冥界の太陽たち 第一話 城壁の町 下
北の果てソフィアの日常
冥界の太陽たち 第一話 下
城壁の町 ~北の州都ラドクリフ
ラドクリフからさらに北へ向かうには、乗合バスか馬車を利用するしかない。終点はレクトンという小マイン川沿いの小さな町だ。石畳で舗装されている道路もここまでだった。大通り沿いに町が広がっているものの少し町を出ただけで森になる。まだ新芽の季節には早く、黒々と枝を伸ばしているばかり。地面はまだらに白い。道路や町には殆ど雪は残っていなかった。
バスを降りると吐く息が白い。ピドーは空を見上げた。雲が走っている。こちらでは雨は降らなかったようだ。この町を出て半日もしたら、また細長い空の下だ。午前中に首都を出発したのに、もう短い日は暮れかけている。ガス灯には火が灯っていた。
「これじゃ、着くのは夜だな」
「そうだな」
イーブが答える。
「馬車を頼んでこよう」
「うん」
先に歩く背中を追いかける。拘置所から電話をした時、イーブは宿にいなかった。フロントからの伝言は『午前十一時に宿で合おう』だった。無事に落ち合えたが、どこで何をしていたのか言ってはくれない。広くて頼もしい背中は長い足で足早に歩く。今のピドーには着いていくのが精いっぱいだ。
バスの停留所近くの建物に寄る。馬のいななきが響いた。裏手に厩舎があるのだ。ここでは乗換用の馬車を用意してくれる。扉はガラスの引き戸だ。水滴が雨のように垂れている。
「こんにちは」
声をかけて開けた。温かい空気が体を包む。小さな事務室だ。木製の机が一つだけ。黒ずんだ壁に古い映画のポスターが貼ってある。海とヤシの木の風景は既に色が抜けてどこか寒々しい。
「はいよ。お、ソフィアの坊主ども」
老人が少しだけ毛糸の帽子をずらした。薪ストーブが赤々と燃えている。イーブとピドーは何回かここに世話になっている。もう顔なじみだ。イーブが軽く手を挙げた。
「馬車を頼みたいんですが。いつも通りで」
「はいよ。準備ができるまでちょっと待ってて」
いつもの事だ。二人はドアを閉めた。
「そういえば、ここに遺跡があったよな? 面白いもんでも出たの?」
ピドーの問いに、立ち上がりかけた店主が振り返った。
「ん? ああ。商館跡かい? 金目の物は何も出やしないよ。壺や瓶の欠片とか。見たけりゃ町役場に展示してあるよ」
「お宝はないの」
老人は苦笑いを浮かべた。
「学者にはお宝だろうさ。お前さんが興味を持つとはねえ。しばらく前にもよそ者に同じ事を聞かれたよ。都会じゃ人気なのかい」
「もしかしてカマキリみてえな奴が来た?」
「うん? ああ、背の高い痩せた男だったな。知り合いかい」
「まあね。二度と会いたくねえ」
何だそりゃ、とまた老人が笑う。
中で待っているというイーブを残して、ピドーは町へ出た。一気に暗くなった。同時に寒気が押し寄せる。しかし、真冬の肌を切る冷たさはない。ピドーが足を停めたのは、十分もしない場所だった。町のメインストリートだ。ウインドウは明るいが、そろそろ店じまいの時間らしい。シャッターを下ろす音があちこちで聞こえた。
歩いている人はまばらだった。かつては商業で栄えた町だ。川が重要な運搬路だった頃、東西貿易の拠点だった。大マインを遡って運ばれた物資が集まる。ここから小マインを通ってさらに北州各地に運ばれていく。大マインの中流辺りにマイン橋ができてからは陸路が主になった。そのため町はさびれる一方だ。しかも内戦である。
とある洋品店の前でピドーは地面をのぞきこんだ。川音が響く。
「これだよな」
道路には四角い板がはめ込まれている。材質は金属のようだ。縦、横とも二十センチほどしかない。『カーク商館跡』と刻まれているものの、舗装の石と同化した色だ。雪をかぶっていれば更に分かりにくい。ヴィプリンガーが一人で来た際に見つけられなかったのも仕方がないだろう。
(学者はコレを見て楽しいのか)
物流を河川運輸に頼っていた頃、大マイン川と小マイン川がぶつかる地点であるレクトンは繁栄していた。蒸気機関の発達が進み、物流は陸路がメインとなり、町は衰退した。カーク商館ももっと賑やかな場所へ移転して記憶は薄れた。ある時道路が整備され、その際に地面を掘り返していて遺構が見つかった...と書いてある。百年ほど前の店舗兼住宅だったそうだ。埋め戻されたという事は、残すべき遺跡と判断はされなかったのだろう。
シュペトレーゼが見せてくれた絵図はどこにも無い。
「思いっきり違うじゃん」
夕暮れの空気を引き裂いて警笛が数回鳴った。人通りのない町に響く。馬車の準備ができたのだ。ピドーを呼んでいる。
「おっと、行くか」
店の前の道路には、もう二頭立ての馬車が待っていた。乗客はイーブとピドーだけだ。そのせいなのか、用意されたのは荷物運搬用の車両だ。一応幌付きだ。
「荷物か、俺達は?」
御者が答える。
「何なら馬の背にくくりつけて運んでやるぞ」
「カンベンしてくれ」
荷台ならぬ客席には、一応カーペットが敷いてある。イーブはもう乗っていた。腕組みをして考え事をしていたようだ。乗り込んだピドーと目が合うと、表情を崩した。
「いいな、それ。眺めも風通しもいいぞ。やってもらえ」
「イーブまで言うか!」
まもなく馬車はレクトンを離れた。舗装されているのは町の中だけだ。小石と泥を跳ね上げながら進む。やがて小マイン川にぶつかった。幅は数十メートルはある。小さいのは名前だけだ。北部の物資輸送を担っていたのだ。これから上流へ向かうのは、川沿いを進むしかない。両側は森が迫っている。この道に出てからはカーブが多く、車体が激しく揺れる。遮る物はなく、みぞれ交じりの風が容赦なく吹きつけた。幌がはためく。明かりは、御者の手元にあるランプだけだ。川幅がどんどん狭くなる。崖の間を縫うように幾つかの支流があった。その一つ沿いに進む。
「そういえばイーブはどこに行ってたんだよ?」
「ああ、いつものお姉さんの会社だよ」
