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冥界の太陽たち 冥界から四人の王子が復活する時、災いの蟲が来て世界は崩壊する。そしてゲームは始まっていた!  作者: あべ舞野


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冥界の太陽たち 第一話 城壁の町 上

事のはじまり 運命が回り始める

冥界の太陽たち  第一話 上


城壁の町 ~(ノルデン)の州都ラドクリフ


 太陽がどこにいるのか分からない。そんな天気の日々が続く。グリンクラフト連邦国(ノルデン)州の州都ラドクリフの季節は冬だ。北から西に向かって横たわるノルン山脈はまだ真っ白な雪化粧のままだ。

 いつ晴れるともしれない空の下、街も重い灰色にけむる。帽子やベールをかぶった人々は俯き加減だ。足元ばかりに目をやりながら通り過ぎる。だが昨日まで続いた小雪は雨になった。春の訪れも遠くなさそうだ。冬の間は毎日がこんな感じの天気である。わざわざ傘をさす者は殆どいない。

 石造りの建物が大きな通りに沿って並ぶ。雨にぬれ、黒々とした壁のようだ。通りにはたくさんの店がありウインドウは明るい。飲食物や衣服、装飾品に至るまで商品は充実している。内戦中とはいえ州都であり、物資は豊富だ。

 街の中央は小高くなっている。霞んで佇むのは高い塀の城だ。(ノルデン)州を統括するシェレンス公爵の居城ラドクリフ城である。灰色の石が幾重にも積み上げられ、内部の建物を守っている。まるで要塞だ。天高く伸びる塔は市内全域のどこからでも見える威容だ。時折サーチライトが市内を巡る。昼を過ぎたばかりなのに昏い街に光が走る。

 急ぎ足の人々の中に明らかに動きのずれた三人がいる。ゆっくりした足取りだ。時には停まってしまい、通行を滞らせる。

「空が広い」

 と、ピドー・エフェレットが呟いた。三人の中で一番年少だ。雨粒がひっきりなしに顔を打つ。顔をしかめたままだ。雨粒を避ける為か瞼が半分ほど下がり、茶色の瞳を隠している。髪は額に貼りついてじゃまそうだ。それでも上を向くのをやめない。

「子供よね」

 傍らのマリアが呟く。ピドーとよく似た丸い瞳がきょろんと動く。

「何だとコラ。二つしか違わないのに偉そうに。だいたいマリアはいつも」

「偉いの! お姉さまと呼びなさい!」

 湿っている頭を睨み下ろし、ぐいっと襟首を引っ張った。

「ちょ、ちょっと待て! 痛いっ痛い」

「いいから来なさい! ぼーっと立ってるんじゃないの!」

 道路の端に連れて行く。通行人が立ちつくすピドーに迷惑そうな視線を向けていたのだ。マリアは放り出すように襟首から手を放した。

「首が締まったらどうしてくれる......」

 ぶつぶつと抗議する弟の後ろ頭に、さらに軽く平手打ち。

「周囲をちゃんと見なさいっ!」

 きょうだいの小競り合いを苦笑交じりに見ている背の高い青年はイーブ・ルパートだ。がっしりした肩と厚い胸板がコートを着ていても分かる。片手で薄い茶色の短髪を撫でた。細かいしぶきが散る。手をポケットに入れた。紙片を取り出して目を落とす。

「じゃあ、僕は例の商会へ向かうよ。その後、ちょっと人と会うんだ。ここで別れよう。ピドーも親父さんに頼まれた買い物へ行くよね」

 マリアが大げさにため息をついた。

「心配だわ...。私もこの後に分隊に寄るのよ。イーヴにずっと付いていてもらわないと、ピドーが放し飼い状態になっちゃうから...」

 その弟が唇を尖らせる。

「可愛い弟を犬扱いかよ?」

「弟だからこそ心配してんのよ! この愚弟!」

 また口げんかが始まりそうだ。

「まあまあ」

 イーブは肩をすくめた。

「ピドーもラドクリフに来るのは初めてじゃない。店の場所は分かるだろう? 夜に宿で合おう」

「ちゃんと一人で帰って来られたらね」

 マリアがピドーを意味ありげに見つめる。暗に『迷子になるんじゃないの~』と告げているのだ。姉のちょっとした嫌味が分からない弟ではない。勢いこんで何か言い返そうとしていた。

