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冥界の太陽たち 冥界から四人の王子が復活する時、災いの蟲が来て世界は崩壊する。そしてゲームは始まっていた!  作者: あべ舞野


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第二話 谷間の集落 中

谷間の集落  (ノルデン)州 ソフィア

自らの無力を 怒りとともに思い知る

冥界の太陽たち  第二話  中       


「今頃はまだ雪なんだがなあ。いつもの年なら」

 事務室で作業中の父は、玄関に立つ息子を片手で追い払う。道は雨でぬかるんでいた。泥だらけの靴では家に入るな、というわけだ。

 外へ追い出されるなり、飛んで来たのはペン立てや書類ばさみだった。一番大きいのは椅子だ。さすがによけた。受け止められない。すると開いたままのドアから戸外へ見事な放物線を描いた。

「親父っ! 椅子っ! 泥がついた!」

「受け止めれば良かったのになあ」

 投げた本人が拾うはずもない。おかげで靴のみならず椅子の泥掃除までする羽目になった。もう日は暮れている。湿気を含んだ空気は冷たい。外での水仕事で指は真赤になった。

 椅子をリビングに運ぶ息子を横目に、父は涼しい表情だ。今日はもう体調は良さそうだ。フリルのついたピンクのエプロンをしている。マリアの物だ。もちろん胴回りが足りない。ナプキンよろしく首にぶら下がるだけだ。イモを手にしているのは、おそらく晩御飯だろう。

