んだ。また帽子を深くかぶり直す。

「ども」

 ピドーは軽く頭を下げた。静かに、と前の席からルプレヒトが呟いた。低い声だ。殆どひとり言のようだった。言っても無駄だが取りあえず口にした、という感じだ。目の下には隈があった。座ったままの車中泊は少しこたえたらしい。体が休まらないだけではない。不眠不休で警戒しているのだ。精神的にもきついだろう。

 出発した時は満席だったが、今は二割ほど空席だ。殆どの客は目を閉じて揺れに任せている。話す声も聞こえない。時折、運転手の鼻歌がエンジン音の合間に漂うばかりだ。カーラジオは雑音ばかりで、夕べから切られたままだった。

 ピドーはルプレヒトに比べて格段に元気だ。背もたれに腕をかけて前の座席に乗り出す。

「黒カマキリ、町だぞ」

「...分かっている」

 ルプレヒトは露骨に眉をひそめ、ガラスに頭を押しつけるように避けた。ピドーはにやりと笑った。

「お疲れだな?」

「ああ!」

 眉間の皺が一層深くなったようだ。

「お前はとにかくうるさい! 少しはじっとできないのか」

 車体が一度大きく跳ねた。それからは平らな道だ。揺れは少なくなった。町に入ったのだ。通路側のシュペトレーゼは深く腰をかけてはいるが、肘かけによりかかるような体勢だった。振動に合せて体が揺れる。それでも俯いたまま動かない。

「お坊ちゃんはお休みか」

 ついに運転手から大声が飛んだ。

「お客さん、ちゃんと座ってな! まもなくキルヒェガルテン!」

 先ほどの男が横目でピドーを見る。弟でも見るような眼つきだ。しかしルプレヒトはそうはいかない。

「お前だ。座れ!」

 ぴしっとピドーの手を叩いた。

「分かってるよ」

 ピドーは素直に席に戻った。

 道路の左右に建物が増えて来た。ロータリーに入る。ぐるりと車体が回った。煉瓦作りのバス停兼小さな待合所がある。キルヒェガルテン到着だ。大きな車体の後方にいた黒い乗用車がバスロータリーの反対側に停まった。誰かを迎えにでも来たのだろうか。誰も降りない。しばらくして発車した。

 一方バスの運転席横のドアが開く。運転手の注意にも関わらず、ピドーはもう立ちあがっていた。体を斜めにして踊るように車内を進む。

「お疲れ!」

 運転手に声をかけ、真っ先に下りる。地面に足をつけるなり滑った。

「おっと」

 道路は砂だらけだ。

 太陽は中天を過ぎていた。空全体がくすんだ水色だ。かすみがかかっているようだ。強い風が吹き抜けた。黄色の土埃が舞い上がって体に吹き付ける。

「暑い!」

 ピドーが叫ぶ。最北部の町から来た身には『暖かい』を通り越した気温らしい。頭の包帯はまだ取れていない。小さなカバンを片手に上着を肩にかけ、Tシャツ一枚だ。

 この季節にはまだ早い服装なのだろう。通行人が数人振り返った。一緒に下りた数人は、もうどこかへ向かっていなくなっていた。停車場のある場所は目抜き通りらしい。人通りはあるものの、そんな格好をしているのは彼だけだ。殆どの人は薄い上着を羽織っている。

 運転手は降りるヴィプリンガーに目礼した。バスはさらに南を目指して出発だ。

 ソフィアからほぼまっすぐに南下した場所だった。(ズューデン)州との境界が近い。ゾンバルト連山の麓に広がる平野に築かれた町だ。

 バスが去って行く。先ほどの小さな車がロータリーに戻った。今度は停車した。二人の男性を下ろしてゆっくり発車した。彼らはすぐに街角に立ち去る。ルプレヒトがそれを目で追っていた。

 大通り以外は殆ど舗装されていないようだ。黄色っぽい砂ぼこりが全体的に町を覆っている。平たい屋根の小さな家が道路沿いに並び、庭には花をつけた木々が植えられている。風よけだろうか。その間に紐を渡して洗濯物が干してあるのも、寒冷地のソフィアには無い習慣だ。

「へええ~古い家がいっぱいある!」

 ピドーには珍しい光景ばかりだ。ソフィアは新しい町で古い建物自体が殆どない。ここには古い民家がたくさんある。ここでもきょろきょろしながら歩いている。ラドクリフほど車は走っていない。たまに馬車がのんびり過ぎるだけだ。

「大きな声を出すんじゃない。恥ずかしい」

 傍らのルプレヒトがたしなめる。それに顔をしかめた。

「そっちの格好の方がおかしいだろ?」

 相変わらず黒づくめの彼は涼しい顔だ。

「私は普通だ。お前が変だ」

「そんなに暑くないと思うけど...」

 遠慮がちに言ったシュペトレーゼもジャケットを羽織っている。

「だから! 何でてめーらが付いて来るんだよ! ラドクリフに戻るんじゃなかったのか」

「うーん...」

 シュペトレーゼは困った笑顔だ。

「長距離バスに乗りたかったのかぁ!」

「そうだね。堪能したよ」

「そりゃ良かった。じゃあサヨナラ」

 ピドーは二人に背を向けた。ジャックからもらったメモを手にする。住所しか書いていない。きょろきょろと周囲を見渡すが、案内板などはない。あまり人の往来がない場所なのだろう。来訪者には不便だ。通り過ぎて来た森は町はずれだ。

「高い山がないと、変な感じだな」

 連山はそれなりの高さはある。だがノイエ山脈ほどではない。ピドーにしてみれば物足りないらしい。

 また風が吹く。空気は常に埃を巻き上げ、かき混ぜる。ピドーは何度めかのくしゃみをした。目を細めて森を見る。

「なんであそこだけ糸杉ばっかりなんだろうな? 防風林か?」

 温暖な地域にはふさわしくない木だ。実際に町の中には糸杉は一本もない。シュペトレーゼが答えた。

「この地域のしきたりというか、古い慣習のせいだよ」

「へえ」

 興味なさげに相槌を打つ。もう話を聞いていないようだ。さらにきょろきょろしていると、道路を渡って憲兵が歩いて来た。濃紺の制服は地元の警察機構だ。彼はまっすぐにピドーの元にやって来た。

「あの」

 道を聞こうとするのを遮る。

「観光?」

「まあね」

「その包帯、どうしたの?」

「どうでもいいだろ」

「見せて」

 彼はいきなり包帯の下に指をつっこんだ。中をのぞいている。

「あ、本当に怪我しているみたいだね。ちょっと失礼するよ」

 いきなりピドーの髪を掴んで揺する。あまりに唐突すぎた。きょとんと見開いた瞳をしげしげと覗き込んだ。

「違うねえ。じゃあ」

 片手を上げ、何事もなかったように立ち去ろうとする。

「待てコラァ!」

 背中に飛び蹴りしようとするのを、すんでのところでルプレヒトが止めた。

「放せ黒カマキリ!」

「全くもう...余計な騒ぎを起こすな!」

 暴れるのを後ろから羽交い締めだ。頭一つは違う。体格が違いすぎる。ピドーには歯が立たない。じたばたと暴れる。

 怪訝そうな警官にシュペトレーゼが尋ねた。

「何があったんですか?」

「ああ。ほら、あれだよ」

 彼が示したのは、街角の壁に貼られたポスターだった。栄養食品や飲み物の宣伝ばかりだ。ラドクリフのようなアジテーションの内容はない。その間に埋もれるように字ばかりの『探しています』の張り紙がある。ピドーを引きずったままルプレヒトが見に来た。

