冥界の太陽たち 第四話 上 北の南の境界の町アディート
謎の少年との再会
マリアが小虎と名付ける
彼の正体と目的は?
冥界の太陽たち 第四話 上
北州アディート 北と南の境界の町
黄色い砂ぼこりが巻き起こる。キルヒェガルテンのいつもの朝だった。
エフェレットきょうだいは朝のうちにチェックアウトした。それからバス停近くの広場に行った。通勤の時間帯なども過ぎているようだ。人通りも交通量もさほど多くはない。たまに商業用のトラックが通る程度だ。
マリアとピドーは少し離れて立っていた。まだ朝の白さを残す陽光が二人を照らす。
「姉ちゃん」
マリアが目を細める。弟に顔を向けた。眩しさばかりではなく、真面目な声に不審を感じたようだ。ピドーは鼻をこすった。ハンナに聞いた話をまだ全て伝えていない。母親の死の状況を口にするのはかなりの覚悟が必要だった。
そんな悲壮感が少し間違って伝わったらしい。
「何? もうお腹が減ったの?」
「違うよ! その...ハンナさんに聞いたんだけど...。何て言うかな...」
「双子の騒ぎ以外にも何かあったの?」
「うん...まあ、その...」
「あったのね!」
ごん、とバッグが宙を回った。ピドーの背中に命中する。焦れたマリアの実力行使だ。
「いてえ!」
それでも少し笑顔になってしまったようだ。マリアが口をとがらせる。
「それで! 何を笑ってんのよ」
もう一発くらう。
いつも通りだ。ピドーは何だか嬉しかった。というよりも、彼女から喝を入れられてほっとする。見知らぬ土地でも、色々な出来事があっても、姉は姉だった。おかげで心が決まる。
「笑ってねえよ。夕べ聞いた話なんだ」
一息入れる。
「母ちゃんの事件を聞いた」
「事件? ...聞こうじゃないの」
偉そうなセリフの後にマリアは腕を組んだ。顎を上げてまるで何かに挑むような姿勢だ。やはり詳しく知らなかったようだ。辛い話だが黙って聞いていた。相槌も殆ど打たない。本当に聞いているのかと時々横顔を窺ったが、遠くを見つめているだけだ。
さほど長くない話はすぐに終わった。マリアは俯いた。もしや泣いているのかと覗きこむと、彼女はむすっと唇をへの字に結んでいる。あごに皺が寄っていた。
「腹が立つわね!」
「ああ...。うん。一体だれがそんな真似を」
「違うわよ!」
ピドーはきょとんとした。マリアの鼻から大量の息が噴き出した。
「もちろん殺した奴が一番悪いわよ。でもね、その話が本当だとしたら腹が立つったらないわよ。お母さんたら自分で命を投げ出しちゃったんじゃないの! それも他人の為によ?」
「待てよマリア。そんな言い方したら」
「する。するわよ! そんな死に方、私は許さない。もしもアナスタシアさんだけが助かっていたら、彼女はどう思うかしらね?」
「え...母ちゃんに対して? そりゃ...一緒に来てもらったばっかりに...とか」
「そんなの当たり前!」
白くなるほど唇を噛む。
「ごめんなさいとか、申し訳ないとか! それこそ死ぬほど後悔するでしょう。残された方は一生負い目を感じていなくちゃならない」
生き残った辛さも罪悪感も全て抱えた人生だ。幸せを感じる事もあるだろう。しかし甘受できるのだろうか。また全てを忘れたふりをして楽しく暮らしたのなら、死んだ者も残された家族もいたたまれない。
「でも...だって突然襲われたらしいよ」
「だから最初から行くべきじゃなかったのよ。でも行った。それなら何としてでも生き延びて欲しかったわ」
「じゃあ母ちゃんは彼女を見捨てて逃げればよかったのか? そんな真似をする母ちゃんを許せるのか」
「許すわよ! 許す。お帰りって言って抱きしめる。美化された死人なんて要らないのよ、私は! 汚れていても傷ついていてもいいの。生きていて欲しいの」
マリアの視線がまっすぐピドーをとらえた。迷いはない。
「死んじゃダメなの。お母さんも、もちろんアナスタシアさんも生きてなくちゃダメだったのよ。どんなに格好悪くたって卑怯だって生きなくちゃ」
それが不可能な状況もある。だからこそアナスタシアとロッタだけではなく、随行者も命を落としている。マリアにも分かっている。彼女の怒りは理不尽さへ対するものかもしれない。
ピドーはハンナの言動を思い出していた。
...私はね、もういつ死んでもいいのよ...