「きれいにすると心が清々しくなるだろう。良かったな」

「ああ、清々しくなりすぎて気分が悪いぞ、こん畜生! 人殺しの道具なんぞ作りくさって」

 殆ど八つ当たりの発言は、もちろん火薬の事だ。本来は香水を作る職人なのに、化学物質を取り扱うというだけの理由で軍事用品を作っている。戦争に加担しているのだ。

「ここを守る為だ。まだニトロは来てないよ。今日は火薬を試作した。マグネシウム粉を混ぜてみたんだ。アルミニウムは高いんで、ちょびっと」

「あぁ? なんで?」

 火薬に金属の粉末を混ぜると、炎に色がつく。マグネシウム入りは白くなる。花火が色鮮やかに燃えるのはこの為だ。だが武器には普通は色を付けない。

「いやー、すごく白く発光するだろう? 目くらましにはなるな」

「遊んでんのか」

「いやいや」

 ぶん、とイモが飛んで来た。煮られる前にピドーに投げられる予定だったらしい。受け止めるなり投げ返した。父の背中に当たる。しかし全く気にしない。

「食べ物を床に放るな。拾っておけよ」

「受け止めなかったのはそっちだろうがクソ親父!」

 玄関のベルが鳴った。事務室を通り、ドアを開ける。すっぽりとフードをかぶったイーブが右手を挙げた。黒い手甲を付けている。左手には袋を提げていた。

「ただいま。外にまで聞こえていたぞ。また親子でじゃれ合いか?」

「違う。いじめだ!」

 叫ぶ横を花瓶が通り過ぎた。のけぞって避ける。イーブがあわてて受け止めた。今日も中身入りだ。

「あーあ...。これから水門を開けに行くのに...」

 腕がびしょぬれだ。肩にかかった花を取り、足元に落ちたのも拾う。花瓶に戻し、袋と一緒にピドーに渡した。

「何だって男の子に花なんぞ渡さなくちゃならないんだか」

「俺だって欲しくない! クソ親父に文句を言え!」

 まずは花瓶を部屋に投げ込む。静かなのは、ジャックが上手く受け止めたからだろう。続いて袋をのぞいて首をかしげた。入っていたのは例の石板だった。

 イーブが石を指した。

「それをランドリーに忘れただろう? 届けてくれって言われたんだ」

「俺のじゃないよ」

「ふうん? じゃあ誰のだ?」

「自称学者のあいつらだよ。今は師団の施設に居るのか? ...マリアにでも頼んで返してもらうか...。何で俺のところに来たんだ?」

 カイが走って来た。両手鍋を小さな手でしっかり掴んでいる。ピドーが持っている石板に目を見張る。

「何それ? 武器?」

「そうだなー、これで黒カマキリの頭をゴツンと...」

 と、石をふりかざしてみる。

「こらこら、子供の前でやめろ」

 イーブが苦笑した。

「でも、それは何なんだ?」

「ティーガの遺跡から出土したんだってさ」

 カイが口をはさむ。

「大事なの?」

「学者にはお宝だろうな」

 鍋を受け取り、代わりに石板を持たせてやる。カイは興味津津の様子だ。線彫りをなぞったり、裏返して撫でまわしたりしている。

「宝物かぁ...」

 有線放送が唸った。

「...ヨンマル、ヨンマル、発電所ヨンマル...」

 機械的な声音だった。だが、一瞬にしてイーブとピドーの表情が変わる。二人は顔を見合わせた。

「訓練...?」

 ピドーが呟いた。

「いや。そんな話は聞いていない。...初めての本番だな」

「休戦中だぞ!」

「正式な停戦はしていない」

 緊張感がカイにも伝わったらしい。おずおずと後ずさりした。誰にともなく呟く。

「帰ろうかな...」

 返事の代わりに、ピドーが背中をポンと軽く叩いた。それがあいさつになった。カイは小さく頷くと、家の明かりを目指して一目散に駆けて行った。

「ピドー、後は親父さんの指示通りにしろ」

 イーブが暗闇に足を踏み出した。その背に声をかける。

「俺も行く」

「だめ。そいつを持ってどこへ行くって?」

 まだ鍋を抱えていた。ピドーがそれを事務室の机に置いた時には、ジャックが既に無線機の前に立っている。素早くヘッドホンを当ててキーを叩き始めた。マイクに怒鳴る。

「発電所緊急信号! 北端の近辺にいるソフィア師団兵及び自警団は両岸ヨンマルへ直ちに集合!」

 叩きつけるようにイヤホンを外す。ジャックは壁にかかっているジャケットを取った。

「ピドー、カイやハイケと一緒に移動しろ」

 声は有無を言わさない響きだ。ピドーは従うしかない。ヨンマルは敵対勢力の襲来を知らせる緊急の暗号だ。今まで発動された事は無かった。

「う、うん。でもさ、発電所でヨンマルっておかしくない? 裏手はすげー山ばっかだし、越えた所は(オステン)だろう? ここは火薬の生産量だってたかがしれてるのに、攻め込んでくる?」

 山越えをすれば海峡を渡らないでも進撃は可能である。だが(オステン)州は中立の立場だ。また辺境のソフィアに侵攻する軍事的な意味があるのか。

「いや、実はダイナマイトも作るよう依頼を受けた。いや、その話は後だ。それにヨンマルに間違いはない」

 逆にいえば、間違えて発信してはならないほど重要性が高い緊急の暗号がヨンマルである。

「イーブ! おい!」

 まだ見えている背中に呼びかけた。

「水門は後だ。自警団に合流してくれ。師団の連中もいるはずだ」

「了解」

 彼は駆けだした。

 ジャックは、イーブと一緒に行こうとするピドーの肩に手を置いた。

「だから留守を頼むって。レイナーは残るんだ。補佐をよろしく」

「でも! 俺だって」

 固く結ばれていた唇が一瞬だけ笑みを見せる。

「ピドー。カイやハイケを守るのだって立派な仕事だ。三十八号へ行け。無線を頼む」

 それじゃ、と小さな子供にするように手を振る。そして小雨の中を走り去った。

 ただ『集合』と声をかけるだけで、どこにどのように集まるのか訓練は行き届いている。それがピドーには面白くない。自分も一人前に戦えるのに、みそっかすにされている気分になってしまうのだ。

 上流の空が光った。

 どぉん。

 地響き。揺れる地面。

 次いで周囲が闇に包まれた。停電だ。

 暗闇。

 しかし、空の一部だけが赤い。湾曲している崖の向こうだ。燃えているならダムの周辺だ。作業小屋などがある。

「おい! ピドー! いるか?」

 懐中電灯がくるくる回りながら近づいて来る。レイナーだ。ピドーに手招きする。ハイケにおんぶされたカイもいた。母の背と胸の間からココちゃんの耳が垂れていた。大事なお友達をちゃんと連れてきたようだ。

「行くぞ」

「...うん」

 部屋に戻る暇はなさそうだ。ドアは半分開いたままだった。写真が貼ってある辺りの壁に母の遺髪もある。視線を巡らせても、事務室の無機質な壁があるだけ。温かい家族の部屋はその向こうだ。再び促されて懐中電灯の明かりを追った。

 雨が強くなってきた。上着はすっかり水がしみ通った。シャツが肌に張り付く。髪からひっきりなしに水が体に滴り落ちた。何度となく顔を拭ってもすぐにびしょぬれだ。ラベンダー畑を突っ切る。足元しか見えない。時々レイナーは周囲に光を巡らせては位置を確認した。同じような光の点があちこちに見える。避難してきた周囲の住民だ。

 ぬかるみに足を取られる。何度か膝をついてしまった。ピドーは唸る。

「こん畜生! 腹が立つ!」

 握った拳のぶつける所がない。自分の掌に叩きつける。水で滑り、鈍い音がするばかりだ。

西(ヴェステン)を脱出した時も、こんな感じだったんじゃないか。こそこそと暗がりにまぎれて、バロー軍の連中に見つからないようにって。ゴキブリか、俺たちは!」

 レイナーは何も言わない。泥を踏んで急ぐだけだ。

「何も悪い事なんかしちゃいない。なのに、どうして逃げ回らなくちゃならない? 火薬でもダイナマイトでも作ればいい、戦争が終わるなら」

 ハイケは硬い表情だ。母にすがりつくカイも黙っている。

「それでも足りないなら、もっと強い力が欲しい。何も失わなくて済む強さが欲しい!」

 持ち出せたのは、鞄一つに入るほどの荷物でしかなかった。十年前に住んでいた家がどうなったのか、イーブの家族は無事なのか。全く分からない。ソフィアも安住の地ではなかったのかという怒りがピドーの理性をマヒさせている。

 ごち、と懐中電灯がピドーの頭に当たった。表情は見えない。だがレイナーの息が荒くなっている。足元の悪さのせいばかりではないだろう。

「今は口じゃなくて足を動かしな」

「...あ」

 しかし、いつもの声音だ。ピドーの言葉を否定も肯定もしない。なだめられているのだ。それが分からないほど幼くはなかった。

 雨はひっきりなしに落ちてくる。レイナーの一発とともに、血が上ったピドーの頭を少しは冷やしてくれたようだ。西(ヴェステン)からの脱出で色々な物を失ったのはピドーだけではない。それを思い出す。

「へいへい」

 畑を抜ければ崖が目の前だ。避難場所はそこに穿った穴である。垂れさがった蔦をかき分けると鉄の扉がある。茶色に塗られているのはさびではなく、目くらましの色だ。のぞき窓は細長い。上部に付いている。内部から開閉できるふたが付いている。中から少し光が漏れた。ふたが閉じ、ドアが開いた。扉の枠の上に、同じ色のプレートがある。番号は『38』だ。