「放せってば」

 少しは落ち着いたようだ。ピドーはルプレヒトの腕を払った。並ぶ文字に首をかしげる。

「尋ね人? ティーガ?」

 殲滅(せんめつ)された一族の名前だ。

『ティーガ族の方を見かけたら、すぐに南軍、あるいは西軍の関連部署までご連絡下さい。保護が目的です。決して攻撃など加えないようお願い申し上げます。所在をお知らせ下さった方には謝礼金の用意があります。彼らの特徴は銀色の髪と瞳で...』

 ルプレヒトも眉をひそめた。

「生存者は公式にはいないはず」

 憲兵が言った。

「目撃情報があったようでね。生き残りがいたって不思議じゃないさ。どうやらチビさんらしい」

 チビじゃねえし、とピドーが呟いた。しかし見慣れない三人連れの中で十代はピドーだけだ。それで髪と瞳をチェックされたのだろう。

「おかしくね? ここ、まだ(ノルデン)だろう? なのに西南軍のポスターだ。それにティーガ族の保護? 殲滅したくせに?」

 (ノルデン)州はシェレンス公勢力下のはずだ。しかし、ポスターは西南バロー軍から出されている。またグリンクラフトは北事変でティーガ族を虐殺したのに、生き残りを保護するというのも妙だ。

 警官は肩をすくめた。

「さあ。でも(ズューデン)州が近いからねえ。バロー軍から攻撃も無かったし。西(ヴェステン)州との関係が深いんだよ。ところであんたら旅行かい? こんな田舎に」

「うん。親父の知り合いを訪ねて来たんだ」

 一応ね、と言いながら警官は三人の身分証明書を求めた。表情に緊迫感は無い。この地域は、本当に事件が少ないのかもしれない。

 それじゃあ、と今度こそ警官は立ち去った。

「あっ、道を聞かなかった」

「ぼんやりだな」

 シュペトレーゼが商店の前にいた。ウインドウをじっと見ている。靴や服を扱っている店だ。

「何?」

「何でもないよ」

 彼はすぐに目を逸らした。

 ドアが開いた。短い髪の女性が出て来る。まだ若い。店の前で警官の職務質問を受けていた三人組の男がいる。気になって当然だろう。しかし彼女は人懐っこく笑った。

「こんにちは。何かお探し?」

「うん。知り合いの家を探しているんだ」

「えーと」

 さし出されたメモに目を落とす。ドアは開いたままだ。ピドーは店内をのぞいた。派手な色のスカートやブラウスが並んでいる。壁際の棚にはバッグもあった。ごく普通の洋品店だ。

(シュペトレーゼは何を見てた?)

 彼の興味を引きそうなものは店の奥にあった。ウインドウに面した壁だ。

 四枚の写真が並んでいる。四つ切りのサイズだ。それぞれ丸く金色に縁取られている。

(ロイヤルファミリーじゃないか)

 現国王夫妻ディーターとテレジアだ。胸から上の肖像だった。二人の左右には、一人ずつ子供の全身像が飾ってある。

 左は緑色のドレスの少女だ。まだ五、六歳だろう。金色の巻き毛が愛らしい。

 右は少し古びた印象の画像だ。十二、三歳ほどか。燕尾服に襟章をつけた少年だ。耳の下まで栗色の巻き毛が伸びている。目も頬も丸い。まだ幼さが残る。

 ピドーの視線に気がついた店員が同じ方向を見た。

「なあに?」

「あれ国王一家だよな? この辺りじゃ普通に飾るもんなのか?」

 店員は頷いた。

「そうよ」

「ずいぶんと西(ヴェステン)州よりの習慣なんだな」

 シェレンスはディーターの即位に反対の立場だ。まだ(ノルデン)州なのに現国王の肖像があるのは違和感がある。しかし女性は頷いた。

「あらそう? 西(ヴェステン)州の事はよく知らないけど。ここからもう少し」 

 と、南方面を示す。

「川を越えたらもう(ズューデン)州でしょ? バロー伯爵の出身地なのよ。地縁や血縁をそれは大事になさる方だから、ここも攻撃を受けていないの。それで西南軍に悪い感情を持っている人なんていないわ」

 先ほどの警官とほぼ同じ事を言う。戦場にならなかったのは軍事的にメリットが無いだけだ。だが攻撃を受けていないのは事実だ。

「そうなんだ」

 故郷を追われたピドーは少し複雑な気分だ。しかしそれは出さずに肖像を指した。敢えて古い画像なのが気になる。

「左の端っこは内親王殿下だよな。右端のお子様は誰?」

「えっ、嫌ねえ。ハンス・ヨアヒム・フォン・グリンクラフト王太子殿下じゃないの」

 今は亡き長兄アーノルドの息子にして現王太子だ。この町では常識らしい。今年で二十三才になるはずだ。

「昔のだよね。今の写真は無いのかな?」

「公開していないのよ。テロや誘拐の標的になるのを防ぐ為よ。王太子殿下といえばこの写真よね。見た事がないの?」

「無いなあ」

 現国王の写真でさえ、ソフィアではもちろんラドクリフでも見た覚えがない。王太子ならなおさらだ。

 シュペトレーゼはそっぽを向いている。髪は写真の栗色とは違う。見事な金色だ。

 メモの場所を教えてもらった。店の前を離れる。ピドーは歩き始めた。足元で黄色い土ぼこりが舞いあがる。当然のように二人が後を追った。

「まだ着いて来るのかよ」

 シュペトレーゼの顔はいつもにもまして白かった。

「うん。ティーガの神話に詳しいという人に会ってみたいんだ。君のお父さんが誰かに言っているのを聞いた」

「盗み聞きしたな」

「そうなるのかな」

 ちょっとばつの悪い顔になった。

「もちろん、後で謝罪したうえで誰なのか聞いたよ。でも、どうしても教えてくれなかった。だから付いて来るしかなかったんだよ」

 ピドーの南行きは秘密ではないものの同行する羽目になってしまった。一人でも大丈夫なのに、と思う。ピドーはまたきょろきょろした。すっと斜め向かいを指す。

「あっ、あれは!」

 シュペトレーゼがつられて横を向いた。その瞬間、ピドーは脱兎のごとく走り出した。

 だが。

「古い手だ」

 ルプレヒトは素早くピドーの襟首を捕まえた。まるで子猫扱いだ。彼の示す方向は最初から見ていない。

「放せコラァ」

「余計な真似をするなと言っているのに」 

 ピドーは手足をばたばたさせた。

「見ろよ、あそこ! 本当に誰かいるだろうが、ボケ!」

 すっ、と人影が動いた。少し離れた角だ。もう姿は見えない。

「なるべく離れないように」

 と言うなりピドーがルプレヒトの腕をかいくぐった。一瞬だけ気を取られた隙だった。

「待てぇ!」

 人影の消えた方向へ向かう。ぶんぶんと鞄を振り回している。

「ああ...」

 ルプレヒトは眉間を押さえた。状況が呑みこめずに茫然としているシュペトレーゼに手招きする。

「追いますよ」

「う、うん」

 足を踏み出そうとして、体がぐらついた。がくんと膝が折れる。ルプレヒトはそのまま地面に崩れ落ちて行く。声もない。

「ルプレヒト!」

 あわててシュペトレーゼが駆け寄る。ルプレヒトは放り出されたぬいぐるみのように転がっていた。

「どうしたの?」

 返事はない。頬は色を失っていた。鼻に頬を寄せて呼吸を確認する。片手で頭を支えて、うっすら開いたまぶたを片手で押し上げた。左右の瞳はばらばらの方向で留っている。脈も確認した。やや遅いようだが規則正しい。生体反応自体に異常はなさそうだ。それには少しだけほっとする。

「しっかりして!」

 頬を軽く叩く。反応は全くなかった。

 通りすがりの婦人が足を停めた。散歩中らしい。白い犬が不審げに鼻をうごめかした。婦人の足元で尻尾をピンと立てる。動くおもちゃではないと言いたげに、ちっぽけな牙をむき出す。