 しかし、もうイーブは二人から離れて歩いていた。振り返って笑う。ピドーはあわててにっこり笑顔を作り、ぶんぶんと腕を振り回した。

 人の行きかう往来だ。また見知らぬ誰かと肩が触れた。

「ごめんなさい!」

 代わりに謝ったのは隣に立っているマリアだ。それでも男は顔を歪めた。

「田舎者め!」

 と吐き捨てる。すぐに立ち去ろうとはしたが、黙っているピドーではない。後ろ姿に怒鳴る。

「だからどうした! そっちこそ目をどこにつけてんだ」

 すぐ横を馬車が走り抜けた。石畳に水が跳ねあがる。またマリアが襟首を掴んで戻した。指にピドーの巻き毛が絡んだ。

「あだだだだ」

「あんたこそ、どこに目があるの! 上ばっかり見てないで前後左右を見なさいって言ったじゃないの」

「う、後ろも? とにかく髪も一緒に引っ張るな!」

「じゃあ次は耳ね」

 ピドーは首を竦めた。まだ引っ張られていない耳を両手で覆う。

「嫌ならちゃんとして。ここはソフィアとは違うんだから!」

 きょうだいの家があるソフィアはさらに北方だ。首都ラドクリフからはバスと馬車を乗りついで丸一日はかかる。

 マリアはまだ言っている。

「目玉は向いている方向しか見えないの、だから顔をまっすぐにしなさい!」

 きっちりと束ねられた彼女の長い髪も湿っている。背筋はピンと伸び、化粧気のない頬は雨で冷えたらしい。赤いコートのせいか顔色がいつもより白いようだ。

「それじゃ後ろは見えません、お姉さま」

 ピドーは髪をぐちゃぐちゃと掻きまわした。細かいしぶきが散る。

「だってさあ。色々な物が見えて気になるんだよ。ソフィアは谷間じゃないか。どこを見上げても、絶対に崖が目に入るんだよな。空がぶった切られているみたいにさ」

「大げさねえ」

 谷間といえ、平地はある。いわゆるU字タイプの土地だ。最上流でなければ、なだらかに丘がせり上がっていく。居住地を構成するのには充分だ。しかしピドーにとっては巨大な壁に見えるらしい。

「そこまでじゃないわよ。それに、ここだってノルン山脈が迫ってるわよ。ていうか、あたしはソフィアの方が落ち着くけどな。ラドクリフは建物だらけ。西(ヴェステン)州の事はよく覚えていないし」

 どこか遠い目でマリアは周囲を見渡した。彼らの生まれ故郷は西(ヴェステン)州だ。

 ピドーは鼻をこすった。こちらも雨で冷えて赤くなっている。

「俺も覚えてない」

 クロイツベルクは連邦国だが王室が存在する。名目上の統治者は王だ。だが現在の状況は混沌としている。

 内戦が勃発したのは九年前だった。王室に後継ぎ問題が起こった。そこから連邦首都のある西(ヴェステン)州で爆破など破壊工作が多発した。その犯人グループが粛清され、混乱に拍車がかかった。

 彼らは(ノルデン)州に住む少数民族だった。ノイエ山脈にあった彼らの集落全てが掃討作戦の対象となった。本拠地を壊滅させるという名目だ。だが誰がテロリストなのか判断が付かない。だから子供を含む全ての住人が対象だった。二つあった集落がどちらも襲われて銃撃後に徹敵的に焼かれた。実行部隊は反撃を受けて負傷者が多数出たものの、作戦は完遂。公式には住民の生存者は確認されていない。これが後に(ノルデン)事変と呼ばれる事件だ。

 実行部隊は未確定だ。現場は(ノルデン)州ながらも、当時バロー伯爵が将軍として率いる西州軍の小隊が滞在中だったからだ。彼の勢力基盤は西(ヴェステン)州と(ズューデン)州にある。それにも関わらず、北での軍事作戦だ。この地方はシェレンス公爵の地元である。だから北州軍の軍事行動とも言われる。また残虐な作戦の是非を巡り、連邦軍の内部で意見が割れた。それは、そのまま連邦軍内部での分裂に繋がったのだ。

 西南軍のバロー伯爵に対抗する勢力の筆頭は北軍のシェレンス公爵だ。王家継承問題を巡って対立が深まり、シェレンスはバローに攻撃をしかけた。(ノルデン)州と西(ズューデン)州の境界が主な戦場となった。決着はなかなか付かない。戦闘は徐々に沈静化して、数年前から実質的に休戦中だ。どちらも側も疲弊してきた。だが和平の交渉はないままに十年目を迎えた。

 そして先日、久々に大きな攻撃が加えられた。単発だったので戦闘には発展しなかった。だがまだ内戦中なのだと改めて世間が思い知る事件でもあった。北州(ノルデン)東州(オステン)を繋ぐマイン橋が爆破されたのだ。物流が滞る。(ノルデン)州にとって打撃だ。

「まだ続くのかなあ。避難したのってまだ六歳だったな。よく覚えてないんだけどさ。谷に行ってしばらくは慣れなかったもんな。空が細長いんだ。太陽が見えたと思ったら、すぐに隠れちまう」

 ソフィアは谷間の町だ。空が明るくなっても陽光はなかなか谷間に届かない。中天に達したと思うと、すぐに反対側の崖に隠れる。

「そこまでいかないわよ。大げさだって!」

「そうかもしれないけどさ。まあ、これだけ建物があってもラドクリフの空の方が狭く感じるなあ」

 現在ラドクリフ市街は内戦中とは思えないほど平和だ。物資も溢れて賑やかな街並みだ。受けた攻撃の傷は修復されつつある。かつての前線は、ここよりも南西部だったおかげでもある。

「この間の爆破事件の影響はまだないんだな。賑やかだけど殺気立ってないもん」

 ピドーが改めて呟く。聞こえてくる音は、ソフィアとはまるで違う。ソフィアでは風が吹き抜けるばかりだ。こちらでは店から流れる音楽や、馬車を引く馬のいななきなど。クラクションも響く。蒸気自動車の方が多い。時には最新型であるディーゼルのエンジンを積んだ車体も通る。