 細いトンネルの先は、天井が丸い。ドーム状の広場だ。アリの巣状に幾つかの横穴が掘られていた。上階へ向かう階段もある。床では小型の発電機が唸っている。内部には電線が張られて黄色い電球が下がっている。床はむき出しの土だが簡易ベッドや椅子が置かれていた。

 緊急放送を聞いた人々が避難していた。同じような避難所が崖沿いに幾つか作られている。この近隣にはあまり家がない為に集まっているのは十人程度だ。大人は崖に召集中だ。老人と子供が中心だった。

「お母さん!」

 背中から下りたばかりのカイが叫んだ。母の耳に口を寄せて何か言っている。ハイケがちらっとピドーを見た。小さく首を振っている。

「後で」

 と聞こえたようだ。

 レイナーが人数を確認している。そして横穴の一つへ行った。無線機のダイヤルを操作している。

「サンハチ、避難終了。全員無事。後は任せた」



 軍事拠点を数字で放送するのが緊急の合図だ。そこの近くに緊急事態が発生していると意味する。ヨンマルは第四十番倉庫を指す。そこは最も北に位置するソフィアの基地だった。

 近くにいた師団兵が集まって来た。戦車やバイクはライトを付けずに走行していた。かなり危険だが、狙い撃ちされるのを防ぐ為だ。発電所が燃えているのが幸いした。多少の灯りにはなる。彼らは崖下で乗り物を下りた。内部のトンネルへ次々と入る。階段が上部へと続く。途中のあちこちに横穴があって銃や弾薬が備蓄されていた。これらを手に取る。

 崖の頂上に近い部屋は広くなり、崖に面して銃眼が開けられている。今は厚い布で明かりがもれないように塞いである。

 無線機の前でクリストが膝をついている。対岸の三十九番と交信中だ。敵は四十番よりも上流の崖上に居るため、人数や武器の状況が見えないからだ。双眼鏡で敵の人数を確認する。あちらは煌々とライトをつけている。おかげで全貌はよく見えた。山道を運ぶのは大変だったはずだが、手りゅう弾を発射できるトルネードランチャーがあるようだ。発電所の爆発は集中砲火をくらったせいだろう。避難する人々を狙撃されなかったのは幸いだった。彼らのいる位置からはかなり遠かったおかげだろう。

 師団兵たちが上がって来た。支部長の階級章を付けているのがロルフ・バウマンだ。がっしりした体躯は息一つ乱れていない。ジャックに敬礼する。

「中尉殿、敵は何名ですか」

「少ない。確認できたのは数名程度だ。偵察か、本隊が奥にいるか...」

 それから顔をしかめた。

「ロルフ、中尉って呼ぶのはいい加減にやめろよ」

「こういう時だからいいじゃないですか」

 クリストが顔を上げた。

「サンハチ、サンナナの避難完了だとさ」

「サンキュウは?」

「終了だよ、中尉殿」

「クリストさんまで言いますか? じゃあ行くしかないですね」

「おう」

 ハイキングに出かけるような調子だ。だがすぐに緊張感が漂う。

 師団兵が壁際に行く。大きな塊からシートを外した。大砲が三基ある。それらを銃眼の窓の前に移動する。自警団はライフルを構えた。ジャックが無線機を耳に当てている。

「よし、準備完了だ」

 電気が消えた。窓の布を上げる。相手の明かりに照準を合わせる。

「行け!」

 大砲が火を噴いた。左右の崖から、同時に発射だ。

 洞窟の基地は、両岸に用意されていた。どちらから敵が来るかは分からない。そして増水した時など川を素早く渡れない。だからソフィアの軍事的な施設は、川沿いで向かい合っている。

 敵陣が乱れた。水平方向からの攻撃を想定していなかったらしい。

「連中を追うか。とりあえず追い払え。反撃してくるようなら撃て。迷うな」

 数人が出口に向かった。銃を携えている。

「深追いするなよ! 本隊がいるかどうかだけ確認しろ」

 増水しているため、川を渡るのは危険だ。対岸からの援軍は期待できない。本隊がいたら、さらなる攻撃の可能性がある。

「もう収まったのか? しばらく様子を見よう。避難者はまだ出ないように」

 崖の各部屋に無線連絡した後、ジャックはふと宙をにらんだ。

「どうしたんですか?」

 イーブが振り返った。

 ジャックは考え込んでいる。それにしても、と首をひねる。

「攻撃には人数が少なすぎるし、偵察隊にしては多すぎる。反撃を受けたからって、あっとういう間に撤退だ。しかも避難中の連中を狙わなかったのもおかしい」

 自分たちの明かりをつけたままだったのも、不用心だ。まるで標的にしてくれと言わんばかりだ。あるいは、すぐにでも撤退するつもりだったか。

「他に目的があると?」

「うん。まるで何かを待っていたような...。例えば発電所を破壊したのを見届けるだけとか」

 動力を奪ってしまえば武器の生産はできない。しかし、それなら違う疑問が残る。攻めて来たのはどこの組織なのか。またユリウスから火薬の増産とダイナマイト生産を打診されたのはつい先日だ。その情報が漏れたのか。

 敵の兵は、もう崖の上には見えなかった。

「...だとすると、終わりか...それとも」

 雨の音が激しい。川音は更に高くなる。くぐもった銃声は湿気に閉じ込められているようだ。ごおっと轟音を響かせて風が吹く。雨は横から崖に打ち付けた。銃眼を兼ねる崖に穿たれた隙間からしぶきが舞いこみ、渦巻く。