「あら? 具合でも悪いの?」

「はい、急に...」

 ハンカチを出して、そっと頭を横たえる。ルプレヒトの体中から力は抜けたままだった。

「あなた方はどちらの方なの? お宅にご連絡しましょうか」

「いいえ、僕らは旅行者です」

「あら! それは困ったわね。お医者さんに運びましょう」

 婦人はきょろきょろした。数メートル先の角から数人の男性が覗いている。

「車を呼ばないとね。えーと、あの人達に頼もうかしらね」

「申し訳ありませんが、お願いできれば」

 やはり外来者には親切な土地柄のようだ。彼女は犬を引き、急いで数歩歩き始める。

 びく、とルプレヒトの体が跳ねた。頬に朱が走る。まるでスイッチが入ったようだった。まぶたがぱっと上がる。彼は息を大きく吸い込んで跳ね起きた。

「ルプレヒト!」

 シュペトレーゼの声に婦人が振り返る。犬は頭を低く下げて激しく吠えた。婦人が戻って来た。

「気がついたのね。どう?」

 シュペトレーゼはルプレヒトの肩を押さえて無理やり座らせた。

「大丈夫? 失神したようだけど」

「平気です」

 彼はこめかみを押さえて首を振った。大きく息を吐いた。周囲を見渡す。婦人に気が付くと、ゆっくり立ちあがった。

「お気づかいに感謝します。少しめまいがしただけです。ご心配なく」

「本当に?」

「はい。いつもですから。薬も持参しております」

 なおも医者行きを勧める彼女を慇懃無礼に断る。彼女が立ち去ってからルプレヒトは首を振った。先ほどの男たちの姿も消えた。

「本当に大丈夫です」

「だって急に失神したんだよ? 気分は? 持病があるなんて知らなかったよ。薬はどこ? 水なしでも飲めるかな」

「持病はありません。そうでも言わないと、あのおせっかいなご婦人は行ってくれなかったでしょう。だからあのように言ったまで」

「えっ、あの親切なご婦人をだましたの?」

「お互いの時間を無駄に使わない為です」

 彼はまたこめかみを押さえた。

「...倒れた時にちょっと打ったようですが...たいした事はないでしょう。それよりも、とても妙な感じが...。まるで何かに引っ張られたようで」

 失神したのを自分でも認めたくないらしい。

「あくまでも感覚なんですが...。自分の体から意識が抜けて...それから...風景を俯瞰で見下ろしていたんです。あなたが私を支えて、ハンカチを」

 落ちていたままの布を拾って軽く払う。シュペトレーゼに渡した。また首をひねる。

「気絶したはずなのに夢を見たなんて...。それにひどくリアルでした。気が付いたら移動していました。私の前にフードをかぶった子供がいて、一緒に走って...違うな、引っ張られて...どういったらいいのか...。青い花が咲いている生垣の横を抜けて...珍しい色だなと...おかしいな、やっぱり夢なんだろうな...」

 自分に言い聞かせているようだった。失神したと思われる間、彼はずっと子供の後ろ姿を見ていた。そちらは動いている。でも自分は走ったり歩いたりした感覚は全くない。それなのに同時に移動している。

「...最後は体に落ちたんだ、自分の体に、ドスンと。衝撃も感じたのに...」

 ひとり言のようだった。

 彼は大きく伸びてから屈伸をした。不安げに寄せられた眉間のしわは無くなり、いつもの無表情に戻る。

「行きましょう」

 仕切り直しだ。

「でも...」

「行きます」

 身を屈めた。道路には薄く積もった砂にうっすらと足跡が残っていた。ルプレヒトはそれを注意深く見つめた。しばらくは追えたが、すぐに複数の跡に紛れて分からなくなってしまった。

 通行人そのものがあまりいない。先ほどの夫人と同じような犬と散歩中の人物とすれ違う程度だ。ルプレヒトはその度に頭に包帯をした少年の行方を尋ねた。しかし明確な答えは返ってこない。

 シュペトレーゼも少し不安そうだ。辺りを伺いながら助手の後から歩を進める。

 何度か角を曲がった時、ルプレヒトは足を停めた。さすがに少し汗ばんできたようだ。額をこすった。手が宙に浮いたままで固まった。

「ルプレヒト?」

 シュペトレーゼが怪訝そうな声をかける。

 黒服の男は茫然と生垣を眺めていた。緑の蔦が木で組まれた柵を這い、青い花が咲き乱れている。

「私はこれを...」

 彼は言葉を飲み込んだ。夢か幻か。しかし確かに記憶にある。子供は右へ曲がった。そこからは分からない。彼は自身の肉体へ落ちるように戻ったからだ。ため息を一つ。

「あの動物...ピドーを放っておきたいところです。訪問先をエフェレット氏が教えてくれたら良かったのに」

 ソフィアの施設でジャックは少し好戦的な感じだった。襲撃を受けたばかりだし息子も怪我をしていたせいか。だがルプレヒトの毒舌のせいもある。息子との同行を妨害しなかっただけでも良かったのかもしれない。

(私もまだまだ未熟という事か。さてどうする...)

 眉間をこする。

 背後でシュペトレーゼが小さく叫んだ。

「あ。あれを」

 上空を見ている。

「あなたまで何を」

 振り返った。空には張り巡らされた電線がある。その一つが光った。火花が散り、柱を伝う。破裂するような音が響いた。電流の光が地面に落ちる。爆発となり、小さな炎と土煙を上げた。

「離れないで下さい」

 再び念を押す。

 他の電線からも、光のさく裂が数回続いた。

「事故かな?」

 のんびり屋のシュペトレーゼの表情にも、さすがに緊張感が走る。

「わかりません」

 それを背中にかばいながら、そちらへ角に近づいた。上着の下に手を入れる。すぐにでも銃を抜ける体勢だ。火花の散った一帯に近づく。近所の家からも数人が通りに出ていた。不安げに現場を眺めている。電線が切れて地面に垂れていた。ちち、と焦げる音もする。電柱の根元の地面は焦げていた。ただの事故には見えない。数本が一気に放電したのだ。

 住人同士が話している。

「雷かと思ったのよ! バーンって音がしてラジオが切れちゃったの!」

「あら、ウチも停電! 電力会社へ連絡しなくっちゃ」

 野次馬の顔ぶれにピドーはいない。

「...何があった...?」

 遠巻きにしている住人たちを尻目にルプレヒトは電柱に近づいた。電線に触れないようにしながら、辺りを注意深く見渡す。

 そこは路地だった。家に挟まれた狭い空間は壁で行き止まりだ。雨どいを見る。黄色の砂ぼこりにまみれていた。だがきれいに落ちている箇所がある。指のようだ。触ったばかりらしい。

「ここを乗り越えたのか...。とにかくピドーを探しましょう」

 どこかで話声も聞こえる。ごく普通の生活が送られている場所のようだ。内戦とも無縁らしい。突然の停電にも緊迫感は希薄だ。

「ピドーを心配しているんだね」

 またも、どこかのんびりしたシュペトレーゼの口調だ。ルプレヒトは眉間のしわをまたこする。

「内戦中ですよ。しかもここは(ズューデン)州に近いんです。何があるか分からないでしょう? ピドー・エフェレットはただの子供にすぎませんが、私の目の届く範囲で万が一という結果を避けたいんです。それだけです」

「優しいんだね」

 どこまでも物事を良い方へ取ろうとする彼だった。

 軽い疲労感をおぼえる。ルプレヒトは軽く息を吐いた。膝をついて地面の足跡を確認する。黄色い砂がうっすら積もっている処についた跡は、つま先部分の方がはっきりしている。急いだらしい。サイズは小さい。ルプレヒトが靴を合わせてみると三分の二ほどの大きさしかない。ピドーはもっと大きいだろう。