 とっさにマリアの表情が硬直した。通り過ぎる車に鋭く目を配る。

「どしたの?」

 車体が角をまがったのを確認してから、マリアがピドーに向き直った。

「気がつかなかったの? ソフィア師団のお偉いさんたち」

「あ、そっか」

「本当にどこに目がついてんだか」

 降りかかる雨が鬱陶しいようだ。ピドーは犬のように身震いした。

「俺も早く師団に入りたい」

「そんなに暴れたいの? 言っとくけどね、勝手な真似はできないのよ」

「内戦を終わらせたいだけだよ!」

 溶け残る歩道の雪の山を蹴った。煤けた表面が散る。地面に落ちると、すぐに水たまりに同化して溶けた。

 マリアは肩をすくめた。

「あせらなくても、十八歳になったら徴兵よ。あと二年じゃない。すぐよ? それまでに和平条約が締結されるかもしれないし。そもそもあんたに務まるか心配...」

「マリアよりもしっかりしてるぞ」

「どこが!」

 ソフィアには地域の兵士団がある。徴兵期間は二年間だ。その後は続行するか退役かは個人の判断にゆだねられる。退役の場合でも、殆どの若者はソフィアの青年で組織する自警団に加入する。普段は普通の市民として生活し、有事の際は銃を取って戦う組織だ。

 この日のきょうだいに同行していたイーブも例外ではない。五年間を師団で務めた。その後は自警団の主力メンバーとして活動している。

 十六歳にもなってお目付け同伴というのが面映ゆいのか、イーブが去った後にはピドーは少しほっとした表情だ。

「姉貴こそ新兵(ユーゲント)になったばっかりで逃げ出すなよ。ここにも要人警護で来ているくせにサボってていいのか?」

「やかましい」

 ぽこ、と音がした。マリアの張り手が目の前の後ろ頭に炸裂する。

「今日は非番だってば! おバカなおのぼりさんの面倒を見に来てやったの! イーブは用事があるじゃない。まったく、お父さんが風邪なんか引かなければ...」

「頼りにされてんだよ」

「へえ? 取引の場所、わかってんの? もう行かなくちゃ遅くなるわよ。書類は揃えてきたでしょうね? 代金は?」

「今回は掛け売りにしてもらったって」

 後払いである。書類は肩にかけたバッグの中だ。

「やっぱりお金に関しては頼られてないわよね」

 マリアがラドクリフに居るのは弟の付き添いではない。所属するソフィア師団の命によるものだ。たまたま非番で同行しただけだ。

 対して弟のピドーは、体調を崩した父の代わりの来訪である。ソフィアは山沿いにあり、交通が不便だ。大きな店もない。何かが必要な時は、もよりの町へ出なくてはならない。さらにエフェレット家の仕事に必要な材料は州都ラドクリフへ来る必要があった。

「そりゃ大金だから...。大丈夫だよ。品物は頭に入ってるから。エタノール、ガラスの七号瓶、コルク、硝酸カリウム...」

「何のための書類よ? そんなの暗記しといても意味ないわ。観光じゃないのよ。わかってる?」

 マリアの言葉など耳に入っていないようだ。ピドーはまた空を見上げている。

「やっぱり空はすげーや。どこまでも広がってる。あ、ほら」

 指さす先には何が見えたのか。マリアもつられて空を見た。

「なに?」

「あれだって。あそこ!」

 ピドーが懸命に頭上を示す。二人の足は歩道の真ん中で停まってしまった。

 不意にマリアがよろめいた。怒号と同時に、背中を殴られたのだ。

「ぼけっと立ってんじゃない!」

 通行の邪魔になっていたのは事実だ。

「すみま...」

 背中をさすり、振り返ったマリアはまたもよろめく羽目になった。彼女よりも頭二つは超える男が、ずた袋を振り上げたのだ。何が入っているやら、ぶうんと音を立てて右肩の辺りを直撃した。ぼこり、と肉を打つ音がする。膝をついたマリアの頭に蹴りまで入れた。

「マリア!」

 あわてて駆けより、肩に手をかける。マリアの頬が赤くなっていた。

「けっ」

 ぺっ、と男が道路に唾を吐いた。ピドーの眉間に皺が寄る。髪も多少逆立っているようだ。

「あ、こらっ!」

 マリアがあわてて手を伸ばす。ピドーのコートの裾を掴んだ...はずだが、一瞬遅い。湿った布地はするりと指を抜けた。弟は、もう中空に飛び上がっている。コートの重さなど関係ない。男の胸あたりに飛び蹴りだ。

 二人揃って地面に倒れる。派手に水飛沫が上がった。通行人が悲鳴を上げ、左右に分かれる。ピドーはさっと立ち上がった。完全に戦闘態勢だ。

 男はよろよろしている。蹴りが効いたのか、酒が入っているのか。じろりと少年を見下ろし、布袋を放り投げる。拳を握りしめて体の前で構えた。ボクシングの体勢だ。これ見よがしに腕を繰り出して見せる。

 早くも見物人が集まり始めた。

 やれやれ、やっちまえ! と、無責任な声が上がる。

「やめなさーい!」

 マリアの叱咤も空しく響く。ピドーが身を屈めた。男の拳をかいくぐる。わき腹にまずは一発。さっと離れて腰にも一発、膝に蹴り。男の体がぐらりと揺れる。

「もう~~っ! こんな場所で騒動を起こして!」

 マリアはソフィアの師団といういわばよその軍の所属である。そこで関係者が暴力沙汰を起こすのは、とてもまずい。ラドクリフには北全域に駐留しているシェレンスの軍がいるのだ。両軍は友好関係だ。下手をすればそこにひびが入らないとも限らない。

(ピドー、ジャブ行け。そこでアッパー! 早くシメちゃってとっとと逃げるのよ!)