「まるで嵐だな...」

 ジャックは上流に目をやった。雨に打たれているのに火災はまだおさまっていない。さらに川を遡ればダムがある。今は満水だ。

「まさか...」

 無線機の前にいた青年に怒鳴る。

「三十七、三十八に至急連絡。上階に上がらせろ」

 ロルフがキーを叩く。振り返った顔は少し赤くなっていた。

「サンハチ、応答がありません」

「何だって? レイナーがいるはずだ。ピドーも...。まさか通信機が故障したか?」

 崖が再び揺れた。爆音は遠い。くぐもっている。しかし、確実に何度も響く。その度に小刻みな振動が伝わった。一同は息を飲んだ。白い光が眼前に広がる。

 沸き起こった風が天空を目指してうねる。竜巻だ。積んである石が巻き上がり、飛び散る。ひっきりなしに揺れる小さな基地に轟音が響いた。

 ダムが崩壊する。積まれた石が谷へなだれ落ちた。

 連日の雨と雪解けの水が谷へあふれ出す。山肌を崩し、木々をなぎ倒す。黒い土石流だ。発電所は火花を散らした後、流れに呑まれた。がれきが下流へ押し寄せる。



 その少し前だ。洞窟の中は湿気っぽい。発電機が動いているし、人がいるので多少は暖かい。しかし地面はむき出しだ。足元から冷える。ピドーとレイナーは貯蔵庫からカーペットを出して敷いた。ヘルメットを二人でかぶる。アセチレンランプ付きだ。

「使い方分かるか?」

「うん。石は...充分だな」

 炭酸カルシウムの石と水が反応して炎となる。中身の量を確認して火を灯した。青い裸火が噴き出して硫黄の匂いが立ち込める。やがて光がオレンジに変わった。

 それから一番奥の穴へ行った。そこはまだ電気が通っていない。背後から多少の明かりがくるが、頭上のライトが頼りだ。レイナーがスコップを渡す。

「ほれ、穴を広げろ」

「今?」

 勢いよく壁に差した...つもりが、甲高い音と同時に跳ね返される。ピドーはよろめいた。

「岩盤じゃねえか。削岩機でもないと無理!」

 ピドーは少し体を捻った。他の穴の一つは階段になっている。今は電気が点いていない。暗いほら穴は階段となり、崖の上に出られるようになっている。

「よく作ったよなコレ」

「まあな。元はティーガの遺構だった所に手を加えた。今のお前なら岩でも掘れると思ったんだがなあ、力が有り余ってるようだし」

 ほれ、と次に渡されたのはノミと金槌だった。

「座れるようなくぼみでも作っとけ」

「どうしても働かせたいらしいな!」

「もちろん」

 この穴は、まだ壁も床もごつごつしたままだ。その一つの岩にレイナーが腰を下ろした。スコップを床に転がした。砂が音を立てる。

「待っているだけってのは意外と大変だからな。動いていた方がいいよ。特にお前は」

「だから俺もヨンマルへ行くって!」

「土木作業も大事な作業だぞ」

 くぼみを作るのが、今どれほど役に立つかは分からない。けれどレイナーの言う通りだ。手を動かしていた方がいい。ピドーはノミを壁に打ち付けた。かん、と固い音がする。破片が飛び散る。ピドーは顔をしかめた。

 と同時に、崖全体が小さく揺れた。音は聞こえない。だが砲弾が飛んでいる確かな証拠だった。

「始まったな」

 レイナーが膝に頬杖をつく。ぼんやりした黄色い光の中で、背中がやたら小さくなったようだ。

「ああ、くそっ! こん畜生!」

 やはり戦いに参加できないのは悔しい。ピドーは半ばやけくそのようにノミを振るう。岩が欠片となって飛び散る。今度はレイナーが眉をひそめた。

「次があったら、お前さんも連れて行ってもらおう。うるっさくてかなわん」

「次があってたまるか」

 ソフィアが攻撃を受けたのは始めてだ。それなのに師団と自警団は組織だって動いている。日ごろの訓練の賜物だ。

「レイナー」

 ピドーは手を停めて、背後を振り返った。

「あんたは、本当にただのシェフだったのか?」

「ただの、じゃない。大したシェフだよ。これだから味の分からない奴は...」

「分かっているよ! いつもご馳走様! じゃなくて! じゃあ親父は? 本当にただの調香師だったのか? 爺ちゃんは確かに調香師だった。仕事場に行ってた記憶があるんだ。そこにも親父は来てたけど、働いてはいなかったような...。軍服だったかなあ」

 まっすぐな視線だ。ごまかすな、と言外に伝えている。レイナーはまぶしげに目を細めた。

「覚えていたか」

「うん」

 顔を洞窟に戻し、ピドーは手の中でノミをもてあそぶ。

「それにさ、おかえりの代わりに物が飛んで来るんだ。狙いが正確でさ」

「そこかい?」

「そうだよ! いつもいつも! あれ、たぶん自分も俺達も訓練している。トロフィーを持った写真があるのに何だか教えてくれないし。あれ、何?」

「トロフィー...ああ。旦那に直接聞きな。有名なチャンピオンだった。知らなかったのか」

「聞いてもはぐらかすんだ。だったらそんな写真貼るなっての」

「それしか持ち出せなかったんだ。時間が無かったからな」

 ピドーは口をつぐんだ。家を離れた時は夜だった。半ば眠っていて記憶が曖昧だ。気が付いた時には既に移動中だった。幼いながらに大事な物はたくさんあった。それらを自分の意思ではなく置き去りにしなくてはならなかった。理不尽さにひどく悔しかったのを覚えている。未だに心の底が疼く事もあった。父も同じだろう。