 雨どいの手の跡もかなり小さかった。

「子供ですね」

「そうみたいだね。誰を探しているの?」

「...分かりません」

 二人は首をひねった。

 住民の間からざわめきが起こった。同じ方向を見ている。指さす方向に赤い光が沸き起こっていた。燃えるような赤だ。明らかに炎ではない。ドームのような球体だ。

 シュペトレーゼが軽く悲鳴を上げた。

「ルプレヒト! あれは」

「何でしょうか。行ってみます」

 シュペトレーゼは固い表情で頷いた。唇に当てた拳が震えている。



 一方のピドー。早々に人影を見失った。適当にあちこちを走り回る。当然ながら迷子になった。どこにいるのかさっぱりわからない。どちらを向いても似たような光景だ。戻るに戻れない。

「う~ん...。ま、いっか」

 狭い町だ。そのうち目的地に着けるだろう。のんびりと歩き始めた。

 ちょうど建物が途切れた場所だ。糸杉の森が近い。かなり町の中心から離れたようだ。涼しい風が砂を巻き上げた。むき出しの腕が寒い。西の空がだんだんと赤く染まってきた。上着を羽織る。

「嫌な色だな」

 不意に背中に圧迫感を覚えた。見られている。また『東の赤』がいるような気がした。

「このっ...」

 振り返ると、子供が立っていた。ピドーの肩より小さそうだ。

 フードをすっぽりとかぶり、顔は見えない。大人物の服なのか。上着は膝あたりまであるし、だぶだぶだ。白茶けて元の色が分からない。腕をまっすぐ伸ばして、ようやくポケットに手を突っ込んでいる。明らかにサイズの大きな靴は、あちこちがほつれて砂で真っ白だ。靴下ははいていない。足首は乾燥と汚れでがさがさだ。

「俺に用か?」

 聞いても何も答えなかった。ただ立っているだけだ。おそるおそる近寄る。フードに手を伸ばす。めくろうとした瞬間、子供が払いのけた。古ぼけた蝋細工の棒のような細さと色の指だ。ほこりと砂まみれだった。フードの下から顔がのぞく。

 ぼさぼさの長い髪は汚れているものの銀色だ。丸い瞳と幼さの残る頬は少女と見まごうばかりの容貌だった。薄汚れていても何よりも印象的だったのは、ピドーを射抜かんばかりに見つめている瞳だ。銀色の中に緑や青がちりばめられている。まるでホワイトオパールだ。初めて見る色だった。ついまじまじと見てしまう。

 不意に火花が目の前に散った。ピドーの前に広がったのは黒い光が渦巻く空間だ。少年が背負った光だ。自分もまた、あの赤い光の中にいるのを感じる。赤と黒の光が対峙する。

『足りない!』

 と『東の赤』が叫ぶ。だが声は遠くて途切れがちだ。

『...司祭と...。...が無い! あと十三日だ!』

 幻影は始まりと同じく不意に終わる。光と同時に少年も消えていた。ピドーは尻もちをついていた。動悸がしている。ゆっくり立ち上がって服のほこりをはらった。

「なんだぁ? 司祭...? 今度は何が足りないんだ? 一度に言えっての」

 少年は幻覚ではなかった。手首には叩かれた感触が残っている。冷たくて硬かった。

「ピドー!」

 おなじみになってしまった声だ。ルプレヒトが駆けて来た。表情が険しい。

「今の光は?」

「おー黒カマキリ。久しぶり」

「ふざけるな! 何があったんだ? 大きな赤い光が見えた」

「あんたも?」

「そうだ、だから来た。...赤いものと黒い霧のような...煙幕...ではないな...電気か?」

 周囲に煙やにおいなど火薬による爆破を思わせる物は残っていない。

「ピドー、怪我はない?」

 シュペトレーゼは青ざめていた。色を失った唇がわなないている。

「お前の方が具合悪そうだよ」

「大丈夫、ありがとう」

 ルプレヒトは腕を組んだ。声が低い。黒い瞳が怒りで燃えていた。

「私たちをまこうとしたな。何を企んでいる?」

「一緒にハイキングって仲でもないだろう?」

「軽口を叩くのをやめろ。誰と会った? 何があった? 無事だったのは運が良かっただけかもしれないんだぞ」

 ピドーを正面から見据える。

「何か事が起これば、私は迷わずシュペトレーゼを守る。君は自分で自分を守らなければならないんだ。無謀な真似はやめろ」

「だから何も無かったし。えーと」

 ピドーは鼻をこすった。向けられた怒りに戸惑っているようだ。ちらっとルプレヒトを見上げる。

「もしかして心配してくれてんの?」

「冗談じゃない。私が君を追いかけたのは、尋ね人の住所を知っているのが君だけだからだ! それさえ教えてくれたら君がどうしようと知った事ではない」

 シュペトレーゼが穏やかに割って入った。少し落ち着いたようだ。

「今の言葉、ルプレヒトは本気じゃないよ。君を心配しているんだ。無事で良かった」

「平気に決まってんだろ」

「本当に良かった。ルプレヒトはさっき昏倒したし、気候が違うのも良くないのかな」

「倒れていません!」

 ルプレヒトの口調は厳しかった。けれど彼なりの心配の仕方なのだろう、とシュペトレーゼだけではなくピドーも思った。年上の二人が気遣ってくれている。ちょっと照れくさい。一度はそっぽを向いた。でも、まだシュペトレーゼが心配そうに見ている。目が会うと、まだ視線が不安げに泳いでいる。頬にはまだ色がない。

「お前は何をそんなに心配しているんだ?」

 シュペトレーゼは、一度開いた口を閉じた。本当なら黙っていたかったのかもしれない。けれど、言葉を押し出すように答えた。

「知っている人が死ぬのは嫌だ...」

「そりゃ誰だってそうだろう」

 幼い頃にピドーの母は亡くなった。そしてレイナーを失ったばかりだ。幼い頃からなにくれとなく面倒を見てくれた人だ。

「...うん。そうか...そうだよね...。だから...気を付けて欲しいんだ」

 彼は誰を亡くしたのか。口調は静かだったが、かえって彼の悲しみを示しているようだった。

「へいへい。わかった。せいぜい気をつけるよ。...俺はてっきり、お前が王太子かと思ってたんだけど...」

 だとすれば両親と幼い従弟を亡くしたうえに叔父が消息不明だ。

 シュペトレーゼは顔を伏せた。そしてゆっくり首を振る。

「僕は王太子じゃないよ」

「だなー。あの写真の子の方が可愛い。あれをどう育てても、お前にはならないな」

「そうだね」

 ほっとしたように微笑む。やっと少しだけシュペトレーゼの頬に色が戻った。

 三人はまた歩き始めた。さほど広くない町だ。何度か人に尋ねながら、目的地に着いたのはそれから間もなくだった。町は茜色に染まっている。

 二階建てで赤い屋根の可愛らしい造りだ。庭に白い砂利が敷かれている。ドアの前まで続いていた。植え込みにはパンジーが彩りを添えている。庭先の白いポストの名前を確かめた。

 ティッシュバンとあった。シュペトレーゼが目を丸くした。口に拳を当てる。背中を向けて息を吐いた。ルプレヒトが覗き込むと首を振る。

 玄関を見ているピドーは気が付かない。

「うん、ここだ。ハンナ・ティッシュバンさん」

 砂利を踏むと、甲高く鳴った。固い材質なのだろう。保安用なのか。普通の石よりも音が響く。呼び鈴を押した。反応はない。窓にカーテンが下がっているが明かりは点いている。停電を免れたようだ。ルプレヒトが目を周囲に配りながらついて来る。シュペトレーゼをしっかりとかばったままだ。