 などと心で呟きつつ、油断なく辺りに目を配る。すぐ近くに消火栓があった。

 二、三ブロック離れた角で、誰かがこちらを指さしている。話している相手は濃紺の制服だ。北州軍ではない。ラドクリフの警察機構だろう。

「ちょっと失礼」

 男の放り投げた袋をのぞく。入っていたのは、ペンチや金槌などの工具だった。

「借りるわよ!」

 聞いてはいない相手だろうが取りあえず声をかける。手早くレンチを選んだ。消火栓に手をかける。マリアにとっては緊急事態だ。

「どうせ、もう濡れているでしょ!」

 一気に栓をひねった。

 真横に水がほとばしる。マリアは手近の立て看板を手に取った。楯にする。流れに当てた。勢いはかなり強い。ちょっとよろめいたが全身で看板の板を支える。水の向きを変えるのだ。奔流が走る。殴り合い真っ最中の二人を撃つ。

「うわぁ」

 同時に悲鳴が上がる。ピドーの髪はくったりと倒れた。男もあわてて一歩引いた。

「正気に戻った?」

 看板を放り投げた。正気に戻った弟の腕をつかむ。

「逃げるのよ!」

「何で? 俺は何も悪いこと」

「勝手に消火栓を開けちゃった」

 マリアがぺろっと舌を出す。

「それ姉貴がやったんだろうが!」

 しかし辺りは大騒ぎだ。警官が足早に近寄って来る。そこを横目に、一目散に走り出す二人だった。

「どこへ行くんだよ!」

「こっち!」

 マリアがピドーを追いぬいた。

「何か困った事になったら行けって言われている場所があるの」

「親父から? 行った事あんのか」

「ない!」

「うわぁ」

「叫ぶヒマがあったらとにかく走る!」

 二人は怒鳴り合いながら人をかき分けて走った。



 昼下がりの食堂に客はまばらだ。もう料理の香りよりも、食後のコーヒーやアルコールなど午後の一杯の匂いの方が強い。店内の隅にあるダルマストーブは胴がほんのりと赤い。天板に置かれたやかんは静かに湯気を吐いていた。

 ウエイトレスはカウンターに寄りかかって大あくびだ。すぐに壁の鏡でメイクのチェックをする。ピンクと白のエプロンが可愛らしい。白いフレアのミニスカートも似合うが、化粧がちょっときつめだ。そのせいで本来の年ごろは逆に分からない。

 厨房の主人は大きな鼻の持ち主だった。苦虫をかみつぶしたような顔だ。せっせと皿や鍋を洗っている。調理台に鎮座する肉の塊は、おそらく夜の部の仕込み分だろう。おそらく早くそちらの作業にかかりたいに違いない。

 雑音混じりにラジオがニュースを伝えている。

「...昨日より来訪中のソフィア師団長との会談を終えたラドクリフ市長は、合同で声明を発表する用意にあると会見で述べました。西部派兵に関する合意と、また、最近東(オステン)州で勢力を伸ばしている政治団体『楽園創世の委員会』への対応を協議する目的の可能性があります。明日にはソフィア師団長は帰路に着く予定で、今回の会談は...」

 奥のテーブル席に金髪の青年シュペトレーゼ・シュルツが座っている。彼は半分以上残してナイフとフォークを置いた。ナプキンで口をぬぐう。それから壁際のウェイトレスに指で合図を送った。無駄がなく流れるような動きだ。青い瞳が向かいに座る男を見つめた。

「食事にまで付き合っていただいてありがとうございます、ヴィプリンガーさん」

「いいえ、問題ありません」

 男の口調は硬質だった。声は低い。少し長めの黒髪に黒い瞳。それは少しも笑っていない。細身の黒いジャケットがどことなく昆虫を思わせる。皿の上の料理はきれいに消えていた。青年よりも一回りほど年上だ。

「シュルツさん、食欲がないのですか?」

「いいえ...今日はあまり動いてないので...。それより、その呼び方はやめて下さい。シュペトレーゼでいいです」

 シュペトレーゼは、はにかんだような笑みを浮かべる。瞳に濁りはない。

「それなら私も呼び捨てで結構です。どうぞルプレヒトと。助手をさん付けする必要はありません」

 ウエイトレスがコーヒーを運んできた。二人の前に置くが、すぐには去らない。

「ふーん?」

 と、つけまつげを上下させてルプレヒト・ヴィプリンガーの顔をしげしげと見下ろす。

「新顔さんだよね? あんたも研究所の人?」

 ルプレヒトはちらりと向かいの青年を見た。返答をどうしようか迷ったようだ。代わりに彼女に尋ね返す。

「研究所の方たちは、いつもこちらで食事を?」

「そうよ」

 彼女の言葉を裏付けるように、入口近いテーブルに座る初老の男性は研究所の制服を羽織っている。年齢から受ける印象よりははるかにがっちりした体格だ。上着は肩のあたりがきつそうだ。しかし手と口を動かす動作は優雅といってもいいほどのんびりしていた。