「リリーさん? だけじゃないだろ? 朝っぱらから宿にいなかったみたいじゃないか」
「お互い様」
ピドーは留置所だ。むっと黙った顔に、イーブが笑う。
「マリアに聞いたよ。良い経験をしたらしいね。迎えに行けなくて悪かったけど、まさか人をぶん殴ってしょっぴかれたなんて思わないよ」
「手を出したのはあっちだって!」
客は二人だけだった。板張りの床に座っているとすぐに腰やお尻が痛くなる。おまけに寒い。それでもイーブはじっと座っていた。ピドーがいつになく静かになった。
「よく眠れるもんだ」
イーブが呟く。
すっかり退屈だったようだ。大の字に引っくり返っているうち、熟睡モードに突入だ。馬車の動きに合わせて、しばしば体が大きく跳ねている。口が半開きだ。
それが、いきなりがばっと起き上った。
「ソフィアに入ったな」
よだれが垂れていた顎をこする。
イーブが窓にかかる布をめくった。外は真っ暗だが、断崖が車体に迫っているのがわかった。明かりが車窓のすぐ近くを走っているのは、切り立つ崖に光が当たっているからだ。かなり上流に来たのだ。風がおさまり、川のざわめきが大きくなった。雨が続いているのと、雪解けの水のせいで、いつもより水量が多いようだ。
「何か匂いがする?」
冗談半分で聞いたのに、ピドーは大まじめに答えた。
「馬。硫黄と油。風がずいぶん静かになったけど、やっぱりくさいわ」
彼の鼻は、相当に利くようだ。イーブには腐った卵のような独特な匂いはまだ感じられなかった。温泉が沸いているのは、さらに上流の方だ。また石炭用の坑道がある。そこで使う機械油の臭いさえ分かるらしい。
「そんなに鼻が良かったら、却って困らないか? 他の人が何ともないのに一人だけ臭いんだろう?」
「別に。俺にはこれが普通だもん」
ソフィアの谷には、昔から小さな集落があった。しかし、人口が一気に増えたのは内戦中だ。連邦首都から逃れたシェレンス派の人々が流入した為だ。ラドクリフは大きな都市ではあるものの、難民の全てを受け入れられない。幾つかのグループがソフィアに行きついたのだ。ピドーの家族もその中にいた。
馬車がスピードを落とした。木製の門が道を塞いでいる。門柱の傍らに小さな小屋があった。バラックといってもいい簡素な木造りだ。黄色い明かりが揺れている。フードをすっぽりかぶった男がランプを掲げている。もう片方の手は、肩から下げた小銃のベルトをしっかり押さえている。
御者が声をかけた。
「お疲れ!」
「はいはい、疲れるよ。まあ温かくなったからね。雪じゃなくて雨だ」
「レクトンは降ってなかったな」
良く見知った間柄の挨拶だ。門番はフードを額まで上げた。御者の後ろから手を振るピドーに笑顔を向ける。師団兵のロルフ・バウマンだ。ソフィアの出入口を警護するのも彼らの役目だった。小屋の中にも何人かいるはずだ。ロルフはもう壮年といっていい年齢だ。だが若々しい雰囲気をまとっている。
「エフェレットさんの所の坊主か。お帰り」
「イーブも一緒だよ。マリアは?」
「師団ならまだだね」
ロルフは門を開けた。
「来週は工業地区担当なんだ。旦那によろしく言っといて」
「うん」
御者が下りた。ロルフと何か話している。最近の天気やラドクリフの様子のようだ。
伸びあがっていたピドーは車内へ戻った。
「俺だって門番くらいできんのになあ」
「結構きついぞ。誰も通らないからって昼寝してられるような仕事じゃない」
「分かっているよ」
イーブも師団兵の時は何度もここに詰めていた。実体験からの言葉だ。ピドーは膝を抱えて顎を乗せた。
「俺はまだ何もしてないんだ。もう子供じゃないのに。銃も撃てるし、無線の扱いも慣れてる」
「そうだね、立派なもんだ」
「...本気で思ってないだろう?」
「あはは」
イーブが声を立てて笑った。それから表情をひきしめる。
「人を撃てるか?」
「えっ何を言ってんだよ」
「ここはただの門じゃない。砦の出入口でもあるんだ。敵が来たら撃たなくちゃならない。できるのか?」
そこまで深くは考えていなかった。返事ができない。ピドーの甘さに対していささか強い対応だが、イーブは真面目だ。
「だって...イーブも無いだろう?」
「幸いね」
門がきしんだ。道が開く。会話が途切れた。馬車は再び動き始めた。川沿いに土地が広がっている。ソフィアの中央地域だ。この辺りはU字の形をした谷の合間の盆地である。おかげで町を形成するのに十分な平地があった。
そこへ明かりが幾つも灯っていた。小鳥が巣で体を寄せ合っているような光景だった。家々はどれも新しい。歴史の浅い集落なのだ。殆どが平屋建てだ。雪を落とす為、屋根は三角に尖っている。橋を挟んだ対岸も同じような集落だ。橋は車一台が通れる程度の幅だった。それを渡ると、ソフィアの中でも最も賑やかな場所に出る。小さいながらも雑貨や金物を扱う店が並んでいる。食堂からは野菜を煮込む香りが漂う。谷の中でも最も広い面積の場所だ。
ここで馬車はおしまいだった。まもなく日が暮れる。御者はソフィアに一泊だ。明朝に町へ向かう客を乗せてレクトンに戻る。
二人は馬車から降りた。石畳で水が跳ねる。ズボンのすそに泥が散った。イーブは足元を気にしている。
「先に帰ってくれ。用事を済ませて帰る」
「遅くなる?」
「そうだな。泊まりになるかもしれない。師団の事務所に報告があるしな」
「はいよ」
もう街灯はともっている。霧雨の中でぼうっとした黄色いシルエットがぼやけた。馬がいななく。馬車はゆっくり進み始めた。今夜の宿を目指すのだ。
「ところでイーブはどこへ行ってたんだよ」
「う~ん? ラドクリフかい? 野暮用だって。取引先の人と飲んじゃって朝帰りだ」
「リリーさん?」
「まさか! そんな畏れ多い真似できないよ」
やっとズボンから目を離した。イーブは笑って首を振る。まだ視線を落としたままだ。
「親父さんには黙っててくれよ」
「どこに行ったか知らないのに言うも言わないもないだろう」