「本当に間違いないんだろうな?」

「うん。西の王宮で働いていた人で、母ちゃんの知り合い。爺ちゃんとも付き合いが長かったって」

 何度か呼び鈴を押す。中で響いているのも聞こえる。やはり誰も出ない。

「居留守かぁ?」

 裏手へ回ってみる。一つの部屋の窓が少し開いていた。

「あ、赤ん坊がいる」

 ピドーが鼻をこすった。

「おむつとミルクの匂いがする」

 カイがもっと小さかった頃、同じような匂いを嗅いだ記憶がある。ソフィアを出発する前にはハイケともども会えなかった。入院していたピドーはレイナーの葬式には出ていない。

 もっともどんな顔でハイケに会っていいのかはわからない。レイナーの首の行方を知っている、などとは言えない。自分が渡した石板のせいでカイは自宅へ戻った。レイナーは二人を追いかける事になり、土石流に巻き込まれたのである。それでも謝りたい。そうしなければならない、とピドーは思う。

「出直しましょうか」

 ルプレヒトが言った途端に窓がぴしゃりと閉まった。同時に二階の窓が開く。水が降って来た。ピドーはまともに頭から浴びてしまった。

「うわあ!」

「何をしているのかしら?」

 空のバケツを手にしているのは白髪の婦人だ。ウエーブのかかった髪が丸い顔を包んでいる。やや長い顔が羊を思わせる。

「てめー!」

 頭から水を滴らせているのはピドーだけだ。後の二人は素早く逃げていた。ルプレヒトの状況を把握する速さは、さすが軍人である。

 婦人はニッコリとブリキのバケツを掲げた。

「次はこれが行くわよ」

「あのな! 何度呼んでも返事しないくせに、いきなりこれかよ!」

 問答無用らしい。バケツが飛んできた。さすがにこれはよけた。石に当たって激しい音がする。

「...さすがに親父の知り合いだ...」

 窓から婦人は消えている。次は何が飛んで来るやら。あわててピドーは怒鳴った。

「ジャック・D・エフェレットから紹介されて来たんだ! 俺は息子のピドー!」

 しかし遅かった。今度浴びたのは熱湯だった。

「うわわわわ」

 跳ねまわるピドーに婦人がのんびりと言う。

「あら、そうなのね。ごきげんよう、ピシェッツリーフ。すっかり大きくなって。玄関に回ってちょうだいな」

 ぶつぶつ言うピドーをルプレヒトが引っ張る。玄関先に戻った。しばらく待たされた。やっとドアを開けてもらえた。婦人は片腕だけで赤ん坊を抱いている。肌の皺からするとかなりの年齢のようだ。だが背筋はぴんと伸びて声もつややかだ。

「私がハンナ・ティッシュバンよ。ジャックから電話をもらっているわ。久しぶりにお話しできて嬉しかったわ。先日は大変だったようね?」

「え? ああ...まあ...ども。ピドーでいいです」

 彼女は、口ごもるピドーをしげしげと見上げた。

「ピドー、私の孫と話がしたいんですって?」

「俺が来るのは分かってたんじゃねえか! それで水をぶっかける?」

「さっきも誰かがちょろちょろしていたのよ。このご時世よ、用心しなくてはねえ。それに三人とは聞いていなかったの。しかも裏庭からでしょう? お客様は正面から来るはずって思うじゃない? 早く名乗ってくれれば良かったのにねえ」

 ピドーの抗議などハンナはどこ吹く風だ。

「本当に大きくなったわねえ...。すっかり見違えたわ。いつもお姉さんの後を追いかけていたのにねえ...」

 ピドーの後ろにいる二人を見上げる。

「そちらのお二人は...」

 シュペトレーゼの指がすっと動いた。人差し指を唇に当てる。ピドーが振り返った時には手は体の脇に降りていた。そして軽く会釈する。

「初めまして、ハンナ・ティッシュバンさん。僕はシュペトレーゼ・シュルツ。ラドクリフ歴史研究所の職員です。こちらはルプレヒト・ヴィプリンガー。助手をしてくれています」

 と、ピドーは何度も聞いている自己紹介をする。声がわずかに震えた。

「ティーガの神話に詳しい方がいらっしゃるとジャック・ドッジソン・エフェレット氏から伺って、ぜひお会いしたいとぶしつけを承知でお邪魔しました」

 ハンナはかすかに眉を寄せた。視線が床に落ちる。またシュペトレーゼを見上げた時には静かな笑顔を浮かべていた。

「あらジーノチカったら人気者ね。まもなく来るとは思うのだけれど」

「停電は大丈夫だったんですね。...ドーム状の赤と黒のせいかと...」

 ハンナは上目遣いになった。じっとシュペトレーゼを見上げる。だが声の調子は変わらなかった。

「あらっ。停電? そうなの? 全然知らなかったわ。とにかく中へどうぞ」

 しかし、ピドーはすぐに止められた。

「ちょっと待って、ピドー。びしょ濡れじゃないの」

「誰のせいだよ!」

「着替えを出しましょう。孫の服が着られるかしら」

 さっとタオルをピドーに渡す。そしてびしっとバスルームの方向を示した。

「あちらへ。怪我は大丈夫?」

「バケツを投げておいてよく言うなあ...」

「あなたったら反射神経の良いこと」

 ハンナには何を言ってもするりと交わされる。

 ピドーは大人しくバスルームへ向かった。金色の足がついたバスタブには、水滴が付いていない。きれいに磨きあげられている。シャワーカーテンは真っ白だ。初対面の人の家でシャワーをするのは、さすがのピドーにもためらいがあった。下半身は少し濡れた程度だ。

 すぐにハンナが来た。

「あ、上だけでお願いします」

「はい、どうぞ」

 上だけ借りる事にした。ハンナはすぐに出て行った。肌着もシャツも大人のサイズだ。袖や胴周りは余る。丈も太ももの半ば辺りまであった。

 水の滴る包帯を外す。怪我をした部分の髪がざっくり切られている。縫った箇所に当てられたガーゼも濡れて気持ちが悪い。

「取っちゃえ」

 鏡に傷痕が映る。肉色の縫い目が盛り上がっていた。動きまわったせいなのか脈動の度に痛みと痺れが走る。

 リビングに戻った。濡れた服をバッグに押し込む。

 白とベージュを基調にした落ち着いた色合いの部屋だ。マントルピースの上には天使の像がある。抱えているのは文字盤だ。規則正しく矢の形の針が動く。隣には絵皿だ。花瓶には黄色の花が活けられていた。春らしい色だ。壁には小さな絵が何枚も掛かっている。森や湖を描いた風景画が多い。全体的に穏やかな雰囲気の部屋だ。

 窓際には木のへらがある。取っ手は丸く、下の部分は平たく幅が広い。船のオールに似た形で、全体の長さは成人男性の膝から地面ほどか。

「何これ」

「クリケットのバットよ」

 ボールを叩く道具である。

「やっているの?」

「ええ、叩くわよ」

 ローテーブルには、もうお茶のセットが並ぶ。湯気の立つカップを前にルプレヒトとシュペトレーゼがソファに座っていた。

 ソフィアの家を思い出す。ピドーは少しだけ唇を噛んだ。

「あらあら、そのままじゃダメよ」

 ハンナが立ち上がる。ピドーの頭を指さした。彼女は赤ん坊をひょいっとルプレヒトの膝に置いた。断る暇も与えない。

「抱っこしていてね」

「は、はあ」

 まだ首もすわっていない。どう扱っていいのかわからないらしい。全身に力が入った。

「お孫さんですか?」

「いいえ。孫たちはもうすっかり大人。その子は預かっているの。私が取り上げたのよ。可愛いでしょう」

「は、はあ...」

 ピドーは彼の隣に腰を下ろした。

「爆弾でも抱えてるみたいじゃないか」

 赤ん坊の頬をつつく。半分眠りかけていたのが、ゆっくりと目を開いた。まだあまり焦点の合っていないような瞳でピドーを見返す。豆のような指と、丸い腕がもにょもにょ動く。首と腕はまだ細い。ピドーは髪もまばらな頭を嗅いで喜んでいた。赤ん坊独特の匂いがする。カイを思い出させるのだ。