 シュペトレーゼが軽く会釈する。研究所の先輩だ。ウエイトレスが振り返る。

「午後のサボリにも来るよ」

 しっかり聞こえているようだ。老人は穏やかにほほ笑み、軽くカップを掲げた。ウエイトレスはウインクを返す。

「この辺には、ここくらいしか食堂がないしね」

 と、顎で窓を示す。ガラス窓には幾つもの白い筋が走っている。雨続きのせいで、毎日拭いてもすぐに濡れたままになる。その曇ったガラス越しに灰色の塀が見える。一つのブロックが丸ごと囲まれている大きさだ。塀の上には鉄条網が巻かれていた。数多の刺は水しぶきを弾きながら鈍い銀色を放つ。監視カメラも数メートルおきに据えられている。黒々とした鋼の枠に収まり、軽いうなりを上げる。まるで刑務所のような外観だ。しかし建物自体は茶色のレンガ張りで、窓に鉄格子があるわけではない。適度に高い樹木も塀越しに見える。

「殆ど職員専用の食堂よね。良いお客だわ。でもここにお昼を食べに来るって事は給料が安いんでしょ。市立の研究所なんて、お役所みたいなもんなのかしら。ね、シュペトレーゼさん」

 いきなり肩を叩かれて少しとまどったようだ。しかし、ゆったりとした笑みを浮かべる。

「そうですね。でも僕は大学を出たばかりなので給料の事は何も言えません」

 離れたテーブルから不意に野太い声が上がった。

「内戦に参加する勇気がない奴っているよな」

 そこには若い数人の男が座っている。ランチを終えてものんびりしていた一行だ。カーキ色の制服を着ている。肩と胸には階級章があった。ベルト通しには通信機と小型の銃。警察組織ではない。シェレンス大公が率いる北軍兵士だ。彼らはシュペトレーゼを見てはいなかった。見かけ上はお互いに話をしているだけだ。

「大学出ても仕事がないんだろう、このご時世は。何せ(ノルデン)州から出て職探しなんぞできないからな」

「そうそう。警察か、軍か、負け犬になるしかない」

「歴史研究所だとさ。一体何の役に立つ? 何か創るわけじゃない」

「土をほじくり返しているだけ」

「ラドクリフ市の税金で食っている。寄生虫みたいなもんだ。(こころざし)があるなら俺たちのように戦闘に参加するよな」

 声は大きい。シュペトレーゼを無視した格好ながら、わざと聞かせているようだ。ウエイトレスが彼と親しげなのも気にいらないのかもしれない。

「ふん、また始めたよ」

 彼女は肩をすくめた。シュペトレーゼの肩に手を置いたまま、彼らに怒鳴る。

「聞こえてんだよ、暇つぶしども!」

 彼らは口をつぐんだ。じろり、と一斉に瞳がウエイトレスに集中する。一人がそっぽを向いたままで言った。

「俺らは自分たちで話しているだけだ。働きもせずに暇をつぶしているのはどちらさんだろうな?」

 シュペトレーゼは顔を伏せた。静かな笑みは相変わらずだが、眉がわずかに歪んでいる。少しだけため息をついたようだ。視線はテーブルに落ちているが何も見ていない。

 ルプレヒトが静かに立ち上がった。さほど表情は動いていない。黒曜石のような瞳は凍りついている。しかし全身からブリザードが吹き出しているかのようだ。何か言いかけたウエイトレスは言葉を飲み込んだ。シュペトレーゼも一言も発せない。ただ、彼らに歩み寄る背中を眺めているだけだ。

「何だよ」

 男たちが身構える。ルプレヒトは身を屈めた。低い声で二、三言を囁く。すると、連中は不意に座りなおした。全員が軽く握った拳を揃えた膝に置く。背筋がピンと伸びた。不貞腐れた表情は消えた。緊張が頬に浮かんでいる。

 ウエイトレスは鏡越しに見た。ルプレヒトからは表情が消えていた。ただ鋭敏なナイフのような冷たさが顔にあるばかり。

 振り返った時には元の無表情だった。ぽんぽん、と後ろ手で制服の肩を叩く。そしてゆっくりと席に戻った。彼が座るなり男たちが立ち上がった。無言のままレジに直行した。さっさとドアを抜ける。足早に去るのが窓から見えた。

 会計を終えたウエイトレスはさっそく皿を下げた。厨房へ入る。泡だらけのシンクに皿を放りこんだ。その場のコックに尋ねた。

「あれ誰よ? 研究所の新人...シュペトレーゼさんと座ってる奴。黒い蜘蛛ってゆーか、カマキリみたいな奴」

「さあな」

 コックは席に目をやりもしなかった。大きな鼻を人差し指でこする。流しの洗い桶にお玉を放りこんだ。泡がはじける。

「誰だっていいさ。よく喰って、きれいに払ってくれるのが上客だ」

「ふうん...。でもさぁ、どうして研究所をあんなに厳重に囲んじゃったんだろう? カメラも鉄条網もくっつけて。たかが大学の付帯施設じゃない? そんなに危ない研究を始めたとか。あ、放火と車が突っ込む事件があったわね。そうね...シュペトレーゼさんが来てからじゃない? そもそもシュルツさんって」