イーブは背筋を伸ばした。小さくため息をつく。
「...人と会っただけだよ。クロイツベルクの情報を知っていると聞いたから」
「あ」
今度はピドーの視線が泳ぐ。クロイツベルクはグリンクラフト連邦の首都で、内戦が始まるまでの居住地だ。ルパート家ではイーブだけがエフェレット家と共に脱出した。それ以来、残った家族との連絡は途絶えたままだ。少しでも情報が欲しいのは当たり前だろう。
「...ごめん」
「いや。先に言っておけば良かったな。僕の父と親父さんは仲が良かったからね。何も情報が無いと分かれば気を落とすだろうと思ったんだよ」
「じゃあ...まだ...」
「ああ。手がかりなしだ」
むしろさばさばした表情だ。ピドーの肩を軽く叩く。
「生きていればきっと会える。心配するな」
本来ならピドーの方から言う言葉だ。うん、と頷く事しかできなかった。
それじゃ、とお互いに手を振った。それからピドーは歩き始めた。バス便は終わった時間だ。彼の家は集落の中でも最も北の上流部にある。見上げると、月も星もない夜だ。空は真っ暗だ。風も強い。
「あーあ」
舗装していない道はぬかるむ。徒歩なら一時間以上かかるだろう。
人家が途切れた。街灯はないが、遠くに見える明かりを頼りに川岸の道を進む。小マイン川を離れた。支流の一つを進む。これ以降の上流地域ではラベンダーとバラの栽培が盛んだ。耕地の大部分を占める。ラベンダーは草ではなく木に分類される。種類によって違いはあるが、花の最盛期は夏の間だけだ。今はやっと芽吹き始めたばかりだ。
目指す上流方向がほんのりと白い。昏い空を照らすのは発電所だ。水力を利用している。ソフィア全体の電力を作り出せる大きさだ。周囲に並んでいる温室は香水の原料となるバラの栽培用だ。湧きだす温泉を利用して内部を温めている。もちろん硫黄や天然ガスも使用する。こちらはもう一つの産物、火薬用だ。炭鉱も近い。これらの施設が集中しているのが工業地区だった。
上流から明かりが近付いてくる。ばたばたと軽いエンジン音も聞こえた。もっともピドーには、それが耕運機だと軽油のにおいでも分かる。
「おーい!」
手を振ると、それに応えてライトが点滅した。
大きな雨粒が落ちて来た。
「早く乗れ!」
「おかえり」
エンジンが低く唸る。耕運機から同時に二つの声がした。
「ありがとう! おー、カイ。いい子にしてたか?」
バッグをしっかりと支える。ピドーはタイヤに足をかけた。暗がりでよく見えないながらも助手席に滑り込んだ。先客がいる。席はそこだけだ。小さな人影を膝に抱える。
「行くぞ」
ゆっくり車体が方向転換した。迎えに来てくれたのは、ピドーの隣に住むレイナー・マーティンだった。深くかぶった帽子の下から、よく日焼けした顔がのぞく。黒っぽい上着に雨が当たって音が鳴った。
ピドーが抱っこしているのが息子のカイだ。上着を脱いで頭からすっぽりかぶっている。片手には灰色のウサギだ。赤と緑のベストを羽織り、両目は赤いボタンだ。カイの母のお手製だろう。
「ウサギ、濡れちまうぞ」
とピドーが言うと、あわてて背中側へ回す。雨から守るつもりだ。
「ウサギじゃないよ。ココちゃんだよ。ピドー、ラドクリフはどうだった?」
「向こうも雨降りだったよ」
フードの上から頭を撫でる。それからレイナーに言った。
「それにしても時間ぴったりじゃないか。助かった~」
「おお。さっきイーブが電話をよこした」
馬車を下りてすぐに連絡してくれたようだ。レイナーの声が笑いを含んだ。
「ラドクリフでヤンチャしたらしいじゃないか」
帰路ではイーブに何も言われなかった。だが彼にも拘置所泊りの話は伝わっていたようだ。
「誰から聞いた?」
「ああ? さっきイーブと電話したって言っただろうが。で? どうしたって?」
「別に。あっ、そうだ! そろそろ畑にも肥料を入れなくちゃいけないよな? いつにする?」
無理やり話を逸らそうとした。
「旦那と相談するよ」
レイナーが笑う。彼はピドーの父ジャックと一緒にラベンダー畑の世話をしている。
耕運機は畑を縫って進む。まだ芽吹きには早い。近くに迫るノイエ山脈も黒々とした空の向こうだ。山から吹き降ろす強い風を避けるように木々は枝を地に這わせる。
やがて幾つかの明かりが霧の中に浮かんだ。数軒の建物がある。そこまでの田園とは不釣り合いな愛想のない四角い造りばかりだ。ここはささやかながらも工業地区と呼ばれている地域だった。建物は工場や作業場だ。住居も兼ねている。
川が近い。ノイエ連峰を源流とする清冽な流れだ。ソフィアを縦断して小マイン川へ注ぐ。水の少ない時期なら対岸に歩いて渡れるほどの幅と水深だ。だが今は水が逆巻く。岸辺の石や木々も半ば水を被っていた。耕運機がやっと通れる木の橋は、今にも沈みそうだ。
「川の水、多くない?」
「ああ。今年は多い」
ピドーは上流に顔を向けた。岩肌がせり出して川は湾曲している。雨と闇の先のさらに上流には石積みの小さなダムがあった。発電所の主な動力だ。
「放水した?」
「してない。そろそろだ」
レイナーは首を振った。
「今日の午前中、雨がかなり降ったんだ。山の向こうではずいぶんと雷が鳴ってたようだな。今年は暖かくなるのが早いみたいだ。ノイエの雪解け水もある。何せ古いダムだからな。放水路を開けなくちゃならない」
ダムには川が運ぶ砂や小石は底に堆積し続ける。除去作業をすればいいのだが、内戦中である。人手も予算もなかった。自然とダムは浅くなっていき、貯水量は少なくなっていく。
その為に数年前に調整池が作られた。これも川の東側にある。崖の切れ目に小さな支流があるので、そこを利用する。ダムが一杯になってしまった時の為だ。ダムから放水した際に、工場のすこし上流にある水門を開ける。水はラベンダー畑をぬって流れ、崖沿いを進む。途切れた所で小マイン川へ合流する作りだ。