「小さいな。かわいー」

 顔がほころぶピドーとは違い、ルプレヒトの頬はひきつったままだ。

「...爆弾よりも怖いんですけど...」

 ヴィプリンガーの掌にすっぼり収まってしまうほどだ。

「男? 女? 生まれたて?」

「三ヶ月目の男の子よ。これから大きくなるの」

 ハンナは隣の部屋に行った。

 テーブルの上には写真が散らばっている。そのうちの一枚をピドーが取り上げた。煉瓦の壁が画面の隅に映っている。垣根には花が咲き、芝生の上で茶色の巻き毛の女性が笑っている。ピンクの小花が一面に咲いたワンピースを着ている。お腹のあたりがふんわりしたデザインだ。しがみつくように寄り添っているのは、やっと歩くようになったばかりのマリアだった。

「母ちゃん...!」

 シュペトレーゼが覗き込む。

「じゃあ、そっちはお姉さん?」

「だな。どこで撮ったんだろう?」

西(ヴェステン)州の私の家よ。その写真、よろしかったら差し上げるわよ」

 ハンナが戻った。白い箱を下げている。写真を少しどけてテーブルに置いた。薬箱だった。

「あなたは本当にお母さんに似ている事。この茶色の巻き毛もね。まだガーゼを当てておきましょう」

「もういいよ」

「だめだめ。ちゃんと治さないとね。ばい菌が入って皮膚が腐りでもしたら大変でしょう。ここだけ髪が生えないなんて事になったら、一生髪型に気を付けないとねえ。さあいい子にしましょうね」

 すっかり子供扱いだった。話をしながらも手際よく傷を消毒する。ガーゼを当て、慣れた手つきで包帯を巻いた。端を留めて終わりだ。

「ありがとう。お手間かけました」

「いいえ、慣れているのよ。私は看護士でもあるの。そう、その写真はね」

 と、さっきの一枚を示す。

「産休に入る前に挨拶に来てくれた時に撮ったの。あなたがお腹にいた頃ね」

 だから余裕のある服を着ている。母は春の日差しのような笑顔だ。

「へえ...マリアも可愛い時があったんだ...。なあ、見たか爺や」

「...もうカンベンしてください...」

 爺や呼ばわりされたのをルプレヒトは無視した。もう咎める気力もないらしい。上ずった声でハンナに頼む。赤ん坊がぐずり始めたのだ。膝の上で動かれて、もうどうやって抱いていればいいのか分からなくなったようだ。

 ハンナが赤ん坊を受け取るなり、彼は大きく息を吐いた。肩と首を回す。

「二十四時間、これですか...。女性は偉大だ...」

「あら、男も慣れるわよ。ジーノチカは...孫には連絡しておいたわ。来るとは言っていたのだけれど」

 シュペトレーゼは黙って赤ん坊を眺めていた。触れようとさえもしない。何かまがまがしい物でもあるかのような視線だった。

「どうした? おまえ、赤ちゃん嫌い?」

「...別に...。あ、そうだ。今、ピドーのお母さんはどうしているの?」

「亡くなった」

「...ごめん...知らなかった...」

 がっくりと肩が落ちる。ピドーは黙って彼の肩を叩いた。

「で、お婆さん」

 いきなりこれは失礼だ。当然のようにクッションが顔に命中した。

「あら、ごめんあそばせ」

「何すんだ。お姉さま?」

「よく聞こえないわねぇ」

 再びクッションが飛んでくる。怪我人が相手なので、一応気を使って柔らかい物で殴っているようだ。

「ティッシュバンさん...」

「ハンナでいいわよ」

「...ハンナさん。母ちゃんの先輩って聞いたんだけど」

「そう。私はグリンクラフト王家の乳母だったの。アーノルド様から下のお二人もお世話して差し上げたわ」

「へええ~」

 三兄弟が大きくなってからも、お世話係として王宮に残っていた。彼女のゆったりした雰囲気と看護婦の技術が役に立ったのだろう。

 マリアとピドーの母ロッタは侍女として働いていた。

「てきぱき動くし、気がつく人だったわ。教えなくても宮殿内をよく知っていたの」

 父のゴドーは王宮住まいだ。ロッタはそこで生まれ育った。

 ハンナは遠い眼つきになった。

「だから結婚してからも、ずっとお手伝いをしてもらったの。お子さんが生まれてからも」

「へえ...。でもさ、何で母ちゃんは死んだんだ?」

「お父様から聞いていないの?」

「内戦の少し前に亡くなった...とだけしか。誰もはっきり教えてくれないんだ。お葬式も記憶がない」

「...そう」

 ハンナは目を伏せた。白くなるほど強く指を組んだ。

「ジャックは...それを私に話せと言うのかしら?」

「...話したくなけりゃいいよ。親父に聞く。ここに来たのはティーガの神話を教えてもらう為だし」

 時計の針が動き続ける。

「そうね...いえ、いいわ。お話しましょう。ジャックが知らない事を話せるかもしれないわ。伝えるのは、知っているものの義務ね」

 彼女は顔を上げた。落ち着いた笑顔だ。指の止まらない微かな震えを感じさせない。感情をしっかり抑制できる女性のようだ。

「内戦の前ね。宮中で懐妊した女性がいたの。(ノルデン)州へ里帰りするからって、ロッタは同行してあげたのよ。情勢が不安定だったのでね。そこで...まあ事故に遭ってしまったようなものね」

「どんな事故なんだ?」

「...内戦がらみというか...もう情勢が不安定だったのよ」

 話すと決めたはずなのに、いきなり歯切れが悪くなった。

「俺たちはまだチビだったろう? それを置いてまで付いていったのか?」

「ええ...止めたのだけど...」

 赤ん坊が手足を動かす。小さな口をとがらせては時折かすかな声を出す。瞼は殆ど下がり、もう眠いようだ。ハンナの腕はずっと優しく赤ん坊を揺すっていた。

 窓の外では茜色が去った。夜の闇がガラスを覆い始めた。ピドーは写真を眺めたままだった。

「ハンナさん...ソフィアの話、聞いた?」

「ええ。出来る事があれば何でもするわ」

 ハンナは赤ん坊を抱いたまま立ち上がり、片手でカーテンを閉めた。明かりを灯す。

「...ありがとう。また...無くなった。写真も遺品も...全部...。母ちゃん、またいなくなっちまった...どうして北に行ったんだよ...」

 しょんぼりとするピドーのそばへ歩み寄る。隣のプルレヒトにしっしっと手を振る。彼をソファからどかせてピドーの隣に座った。

「ロッタは自分で行くと決めたの。本当に優しい人だったの。だからアナスタシアはとても彼女を頼りにしていた。ゴドーの...あなたのお爺さんね。その仕事の関係で外国人と交流する事も多かったみたいね。ご主人にジャックを選んだくらいだもの。習慣や見かけの違う人に構えた処がなかった」