「よくある苗字だ。そもそも...おまえもな!」

 コックは泡だらけの指を立てた。

「余計な詮索なんかしないで、空いた皿は今みたいにとっとと下げる! テーブルはきれいに拭く! 客にはお愛想。俺は上手い料理を作る。それがいい従業員ってわけだ」

「はいはい」

 フロアではシュペトレーゼとルプレヒトも席を立った所だった。ウェイトレスはレジに向かった。

「会計は? 一緒? 別々に?」

 財布を出したシュペトレーゼは、きょとんとした。

「あんたねえ、また百オイロ札と二十オイロ札の区別がつかないってんじゃないでしょうね?」

「あ、いや、そうではなくて」

 そう言いながらも、もたもたしている。とうとう傍らの男が自分の財布を出した。

「一緒で」

 さっさと会計を済ませ、領収書までもらう。シュペトレーセは感心したように眺めている。

「二人分をまとめて払うとお会計が速いですね」

 と、一人で納得している。

「あ、でも僕は誰に代金をお支払いすればいいのかな?」

 どうやらウェイトレスの『一緒、別々』という言葉の意味が今一つ分かっていなかったらしい。彼女の小馬鹿にしたような、呆れたような顔を背に、ルプレヒトがドアを開けてやった。

 雨は霧となって光景の中で舞っている。黒い男は光がないのに眩しそうにシュペトレーゼを見下ろす。

「後でいただきます。すぐに戻りましょう」

「そうですね」

 ベージュのコートの襟を立てる。左右に鋭い目を配った。さほど広くない道を横断しようと踏み出す。

「どけどけぇ!」

 少年の叫びが響き渡った。

 目つきが一瞬で変わる。ルプレヒトはさっと腰に手を当てた。シュペトレーゼの前に立つ。そして素早く状況を観察する。

 茶色の髪の少年と、まだ少女の面影を残す女性が転がるように走って来た。まっすぐこの店に向かっているようだ。少年の方はひどく濡れている。ズボンが足にまとわりつくのだろう。何度も転びかけていた。すぐに怒号が追いかけてくる。濃紺の制服は警察だ。

「待て! そこの二人!」

 シュペトレーゼは呆気に取られているだけだ。そこを横目に助手は呟いた。

「...賑やかな連中が多い...。やっぱり春が近いのか...」

 辺りを見渡す。食堂の横にお決まりで置いてあるのはゴミ箱だ。ルプレヒトの手が小さなかごを持ち上げた。金属製だ。野菜のくずが満載である。でも手ごろな大きさだった...投げるには。中身をまき散らして宙を飛ぶ。狙いは違わず、少年の膝に命中した。転がるカゴに足を取られ、無様に引っくり返る。バッグが道に落ちた。

「あでででで」

 頭からつま先まで、キャベツの芯やニンジンのシッポまみれ。少年は頬をこすった。茶色くへばりついていたのはジャガイモの皮だろう。

「ピドー!」

 少女は叫んだ。だがあきらめたか、その場で停まった。息を切らした巡査が追い付く。

「ご協力をありがとうございます」

 敬礼をしてから、道路の二人に近寄った。少年の髪から水が滴っている。不貞腐れた表情で、座り込んだままだ。巡査越しにルプレヒトを睨みあげる。

「やってくれるな、オッサン」

「人の年齢を勝手に判断しないでもらおうか」

「知るか!」

 がん、とかごを道路に叩きつける。

 対して、少女の方は背筋を伸ばして立っている。硬い表情だ。巡査に向って敬礼する時、ちょっと顔をしかめる。

「お疲れ様です!」

「何の騒ぎ?」

 初老の巡査は、半ば二人をなだめるような調子だった。追いかけていたのがまだ子供といってもいい年頃の男女だったからだろう。

 内ポケットに手を入れ、マリアは手帳を取り出す。写真の付いた頁を開き、巡査に見せた。この時も、ぴくっと肩が震えている。痛みで動かしにくい。

「お騒がせして申し訳ありません。自分はソフィア師団新人(ユーゲント)のマリア・エフェレットと申します。あちらで座っているのは弟のピドーです。軍属ではありません。事情は自分が説明させていただきます」

「師団兵? ちょっと待って。確認するから」

 巡査は腰の通信機に手を伸ばした。マリアは私服だ。身分証の内容を照会するようだ。

 ルプレヒトはシュペトレーゼを背中に隠すようにしている。彼らのやり取りを伺う。巡査の声がする。

「そういえばソフィア師団長がラドクリフに滞在中でしたね。師団兵がいても不思議ではないですが」

 そう言ったとたんにピドーがきっと顔を上げた。睨んでくる。小声だったのに聞こえたようだ。

「いちゃ悪いのか。確かに田舎者さ。そこへ逃げ込まなくちゃならなくなったのは俺たちのせいじゃない。シェレンス公が起こした内乱だろうが!」

「ピドー!」

 マリアが制する。腕を上げるなり呻いた。

「つ...」

 袋の中身は工具だった。布ごしとはいえ工具で殴られたのだ。時間が経つにつれて痛みが増してくる。ピドーが座ったままで姉を見上げた。心配そうな視線に気が付いたマリアは少し笑ってみせた。

 ルプレヒトは彼女の額を見ていた。蹴られた場所だ。赤い痣が浮いている。

「大丈夫」

 マリアは首を振った。新兵とはいえ軍人のはしくれだ。体術の訓練を受けている。それなのに酔っ払い相手に殴られ、蹴られてしまった。彼女にとっては悔しい出来事だ。

(せめて一発蹴り返してやりたかった...!)