耕運機が停まった。まずレイナーの家だ。三角の屋根がある小ぶりな家だ。無機質な建物の中で温かさを感じる。閉まった鎧戸から灯りが漏れる。泥だらけの地面を柔らかく照らす。
「ちょっと待ってろ」
レイナーは家に入った。運転席でカイがピドーにもたれかかりながら見上げる。
「ねえねえ、軍人さんはいっぱいいたんでしょ。大砲見た?」
「いいや。兵隊さんと巡査はいたぞ」
「銃を持ってる?」
「うん」
一瞬だけルプレヒト・ヴィプリンガーの顔が浮かんだ。学者には見えないきな臭い雰囲気をまとう男だ。口は悪いし、人を小馬鹿にした態度だ。思い出してイラッとする。
(あんのヤロー)
そんな気持ちを知らずにピドーに膝でカイは足をばたつかせている。人差し指を立てて、暗闇に振りかざす。
「いいなあ。ばーん、ばーんって。僕も撃つ」
片手にココちゃんだ。
「頼もしいな。一緒に師団に入るか」
「うん!」
レイナーが戻って来た。片手なべを手にしている。それをピドーに渡した。
「いつもありがとう」
「気にするな。作り過ぎたんだよ」
カイを抱き上げて下ろす。
「ほら、風邪を引くぞ。家に入れ」
「まだ遊ぶ」
「母ちゃんが待ってる。もうねんねの時間だ」
ズボンの尻を叩き、ドアの方へ押しやった。
「じゃあピドー、明日ね。ラドクリフの話をしてね」
片手でフードを抑えたまま、ココちゃんを握った小さな手を振る。
「おう」
ドアが閉まった。レイナーが乗り込んで耕運機が動き始める。ピドーは鍋を抱え直した。
「あったかい」
「ハイケ特製だぞ。冷めないうちに食べな。鍋は明日でいい」
ハイケはレイナーの妻の名前だ。マリアが師団に入る前からも、たびたび料理を差し入れしてくれる。
「イーブはどうした?」
「まだ中央地区。泊まりかもって言ってた。なあレイナーのミートパイはないの?」
レイナーは料理上手だ。かつてはシェフだったらしい。
「良い肉が入ったら、また今度な。で? 何をしたって?」
カイがいなくなったせいか、また尋ねてくる。
「...何でもねえよ!」
「ふうん? 巡査の世話になったとか...」
「聞いてるじゃねえか!」
「あはは、気が荒いのは誰に似たんだか。旦那は穏やかなのになあ」
「う~、穏やかっつーのかアレ...」
大きなカーブを曲がる。工業地帯の北端の建物だ。煙突や鉄骨がむき出しの工場がある。この辺りでは一番大きな規模だ。香水の蒸留も行うが、機械の修理や組み立て、更には石炭の集積まで行う場所だ。隣接しているのがピドーの家だった。二階は短い渡り廊下でつながっている。コンクリートのうちっぱなしだ。そっけない外装は雨で黒く見える。寝室がある二階の明かりは消えていた。ドアも金属製だ。家というよりも事務所のようだった。
「じゃあな。お休み」
「うん。ありがとう!」
耕運機がゆっくりと去っていく。レイナーが振り返らずに片手だけ上げて合図した。
ひさしの前で身震いする。服を払うと細かいしぶきが散った。
「ただいま」
ドアを押す。この集落では鍵をかけないのが普通だ。ぎしりときしんで開く。灰色の無愛想な壁の部屋だ。事務机が四つ並んでいる。壁には鍵の束。ノルデンと連邦全土の地図が貼ってある。コルクボードにはたくさんのメモ。殴り書きの字が躍っている。黄色の裸電球がそれらを照らす。
薄暗い灯りの中、ピドーは壁いっぱいの地図を見上げた。両手を広げたほどの大きさだ。
グリンククラフト連邦は大マイン川の三角州を中心にして形成された国だ。大きく東西南北の四つの州から構成されている。小さな州もあるが、それらもそれぞれの州に付随しているようなものだ。
経済と文化の中心なのが西州だ。北西をベルント連峰に囲まれ、そこから国で一番の大河である大マイン川の源流がある。グリンクラフト連邦の首都があるもっとも栄えた地域だ。ピドーのかつての居住地で十年前の主な戦場でもあった。現在は摂政となったバロー伯爵の勢力下だ。
大マイン川の北に広がるのがここ北州だ。こちらにはノルン連峰が控える。第二の大きな流れ小マイン川があり、短い夏と長い冬が続く。西州と境界を接する為に最も戦闘が激しかった地域だ。小さい州ながらも石炭や天然ガスを産出する。それで内戦を戦う体力があったのだ。内戦直前まではノイエ山ろくの谷間ランデスヴァルトに少数民族ティーガ族の集落があったが、今は無人だ。
南州は北、西と接する細長い海沿いの州だ。東西に長い。温暖な地域だ。昔から避暑地として利用されていた。他には農業が主な産業だ。戦略的な利点がなく、戦地にはならなかった。
東州は独特な位置だ。西側は北州、西州と向かい合っているものの長い入り江で分断されている。通称海峡の幅はもっとも広い箇所で十キロ程度だ。小マインと合流した大マインが流れ込む。南側が海だ。入り江の奥は北州と地続きなのだが、未開発のノイエ連邦がそびえていた。他の三つの州からは独立した地域であり、経済活動も独自だ。内戦には中立の立場を取っている。地理的にも幸いして内戦の戦場にもなっていない。海に面した地域は工業や通商で賑わう。しかし内陸部は急峻な山岳地域となり、豊かなのは海沿いの一部だけだ。もともとグリンクラフト人が住んでいた土地だ。
ぼんやりしていたようだ。
「おっと」
鍋の取っ手が熱い。壁際の長机に置いた。何かの紙の上だ。シミが付いたが見ないふりだ。
書類の棚と並んで通信用の機材とラジオが乗っている。有線ラジオが付きっぱなしだ。
「...今夕、レクトンからの馬車が到着しました。明朝七時半にはソフィア中央広場を出発の予定です。乗車希望の方は本日中に自警団本部までご連絡を下さい。定員は八名ですが、ご相談により貨物・家畜をご一緒に運搬も可能です...」
思わずピドーは呟いた。
「客の膝に乗せるのかよ!」
バッグをテーブルに放りだす。奥のドアをそっと開けた。ほんわりとした空気がピドーを包む。その瞬間、花瓶が飛んで来た。顔の正面だ。咄嗟に身を屈め、両手で受け止める。しっかり中身入りだ。逆さになった口から生花と水がぽたぽた落ちる。