預かった赤ん坊を守り抜いた。自分を狙う銃口に臆せず、逃げようとはしなかった。彼女の発言の真意は分からない。
「私は死なない」
マリアは対照的な宣言をした。
「気の済むまで死んでなんかやらないから。そうね、百歳までは生きてやるわ」
残された者の悲しみを知っているからだ。同じ思いを誰かにさせたくはない。ピドーは大きく頷いた。
「そうだな。姉ちゃんなら百二十歳はいくわ」
「任せなさい」
マリアは笑った。
やがて紺色の車がやって来た。ほこりで白っぽくなっている。クラクションが鳴った。二人の手前で停まる。運転席の窓が下がった。イーブ・ルパートだ。枠に肘を付いて少し顔を出す。
「待たせたな」
「ありがとう!」
マリアが駆け寄る。
「無理を言ってごめんね」
「構わないよ。乗ってくれ」
腕を伸ばし、助手席のドアを開ける。マリアはさっさと乗った。
ピドーが何か言いかけてやめた。大人しく後部座席に乗る。バックミラーで弟の顔を見るなりマリアが言った。
「どうせ寝るんでしょ? 後ろの方が横になれていいわよ」
「へいへい」
まだ寝るとも言っていない。しかしマリアが言ったら決まりである。エフェレット家の掟だ。移動中にソフィアの様子など聞きたかったのだが、仕方が無い。荷物をクッション代わりにする。ピドーはシートに深く身を沈めた。
その様子を、ミラー越しにイーブが確認した。
「行くぞ」
「おう、ありがと」
すぐに発車だ。
糸杉の森は背後だ。砂ぼこりの向こうに黒く横たわっていた。みるみる遠ざかる。夕べの騒動を彼らは知らない。また訪れる人も少ない場所だ。管理人の運命と森の惨状を、住民さえまだ気が付いていなかった。
マリアはひっきりなしにしゃべっている。夕べの食事の内容とか宿の備品への不満などだ。イーブはいちいち相槌を打ちながら聞いている。
ピドーは腕を組んで目を閉じた。静かなのが気になったのか。ちらっとマリアが振り向く。
「もう寝ちゃってるわ」
「起きてるよ」
目を開けずに返事をする。明け方には、また『東の赤』の夢を見た。けれどもうなされるほどではなかった。色はぼんやりと薄くなりつつあり、映像の焦点もぼけてきた。眼前に迫るようなリアル感が薄れた。幻影はまさに夢の中の出来事だ。
(そういえば、いない...)
襲撃の後、いつも傍らに『東の赤』がいた。部屋の隅や暗闇を駆ける車外の窓の外にも見えた。何をしていても、どこにいても感じていたのだ。それなのにいつの間にかどこかに行ってしまった。夕べのジーノチカの話からすると、仮契約の期間中なのだ。残りが少なくなっていく。同時に姿が遠くなる。また、あの呼ばれる夢も遠くなりつつあった。
マリアの話はティッシュバン家へ移っていた。
「でね、その人が男なんだけどジーノチカって。会った事があるみたいなんだけど、赤ん坊じゃ覚えてないわよ!」
「ティーガの文化に詳しいんだっけ?」
「暦と太陽神話の話ばっかりよ。それでホテルなんだけど、皆さん親切でね。チェックアウトの時に」
太陽神話にあまり興味がなさそうだ。違う方へ流れていきそうなのをイーブが引きもどした。
「神話って...これから向かう東州の神殿について?」
「イーブも知ってるの?」
「いいや。ちょっと親父さんに聞いただけだ」
「世界の破滅ねえ...。ティーガの伝説なのに、みんな信じているのかなあ」
「どうかな。でも信じた故の暴走ってのいうのもありそうだ。経典っていうのか? 教えをあまりに忠実に守ろうとするあまり、本来ならば間違っている方向なのに進んでいく...確信犯だね」
「うーん。でも、もうティーガ族自体の勢力はいないはず」
北事変は十年前だ。大きく事件を動かせるほどの生存者がいるだろうか。
「あ、そういえば」
マリアがまた振り返った。手を伸ばし、ピドーの膝を小突く。
「ティーガ族に会ったって?」
「うう」
今度は本当にまどろんでいた。シートからずり落ちそうになっていた。座り直す。あくびをして髪をかこうとした。包帯に指をひっかけてまた唸る。