「アナスタシア? って誰?」

 初めて聞く名前だ。

「本当に何も聞いていないのね」

「うん」

「そうかもしれない...。ええ、そうでしょう」

「何で?」

「何が起こったのかジャックは知らないからよ。...私も全ては...」

 皺だらけの手が優しくピドーの肩を撫でた。

「アナスタシア・リョードフ。彼女は当時のディーター殿下...今の国王の先生として来た方の娘さんなのよ。北事変の前の年よ」

 ちらりとシュペトレーゼを見る。彼は手にしたカップに目を落としたままだ。

「ティーガ族なの」

 内戦の前の年とティーガ族。ピドーはぐっと唇を噛んだ。ソフィア襲撃の日に、避難場所でレイナーが言いかけた言葉と同じだ。

 王家の三男ディーターは歴史と民俗学に興味を抱いていた。太陽神話を詳しく知る為にティーガ族の居住地ランデスヴァルトから研究者を招いたのだ。ギデオン・リョードフと娘のアナスタシアだ。父の世話をする為に同行したそうだ。

 だが習慣のまるで違う世界だ。アナスタシアの孤独や戸惑いは相当の物だっただろう。あまり人と交わろうとしなかった。仲良くなったのはロッタ一人だった。

「アナスタシアは妊娠したの。結婚していないから風当りが強かったようね。色々と言われたみたいで...。それに別の民族に嫁いだらティーガ族ではなくなるそうなの。反対する人も多かったし結婚はしなかっただろうけど...。子供が生まれたらややこしくなるし...」

「誰のお子様だよ?」

「分からないのよ」

 ルプレヒトが口を挟んだ。

「失礼。確かマクシミリアン陛下のお子様であると」

 王家の二男で前国王。急死した長男の跡を継いで当時は王位にあった。だがハンナはきっぱりと言い切った。

「ただの噂。そんな根も葉もない事を言わないでちょうだい」

「噂以上の話だったと記憶しておりますが。彼女のせいでマクシミリアン陛下の結婚話が流れたでしょう」

 即位したばかりのマクシミリアンには見合いの話が持ち上がっていた。相手は貴族の娘テレジアだ。宮廷の重臣バロー伯爵の姪である。

 だが縁談は成立しなかった。ルプレヒトの言う通りアナスタシアの存在があったからだとされている。

「悪意のある噂よ」

 いわゆるフェイクニュースと言いたいようだ。ハンナが少し眉を寄せた。だが穏やかな表情は崩さない。

「マックス陛下はまだご結婚の御意志が無かっただけなの」

 これを機に主にバロー伯の一派がティーガ族を排除する方向へ動いた。主に政治的な要因だ。曰くアナスタシアが王妃になる事で、少数民族であるティーガが勢力を持つ恐れがある、と。国内の紛争につながりかねないとの危惧だ。

「え、別にいいんじゃねえの? 少数民族と結婚したって。跡継ぎなら、ご長男アーノルド陛下の忘れ形見がいらっしゃるし。誰と結婚しようが問題ないじゃないか。そのアナスタシアに子供が生まれたとしても、男の子かどうか確率半分だ」

 ピドーの呟きに、ルプレヒトも頷いた。ハンナはまだ首を振る。

「だからアナスタシアの子供はマックス陛下のお子様ではないの。結局、彼女は故郷に帰る事にしたのよ」

「ああ...それで...付いて行ったんだ」

 ピドーの母ロッタが同道した。

「ええ。それでも結局テレジア様とマックス陛下のご結婚はなかったのだけれど」

「あれ? でもテレジアって? あのテレジア様?」

「そう。今の王妃様よ」

 見合い話が消えた直後、彼女はディーターと結婚した。そして間もなく男児が生まれる。マクシミリアンの甥だ。継承権を持つ子供の誕生だ。世間は祝賀ムードにあふれた。だが悲劇はすぐだった。子供は生後まもなく命を落とす。

「原因が分からないの。発表は病気なのだけど、事故だという噂だったわ」

 小さな棺に近づく事さえ許されなかった。納められた体には、すっぽりと布がかぶせられていた。

 ピドーが眉をひそめた。やはり遺体に面会させてもらえなかった件を思い出した。レイナーは首が無いままだ。そんな状態を見たら、家族はひどいショックを受けるだろう。

(...何を考えているんだ、俺は)

 ハンナの話は続く。

「話を戻しましょう。アナスタシアについて色々と困った噂が流れてしまったの。それでロッタは心配して、どうしても一緒に行くと。ジャックはもちろん反対したのよ。でも最後は承諾したの。ちょっと首都が情勢不安だったから。後からあなた達を連れて追いかけるつもりだったらしいわ」

 軍をすぐには退役できなかったようだ。父は兵器開発部門の責任者だったという。機密を扱っている機関ならなおさらだ。それで後からになったのだろう。

 ロッタを含めてアナスタシアに同行したのはわずかに三人。運転手と護衛の兵だけだ。

 ルプレヒトが口をはさんだ。

「なぜ護衛は少なかったのですか? マクシミリアン陛下の子供を身ごもったのなら、王族となる可能性があります」

 納得いかない様子だ。

「だからそれは嘘の噂だと言ったでしょう。招聘を受けていた者が故郷へ帰るだけなのよ。三人も付けたのは王宮の好意ね」

「もしや懐妊した事で追放されたのですか?」

 ヴィプリンガーはなかなか引かない。他民族の血を引く者が王宮に加わる事になる。抵抗感を覚える者が居たのかもしれない。けれどハンナは首を振った。

「だから違うのよ。彼女は自ら帰郷すると言ったわ」

 ハンナは腕の赤ん坊に目を落とす。閉じかけた瞳を何度も開けては、ぼうっと見返してくる。そっと、しかししっかりと抱きしめた。まだルプレヒトはあきらめない。

「身重なのにすぐに帰らなくてはならないほど、彼女は危険を感じていたのですか?」

「どうだったかしらね」

 ハンナは言葉を濁した。

「ではなぜ暗殺されたのですか。二人の随行者まで」

 ルプレヒトは責めるような口調だった。ピドーの体が硬直した。

「え...? 母ちゃん...殺されたって...?」

 全て初耳だ。

 静寂が訪れる。

 シュペトレーゼがカップを置いた。ソーサーと触れ合う音が、それだけでまるで雷のように響く。

 赤ん坊がぶう、と息を吐く。ハンナはまた抱きなおした。柔らかな頬を優しく撫でる。

 やがてシュペトレーゼが呻くように声を出した。

「ハンナ、もうやめましょう。全ては過去です。皆は遠くの世界に行ってしまったのだから」

「...ええ...」

「ちょっと待てよ!」

 ピドーが腰を浮かせた。テーブルを両手で叩く。ティーセットが震えた。

「俺はここにいるぜ。過去なんかじゃない。今だ! 教えてくれよ。何があった? 母ちゃんは? 親父はこの為にも、ここに行けって言ったんじゃないのか?」

 父が知らない何かをハンナが知っているのかもしれない。だからこそ、ここへの訪問をおぜん立てしたのではないか。

 ハンナはまだ腕の中の温もりをいつくしんでいる。背中を丸めてその子に話しかけた。

「ジーノチカは遅いわね」

 それから顔を上げた。眩しげに眼を細める。

「そうね、あなたの言う通りかもしれないわ。立派になったわね、ピドー」

 ハンナの声が少し高くなった。

「これから話す事は、伝聞になってしまうの。そのつもりで聞いてね」

 ピドーだけではなく、他の二人も頷いた。

「一行の中でたった一人、生き残った人がいるの。その人の報告よ」

 アナスタシア一行の四人は連邦の首都であり西(ヴェステン)州の州都クロイツベルクから列車で北へ出発した。終着駅はグレンツェという村だ。ホテルが一軒しかない。ひなびた場所だ。馬車や車が通れる道が整備されている北限でもある。ティーガの集落ランデスヴァルトはさらに奥地だ。険しい山道を徒歩で行くしかない。しかも半日はかかる。途中に宿はおろか、民家もない地域だ。一行はグレンツェのホテルに宿を取った。事件はそこで起きた。

