冥界の太陽たち 第三話 下 糸杉の町 キルヒェガルテン
太陽神話を知るジーノチカがやって来た
謎の少年とルーカの邂逅
そしてピドーの長い旅が始まる
冥界の太陽たち 第三話 下
北州 糸杉の町 ~キルヒェガルテン
空が赤くなってきた。結局マリアはティッシュバン家に居る。発着のバス便が一日に一便ずつしかないのだ。午後は到着便しかない。ピドー達が昨日乗って来た便だ。
石が鳴る。不揃いの音楽のようだ。踏むというより蹴散らして近づいてくる。身構える間もなく、ドアが揺れるほど叩かれた。
「開けろ! 孫が来てやったぞ!」
男の声だ。
一同はきょとんとした。
「孫って...ジーノチカさん...?」
「開けないのか? 開けられないんだな。よろしい、わかった!」
音が止んだ。石を踏む音が後ずさり...。
どん。
ドアがきしんだ。飛び蹴りか、体当たりか。
「もう一回行くぞ!」
「来ないで!」
マリアが小さく叫んだ。素早く目を巡らせ、クリケットのバットを握った。やはりここでは武器にしか見えないのか。ルプレヒトはシュペトレーゼをソファの陰に座らせた。自分は銃を握った。ドアの横に立つ。ピドーに合図した。
ピドーはドアに耳を当てた。再び後ずさりした感じだ。
「来る」
タイミングを見計らう。さっとドアを開けた。
「とおっ!」
どさり。
飛びこんで来たのは男だった。躓いて転んだが、さっと起き上る。肩幅は広い。目にかかるほどの長さの髪をさっと払う。鳶色の瞳が一同を見下ろした。千鳥格子のスーツで、靴は白いエナメル素材だ。三十才は越えているようだが、染めているのか長髪はきれいなアッシュグレイだ。オールバックにして後ろで縛っている。黒いブリーフケースが床に転がった。
シュペトレーゼが小さく悲鳴を上げた。あわてて両手で口を覆う。顔を背けた。ルプレヒトの背中に隠れる。
「鍵が開いたな。そうだろう」
銃を突きつけられているのに動じた様子はない。ルプレヒトをしげしげと見た。
「おい、そこの黒い蜘蛛男」
彼の外見に対する印象は、人によってさほど違わないようだ。
「人の家で何をする。銃器を振り回すとは無作法な。僕はここに招かれている。というより祖母の家だから僕の家と言ってもいい。だからそのような歓迎を受ける筋合いはないぞ。ないからやめろ。やめないなら出て行くがよい。行かなければ僕が出ていくぞ。いいのか? 良くない。嫌ならとっとと銃をしまってお辞儀するがいい。爵位はまだ母上がお持ちだ。だから僕は貴族だが、君らが黙ってしまうほどの身分ではない。そこまでかしこまらずとも良い!」
一同はぽかんとしていた。ジーノチカという名前から、女性を想像していたのだ。
マリアがソファからおそるおそる頭を出した。そこから目だけで辺りを窺う。目ざとく見つけたジーノチカは大股に歩み寄った。マリアの手を取って立たせる。
「君はマリアベル・エリザベータ・エフェレット嬢であろう。おばあ様にはマリアちゃんと呼ばれていたな!」
「あ、は、はい...」
いつもの威勢はどこへやら。マリアはすっかりうろたえている。
「母上に似ているな。父上はご健勝か」
「お、おかげさまで。お知り合いだったんですね?」
「そうだ。だから紹介してくれたのであろうが! ところでここは床だ。客が座るべき場所ではない。わざわざ柔らかい座面を拒否したいなら話は別だが、僕がそこに座っていて欲しくはない。君は客人だからだ! おまけによく見えないし、話もしづらいからな。君は僕を覚えているか? ジーノチカ・L・ヒンメルは僕だ。生まれたばかりの頃の君を見た覚えがある。まだ髪は無かったが、僕は君だとすぐ分かったぞ」
「は、初めまして」