 少し気まずい空気になった。だがレイナーは何事も無かったように言う。

「まあ旦那は自慢なんかしないからな。そうだ、トロフィーといえば俺だって持っていたぞ。デザートのコンテストで優勝してなあ」

「父ちゃんは料理じゃないだろうが! 誤魔化すなよ」

 父は、過去の話しには触れたがらない。

 体のこなしに切れがある。体力もありそうだし、何より軍事行動に慣れた感じがする。指示が短くて的確だ。移住して十年で身につくものだろうか。

「まだあるぞ」

 とピドーは続ける。 

「お袋が何で死んだか、はっきり教えてくれない。それにどうして家族まで西(ヴェステン)から追われた? 反対派だからってただの職人が逃亡する?」

「そこまで考えるようになったか...」

 視線がどこか遠くをさまよった。かつての暮らしや、ここで過ごした年月を思うのだろうか。彼だけでない。谷に住む大人は誰も、時々このような眼つきになる。

「俺は本当に軍関係者じゃない。本来はパティシエなんだが、王宮に務めていたシェフだ」

「えっ、すげー。宮廷料理人か」

「だから俺はすごいって言っただろう。ハイケは給仕人兼小間使いといったところかな。旦那は西(ヴェステン)では中尉だった」

「軍人じゃないか!」

「ちょっと違う。軍の所属なんだけど、まあ技術者だな。兵器開発の研究部門に勤務していた。宮殿内に施設があったぞ。覚えているか?」

「ああ...そうだったっけ...?」

 ピドーは記憶を手繰り寄せる。宮殿の中は丘が連なっていた。手入れされた芝生に曲がりくねった小道。その行き止まりが祖父の仕事場で、温室が隣にあった。よくそこに出入りしたものだ。

 城壁に囲まれた宮殿には、主な城をはじめとして小さな宮殿もたくさんあった。城塞ではなく王室と貴族の居住地だったからだ。まるで一つの町のようだと幼いピドーは感じていた。父の職場もそこの一つだったか。

 レイナーが続ける。

「旦那はクロイツベルクでも屈指の大学に留学してたそうじゃないか? 優秀なんだろうな。研究室の責任者だった」

「へえ~」

 調香師が兵器を作っているのではなかった。逆である。軍人が専門知識を利用して香水を作っていた。

「クソ親父め、やっぱり軍人だったんだな。でも避難したって事はシェレンス派だったって事?」

「一言じゃ言えないな」

「ふうん。ソフィアの連中は軍事関係者ばっかりなのか?」

「まさか!」

 レイナーは肩をすくめた。視線を落とす。靴の先で軽く床を蹴った。小さな砂が飛ぶ。

「まあ多いけどな。家族も一緒に脱出したからだ」

「どうして言ってくれなかったんだ? やっぱりガキ扱いかよ」

「わざわざ言う必要があるか? 今は誰も州の軍には関係してない。もともとは(ノルデン)事変の前の年か。宮殿にティーガ族の...」

 言葉が途中で止まった。

 みんなの居る方が騒がしい。ハイケが何か叫んでいる。低い天井に反響している。すぐにレイナーに駆け寄って来た。ココちゃんを握りしめている。耳がだらりと垂れていた。

「カイがいないの!」

「トイレは? その辺に隠れて遊んでいるんじゃないのか?」

「違うのよ」

 ハイケは激しく首を振った。子供のように地団太を踏む。ぬいぐるみの手足がふらふら動いた。

「家に戻ったんだわ。ピドー、あの子に何か渡したの? 大事な物を忘れたから取りに行きたいって。後にしなさいって言ったのに!」

「あ、石板...」

 緊急放送の後、持ったままで家に戻ってしまった。すぐに避難となり、持ち出したのはココちゃんだった。三十八番についてすぐに気が付いたのだろう。母に耳打ちしていたのはこれだった。カイは緊急の事態が呑みこめていない。敵の来襲よりも、借り物を返せない方が重要だったのだろう。止める母の目を盗み、家に戻ってしまったようだ。

「連れ戻すわ」

 レイナーが首を振る。

「待て。俺が行く」

「でも」

「暗いし、砲弾が飛んでいるんだぞ!」

 短い言い争いがあった。二人を横目に、ピドーは足早に出入り口に向っていた。無線が鳴る。これは待機するようにとの一回目の連絡だった。

「ピドー! 待て」

 止めるレイナーににっこり笑って見せる。

「早く無線に出ろよ。レイナーはここに居てくれないと困るだろう? 早く無線に出ろよ。俺が渡した物だ。自分で取りに行くよ。すぐに戻る」

 返事を待たない。急いで重い扉を開けた。雨が吹き付ける。明かりはかぶったままのヘルメットだ。

 崖の向こうはまだ燃えている。しかし銃撃の音はやんだ。

「あれ? 終わりか」

 ピドーは戦闘を間近にするのは初めてだった。意外と早く終わったな、と安心した。すぐ先では川が渦を巻いている。

「水門を開けないとまずいな...」

 土砂降りの中を進む。泣き声が聞こえた。光の点も見える。

 家に戻るまでもなかった。首を回す。淡い光の中に小さな人影が浮かんだ。しゃがんで泣いているのがカイだった。転んだらしい。全身泥まみれだ。大人用のヘルメットをかぶっている。この明かりを頼りに家まで行ったらしい。

「カイ!」 

 声をかけると顔を上げた。泥と涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。立ち上がるなり転ぶ。ヘルメットが脱げた。ピドーに走り寄ろうとしてまた滑った。