 と、つとめて冷静さを保とうとする表情の裏で思っていたりする。

 巡査がひと際大きな声を出した。

「はい、了解しました!」

 通信機を定位置に戻した。マリアに声をかける。

「あんたの身分は確認できたよ。確かに非番中の新人(ユーゲント)さんらしいけど、よその縄張りで騒ぎを起こすなんていい度胸だねえ。分隊に顔を出してくれとさ」

 そして、まだ座っているピドーに声をかける。

「相手をぶん殴ったって?」

 ピドーは頬を膨らませた。

「あっちは金槌でマリアをぶっ叩いたんだ。こっちは素手だぞ。それにやられたからって、悔し紛れにケーサツに泣きを入れたのか。情けねえ」

「とにかくね」

 巡査は腰をかがめた。ピドーと同じ目線になる。敢えて優しい声を出しているようだ。聞き分けのない子供をなだめている気分らしい。

「身分証見せて」

「へいよ。俺は調香士の見習いなんだ。ソフィアの技術者組合(ギルド)の...ん?」

 バッグを引きよせ、あちこちに手を突っ込む。封筒に水が落ちた。ぐちゃりと押し込み直す。それからコートを探った。外ポケット、内ポケット。そしてズボン。立ち上がる。水滴のぽたぽた落ちる体中をぱんぱん叩く。だが何も出てこない。

「うわぁ! 財布もねえ!」

「この愚弟が...」

 頭を抱えるマリア。いかにも呆れた様子に弟が怒鳴った。

「てめえが水をバンバンぶっかけるからじゃねえか!」

「そもそも原因を作ったのは誰?」

「ぶつかった野郎だ」

「あんたよ! おのぼりさん丸出しできょろきょろしてるからでしょうが!」

 突如きょうだい喧嘩が始まる。初老の巡査がため息交じりで見ている。そのうちにもう一人の巡査がやって来た。こちらは若くて体格もいい。老巡査に敬礼すると、むんずとピドーの両腕をつかんだ。

「じゃあ、ちょっと一緒に来てもらおうか?」

「ちょっと待て! 財布を落とした! 警察なら探せよ!」

 老巡査はため息交じりだ。

「身分証がないんだろう? とにかくここじゃナンだから落ち着いた場所でゆっくり話を聞かせてもらうよ。新人(ユーゲント)さん、それでいいかな。後で師団の方へ連絡入れるから」

「自分も同行します」

 財布が...と暴れる弟を横目に、マリアもがっくりと肩を落とした。巡査は肩を竦める。

「いいよいいよ、お嬢さん。後で引き取りに来てくれりゃ。先に分隊に行ったら? まずはこいつの頭を冷やしてやらないといけないし」

「...はい...」

「ま、これだけ濡れても冷えない頭だからねえ」

「...お手数かけます...」

 さらにマリアを落ち込ませる一言だった。巡査たちは去る。もちろんピドーの怒鳴り声と一緒に。

 ルプレヒトとすれ違いざまピドーが顔をしかめた。足を停める。

「今日、銃を撃っただろう」

「ほう?」

 否定も肯定もしない。何を考えているのか見せようとしない。その表情を少年が睨み上げる。

「俺には分かるんだよ」

 巡査がさらに彼の腕を引いた。

「ほらほら、分かったから」

 不審さと怒りとないまぜの表情だがやっと大人しくなった。ルプレヒトをじろじろ見ながらも素直に連れられて行く。

「はああ...」

 マリアはぐったりしていた。

 ルプレヒトが声をかける。

「失礼。さしでがましい真似をしてしまいましたか?」

「いいえ、自業自得」

「あなたは怪我を? 金槌で殴られたと弟さんが...」

「大げさな。工具の入った袋ですよ。肩だし」

 じゃあ、とマリアは一礼をした。

「手当をした方がいいんじゃないですか」

 と、シュペトレーゼが研究所を示す。

「僕はここの所員なのですが、よろしければ救護室もありますから」

「ご心配なく」

 マリアは笑った。

「これでも師団兵ですから。ちょっとした打ち身なんか、いつもですよ」

 それに、とちょっと表情がひきしまる。

「駐屯所へ事情を説明に行かないと」

 どのように話が伝わったのか。それが心配だった。イーブにも連絡をしなければいけないだろう。胸から下げたペンダントを服の上からそっと撫でた。金属の枠にきっちりとおさめられたコインが下がっている。かつて西(ヴェステン)州から脱出した時に持ち出せた数少ない物の一つだ。いつも身に着けられるようにと父がチャームに作り替えてくれた。勝手にラッキーコインと名前を付けて持ち歩いている。

(大丈夫、大丈夫...)