握られた手を振り回され、為すがままのマリアだ。赤ん坊の時に会ったと言われても初対面に等しい。
「だから二度目の対面だと言っているだろうが」
「すみません、覚えてなくて」
謝る筋合いはどこにもない。けれどもジーノチカの勢いにマリアはたじたじだ。
「よろしい、謝ればおしまいだ。素直な良い子に育ったな。めでたい。忘れたのならこれから覚えたら済む事だ。気に病む必要はないぞ、僕は他人に寛容な質だ」
ここにきて、ようやくルプレヒトが銃をしまった。驚きと戸惑いは時として人の動きを止めてしまう。やっとピドーもドアを閉めた。
「あんたがジーノチカさんなんだ」
「そうだジーノチカだ。ジーノチカ・L・ヒンメルは僕だ。君ではない。ハンナ・ティッシュバンの孫であるところの僕だ。本人が言うんだから間違いはない。間違えたら訂正すれば済むが、正しいからそのままだ。ジーノチカだ! さあ、遠路はるばる来てやったのだから挨拶をしたかったらしてもいいぞ。爵位はまだ母上がお持ちだ。だから僕は貴族だが、君らが黙ってしまうほどの身分ではない。そこまでかしこまらずとも良い!」
一番初めに立ち直ったのはシュペトレーゼだった。素直なうえに人に会ったらとにかく挨拶、というのに慣れているのだろう。
「お会いできて光栄です。...あなたがジーノチカさんだとは...。僕はシュペ...」
「お久しぶりですな。まさかお会いできるとは。この僕をよくも驚かせたものです。そうです、何気ない風を装いましたが僕は驚嘆したのです。お元気そうでなにより。御立派になられましたな!」
シュペトレーゼは力なく首を振った。背後の一同におずおずと視線を送る。
「...初対面...かと。どなたかとお間違いでは...。僕はシュペトレーゼ・シュルツ...ただの歴史学者です」
「ふむ? そうなのですかな?」
返事を待たずにジーノチカは頷いた。
「そうなのですな。よろしいでしょう。初お目見えです」
自己紹介をされ、握手しようと差し出した手を、殆どひっぱたくように触れた。落ちていた鞄を拾う。テーブルの上に放り投げた。
「で? 君が僕に用がある子だな? 生まれたのは知っていたが会った事はない。君こそ初対面だ! 君のフルネームは知らん。やたら長いとおばあ様が仰っていたぞ。聞けば僕はすぐに覚えるがどうする? 教える気があるのか?」
「ピドーでいいよ」
「よし、話が早くてよろしい」
ピドーの手もぶって通り過ぎる。
「あいつら知っているの?」
学者だという二人を示す。ここでようやくルプレヒトは名乗れた。ジーノチカは軽く手を振った。
「黒後家蜘蛛は知らん、初だ。来るのはピドーだけだと訊いていたが、にぎやかでいいぞ。ピとプとペとマリアだな。で、おばあ様はどうした? 二階か? それとも可愛い孫を迎えに行って感動のあまりにどこかで倒れているのか? それとも歓迎の為のディナー用の買い出しか? 気を使わなくていいのに、あの方はいつも気配りの人だからな」
四人は顔を見合わせた。誰が説明するんだ? と無言のなすり合いである。情けない男どもに軽く舌打ちをする。マリアは経緯を訊いたものの、現場には居なかった。ジーノチカに説明できるほど状況を把握していない。
「だからどうしたのよ?」
声がやや低くなった。ちょっとイラついているのだ。この後がどうなるか、良く分かっている弟のピドーだ。仕方が無い。しぶしぶ一連の出来事を説明した。ジーノチカは叫んだ。
「どこのどいつだ、ぶん殴りに行く。自分の子供を生き埋めにしてどうする? 糸杉が風を防いだところで心の隙間を吹き抜ける風は防げないぞ。僕がたっぷりと説教してくれる。話の次第では、ぶつだけでは済まない。蹴りと投げと関節技とくすぐりの刑だ!」