「お母さん...」

「サンハチで待っているよ」

 ひょいっと抱き上げる。しっかりと首に手を回してしがみついてきた。体は冷え切っている。 

「ピドー、これ...学者さんの大事」

 何度となく転んだのだろう。泥だらけの指がしっかりと石板を握っていた。

「偉いな。ありがとう」

 石板を受け取り、ポケットに突っ込んだ。ピドーはカイの頭を撫でてやる。小さな子供なりに責任を感じて、いつ敵弾が落ちてくるかもしれない暗闇を懸命に歩いたのだ。

 褒められた上に、人の温もりを感じてほっとしたのだろう。やっとカイは少しだけ笑った。

「怖くなかったよ」

「そうか。頑張ったな。よし行こう」

 そう言ってから、ピドーは周囲を見渡した。暗闇と雨のせいで自分の位置がよく分からない。防空壕の入口には防衛の為に明かりを灯さないのだ。ヘッドランプだけでは遠くまで照らせない。カイのかぶっていたヘルメットは泥だらけだが、無理やり頭に乗せた。わずかでも灯りが欲しい。

「えーと、後ろが川だから...」

「ピドー、早く戻ろうよ」

「分かってるって」

「もしかして僕たち迷子?」

「うっ...」

 ずぶ濡れでうろうろする二人連れ。どこから見ても立派な迷子だ。やがて雨粒の向こうにランプが揺れているのが見えた。

「おーい、ピドーか?」

 怒鳴っているのはレイナーだった。

「雨の中でいつまで遊んでいるんだ? 風邪を引くぞ」

「お迎えなんて要らなかったのに」

「お父さん!」

 やっぱり不安だったのだろう。カイの声が弾む。

 しかしレイナーは首を振った。抱かれている腕から下りようとする息子を手で制する。

「お母さんの所へ戻んな。俺は水門を開けに行くから」

「サンハチを離れていいの?」

「終わったらしいな。でもまだ出るなとさ。それもでこの雨だ。貯水池の水を流しておいた方がいい」

 レイナーは最初の連絡を受けてから外へ出た。だがこの時点で三十八番では二度目の無線が鳴っていた。上階へ避難の指示だ。二人がそれを知る術は無い。

「カイを頼む。俺もすぐ戻るよ」

「うん。...ん?」

 ピドーは上流に目をやった。

「どうした?」

「何か聞こえなかったか? 爆発みたいな...」

 目をこらす。地上から湧いた白い光が空に反射した。切り立つ岸壁に阻まれて全体は見えない。だが爆発にしては不自然な形だった。丸い巨大なドームのように広がっている。かすかに重い地鳴りが響いた。ピドーは勢い込んで振り返る。

「レイナー! 見えたか?」

「...ああ。光った。何だ?」

 彼はカイを気にしていた。顔を上げた時には、空は元通りの黒雲だらけだ。彼は首を振る。

「新種の爆弾かもな」

 雨粒が地を打つばかり。突風が吹いた。三人ともよろめくほどだった。レイナーはヘルメットを抑えた。

「風が強くなったな。急げよ。じゃあ」

「ちょ、ちょっと、待って」

 ピドーはレイナーの袖を掴んだ。

「どっちへ行けばいいんだ...?」

 あっち、と上げたレイナーの腕が暗がりを示す。上流が明るいのは先ほどの光がまだ残っているからだ。わずかに周囲の様子が見える。

「ずいぶんずれたな。見えるか? 斜めになっている岩の方へ進みな」

「えーと...」

 雨が強くて目をちゃんと開けられない。水しぶきで目印となる物はけむっている。

「しょうがねえな。一緒に戻るぞ」

 やれやれ、と首を振る。気を付けて、とレイナーが先に立つ。ヘルメットの明かりがゆらゆら揺れた。

 空が暗い。発電所の炎が揺らめいて消えた。地響きとも地鳴りともつかない音はずっと続き、だんだんと大きくなる。

「聞こえたか? 何だろう」

 レイナーが振り返った。カイもピドーも声が出ない。体を固くしているだけだ。暗闇に対してだけではなく、何事が起こりつつある。本能的な恐怖を感じさせるものが近付いている。

 ピドーがようやく気がついた。

「まさか...水か!」

 濁流が川を下る音。

「水? 旦那たちはどうしたんだ?」

 レイナーはおろおろと周囲を見渡す。

「そんな...ダムはどうした?」

 山が鳴っている。遠くに黒い塊が転がっていた。みるみる近づいてくる。岸辺の木々がなぎ倒され、岩が跳ねた。

 電線が光る。電柱がゆっくり呑まれた。

 レイナーが叫ぶ。

「走れ!」

 カイを抱いたままピドーは走った。どちらへ向かっているのか再び分からなくなった。ぬかるみに足を取られた。カイをかばったまま倒れる。肩を地面に打ち付けた。ヘルメットが外れて飛ぶ。何かに頭が当たった。幸い、まだランプは生きていた。拾って頭に乗せる。冷たい泥が地肌を滑った。

「ピドー、カイ、大丈夫か?」

「う、うん」

 顔を上げると、うっすらと建物が見えた。おなじみの光景は工場だった。彼らは三十八番と逆方向へ走り、家の付近まで戻っていた。川から充分離れている距離のはずだった。それなのに轟音が近づく。

 家の隣は工場だ。

「上がれ! 雨どいに捕まるんだ」

 レイナーがピドーの背中を叩いた。

「うん」

 まずカイを押しやる。工場の外壁を伝って屋根へ行きたいのだが、カイはすっかり怯えていた。手足を縮めたままだ。おんぶをしたくても、じっとしている。自分の意思で体を動かせないほど緊張している。