文句を言う暇は無かった。床に置くなり、次はカップである。右手で受け止め、続いて陶器のポットを左手でつかむ。休む間もなくソーサー。ひとしきり割れものが飛来する。
「ふざけんな!」
叫んだ時、クッションが顔に命中だ。それを最後に攻撃は終わった。
「こンのクソ親父!」
小花のプリントされた壁紙の貼られた室内だ。暖炉が静かに燃えている。窓に赤いカーテン、フリンジはピンクだ。金属製のスタンドライトはライト部分がユリの形。ソファのカバーはオレンジと黄色のチェック柄だ。いかにもマリアが選んだ内装である。
「おう、お疲れ」
ソファに座っていた父が微笑んだ。シャツにジーンズは普段の服装だがガウンを羽織っている。肩幅が切れそうなほどぱんぱんだ。胸板はぶ厚い。全体的にがっちりした体つきで、熊を思わせる体形だ。身長は二メートルを少し超える。立てばドア枠に頭がぶつかるだろう。頬と鼻の頭は日焼けしているが元々の肌は白い。この国では珍しいプラチナブロンドの髪だ。
周囲がやけにすっきりしているのは、手の届く範囲の物が全てピドーの足元に転がっているからだ。
「余計に疲れさせるなよ! いつもいつも!」
おかえり、の挨拶は毎回これである。灰色の目が笑っているのに腹が立つ。
「これ割ったらマリアにぶん殴られる! 初任給で買ったばっかりだぞ」
「割れなかったじゃないか。クッションだけは顔で受け止めるなんてさすがだ。飛んで来る物を何か判断できるって事は動体視力に優れているって事だからな」
「その確認に、この騒ぎか!」
花瓶は使用中だった。他の食器もまだ洗っていなかったようだ。こぼれた液体でカーペットには見るも恐ろしいシミが点々と付いた。
ジャックが大きなくしゃみをした。一瞬だけ頬が赤くなった。
「起きて大丈夫なのかよ。無理すんなよ、トシなんだから」
「うん? 平気だ。お前が出かけてから、すっかり良くなった」
「どういう意味だ? まーいいけど」
苛立ち半分、あきらめ半分で散らばった物を拾う。リビングのテーブルにがちゃりと戻した。クッションは父の後ろ頭に一発お見舞いしてから戻す。ジャックは平然としている。
「そうだよな。風邪のせいだな。ここのところ、どうも変な夢を...」
言葉を切り、じっと息子を見つめる。
「なに? 夢? そういや俺も何だか変な夢を見るんだよな」
「どんな?」
「覚えてない」
父は顎に手を当てた。少し考えていたが、軽く首を振った。
「まあ夢ってのはそんなもんだろう。いや、俺はやっぱりトシなのかもな。うん、トシだ。じゃあ、あっちも頼むわ」
と、ジャックが素直に示す方はダイニングだ。鍋を置きに行って、ピドーの動きが止まった。四人がけのテーブルの上は読みかけの雑誌や洗っていないカップ、洟をかんだであろう丸まったティッシュが乱雑に放り出されたまま。流しには使用済みの食器が山積みになっている。見慣れない鍋や皿はマーティン家からの差し入れだろう。さらに隣のランドリーのコーナーには山もりの衣類。
「おいっ! 良くなったんじゃないのか? たった三日でこれかよ!」
「年寄りをいたわれ」
年齢を揶揄したのは自分である。やるしかない。
「くっそー。あ、イーブは中央地区に用事があるって」
「ああ。電話があった。今晩は遅くなるって」
「ふぅん」
そもそも洗わないと食べる為の食器がなさそうだ。上着を脱いで椅子の背に掛ける。そして袖をまくった。
「ああ、そうらしいな。団長がラドクリフ市長と談話って昼過ぎにラジオで言ってた」
戻っても徴兵中のマリアは師団の寮住まいだ。
「みんな忙しいんだ。...俺もヒマじゃないけどな!」
息子の嫌味にも、涼しい顔で雑誌に目を落としている。
「ラドクリフはどうだった?」
「雨!」
「そうか。荷物は?」
「一週間くらいかかるって。マイン橋が爆破されたろ? かなり大回りしないと品が来ないってさ」
どうやらまだ留置所の話はまだ聞いていないようだ。
ピドーは手についた泡を拭った。暖炉の上の壁を見る。すっかり習慣だ。
暖炉の上には写真が何枚も貼られている。西州の家の前で並ぶ幼いマリアとピドー。ソフィアの工場の中でピースサインを出しているジャックとピドー。満開のラベンダーに囲まれて笑うマリア。隣でなぜか倒れそうになっているピドー。師団兵の制服を着て敬礼をするマリア。そして色あせた写真。トロフィーを掲げて笑う父、若いままの母ロッタ。内戦の少し前に亡くなったと聞いている。写真と並んでいるのは手の平よりも小さな黒い箱だ。遺髪が入っている。ロッタはよく笑い、よく喋り、よく働く人だった。繋いだ手の温もりも覚えている。だが思い出すのはなぜだか悲しそうな表情だ。
「何のトロフィーなんだ? いい加減に教えろよ」
台座の文字は薄くなってしまって読みとれない。カップの縁には模様が刻まれている。どうやら絵のようだが判然としない。
「動物っぽいよな?」
「う~ん? まあ若い頃のだ。ロッタがかわいいだろう? 出会ったのは俺が学生の頃だ。じっとこっちを見ているんで、さては俺に惚れたな、と思って声をかけたんだ。そしたら、俺の後ろの地図を見ていたんだな。それがきっかけでデートに誘ったんだ。映画に行ったらホラーしか空きがなくて。でもロッタはノリノリで大喜びだ。それで確信したな。彼女はただ者じゃないと」
ジャックの結婚前の姓はドッジソンだ。彼はグリンクラフト連邦の北に位置するノーザンベルという国の出身だ。西州の州都クロイツベルクへの留学生だった。ロッタ・エフェレットとの結婚を機に帰化している。
「その話は百回聞いた! 爺さんはくどいよな」
ジャックの背中が見える。ガウンの襟首が少しほつれていた。きっちり家事をこなす暇も人もいない。細かい処に手が回らないのだ。
「師団はそんなに忙しいのかな。内戦なんかさっさと終わればいいのに」
戸棚を探した。パンを見つける。