 そこまでで一度ハンナが口をつぐんだ。

「それから?」

 ピドーが身を乗り出した。ハンナの肩に両手を置く。

「何があった? 母ちゃんは?」

「ピドー、ごめんなさいね。ちょっと...」

 少し頬が赤い。彼女はこめかみを押さえた。彼女にとっても辛い思い出のようだ。

 シュペトレーゼに腕を軽く突かれた。ピドーは小さく息を吐く。落ちるように椅子に戻った。

「ハンナ...知りたいんだ。俺の母ちゃんなんだから」

 まっすぐな瞳だ。ハンナはまた眩しげに目を瞬いた。さみしそうな笑顔を見せる。

「本当にロッタに似ているのね。...そうね...ちゃんと言わないとね...」

 ハンナは目を伏せた。少しの間、言葉を選んでいたのか沈黙になる。

「皆がすっかり寝静まった後だったと」

 女性と男性で別れた。隣会った部屋に宿泊だ。

「銃声が、して」

 言葉は途切れがちになった。

 侵入者が警護兵と運転手の部屋を襲った。撃ちあいになったようだ。続いて女性の部屋へ。二人とも数発の銃撃を受け、即死だったらしい。犯行後にすぐさま立ち去ったようだ。運転手だけが軽傷で済んだ。犯人は逃走した。手がかりはない。だが同じ晩に宿泊していた者がいなくなっている。

 捜査は形式的だった。運転手がアナスタシアとロッタの死亡確認をした。その直後に二人は荼毘に伏された。

「いなくなった奴らが犯人じゃないのか?」

「...おそらくね。でも宿泊名簿は偽名だったの」

 ルプレヒトが言った。

「確かティーガ族でしたね」

「詳しいのね」

「ええ。私はラドクリフ出身です。情報は色々と入りました。まだ士官学生でしたが、その事件が一連の出来事のきっかけですから」

 それから王宮の近くで爆破事件が頻発した。犯行声明は出なかったものの、噂が流れた。同郷の女性が暗殺されたのに抗議するティーガ一族の犯行だとするものだ。

「え? 矛盾してないか? 自分の一族を殺しておいて逆ギレ?」

 ルプレヒトが説明する。

「ティーガからすると濡れ衣だそうだ。一族の女性が孕まされた上に捨てられた。挙句に殺され、しかも自分達のせいにするのか、と」

 ティーガの一族から抗議の声が上がった。大挙して西へやって来る。ディーターとの面会を求めたが叶えられなかった。彼らは首都でデモを繰り返す。

「それであの法令が制定された」

 王宮が出した対応策は、ティーガ族の強制帰郷だ。少数民族の居住地から移動の自由を奪った。ランデスヴァルト以外に住む者は強制的に戻されたのだ。前後してマクシミリアンが消息不明になった。市中の視察にでかけたきり戻らない。

「王の失踪。目撃者が誰もいない。ティーガの仕業とも疑われた」

 既に殺されたと情報もあった。身柄の探索と、国家転覆を画策したとしてティーガ一族の集落に攻撃が加えられたのだった。誰がテロリストで誰がそうではないのか区別がつかない。それを理由に小さな子供に至るまでが粛清の対象になった。

「それが北事変だ」

 ピドーは黙って頷いた。学校でも必ず習う事件だ。

 ランデスヴァルトのティーガ族は全滅した。実行したのはバローともシェレンスとも言われている。

 その後もマクシミリアンは発見されていない。

 王位が空白になる。ディーターの即位を後押ししたのがバロー伯だ。だがシェレンス公はマクシミリアンの所在を確認するのが先だとしてバローと敵対した。そして内戦が始まったのだ。

「ごめんなさい、ピドー、ごめんなさい」

 ハンナの震えは大きくなった。

「私がもっと強く止めていれば...ロッタを北に行かせなければ...」

 ピドーはテーブルに肘をついていた。両方の手で顔を覆っている。やがて包帯ごと髪をかきむしった。ため息とともに顔を上げた時、彼は笑顔だった。

「話してくれてありがとう、ハンナさん。聞いてよかった...。母ちゃん、苦しまなかったんだな、うん。ちょっと、それ、心配だった。マリアにも教えてやらなくちゃ」

 ルプレヒトが乗り出した。

「待ってください」

 ソファの背もたれに手をつく。ハンナを覗き込んだ。

「逃げた狙撃者はどうなったのですか? まさか徒歩で立ち去ったのではないでしょう?」

「...どうかしら...分からないわ」

「運転手の証言はそれだけですか? 犯人を見たのでは? 彼だけ軽傷だとはおかしくないですか」

 生き残りの彼は事件の詳細を語っているのだ。意識はあったはずだ。

 ハンナは首を振った。

「さあ。私が知っているのはこれだけよ」

 ルプレヒトはあきらめなかった。

「グレンツェの周辺は険しい山岳地帯です。集落などありません。だとするとどこへ逃げたのでしょうか? 事件後、すぐにあの地域は封鎖されたはずです」

「本当にティーガ族ならさらに北へ向かったのかしら? そうとしか思えないのだけど」

「山越えですか...東へ抜けるか、さらに北へ?」

「分からないわ」

 捜査に当たった北軍によりグレンツェはすぐに通行の制限がされた。人の出入りはできなかった。

「運転手とは誰ですか?」

 単刀直入に尋ねられて、ハンナは口ごもった。少し迷っていたようだが、きっぱりと答える。

「運転手はグスタフ・ノイコム。ユリウス・フォン・フェリックスを知っているかしら? 彼の家の使用人よ」

 ピドーが叫んだ。

「ユリウスだと? やっぱり軍人だらけじゃねえか!」

 ユリウスは、現在は(ノルデン)州軍の所属だ。彼の関係者が暗殺現場にいた。ただ一人の生き残りとして。ルプレヒトはいつもにもまして硬い表情だ。

「ノイコムは今どこに?」

「知らないの」

 ルプレヒトは顎に手を当てた。腕組みをして考え込んでいる。

 またも時計の音ばかりが響いた。

 ハンナが立ち上がった。

「本当に遠くから来てもらったのに、ジーノチカったら遅いわね」

 なかなか孫は訪れない。ルプレヒトが頷いた。

「近くに宿はありますか? お孫さんがいらしたら連絡をいただければ」

 赤ん坊がいるのに、男が三人も泊ったのでは大変だろう。だがハンナはにっこりして首を振った。

「泊っていってね。賑やかになるし」

「じゃあ...」

 と言いかけたピドーの肩を、容赦なくルプレヒトの平手がこづいた。

「いいえ。いきなり押しかけたうえ、お世話になるわけには参りません。時間も遅いし、コイツと一緒に失礼いたします」

 ピドーをコイツ呼ばわりした以外は、言葉は丁寧だった。しかし有無を言わせない調子だ。何度か押し問答になったが、結局ハンナは頷いた。

「すっかりお茶が冷めてしまったわね。お代わりはいかが?」

 シュペトレーゼだけがすっとカップを差し出した。

「お願いします」

 ハンナは台所に立ち、お湯を沸かし直す。そこでお茶を注ぎ、お盆に乗せて運んできた。既にミルクが入っている。ピドーが横目でそれを見ていた。

     ツヅク!

お読みいただきありがとうございます。

三話目にして、やっとティーガの子が出てきました。


王家の人物をまとめてみます!

アーノルド    前々王。内戦前に逝去。妻は長男誕生後に死亡。

         長男 ハンス・ヨアヒム 現王太子

マクシミリアン  前王。内戦直前に失踪。

         妻・子とも無し。

ディーター    現王。マクシミリアン失踪後に即位。

         妻テレジアはマクシミリアンの元見合い相手。

         長男(名前不詳)は生後まもなく死亡

         長女あり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