「行け! 早く!」

 レイナーが懸命に下から押してくる。

 仕方がない。カイを片手で抱えたまま、雨どいを掴んだ。ぬるぬると指が滑る。

「何だよ...」

 ふと手を見ると赤い飛沫が散っている。顔を伝う水が生温かい。カイの頬にぽたり、ぽたりと血が滴っていた。自分から落ちているのだと理解できるのに少し時間がかかった。おそるおそるヘルメットの下に指を差し入れる。頭の右側がとても温かい。ずるっと指先が皮膚の下へ入った。裂けている。痛みよりもしびれが強い。目の前に戻した手は血まみれだった。

 カイが無言だったのは、これに怯えていたからなのか。

「大丈夫」

 無理やり笑って見せる。

「こっちへ行こう」

 雨どいをあきらめた。下りる。

 流れが追って来る。ダムから決壊した水は土石流と化した。岩や木々を投げつけて来る凶悪な波だ。触れる全てを破壊する。

 急いで工場の裏手に回った。まだ水は来ていない。屋根に上がるための梯子があった。保守点検用で細い鉄製だ。

「つかまってろ」

 無理やりカイを背中にまわした。工場の屋根は平たい。小型の発電機と給水塔があるだけだ。雨どいは無理だったが、これなら掴める。

 数段上がった時だった。

 轟音が彼らに届いた。建物をかすめるように土石流が駆け抜けた。下にいたレイナーがあわてて二人にかぶさるように梯子に取りつく。それでも足が水流につかった。何かが当たったらしい。体がのけぞる。大きく呻いた。

 水は全く勢いを失っていない。さらに増えていく。家の窓が割れた。ドアが開くのが見えた。黒い水に一気に飲まれた。

 工場の方が頑丈な造りだ。だがすでに半ばまで水面下だった。上がろうと思った屋根も水に呑まれそうだ。

 すぐ横は切りだした土がむき出しになっている崖だ。途中に木が生えている。ピドーはそこに手をかけた。

「よっ...と」

 根に足をかける。はしごから足が離れた。

「レイナー!」

 彼は首を振った。ライトが揺れる。もう腰の辺りまで水が来ている。流されないようにしているのが精いっぱいのようだ。水圧のせいで体が上がらないらしい。顎を上げて息子に言う。

「ピドーにしっかり掴まっておけ」

「お母さん、お母さん...」

 カイが低く呟いていた。四肢は小刻みな震えが止まらない。

「水門が開いていれば...。畜生! レイナー、しっかり掴まってろ。離すな!」

 叫んでも雨と流れにかき消されるばかりだ。

 不意にカイの冷たい体から力が抜けた。ピドーを掴んでいた手が落ち、下へすり抜けそうになった。目を閉じている。色を失った唇は半開きだ。肩が小さく何度も上下している。

「起きろカイ! がんばれ」

 何度も呼びかけたが、返事はなかった。

 頼りになるのは一本の木だけだ。自分だけではなく、カイも支えていなければならない。腕はしびれを通り越して何も感じなくなっていた。けれども手を離せば二人とも命はない。 

 この間にも、どんどん水かさは増していた。みしみしと建物が鳴っている。ピドーの家と工場が瓦礫を受け止めたようだ。バリケードとなり、三人の周囲には水だけだ。だがいつまで体力がもつか。

 家と工場のあった場所は、もうどこだったか分からないほどだ。建物が残っていたとしても、中はどうだろうか。泥に埋め尽くされたか、水が全てを押し流したかもしれない。西(ヴェステン)脱出で全てを失って十年、再び生活が破壊された。いや、以前よりも酷いだろう。しょっちゅう投げられていたマリアの花瓶も、母の写真やわずかな遺品さえも奔流の中だ。

 大粒の水はひっきりなしに打ち付ける。ピドーは空を見上げた。目を開けていられない。

「こん畜生! 腹が立つ! やんじまえ、この野郎!」

 そう叫んだつもりだったが、声は殆ど出ていなかった。背筋を何度も寒気が走る。昼食以来、食事をしていない。そのせいなのか胃がひどく痛んだ。体の震えをどうしても止められない。体中の筋肉がこわばり、きしむ。風景のピントがぼやけては戻った。がくっと頭が垂れた。ヘルメットが落ちる。ランプはみるみる点になって遠ざかり、すぐに見えなくなった。

 ここにいるはずのない人を呼んでみる。

(...母さん...) 

 短い茶色の巻き毛。振り向くと丸い瞳で見返してくる。眉を寄せて、少し開いた唇が歪んでいる。

(...泣くなよ...お願いだから...)

 誰かに呼ばれている。確かに声が聞こえた。耳からではなくて頭の全体に響きわたるようだ。言葉は聞き取れない。あの夢だ。

(誰...)

 現実感がない。痛みもしびれも遠くなっていく。また呼ばれた。何か黒くてぼんやりした塊を感じる。

(...なんだよ...)

 懸命に意識を取り戻そうと試みた。また母の面影が浮かぶ。面影がゆらめいた。強い瞳だ。哀しみよりも怒りに満ちている。容貌はいつしかマリアになっていた。

『何をやってんのよ、愚弟!』

 いきなり叱りつけられ、一瞬だけ目の焦点が戻った。幻影はゆらりと消えた。轟音と逆巻く水ばかりだ。濡れた枝を掴み直す。必死にカイを抱えた。

「何だとコラァ...バカって言う方がバカなんだぞ!」

 また姉の幻影が怒鳴る。

『じゃあしっかりしなさいよ!』

「...わ、分かって...る...」

 またも朦朧としていく意識の中で幻に毒づく。

(絶対に死んでなんかやらない! 絶対に!)