カップだけをテーブルに乗せた。他の物は、まとめてがさっとごみ箱行きである。ふっっと息をかければお片づけ終了。レイナーからもらった煮込みを皿に盛る。
「こっちに来て食えるだろ?」
「おう」
のそのそとやって来た。頭一つ以上は身長差がある。見上げると鼻の周りが濡れているようだ。
「鼻水くらい拭けよ、クソ親父」
顔色は悪くない。本当に症状が回復しているようだ。それなら汚れ物の片づけをさせられた忌々しさが先に立つ。しかし憎まれ口にも落ちついた口調が返った。
「うん。俺がクソ親父ならお前はクソの子だな。クソ同士で飯を食うか」
「...父ちゃん、食事の前だから...」
ピドーの負けだ。二人は向かい合って座った。
「内戦か...。そうだな、さっさと終わるといいな」
ぼそっとジャックが言う。さっきの息子の呟きへの答えだ。ピドーは一瞬きょとんとした。そして壁の写真と小箱へ視線が動いた。
「カイが兵士になりたいってさ。あんな子供が銃を持って前線に行くって嫌だ。それに...イーブは心配だろうな。もう十年だ」
「ああ。俺もだ。無事ならいいんだが」
イーブの家族は西州に留まった。脱出したのは彼だけだ。ソフィアに落ち着いた時には連絡が取れなくなっていた。イーブは不安を口にしない。エフェレット一家と同居して十年目を迎える。家族も同然だ。ピドーはスープをかき回した。
「マクシミリアン陛下は出て来ないし...。ディーター王だっていいよ。どっちだって良いじゃないかって気がする。今もどうせ休戦中みたいなもんだろ」
現王とされているのは三男のディーター。次男のマクシミリアンは消息不明のままだ。
「ま、俺だって誰が王でもいいんだ。大した違いはないだろう」
現在の王ディーターに反対しての首都脱出ではなかったのか。ピドーにとっては意外な言葉を発し、ジャックはスプーンを置いた。テーブルの上で手を組む。
「ただ...。そうだなあ...。おまえは、北事変の原因をどう理解しているんだ?」
「ティーガ族のテロだろう? 学校でも習った。王政転覆を狙って爆破事件を起こした、それで殲滅されたって」
「そうか...」
グリンクラフト人が今の東州から海峡を越えて上陸したのが約千年前だ。海沿いしか平地が無く、農業はできない。食料となる大型の動物もいないので生活の糧を求めた結果だ。その頃はティーガ族の土地であり、全土に三万人ほどが住んでいたと思われる。大きな衝突が起きたのは五百年前だ。グリンクラフト人は銃器の開発済だった。それを用いて迫った。
対するティーガ族は現在の西州の城塞に立て籠った。そこで喫した大敗が決めてとなった。グリンクラフト人が全土を掌握するきっかけとなったのが『花の戦い』だ。
「最初は三千人くらいで来たんだって? 三万相手で、よく勝てたよな。奇跡的な勝利だったんだろう? 『花の戦い』って言われているやつ」
「そうだ。『花の戦い』の際に『災いの蟲』が現れてティーガ族を襲ったそうだ。そのおかげだと」
「ああ。そう聞いたけどさ。蟲って分かってないらしいね。風邪とか、水ぼうそうとか、病気の菌じゃないかって。でもおかしくない? 『花の戦い』は一晩で決着がついたんだろう」
勝敗の行方が病原菌のせいならば戦いはもう少し長引くはずだ。
「本当のところは分からんな」
当時のグリンクラフト人将校が捕虜となり、殺害された。それがきっかけで軍の結束が一層固くなったとも伝わっている。
結果としてティーガ族は敗走した。以後も勝利は常にグリンクラフト側だった。そしてグリンクラフト人の国家が建設された。さらに国内は勢力争いを続け、各地に小国が乱立した。統一されたのは三百年前だ。以後のグリンクラフトは、海と山に囲まれた立地のおかげで外部からの干渉は薄い。ティーガ族は少数民族として国の片隅で細々と生き延びた。国情は安定していた。そのはずだった。
父が言う。
「内戦にはグリンクラフト家のお家騒動が関わっているんだよ。それは知っているよな? もしディーター陛下が正当な継承ではなく王位を得たとしたら?」
「マクシミリアン陛下をどうにかしちゃったって事? テロリストに拉致されたんじゃないの?」
「前国王は生きているとも、殺されたとも。どっちも確証はない。俺はティーガ族の仕業ではないと思う。彼らの居住地は首都から遠い。クロイツベルクには殆どいなかった」
「へえ...。それでディーター陛下が無理やり王位を奪ったと? じゃあ王太子が何で甥っ子なんだよ? 変じゃないか」
王位が欲しいのなら、当然自分の子供にも継承させたいだろう。しかし、王位継承権の一位は前々国王、長男アーノルドの息子である。
状況は複雑だ。
「やっぱりテロリストなんじゃない?」
そもそも王家には三人の兄弟がいた。長男アーノルドが王位にあったが内戦の少し前に病死する。王子がいたがまだ幼い。その為に次男マクシミリアンが王位を継ぐ。北事変の時の王だ。だが在位一年を待たずに三男のディーターが即位した。現在の王だ。
しかし王位継承の第一位はアーノルドの息子のままだ。現王のディーターには王女が一人。だがクロイツベルクでは男子だけが継承権を持つ。現在、次世代の男子は今の王太子しかいない。だから後継ぎが先々代の王の子供というねじれた状況だ。もしディーターに男子が生まれたら状況は変わるだろう。
「ディーター王の子供は女子だけだ。男子は生まれてすぐに亡くなったからな」
「法律を変えればいい」
「強引に法の改正を行っても、余計な反感を買う恐れがある。マクシミリアン陛下はまだ若かったし色男だったし、悪事を働いて退位したわけでもない。未だに人気がある。何せ死亡が確認されていないからなあ...。ディーター王も良い人なんだけど...穏やか過ぎるかもな」
強引に法を改正する人柄ではない。また継承権を敢えて女子に動かすメリットは大きくないだろう。まだ男子が生まれる可能性があるし、マクシミリアンの消息も不明のままだ。
「仲の良い御兄弟だと思っていたが」
「まるで知り合いみたいな言い方だな」