イーブが声をかけた。
「ピドー、どこで会ったんだ? たくさんいたのか?」
「ううん、一人。チビだよ。話もしてねえや。七、八歳...にしては表情が渋いっつーか、大人っぽいっつーか。十歳くらいかも」
「って事は、北事変前後の生まれか」
「そうだろうな」
舗装された道路になった。民家ばかりだが建物が増えてきた。左右は畑だ。もう植え付けが始まっているようだ。茶色の地面に転々と緑がある。なだらかな丘陵地帯には田畑が広がっている。果樹園などもあった。
「全滅させたといっても、生き残りはいるだろうな。運よく逃げたか、ランデスヴァルトを離れていた者とか。バロー伯側が探しているらしい」
「ポスターを見たわ。見つけ出してどうするつもりかしら」
キルヒェガルテンのポスターでは、安全を保障しての保護を呼びかけていた。それが本心なのかは分からない。
「分からん。だがシェレンス公側でも探してはいるようだな」
「何で」
「そりゃそうだろう?」
生き残りがいるのなら証言を得られる。もっぱら北軍だと言われている北事変だ。テロ撲滅を理由にしても少数民族を圧倒的な軍事力で抑え込んだのだ。どちらの軍が起こしたのかはっきりする。残虐さを国民に伝えられたら、世論を味方にできる。一気に内戦の方向が変わる可能性が大きい。
「連絡先は聞いたか?」
「いいや」
一瞬だけの邂逅だ。
「また会うような事があったら連絡をくれ」
「う~ん...」
ピドーは額をかいた。
「会いたくないなあ...」
手首に残る冷たくよわよわしい力。対照的に圧倒的な勢いで迫る『東の赤』の幻影。さらにピドーを戸惑わせるには充分過ぎた。ピドーは大きく首を振る。
「けっこう臭いが...なあ」
着替えはもちろん、しばらく入浴をしていないようだ。
「もし会えたら、風呂に入れてやるって言うわ。どっちかに出頭しろって」
「こっち側だよ」
イーブが眉をひそめた。でも口元が笑っている。苦笑いだ。ピドーにしてみたら会えるきっかけなど思いつかない。どうでもいいような発言はそのせいだろう。
「分かってる」
また座り直す。
イーブがマリアに尋ねた。
「あの二人組はどうした? 北へ戻るのか?」
話しはシュペトレーゼとルプレヒトに移った。
「どうかしら。朝はもう宿にいなかったわよね?」
「ラドクリフだとさ」
ピドーが大きく伸びをした。
「戻るって。夕べのうちに車を呼んで行っちまったよ」
マリアが部屋に戻ってすぐだった。ルプレヒトはロビーに電話をかけに行った。車が迎えに来るまでさほど時間はかからなかった。どこから誰が来たのかなどの細かい情報は何もピドーには告げない。さっさと二人は宿を出た。最初の言葉の通り、ルプレヒトは全員の二泊分の支払いを済ませてくれていた。それはピドーのみならずマリアにもありがたかった。
「やっと離れて行ったなあ。そうだ、イーブ」
ピドーは運転席のシートに肘を乗せた。顔を突き出す。
「家に石版を持って来てくれただろ? 誰から渡されたんだ?」
「ん? 帰る時に受付から預かった。ランドリーにあったって。昼のうちに最後まで残っていたのはピドーだろう」
「ああ...。そうかあ...」
シュペトレーゼが忘れて行ったのだ。後に出たピドーも置いて行ったのだが、彼が忘れたと思われたのだろう。
景色が飛んで行く。空は澄んで青さを増した。ラドクリフやソフィアではめったに見られない春の晴天だ。少しだけ窓を下げた。柔らかい風が吹き込む。青葉と土の匂いがする。畑以外の場所にも緑が溢れていた。太陽がまばゆい。光の当たらない方へ身を寄せた。そのまま横になる。振動がむしろ心地よかった。眠くはないはずなのに振動が心地よくて自然と目が閉じていく。
瞼の裏に赤い光が浮かんだ。けれども遠い。口にくわえられているレイナーも黒くぼんやりした塊にしか見えない。少しは気が楽になる。そんな自分が少しだけ情けない。彼は自分の為に死んだともいえるのだ。
(天国に行けよ、レイナー...)