今にも出て行きそうな勢いだ。
「ちょ、ちょっと」
あわててピドーが上着を掴む。
「俺たち、その男が誰か知らないよ。奥さん達が無事に町を抜けたのならいいじゃないか」
「何? 良くない。そいつはまだ謝っていないのだろう。子供と妻とおばあ様と僕に謝罪すべきだ。僕にわざわざ出向かせた代償だ。殴る!」
「意味わかんねえよ!」
誰も男の居所どころか名前さえ知らない。もっとも知っていたとしてもジーノチカの殴りこみに協力するつもりにはなれなかったが。
「とにかく! 太陽神話の話をしてくれるんじゃなかったのか? 俺たちはその為に来たんだ!」
「よろしい。僕もその為に来た! まず晩御飯の用意を考えようじゃないか」
腹が減っているのか。ジーノチカの発言は自由に飛んでいく。
「台所を使っていいって言われているけれど、人数も多いし...」
食べに行こう、と言いかけたピドーに手を振る。
「僕は料理ができるぞ。肉屋に行ってくるがいい。子ブタとウサギとアヒルを丸で一匹ずつ、それに牛の枝肉を用意するように」
枝肉とは、胴体を骨付きのまま半分に割った状態の肉である。肉屋に卸す形態の一つだ。通常はこれを切り分け、精肉にして売っている。
「男がこれだけいるんだ、持って帰って来られるだろう。マリア、炭はあるか? 庭で火を熾すぞ」
マリアは目を丸くした。
「外で焼くんですか? ...牛も...?」
「当たり前だ! 家の中でそれだけの肉を丸焼にしたらどうなる? 煙と脂まみれだ。おばあ様は寛容だが、僕は自分が休む場所が肉を焼いた匂いに満ちているなどまっぴらだ。寝る場所は寝る為にある! 喰う場所は喰う為に。ならば丸焼きするのは屋外だ!」
彼に任せておいたら野外バーベキューで決定だ。ここは風が強い地域だし、せっかくの料理も砂まみれになるだろう。そもそも量が多すぎる。
「...私が料理します...屋内で!」
マリアが頭を抱えた。
「こら愚弟! 手伝うのよ」
「へいへい」
「丸焼きをしないのか?」
未練ありげに叫ぶジーノチカを無視してルプレヒトが不安げに尋ねた。
「君は料理なんかできるのか?」
「なめんなよ。俺の方がうまいくらいだ」
ピドーは勇ましく腕まくりだ。エフェレットきょうだいは台所へ向かう。幸いにして二、三日分の食料はあった。そこで少し早目の夕食の準備を始めた。
肘までめくった服を丁寧に戻す。シュペトレーゼが台所からリビングに戻って来た。料理しないのなら後片付けくらいしなさい、とジーノチカに言われて皿を洗っていたのだ。快く引き受けたのだが、何しろ動作がゆっくりだ。でも、これでやっと全員が揃った。ルプレヒトが座っていた場所を譲って立つ。ソファは一杯で、ピドーは床に座っていた。
「さて始めるか? 何が訊きたい?」
マリアが尋ねる。
「ジーノチカさんは何をなさっているんですか?」
「僕は今、ここに座って君らと話をなさっているじゃないか。大雑把な質問すぎるぞ。言葉を選ばないと上手く相手に伝わらない。だから会話は相互理解にとても大事なものだ。分かるな、マリア。それで何を訊きたい?」
「...ご職業は...」
「医者だ」
「はあ?」
全員が声を上げた。最初の印象から受ける職業とはずれがあった。マリアの思い描く医師像は、短髪で理性的な話し方をするものだ。
「ジーノチカというのが素晴らしい占い師の証明であり名前である。それゆえ僕はジーノチカなのだ。僕がジーノチカだ! 占い師は心の治療である。だから医師だ」
「え、あの、お医者さんですか? 占い師ですか? どっち...」
彼に運勢を占ってもらうのは、かなり度胸が要りそうだ。また、それだけの度胸があれば占いに頼らなくても生きていけるだろう。