「マクシミリアン陛下とは...まあお会いした事はある。お前なんか抱っこしてもらったぞ。覚えていないだろうが」
ふと遠くを見る眼つきになる。妻の父が王家のお抱え職人だったのだ。当然、宮殿内に出入りしていただろう。
「全っ然覚えてない。マクシミリアン陛下に仕えていた者が逮捕されたり、テロの標的になったりもしたんだろう? だから俺たちも首都を離れるしかなかったって事?」
「色々あるんだよ」
ジャックはそっぽを向いた。ピドーはしばらく父の横顔を睨んでいた。だが次の言葉は出て来ない。
「...じゃあそんなに穏やかな王なら何で内戦なんか起こしたんだよ?」
思い出を振り切るように父は小さく首を振った。
「バロー伯を中心とした取り巻き連中のせいかもしれない。色々ともめたからな」
グリンクラフトの軍隊も元は一つだ。それぞれの州の軍は、その下部組織だった。
先代王マクシミリアンはテロが横行していた市内を視察に出たきり戻らなかった。内戦の少し前だ。生死が確認できない。だからシェレンスは退位させるべきではないと主張し、バローは強引に退位とした。二つの勢力が武力でぶつかり合った。西州軍と南州軍が連携して連合軍となり、北州軍と敵対した。そのまま戦況はこう着状態だ。
「いっそ北州だけで独立しちゃうとか? それで中立の東州と仲良くする」
「アホ息子。無理だな」
ジャックは苦笑いを浮かべた。またスプーンを手に取る。
「考えてもみろ。何も産業がない」
天然ガスと石炭を産出する。その他にも天然資源は豊富だ。しかし、量は少ないもののそれらは西州でも採取できるのだ。地理的にも経済活動に不利だ。背後は急峻な山脈で、前面は敵の陣地だ。
「国として経済が成り立たないだろう? 独立しても何かメリットがあるか?」
現政権が一気に北をつぶさない理由もそこにある。兵や火器を大量に投入すれば内戦は終わるかもしれない。しかし、そこまでして制圧しても利益がないのだ。むしろ壊滅状態になった状況を回復させるのに手間暇と金がかかる。
「慣れ合いで休戦状態かよ」
「今はな。マイン橋が落とされたから先がちょっと心配だ。生きているのなら先代に出て来て欲しいんだが...」
「そんな不確かな事を期待してないでさっさと和平すりゃいいじゃないか」
「そうしたら、シェレンス公爵の側としてはディーター王の即位を認める事になってしまう。マクシミリアン王が死亡しているのなら、順番として王太子を即位させるのが筋だろうと言っているんだ」
「あ、そっか。だからドン詰まりなんだ」
両陣営とも相手の言い分を呑めない状況なのだ。
雨が激しくなったようだ。
「イーブ、帰って来られるかな」
ピドーは立ち上がり、窓の鎧戸を下ろした。闇を断ち切るかのような勢いだった。
「壊すつもりか? ちゃんと直すならいいぞ」
「普通は止めるだろ!」
乱暴に椅子を引く。木の床できしんだ。
「どうした? ラドクリフで何かあったのか?」
「別に。ただ天気は悪いし、どうも夢見が悪いし」
「寝る前にあったかい牛乳を飲むんだな。カルシウムも摂れるし寝付きも良くなる、窓も椅子も壊れない。良いことづくめだ」
「へいへい」
父の憎まれ口にはまだ勝てそうにない。ピドーは黙ってスプーンを動かし始めた。
ピドーの仕事は主に父の手伝いだ。一応は調香師の見習いではあるが、作業は多岐にわたる。冬の間は香水の原料となるバラやラベンダーは収穫できない。だから畑の手入れが中心になる。さらに原料や瓶など必要な器材の調達や伝票の処理などもあった。
数日間の作業が溜まっているだろう。ジャックの体調が悪かったのならなおさらだ。
ピドーはせっせと食事を口に運んだ。
」
一方ラドクリフ。ノイエ山脈を背負ったようなラドクリフ城からは市内全域が見渡せる。建築後三百年を経て、白い城壁は灰色と化して陰鬱な重さを湛えている。一時は内戦の影響で町全体が暗かった。実質的な休戦になってから、かなり明るさは戻った。だが明かりの届かない場所がたくさんある。そんな部分には淀んだ暗さが漂い、見えない亡霊が身をひそめているようでもあった。
現在の城主であるシェレンス大公は、執務室の窓際で都市を見下ろしていた。衛兵が随所に控えているが、凛と顔を上げて暗さを敢えて見ていないようでもあった。
装飾の少ない柱がドーム状の天井を支えている。青い地に黄色の星が輝いているのは、古代の天体図であろう。壁一面には森林を縫いこんだタペストリーがかかっている。色はやや褪せて、耐えた時代の長さを物語る。マントルピースの上に並ぶ時計も実用性が勝るデザインだ。全体的にシンプルな内装は、居城というより要塞なのだと示しているようだった。
この城の基礎部分は先住民ティーガ族の建造物だ。グリンクラフト国の大きな建造物にはそういう造りが多い。それほど繁栄を誇っていた一族を滅ぼして繁栄した国家も、今や分裂の危機を迎えていた。
縦に長い窓の外では霧雨が舞っている。シェレンス大公は濃紺の軍服をまとっている。胸には勲章が並ぶ。襟章は大きな赤い星が一つ。これをつけられるのは、シェレンス公爵その人だけだった。きちんと分けた髪は既に白い。やはり白いひげが細い頬と顎を包んでいた。
「ノイエ山脈も雪解けが近いようだな」
そう言って振り返る。テーブルを挟んで立っていた男が軽く頷いた。背筋を伸ばしている。肩も腰も丸く肉がついている。ボールを思わせる体格だ。顔の造作も何となく丸い。すでに壮年の年齢ではあるが、全体的に柔らかい印象だ。
「座りなさい」
彼は無言で席に着いた。用意されていた茶器をおしやり、北州全域の地図を広げる。室内には二人だけだ。部屋の隅にあるオイルヒーターがかすかに唸る。
シェレンス公爵が男の向かいに腰かけた。
「ユリウス、マイン橋爆破事件の詳細は把握したかね」