 カイをハイケに返すのだ。その思いと同時にピドーを支えていたのは怒りだった。

 なぜこんな目に遭わなくてはならない? 

 なぜ思い出までも失わなくてはならない? 

 そして、どうして自分は何もできないのか?

(強くなりたい、力が欲しい、誰にも負けない強い大きな力が!)

 工場の屋根が見えた。靴をかすめていた水が少し下がった。水門が開いたのか。

 こん、と腰に固い感触が触れる。ポケットの石板だ。先ほどまでは夢中で気にならなかったが、やはり重い。

(忘れる方が悪い。捨てちまえ)

 レイナーは無事なのか。相変わらず腰まで水の中だ。腕はまっすぐになり、指数本でなんとか梯子に掴まっている。今にも流されそうだ。口がぱくぱく動く。

「レイナー! 頑張れよ!」

 怒鳴ったつもりだったが囁いたような声になる。何とかならないのか。レイナーはどうなるのか。力が欲しい。同じ事ばかりが頭の中を占めていた。

 ぼやけた幻影がまた何か言ったようだ。聞き取れない。

(...マリア...?)

 殆ど無意識だった。血の付いたままの指で石板を掴む。線刻の溝に血が満ちる。

(神なのか? もしそうなら何とかしてくれ! あんたの言う事を聞いてやるよ。諦めるのなんか真っ平だ! 頼む...!)

 必死に願う。不意に風がやんだ。

『整ったか?』

「え?」

 声がした。だがどこからか分からない。また暴風が吹き抜ける。

「レイナー?」

『エクアトリの月、己が血を捧げた者よ。汝の祈りは我に届いた。確かに整ったな?』

 平坦な調子だった。高いような低いような、男でもあり女でもあるような声だった。耳のそばでささやかれたようだ。はっきりと聞こえる。

 レイナーの体が不意に高く上がった。くるぶしの辺りまでむき出しになる。全身から水が滴った。無言だ。目を大きく見開いている。まるで襟首を掴まれて持ち上げられたかのようだ。ランプが不意に消えた。それから再び水に落ちた。大きな水しぶきがあがる。

「なに...?」

 暗くてよく分からない。だがピドーには体だけが落下したように見えた。顔はまだ中空にある。

(え? ま、まさか。何で?)

 ばさり。

 鳥の羽根がこすれる音だ。ケーン、と泣き声もする。

「だ、だれ」 

 ピドーは目をぱちぱちさせた。空間が歪む。体が一回転したようだ。平衡感覚がおかしくなり頭を振る。

 そして周囲は深紅の光に満ちていた。見渡す限り赤い。工場も家も水も消えた。何もない。空間だけだ。

「カイ? レイナー?」

 ピドーは一人だった。

 すぐ先を一羽の七面鳥が走っている。

 赤い(もや)が沸き起こった。一つにまとまって濃くなる。ピドーの視界いっぱいに広がったのは巨大な顔だった。石板に彫られたままの相貌だ。かっと目を見開き、口を開く。歯は四角い。上下に二本ずつ牙が生えている。それが七面鳥に襲いかかった。頭を咥え、横にはらう。あっさりと首が抜けた。血が滴る。赤い空間で更に赤く、まるで黒だ。

 首を失った体は、黒い液体をふりまきながら走り回っている。あたかも自らの死を理解していないかのように。

 ピドーは声さえ出ない。茫然と牙にひっかかった髪の毛を見ていた。揺れるたびに見かけが変化する。七面鳥から...レイナーの首に。

 丸く巨大な顔。呑みこまれようとする七面鳥。そこから垂れる血。まさにシュペトレーゼが持っていた石板の図そのままだった。

『大いなる力を欲する者よ。足掻く者よ。贄によって我はお前に復活しよう、我が力を与えよう』

 声は直に頭の中に響く。レイナーは、揺れる度にあちらこちらを向いていた。目も口も薄く開いている。しかし、黒眼は瞼の裏へ隠れているのか、完全に白目だった。

「ふ...ふざけんな...」

 腹の底が熱い。今にも吐きそうだ。同時に恐怖が怒りになる。ようやくピドーは言葉を押し出した。

「てめえ、誰だよ?」

『契約は既に開始された』

 顔とピドーの間に火球が生まれた。みるみる子供の頭ほどの大きさになる。ピドーめがけて突進した。

「ぅわあ!」

 思わず頭を抱えた。熱が全身を包む。

 だが、火の球はわずかに手前で停まった。

『足りない!』

 声はまるで雷だ。ピドーのみならず、空間全体を震わせる轟音が唸る。

『...が、いない! 足りない』

 何が起きているのか、ピドーにはさっぱりだ。顔をかばったままで怒鳴るように尋ねる。

「何だよ! 何を言ってる?」

 答えはない。顔が消えた。同時に赤い光も去る。

 ピドーは相変わらず崖の木にしがみついていた。カイもいる。雨が少し小ぶりになったようだ。東の空が少し白い。

「夢か...」

 工場の平たい屋根は完全に露出した。建物の全ては埋没したままだが、流れてくる水の量も落ち着いたようだ。レイナーがいない。

 指が固まってしまっている。一本一本慎重に開いた。半ば落ちるように屋根に移る。溜まった水が跳ねた。しっかりした感触を足に感じた途端、膝が崩れた。カイと一緒に水たまりに倒れる。もう起きられない。

「...いてぇ...」

 自分の呟きを遠くに聞きながら意識を手放した。

                        続く!

お読みいただきありがとうございます!

やっと主人公が神話にちょいと触れました。

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