「医者だ」
よく分からないものの、これ以上深く聞くのが怖い。というよりも、もはやマリアには理解不能だ。違う質問をする。
「お住まいはどちらで...」
「西だ! クロイツベルクの郊外だ。首都が近くとも緑は多い。環境がいいぞ。内戦のせいであちこち道路に穴が開いたままだ。ときどき馬や車がはまっているぞ。僕は落ちないぞ。この間は敢えて穴の底まで行ってみただけだ!」
落ちたようだ。マリアは辛抱強く尋ねた。
「ジーノチカさんは西と北の移動が自由にできるんですか?」
「自由だ。僕は自由だ! 州境を延々と遮るなど物資や軍人の数を考えても無理だ、無駄だ! それに同じ国内なのだ、何が障害になる? 僕は行きたいところに行き、必要とされれば生命線を見たりバイタルチェックをしたり。そして人々を勇気づけるのだ。そうだ、『西の白』神殿を見て来たぞ」
「どこへ行って?」
「だから西州だと言っておろうが」
そこに行っていたから、到着の予定が一日ずれこんだのだろう。一同は彼の話についていくので精一杯だ。
「神殿跡に太陽の石が持ち込まれているぞ」
シュペトレーゼが西で見た事がある石板だ。彼は尋ねた。
「やはりもともとあそこにあったのではないですね?」
「違う。持ち込んだのだ。内戦の前年だ。ティーガの遺跡からはずして運んだそうだ。おそらく北州からであろうかとは思うのだが、未確認だ。もともとあった『西の白』神殿は崩壊し放題。太陽の石が無かったのだろう。だから持ち込んだ!」
グリンクラフト連邦は、大マイン川を挟んだ扇状の平地である。先住民のティーガ族にとっても一つの国土であったようだ。太陽神話に基づき、大きな東西南北の四つの神殿があった。マリアが首をかしげた。
「北州にはそんな大きな遺跡は無かったけど?」
「ラドクリフではないのか? 丘の上にでっかい城があるだろう。もともとは太陽神殿だった場所にグリンクラフト人が城をかぶせたのだ。城の築城も古い。ティーガの遺物など置いておいたか? 無いだろうな。置きたくないだろう。支配の象徴として飾るにはいいだろうが」
「太陽の石は一つなんですか?」
「うむ、そうとも言えない。国内に四つの神殿があったはずだ。それぞれの神殿用に作られていた。石とはいうが、壁とか床とか。クロイツベルクでは今は床に横になっているが、もともとは神殿の壁にはめ込まれていたのかもしれない。縦か横か。どっちでもいい。とにかく今は横だ。半壊している。というよりぐっちゃんぐっちゃんだ。それで、僕の助言が必要なのはピドー。君だな」
「えっ、うん。あー」
ジーノチカの話はあっちこっちへ飛んでいく。どうやって切り出していいのやら。ピドーは無意識に包帯を探った。
「その怪我はどうした?」
「ソフィアの襲撃で」
「ああ、大変な事だった。お見舞いを申し上げる。だがそれと太陽神話がどう関係している?」
「その後から変なんだ」
そこでピドーは自分の見た幻影を話した。現在も『東の赤』を感じる事も。
ジーノチカは腕を組んだ。視線がどこかうつろだ。何か考え込んでいる。しばらくそのままだ。遠くを見つめるソフィアの大人たちと同じだった。
「あの」
声をかけると、きょろっと目が正面に戻った。視線が強くなる。
「では僕の番か。神話の大まかな部分は知っているな?」
マリア以外は頷いた。四人の王子が太陽となり、それぞれ人間界を支配した神話だ。定められた期間が過ぎ、太陽は冥界に堕ちた。
「ティーガの伝説のいうところの冥界は、地の下にある。決して現世にやすやすと戻れる場所ではないが、冥界の太陽は生贄を滋養として復活できるという。ただし生ける太陽が存在するので、天には戻れない。贄を捧げた人間の中に復活するわけだ」