せめて強く願う。
睡魔の奥から誰かに呼ばれているようだ。『東の赤』でない。ソフィア襲撃の前から断続的に続く夢だ。師団内のランドリーでも感じた声だった。何を言っているのか全く聞き取れないながらも、ひどく不穏な気持ちにさせられる調子だ。足元に広がる黒い闇。それがしっかりと形を取り始めた。
(何...? またあの夢が...)
不意に中断される。
「起きろ! 大丈夫か?」
乱暴に肩を揺すられた。運転席からイーブが手を伸ばしている。寝入ってしまったようだ。口が半開きだった。少し唸って目を開ける。唇の回りを掌でこすった。濡れている。よだれだ。
「う~。俺、うなされてた?」
「ああ。ひどく唸ってたぞ」
後部座席からマリアが下りた。助手席のドアを開ける。大きな通りの端に停まっていた。少し先には広場がある。その向こうは駅舎だ。広場に沿って湾曲した造りだ。二階建てのようだがもっと高いように見える。
物流の一角を担う町でもある。ひっきりなしに車や馬車が通っていた。石畳の減り具合が通行量の多さを物語っていた。町の規模はラドクリフにはかなわないが、賑やかさと華やかさにあふれている。人々の服装も明るい色が多い。ロータリー沿いには屋台が幾つか並ぶ。アイスクリームや肉の串焼きなど種類はさまざまだ。
「愚弟! 降りるのよ。着いたわ、アディートよ」
キルヒェガルテンを出たのは午前中だ。そこから二時間ほどは走っただろうか。もはや黄色い砂はすっかり空中から消えている。
「うう」
「気分はどう? 酔った?」
「...へーき...」
あくびをかみころす。眠る度にうなされるわりにはしょっちゅう寝ているようだが、ピドーなりに理由がある。寝入ると悪夢だ。だからどうしても眠りが浅くなる。自然と睡眠時間は足りなくなり、いつも眠い。
「だったらとっとと起きなさい!」
腕を掴まれた。車から引きずり出される。天井に頭をぶつけた。
「いて、いてっ! 頭!」
「目が覚めたでしょ」
「暴力姉...」
太陽はほぼ真上だった。雲の合間は青くまばゆい。自分で頭を撫でつつピドーは目を細めた。建物は漆喰なのか白が多い。余計に太陽光が眩しい。ここも古い町だ。四角く白い町並みは伝統的な建築様式らしい。見渡しても砲弾の跡など見つからなかった。アジテーションのポスターもない。キルヒェガルテンよりもなお内戦を思わせる物がなかった。
「暑い」
「そうか? 俺には気持ちいい」
運転席からイーブが身を乗り出した。
「こっちの予定は昨日のうちに終わっているんだ。ソフィアに帰るよ。...何箇所か経由しないといけないし」
「ありがと」
マリアが車に手をかけて身を屈めた。まだ目をこすっている弟に、ちょっと呆れた視線を向ける。
「愚弟はあの調子だから...私もそんなに師団を離れていられないけど、しばらく一緒にいるわ。昼ごはんはどうする?」
「すぐに帰るよ。ソフィアが大変だからな」
「迎えに来てもらって悪かったかな」
「いやいや。ちょっとした寄り道だよ。そうだ、ラドクリフにも行くよ。ここの商社を紹介してくれた人にお礼をしに行くんだ」
カーク商会に挨拶をしなくてはならないだろう。きっとリリーは薄いコーヒーを入れてくれるに違いない。
「誰かに伝言でもあるか? 寄ってやるよ」
「ないよ」
ピドーはそっぽを向いた。カイとハイケがラドクリフに居るかもしれない。しかし住所を知らないし、まだ彼らに何も伝えられない。
「...そうか」
後ろからクラクションが鳴った。交通の邪魔にはなっていない。しかし、追い越しをしようとするせっかちな車両がいるようだ。
「親父さんに電話しとけよ」
「はいはい。じゃあね! ありがとう」
マリアがドアを閉めた。片手だけを上げ、イーブが合図をする。左右を確認して発車した。すぐに車列に乗って流れていく。
ショルダーバッグを抱え直す。マリアは周囲を見渡した。広場へ至る道路の角に警官が立っている。交通整理が主な仕事のようだ。軍人の姿はない。
「平和ね」
「うん」
ピドーは改めて町を見渡した。前線とはちょうど反対側に当たる。まるで内戦が無かったかのようだ。国の分裂というよりも北州の一部が追いつめられた印象さえ受ける。
上着を脱いで肩にかけた。旅行用の鞄が邪魔そうだ。肩に掛けられるタイプであまり大きくはない。けれども何度も掛け直している。通行人に当たると睨まれる。