 撫でているうちに少し気持ちが落ち着いてくる。

 マリアは店の看板を見上げた。唇を噛む。困った事があったら向かうように父から言われた場所『シュルツの店』は目の前だ。あと一歩だった。だが、もうトラブルは警察沙汰だ。

 すぐに目を戻した。二人に敬礼をする。軍隊風に勢いをつけて方向転換した。靴にまつわりつく水を蹴散らすように、足早に立ち去った。

 シュペトレーゼは心配そうに彼女の後姿を見送った。

「どんな揉め事でしょうか。あんな子供たちが追いかけられて、怪我をして...。気の毒に。何か事情があるのかもしれません」

 ルプレヒトは腕を組んだ。指で顎をとんとん叩く。

「ソフィア師団か...。後でちょっと調べてみましょう。さて、では我々も戻りますか」

 通りに背を向けた。

 だが、シュペトレーゼはその場に留まっている。ポケットに両手を入れて空を見上げていた。

「昼休みはまだ終わりじゃないですよ」

 水が降りかかるのが気持ちよさそうだ。

「この十年、ずっと学校と寮の往復ばかりでした。寮も構内だし、結局は一歩もキャンパスの外に出ませんでした。こうやって外を歩けるなんて不思議な感じがしますよ」

「...今は私がおります。かえって」

 自由がなくなったのでは、と飲み込んだ言葉を察したのだろう。大きく首を振る。

「いいえ。出歩けるようになったのは、あなたが来てくれたおかげです。ありがとう」

「お礼など。仕事ですから」

 シュペトレーゼの顔は、まだ天を向いている。

「戸外で空を見られるのは、本当に素敵ですね。広い...。本当に、どこまでも続いている...どこまでも...」

 ここからも丘の上の城は見える。しかし、それさえ彼にとっては外界の景色の一つに過ぎないのだろう。遠くにノルン連邦も見える。頂は真っ白だ。

 シュペトレーゼがうっとりとしている間にも、ルプレヒトは周囲に目を配っている。すると、小さな動きに気が付いてしまった。濡れた路面を茶色いヤツがよろよろ歩いているのだ。おそらく野菜くずに紛れこんでいたのだろう。一匹見かけたら三十匹はいると噂される連中である。ルプレヒトの眉が跳ねあがった。ふっと息を吐き、目を逸らす。その視線の先に、緑色の財布が転がっていた。それを拾い、ポケットにしまった。

「そろそろ行きましょう。ウエイトレスさんがこちらを見ています」

 いささか声が上ずっているようだ。

「ええ」

 だがシュペトレーゼは気に留めなかった。ようやく足を動かした。灰色の壁の中へ。カメラが音もなく動く。彼らを確認してから鉄の扉がきしんで開いた。先日の車両突入の傷がまだ残っている。

 鉄条網の絡んだ塀を横に内部に入った。門の横には新たに作られたばかりの詰所がある。銃を携えた護衛が目礼を送って来た。

 敷地の芝生は冬枯れの色だ。そこを縫うように石が敷き詰められた道がある。幾つかの建物があった。全て同じ色のレンガ造りだ。彼らが住む職員の寮もその中の一つだ。

 一番大きな建物に向かった。その出入口にも、両側に護衛がいる。二人に敬礼を送る。受付で入館者台帳を確認してもらって、入館証を首から掛ける。それからようやく内部へ入れる。廊下の窓ガラスは鉄線入りだ。

 シュペトレーゼの研究室は地下だ。そちらへ行こうとして、女性の職員に呼び止められた。

「所長がお呼びです。すぐにいらして下さい」

 二人は彼女について二階の所長室へ入った。大きな木製の机と天井まである棚の前で白髪の男性が待っていた。彼は立ったまま二人に向き合った。

「先ほど連絡を受けました。『シュルツの店』の前で騒動があったらしいですね」

 口調はていねいだ。シュペトレーゼはちらりとヴィプリンガーを見た。あの騒ぎが何か、彼は全く分かっていない。ただの傍観者に過ぎなかった。

「申し訳ありませんが、僕には子供たちが走って来たようにしか見えませんでした」

 所長が目だけでヴィプリンガーに発言を促す。

「詳しい事は不明です。おそらくソフィア師団が関わっているようです。特にテロ関係ではないかと思いますが、検証が必要かと存じます」

「そうか」

 しばらく考えた後、所長が口を開いた。

「少し危険な事件が周囲で頻発するようになった。まさかとは思うが、情報が洩れている可能性がある。しばらくシュルツ君をここから移動させたい」

 シュペトレーゼは俯いた。それからすぐに顔を上げる。

「それなら行きたい場所があります。北の遺跡を見たいのです」

「ふむ...それならば」

 本棚に歩み寄る。所長は地図帳を出した。机で広げる。

「緊急避難的な場所の候補の一つです。ここなら重点地域ではありません、大きな産業もない。そして先住民の遺跡があるかもしれません。集落への出入口も一つだけ」

 そして顔を上げた。覗き込んでいる二人に、その地を指でとんとん、と叩いて示した。

「ちょうど師団が来訪しています。彼らと同道すれば安全でしょう。もちろん引き続き人は付けます。どこへ向かうか、知らせるのは他には護衛だけです。くれぐれもご内密で」

 彼が示した場所は、北の果ての町ソフィアだった。






 




読んでいただいてありがとうございます。

情報量がいっぱい…。

お付き合いくださると嬉しいです!

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