「...俺? なのか?」
ピドーは首をかしげた。彼がレイナーの命を奪ったわけではない。
「ふむ」
ジーノチカはまた少し考え込んだ。
「原因を作ったのは君であろう」
酷な言い方だった。ピドーの顔が青ざめる。
「石板を持ってはいたけど...」
そこで言葉が詰まる。
「そう、石板を持っていたのは君だ。おそらくレイナー氏の死と復活のシステムが発動するのが同時だったのか、レイナー氏が死んだ事でシステムが動いたか。どちらだったか今は確かめる術はないぞ。ないが、実際に『東の赤』は君に復活しようとしてやめた」
確かにピドーは、あの時暗闇の中で力が欲しいと足掻いていた。
「足りない、と言われた...。この間、キルヒェガルテンでも。子供と会った時だ」
最初の時は『何かがいない』。昨日の子供との邂逅では『何かが無い』と。
「誰の子供だ?」
「知らないよ! 十歳くらいかな。髪はすげー汚れてたけど、銀色。目もそんな色。でも宝石みたいにきらきらしてて」
すっとんきょうな声が上がる。
「なに! それはティーガの子供だ! その髪と瞳、まちがいなくティーガ族だ! 生き残りがいたんだな」
太陽神話の継承者にしてグリンクラフト連邦の少数民族。そして北事変で滅ぼされた一族だ。
またも物を思う瞳になったジーノチカだったが、すぐに元に戻る。
「会ってみたいものだ。十年前は生まれたての赤ん坊か? だが生き残っていたからには家族なり保護者がいるはずだ。話を聞いてみなければならないだろう。いや、僕に会ったら向こうから話す事があるはずだ。なぜなら、僕がティーガの暦に通じているからだ。今のグリンクラフト連邦では一番であろう。だからきっとその子の方から会いに来るに違いない。もしかして、君ではなくて僕に会いに来たのかもしれない」
すっかり自分の世界に入り込んでいる。
「ソフィア襲撃はいつだ?」
問いかけのようだがひとり言だ。返事がなくともジーノチカは呪文のような言葉を唱え始めた。
「シパクトリ、エエカトル、カリ、クエツパリン、コアトル、ミキストリ...」
一同はきょとんとする。ジーノチカに説明を求めるよりも、会話が通じるシュペトレーゼに視線が集まった。彼も学者である。ジーノチカに言葉を挟むのに躊躇した様子ながらも補足した。
「ティーガ族が使っていた暦の日付だね。一年は二百六十日、一か月は二十日。それぞれ意味のある名前がついているよ」
「その通りですな」
ジーノチカが呪文を唱え始めた。
「例えば一の日はシパクトリでワニを意味する。次は風、家、トカゲと続く。それと十三の数字を組み合わせてカレンダーとする。一のシパクトリ、一のエエカトル、一のカリ...と二十まで、次に二のシパクトリ、二のエエカトル、二のカリ...。一巡すると二百六十日で一年だ。生まれた日がその人の運命を表すとされていた、と」
(もういいか)
この時点でヴィプリンガーは耳を塞いだ。
「なおも聞け、まだあるぞ」
ジーノチカは楽しそうだ。
「彼らは三百六十五日の暦も併用していた。こちらは二十日を一カ月として十八カ月に年末の五日を足している。ちなみに一日はキン、二十キンで一ウィナル、十八ウィナルでトゥン(三百六十五日)、二十トゥンで一カトゥン(約二十年)。カトゥンは重要な節目と言われていた。この時期と、半分のカトゥンが終了する際には盛大な祝いがなされたそうである」
(えーと、もう無理)
ここでマリアも離脱した。
暦は続く。二十カトゥンでバクトゥン(約四百年)となる。それぞれの太陽が支配したと言われる期間は十三バクトゥン、約五千二百年らしい。
(意味分かんねえ!)