「...あんたと一緒だと、どうして平和じゃなくなるのかしら...」
マリアはため息交じりだ。ピドーの腕を強く掴んだ。そのまま駅へ向かおうとする。
「こらっ! 痛え!」
姉の手を振り払う。ラドクリフで拘置所に泊る羽目になったのは通行人とのトラブルだった。また同じ騒ぎは真っ平だ。時間が無い。ぶつぶつ言いながらも素直にマリアの後に続いた。
「腹減った。メシ!」
「はいはいはい、まずは駅! 時刻表を見ましょうよ」
ピドーはおのぼりさん丸出しできょろきょろしている。ソフィアでの生活はもっぱら馬車だ。近所なら耕運機である。州都ラドクリフへもバスがメインの交通手段だ。汽車はあまり乗った事がない。切符の買い方もあやふやなのだ。
二人で路線図を眺めた。
アディートからは南と西の二方向へ行ける。しかし西州への路線は、現在のところ不定期運行だ。
「姉貴、どこまで乗ればいい?」
「南州のケッセン。東西鉄道のターミナルがあるの」
マイン川沿いに南下した町が目的地の南州ケッセンだ。そこから海峡を渡ると東州に入れる。目的の『東の赤』神殿は州都にある。そこまではさほど遠くないらしい。南州は北州と敵対しているものの、内戦の影響が少ないおかげで自国民の移動は制限されていない。
乗換地であるケッセンには一時間に一本程度で運行している。駅の時計では三十分以上はある。
「じゃあメシ!」
よほど空腹だったらしい。大声を出す。
「うるっさい! もう恥ずかしいわね」
バッグで背中を叩く。
「来なさい!」
「とにかくメシ!」
初めての土地で、あてなどない。しかしマリアはずんずん歩き始めた。その場に居たくなかったのだ。
(恥ずかしい...)
ロータリーを少し外れた方へ行く。屋台が並ぶ方向を目指す。まだ新人のマリアの懐には余裕がない。見知らぬ土地できちんとした食堂に入るのには不安があった。しかしピドーはふらふらと街区へ入っていく。
「どこへ行くの!」
「いや...呼ばれた...?」
目覚めているのに、あの黒い夢の声が聞こえたようだ。
「ちょっとピドー!」
行かなくてはならないような気がした。なぜかは分からない。初めて来た場所なのに勝手に足が動く。
とある場所で停まった。鼻をこする。建物と建物の間だ。狭い空間は日が遮られて暗い。
後を追いかけて来たマリアがぶつかりそうになる。
「どうしたの?」
「臭う」
「ご飯?」
「違う。動物っぽい...。あいつか? あいつだ! 虎の子供だ」
バッグを背中に回す。右手を左の掌に打ち付けた。戦闘態勢だ。
「え?」
ちょっと待って、とは最後まで言えなかった。ピドーはすぐに隙間に駆け込んでいた。
「こらぁ!」
マリアも慣れたものだ。背後からピドーのバッグを両手で掴む。前のめりになったところで足払いをかける。変な悲鳴が上がった。ピドーはカエルのように顔から道路へつっこんだ。
「ううう...」
背中をマリアが踏みつけた。
「待てって言ってるでしょうが。こんな処にいきなり飛びこむんじゃないわよ!」
何があるか、誰がいるのか分からないのだ。愚弟め、と容赦なく足に力をこめる。やはり明るい場所から急に暗くなって先はよく見えない。
「言ってねえだろ!」
じたばたしていた手足がふと止まった。両手をついて半分起き上った体勢で前を見る。マリアがピドーの背中から足をどけた。二人とも暗がりに目が慣れてきた。路地というよりは建物に囲まれた隙間だ。奥は行きどまりだ。鉄製の脚立やゴミ箱などが無造作に突っ込んである。そこに小さな体が隠れていた。じっとしている。キルヒェガルテンで出会ったティーガの子供だった。距離は数メートルある。けれどもマリアにも彼の発する臭いが分かった。前に会った時と同じぼろぼろの服だ。
「...一人なの?」
マリアの問いに答えない。じっと身を固くしている。
「てめえ」
起き上ろうとする背中を、マリアがまた踏んだ。
「ちょっと待ちなさい。今度はちゃんと言ったからね! ピドー、この子なの? 前に会ったっていう...」
「こいつだ」
靴の下からぐぅ、と音がする。よほど空腹らしい。気が立っているのはそのせいか。
「全くもう...。キルヒェガルテンで何をやらかしちゃってんだか...」
マリアは肩をすくめた。ティーガの子供に声をかける。
「名前は? 教えてくれる?」
返事はない。わずかにフードが横に揺れたようだ。ピドーが言う。