ユリウス・フォン・フェリックスはころころした指で地図の一点を示した。こげ茶の瞳が隠れた。後頭部はきちんと刈り上げて前髪だけ長い。軍人らしからぬ髪型だ。彼はそもそもグリンクラフト連邦の貴族だった。かつて要職についてはいたが、殆ど名目だけだった。その感覚が十年経っても残っているのか。
「ここと、この周辺で散発的に事件があったのですね」
彼が指したのは、ラドクリフから南東にある大マイン川だった。東西をつなぐマイン橋が落とされた。そこを中心にして、小規模な爆破事件が起きている。
北州の最北にはノイエ山脈がある。夏でも雪が残る連山だ。ソフィアはその麓、小マイン川の上流地域にある。この川は北州を流れて大マイン川に注ぐ。
シェレンス大公の軍は大マインの沿岸部と連邦の北部を制圧している。だから西州の影響を受けずに東州からマイン橋を通って物資が届く。それが北州の抵抗力を支えていたのだ。水路の貿易は北の商人が担っていたのが幸いした。マイン川両岸は南端の最下流域をのぞき、今でも北州の所属だ。西の一部を通らざるを得ないが、そこだけすり抜ければ物資の輸送は可能だ。
「下流部分をのぞいて沿岸部はわが軍が押さえていたはずだが」
「ええ。でも東側から爆破されたらしいとの事です」
「あちらが現国王側に付いたと?」
「いえ、そんな情報は入っていません。一部勢力の独断のようです。内戦は十年を超えようとしています。不満分子が行動を起こしても不思議はありません」
「さらにもつれるか...」
シェレンス大公は息をついた。テーブルの上で組んだ手をじっと見下ろす。
「先代王はまだ見つからない。御姿を現して国民の前で、一言『自分が本来の王である』と宣言さえしていただければ全ては収まる。あるいは既に」
「いいえ!」
ユリウスは首を振った。
「きっとご無事です」
「...そうか。君は陛下のご学友だったな...」
二人とも口をつぐんだ。時計の針だけが時を刻む。闇が西の空から迫る。手をつけられないままのポットはすっかり冷えた。
やがてシェレンスが口を開いた。
「頼みがあるのだが。君の今の統括地ソフィアについてだ」
「...どうぞ。どうせ断りはできないのでしょうから」
ユリウスの憎まれ口にシェレンスの目が細くなる。
「そうだろうね。君には行動力がとてもあるから」
「...お褒めの言葉だと思っておきます」
「その方がいいだろう。思慮深さがあれば更に良いのだが」
言葉の真意がどこにあるのか、老いた表情からは読み取れない。
「今度の頼みは国の為だ」
「僕だって国家に尽くしてますよ! いつだって!」
テーブルに置かれた彼の拳がわずかに震えているようだ。
「でも...本当に国の為になっているのでしょうか。内戦は終わる気配さえない。さらに三番目の勢力が出て来たそうじゃないですか? 一体いつになったら片付くのでしょうか」
「皆の共通の思いだろう。私の願いも叶いそうだな」
相変わらず視線はあまり動かない。言葉の外に、頼みという命令を断ればソフィアの存在がどうなるか。ユリウスは一度だけ唇を噛み、きっと顔を上げた。
「ご命令は?」
「お願いだと言ったかね? 火薬の増産を頼みたい。東からの物資がこれから更に滞るかもしれない」
「ソフィアで? 物資の運搬には不便ですよ」
「そうかな?」
シェレンス大公はひげを撫でた。連邦全土の地図を開く。
ソフィアは北州のもっとも奥に位置する。主に南方面から進む現国王勢力からは攻撃を受けにくい立地だ。しかも川沿いに広がる谷間にある。
「移動は川沿いに入るしかない。東側から山越えのルートもあるが、軍隊が攻め込むには困難だ」
冬は雪が積もる。そろそろ雪解けだが、山道は狭くて分かりにくい。下手をすれば遭難しかねない。地理をよく知る案内人が必要だ。
「ちょうどいい。あそこは珪藻土もある。硫黄も出たはずだ。運搬は小マイン川が使える」
珪藻土は二酸化ケイ素を主成分とする堆積岩だ。珪藻の化石を含む為に小さな孔が無数にある。水分や油分を保持する性質を持つ。それを利用してニトログリセリンを吸収させたらダイナマイトの出来上がりだ。
「原料は調達させよう。ソフィアでは香水の他にも、硫黄と木炭を利用して火薬を自前で作っていたはずだ。増産は可能だろう」
風が強くなったようだ。窓が揺れる。
ふとユリウスが口を開いた。
「かつてグリンクラフト人はたった三千人でこの地に攻め込み、大勝をおさめましたね?」
今のクロイツベルクは、かつてはティーガ族が隆盛を極めた土地だった。
「『花の戦い』と呼ばれていますが、そんな事が僕らにも起こり得るでしょうか」
「グリンクラフトを有利にしたのは、ティーガには無かった火器のおかげだ。現代ではそこまで両軍に装備の差はない。兵士の士気頼みというところか、マクシミリアン陛下を何とか見つけ出すか、或いは王太子殿下を即位させるか...」
しばらく顎をこすっていた大公は、やがて卓上のベルを押した。半円部のてっぺんにボタンがある。
すぐに廊下側の扉が開いた。若い軍人が敬礼をしている。カーキ色の服が少し大きいようだ。
「君は入隊してまだ間がないのか」
「はっ」
彼は一瞬きょとんとしたが、敬礼をしたまま応える。
「...装備に影響が出ないといいのだが...」
ひとり言のように呟いた。改めて彼に向き直る。
「フェリックス卿をお送りするように。それから将校の連中を呼んでくれ」
「はっ」
ノイエ山脈の上空は雲に覆われている。ときおり稲妻が走っていた。まだまだ嵐は続きそうだった。この時、シェレンスはまだシュペトレーゼ・シュルツの望む行き先を知らなかった。
読んでいただいてありがとうございます。
整理します。グリンクラフト王家について。名前とかは、またおいおいと。
アーノルド・フォン・グリンクラフト 長兄。先々代王・内戦前に死亡
長男あり
マクシミリアン・フォン・グリンクラフト 次兄。一度王位に就くが消息不明
ディーター・フォン・グリンクラフト 末弟。現在の暫定的な王
その長男:生後間もなく死亡
その長女:長男死亡後に誕生。王位継承権はない