教えて下さいと言ったのは自分だが、そう叫びたいピドー。
「退却するな! 進むのだ。前進、前進! 暦のルールはまだあるぞ。二百六十日の暦と組み合わせて日付を表示する。一巡すると五二年だ。
さらにさらに、とある起点の日からとぎれなく一日ずつ数える暦もある。現在までに約三〇〇〇年が経過しているとされ、表示するには前述の単位を使う。例えば八バクトゥン十四カトゥンなら、起点の日から百十五万二千日プラス十万八百日が経過した日だ!」
(ふむふむ)
真面目に頷きながら聞いているのはシュペトレーゼだけだ。
マリアが下を向き、ぶつぶつ言った。だから何? とか聞こえる。ピドーも、小声で呟きつつ懸命に床に指で字を書いている。こちらは何とか理解しようと試みているらしい。
「頑張るか、その調子だ」
「これって、今の俺の状況に関係があるの?」
ピドーの問いに、ジーノチカは胸を張って答えた。
「さほど無いな!」
「はあ?」
「僕の知識を披露したのみだ。どうだ、君が教えを乞う人物は何と博識な事か。確認できてさぞ嬉しかろう!」
もう返答できない一同を前に、ジーノチカは楽しそうだ。
「ティーガ族の中でも、暦を理解、表記し、なおかつ日による運勢を告げられのは一握りの者だけだ。『忌むべきもの』と呼ばれているが、かつては神官の身分だったそうだ」
やっと解説が終わったようだ。ピドーは両腕を上げて伸びをする。
「ずいぶんな変化じゃないか? 神様の使いから忌人って」
「歴史は残酷だ。とにかく僕はその流れを汲む人に教えを受けた。それですっかり自分の物にしている。だからこそ人々に占い師として運勢のお告げができるのだ」
ジーノチカの占いはティーガ族のものらしい。暦の名前全てを暗唱できるとはすばらしい暗記力だ。
マリアがうんざりした声で尋ねた。
「暦が何か関係あるんですか?」
「だから、あるのだぞ。そう言っておるだろうが。どこが起算日か分からんが、現世太陽の支配する十三バクトゥンは既に経過しているのかもしれん。北事変の前年だろう。つまり太陽神話と関係した暦を忠実に再現しようというのなら、世界は儀礼的にでも滅びなくてはならない!
そこで重要なのはソフィア襲撃の日がいつかという事だ。二百六十日暦でクアウトリ、つまりワシの日だな。『東の赤』に対応する人間は七面鳥で表現されるが、日の名前にはない。ワシで代用したのだな」
ピドーはまだ肩のストレッチ中だ。うーん、と首をかしげる。
「つまり、その日じゃないとシステムが動かなかったかもしれないって事か?」
「或いはその月だな。あと何日だ、『東の赤』がピドーに念を押している。というのは次のワシの日まで仮契約なのだろう」
「契約が完了しなかったら? レイナーと俺はどうなる?」
「レイナー氏については分かるぞ。死した者は生き返らない。確実だ。首だけが復活しても胴体から離れているからな」
マリアが下を向いたが、ジーノチカは発言に手加減しない。
「胴体は埋葬したな。したんだろう? 既に生贄になってしまったのだ。現生の僕らには、もはや何もできない」
ただし、と付け加えた。
「魂はまだどこにも行っていないのだろう。現世とあの世の中間にひっかかっているとでも言えるだろうか。ティーガの世界観では、死者の行き先は死に方によって決まるのだ」
生贄となった者は、世界に貢献したのだ。戦死や出産で命を落としても、天国に行ける。病気や事故で死亡した者は地下の冥界へ向かう為に、魂が長い旅に出る。
「じゃあレイナーは、契約が遂行されたら天国へ行けるんだな」
ピドーの問いにジーノチカが頷く。
「そういう事だな。そして! ピドーの今後についてはわからないな。契約不履行だったらペナルティがあるのかどうか。やってみた者がいたとは聞いた事がないぞ」