「チビ虎だ! 子供の...」
踵がピドーの尻に命中した。
「うるさい!」
それでも奥へかける声は優しい。
「私はマリアベル・エフェレット。マリアでいいわ。このやかましい動物は弟のピドーよ。うるさいだけで害はないから。一緒にお昼を食べない? お腹が減っちゃったの。付きあってよ」
見知らぬ浮浪児にいちいち食事の誘いをかける趣味があるわけではない。しかし相手は十歳くらいか、もっと幼く見える。しかもピドーと何かあったようだ。必ずしも弟が迷惑をかけているわけではないだろうが、何かの事情があるのだろう。何より父子家庭歴十年である。母親のような気持ちが働いてもおかしくはない。
やっと足の力が緩んだ。ピドーが立ち上がった。服の埃を払う。
「キルヒェガルテンではティーガの手配書が回ってたぞ。てめえ、何をした?」
彼は返事をしない。それどころか、じっとしたままだ。自分などその場にいないように。
「手配書じゃなかったわよ。保護のお願いでしょ。私も見たわ。でもここではそんなの無かったわよね。それでも気になるならフードをかぶったままでいいわよ。屋台で何か買いましょう」
マリアは彼に手招きをした。
「おいで、小虎ちゃん」
「小虎?」
ピドーが眉を寄せた。
「うん。チビ虎よりはいいでしょ、可愛くて。駅の方へ戻るわよ」
ピドーは肩をすくめた。路地の奥に声をかける。
「あきらめろ。姉ちゃんが言ったら決まりだ。出て来ないとバックドロップかけられるぞ」
それが怖かったわけではないだろうが、ティーガの子供はゆっくりと出て来た。フードをかぶりなおして俯く。顔は全く見えない。
駅前まで戻る。サンドイッチの屋台を見つけた。便宜的に小虎と名付けられた少年は道路の隅に立っている。ピドーとマリアはパンを口に運んだが、彼は渡された紙包みを持っているだけだ。
「嫌いな物が入ってた?」
マリアが聞いても小さく首を振るだけだ。食べようとはしない。
「そうだ、ちょっと待ってて」
食べかけの包みをバッグに放りこむ。
「あなた達はそこにいなさい。動かないのよ!」
「え。どこに行くんだよ」
「すぐに戻るわ。いいわね」
弟に念を押して足早に離れる。きょろきょろと何かを探しているようだ。
残された二人には会話はない。昼間になって屋台も込んでいる。道路で立ったまま食事をしている姿は目立たないのが幸いだった。小虎の汚れた服に顔をしかめる人がいないでもない。けれども、彼はピドーに隠れるようにしていた。また建物同士の間に身を顰めるようにしている。
「おい、俺に何の用だよ」
ちょっと振り返って尋ねる。ピドーの肩くらいまでの身長だろうか。もう返事をしないのかと思った頃にようやく口を開いた。細くて小さい。まるで薄っぺらなガラス板のような声だ。
「...」
「なに?」
聞き取れない。近づこうと体を傾けた。とたんによろける。背中を押されたのだ。
「姉ちゃん! 俺は何もしてない!」
もう条件反射で言葉が出る。抗議しようと振り返ると、見知らぬ男だった。白いトレンチコートだ。髪をきちんと分けてある。黒い眼鏡のフレームが光った。頬が少し腫れて左目の回りが青い。あきらかに殴られた跡だ。キルヒェガルテンでジーノチカに投げられた男だ。だがピドーには面識がない。
「ああ、ごめんね。君...会った事があるかな?」
そう言われてしげしげと彼を見る。その間に、彼は奥を覗いた。はっと目をみはる。ピドーの肩に手をかけた。
「君、ちょっとどいてくれる? そっちの子...」
奥の子供が気になるようだ。ピドーは改めて背中に子供を隠す。
「俺の連れだよ。何か用か?」
「ああ。顔を見せてもらっていいかな」
「ほら見ろよ」
ピドーはぐいっと顎を上げた。男が苦笑する。
「君じゃなくて。そっちの子だよ」
「お前は誰なんだよ」
ピドーは引かない。逆にティーガの子にはちょっと迷惑である。奥が行き止まりなのに出入り口を塞がれた形だ。逃げられない。
聞き分けのない子を優しく諭すように男が言う。
「その子を探していたんだ。僕は彼の兄だよ」
「え?」
ピドーはぽかんと男を見上げた。髪は濃い栗色だ。レンズの奥の瞳は青い。
「嘘つけ。お前はティーガ族じゃない」
「やっぱり。その子はティーガなんだね。渡してもらおうか」
やられた、と思っても遅い。
(あああ、俺ってチョロい!)
兄と言ったのは言葉の罠だ。ピドーはものの見事にひっかかり、奥にいるのがティーガ族だと自らばらしてしまった。
「あんまり手間をかけさせないでくれるかな。遅摘み酒は一緒じゃないんだね。彼はどこだい?」
「知らねえよ」
男は右手をコートの下に差し入れている。人通りがあるので実物を出さないのだろうが、銃を持っているという脅しだ。男は通りに背を向けている。話をしているようにしか見えないだろう。
マリアが戻るまで時間を稼ぎたい。
「名前くらい名乗れ」
「アウゲンだ。名乗ったよ。さあ、どくんだ」
「そんな取引してねえよ。連れだって言っただろう!」
肩からアウゲンに当たる。よろめいた処へ足払いだ。片手が咄嗟に使えず、バランスが取れない。アウゲンは腰砕けになった。そこへダメ押しの蹴りを一発。
「小虎! 行くぞ!」
振り向きざま子供の腕を掴む。あてなどないが、とにかく走り出す。人をかきわけ、ぶつかりながら進む。
「ま、待て! うわっ」
アウゲンの叫び声がする。振り返ると再び地面に転がっていた。
「あらぁごめんなさ~い」
マリアだ。手には横に長い大きな紙袋だ。買い物をしていたらしい。アウゲンの傍らにしゃがんだ。ちらっとピドーを見た。目で行けと合図をする。軽く頷くと、また二人は走り出した。助けるふりをしてしつこく話かけているマリアが視界の隅に入った。引きとめてくれている。
小虎に声をかけた。
「駅に行くぞ! あと十分くらいで電車が出るんだ」
腕は細く、体も軽い。子供でもカイはしっかりとした肢体だったのを思い出す。まだ五歳の幼児でも抱っこをするのが重いくらいだった。彼より軽いのではないだろうか。
(こいつ一人なのか?)
三角の屋根に戻った。駅舎に駆け込む。そこで立ち止まった。何がどこにあるのか分からない。天井は高い。小さな丸窓が幾つも並び、光が差し込む。ライトがあちこちにあって中は明るい。
「えーと...」
うろうろしているうちに、どこからか声がする。
「待て!」
アウゲンだ。追い付かれた。マリアはいない。
(どうする?)
姉の身は心配だがこちらもぐずぐずはしていられなかった。
壁に消火栓のマークがある。赤い鉄製の小さな扉だ。
「緊急時! うわぁ姉ちゃんと一緒だぁ」
ピドーは扉を開けた。白いホースがぐるぐる巻きになって収納されていた。小さなボタンを拳で叩く。けたたましくベルが鳴り響いた。人々がざわめく。アウゲンが一瞬だけうろたえた。コートに片手を入れた。そのまま近づいて来る。
ドアの横に手持ち用の消火器もある。ソフィアの訓練で使った事があった。同じタイプだ。
「小虎! ほらよ」
逃げようとしていた子供に渡す。彼は手をひっこめかけたが、押しつけられてしぶしぶ受け取る。
「ピンを引っこ抜け」
そこ、と取っ手の間のストッパーを示す。
「そしたらレバーを握れ。消火剤が出るから」
じっとしているのを急かす。
「白い泡が出るんだよ。やれ!」
おずおずと言われた通りに手を動かしている。泡が吹き出した。かなりの勢いがある。噴射口をきちんと押さえていなかった。彼は消火器を床に放り出した。ノズルが暴れ回る。液剤が周囲に飛び散った。あちこちで悲鳴が上がる。通行の動線が乱れた。駆けだす者もいる。
警報はどこかと連動しているようだ。改札に向かう通路のシャッターが下り始めた。
消火栓のホースを掴む。迫るアウゲンに向けた。
「喰らえ!」
水がほとばしる。
「うわわ」
水圧はかなり強い。そもそも訓練を積んだ者が使用する機材だ。小さな消火器とは勢いが違う。訓練の際は大人が付き添っていたのだ。ピドー一人ではホースを支えきれない。水はあっちへこっちへ飛び散る。アウゲンだけではない。他の人にも水がかかる。逃げまどう人と水とサイレン。構内は大混乱だ。
「どうした?」
制服姿が駆け寄る。駅員のようだ。警官の姿もある。
小虎が両手をだらりと垂らした。少し顎を上げて息を吸い込む。細い肩が上がった。ゆっくり息を吐く。と同時に体の周囲がぼやけたようだ。
ピドーは目を瞬いた。小虎の全身が黒いもやに包まれている。黒いのに光る闇だ。
小虎の足元から火花が散った。ばちばち、と音が鳴る。床を稲妻が走った。彼を中心に四方へ走る。壁に昇り、触れたガラスが砕ける。欠片が降り注ぎ、人々が頭をかばう。悲鳴と怒号。光は天井で弾けた。切れた電線があちこちから垂れ下がる。火花を散らして蛇のようにくねった。
それと同時に人工の灯りが消えた。まだ昼間だ。けれども外が明るい分、屋内は暗い。おまけに人々がばらばらに走り回る。まだ警報はなっているし、どこからかサイレンも響いてきた。
「行くぞ」
呆然としたのは一瞬だった。キルヒェガルテンでも見せられた力だ。小虎を促す。何も起こっていないのは承知だ。だから冷静に行動できる。アウゲンが人ごみにまぎれてしまったのを確認した。なるべく人のいない出入り口へ走る。
太陽が目を刺す。ロータリーもごった返している。駅から避難した人と野次馬で一杯だ。警察車両も近づいて来た。
「マリアはどうしたかな」
すると小虎が一つの方向を指さした。
「え、どこ? 見えた?」
小虎は首をちょっとかしげた。フードをかぶり直す。ピドーを先導するようにちょこまか歩き始めた。
「アウゲンは?」
黙って駅舎を指さす。
「何で分かるんだよ?」
細い声がようやく耳に届いた。
「光る」
「え? 光ってるって? 何が?」
実は髪が無かったっけ、などと間抜けな発想はすぐに捨てた。小虎はあらぬ方に顔を向けているが、答える気はあるらしい。
「生きてる。タマシイ」
「へ? 魂が光って見える? じゃあこの辺り、ぴかぴかだぞ。眩しくね?」
フードが揺れた。それに隠れて表情は見えない。声は相変わらず細い。鈴虫が鳴いているようだ。会話はなかなか続かない。ピドーの質問に面倒くさそうに反応するばかりだ。
小虎が小さく手を挙げる。また違う方向を示した。
すぐにきょろきょろしているマリアが見つかった。あちらでも二人に気が付いた。両腕を上げて振り回す。バッグと紙袋が肩で揺れていた。
「何をしちゃってんのよ!」
駆け寄るなり、彼女は二人の頭をぐりぐりと力を込めて撫でた。心配と怒りが入り混じっている。
「姉ちゃん、頭、頭! 俺、怪我...」
「やかましいっ! 十分だけじっとしているのも出来ないの? この愚弟ども!」
小虎のフードがずれた。唇が少しだけ開き、視線は固まっている。銀色の瞳が見開いた。淡い青や茶色がちりばめられた宝石のようだった。あわててマリアの手から逃げてフードをしっかりかぶる。
「ごめん。触られたくなかったかな」
優しい声で言った後、くいっと顎を上げる。
「行くわよ。宿を探さなくちゃ」
「え、列車に乗るんじゃ?」
「この騒ぎで? 止まっちゃったわよ! いつ復旧するか分からないのよ。とにかく一度、落ち着かないと」
アウゲンと言う正体不明の追手がいる。小虎を連れて町の中をうろうろするのは危険だ。
「姉ちゃんが言ったら決まりだからな」
また同じセリフをピドーは小虎に告げた。
ツヅク! 謎の少年の目的は?
お読みいただきありがとうございます。
地名ごちゃごちゃしてすみません。。。
謎の少年は小虎となりました。彼の目的はご飯か風呂か⁈ 正体判明です。
次回。あの「頭の白いヤツ」が現れて、あっっっさり大事な事を喋ります。
溢れる知識を黙っていられないんですね。