「ティーガ族では行っていた儀式なんだろうか」
「かつてについては知らん。僕は生きていないからな。僕に神話を教えてくれた人も、もちろん生まれていない。生まれる前の出来事を覚えている者との出会いの機会は残念ながらない! あったら楽しいが、残念だ。人生は短い、しかも一度きり。そうだ、儀式だったな。近年は、やっていなかったらしいぞ」
復活の儀式には生贄が必要なのだ。ただでさえ人口が減っていた。戦乱を逃げ延びたのなら、文化や伝統は少しずつ破壊されてしまう。ティーガの文明は石の文化だった。紙はまだ無かった。それなら先祖伝来の記録を持ち出すのは難しい。儀式のやり方などはかなりの部分で失われた可能性もある。
しかも北事変で神官は全員殺された。それなら、今また復活の儀式を取り行っているのは誰なのか。
「わからないのは、どうして、誰がシステムを動かそうとしたのか。また、なぜソフィアではダムを破壊したのか。死者は出るだろうが、実際に石板は失われてしまったじゃないか。いや、へたすれば太陽が復活した人間も一緒に流されてしまうぞ。やっている事が首尾一貫していない。もしかしたら分かっていないのだ」
シュペトレーゼが片手を上げた。
「僕も分からないんですけど...」
太陽の石が神殿にあるのなら、それなりのサイズがあるはずだ。しかし『東の赤』の石板は掌サイズだった。初めてルプレヒトが口を開いた。
「東の神殿は遺跡として観光資源になっていました。開戦後は観光客が減ってあまり修復されていないようです。瓦礫は遺物としてそのまま放置されている物も多く、石板はたくさんありました」
中でも割れていない幾つかを持ち帰ったのだ。
ピドーが眉をひそめる。石板を裏返した記憶を探る。円盤のようだった。
「そういえば裏がすべすべだった。形もきれいな円だ。古い物なら、傷があったり欠けていたりするんじゃないか? もしかしたら模造品?」
「だから分かっていないと言っているのだぞ! 君らもだ、『誰か』もだ!」
ジーノチカは少しいらいらしたようだ。膝の上で指がピアノの鍵盤を叩くように舞った。
「説明してやるから今度こそ理解するが良い。その『誰か』は正しい儀式の方法が分からないのだ。重要なのは模様だ。オリジナルかどうかは関係ないのだろう。だからたくさん作って、何者が持っていくのを期待して、効率が悪すぎても何とか冥界の太陽を復活させようとしているんじゃないか。そう言っているだろうが、覚えとらんのか」
そんな事をいつ言った...とその場の全員が思った。
「大量の石板は企みである可能性があるぞ。今回は半分だけ成功して、失敗に向っているわけだ」
「契約が完了したら世界は滅びるのか?」
「僕は滅びないと思うぞ」
ジーノチカは床のピドーを見た。
「それぞれの太陽の終わりは、実は天変地異を表したという説もあるのだ」
火は火山の爆発、水は洪水、嵐はいうまでもないだろう。雷は、落雷による火災ともとれる。
「冥界の太陽たちを全て復活させたからといって、何が起こるか分からない。やってみなければな。現世太陽が滅び、共に世界の終わりだと伝えられてはいる。けれども人間は生き延びてきたのだ」
だからといって『誰か』の実験が終了するのを待っているわけにはいかない。少なくともピドーの性格には合わなかった。
「どうやったら俺の契約は完了するんだよ?」
「分からん! このまま契約不履行にできるかもしれない。ピドーには何も無かった事になるかもしれないし、ペナルティがあるかもしれない。何しろ一人が死んでいるからな! ただ一つ言えるのは、『誰か』にはまだ機会が山のようにある」
ピドーへの復活が無かったとしても、石板はまだたくさんある。敢えて『東の赤』神殿に置いたのなら、儀式をさせる機会はまだまだ残っている。さらに『南の青』神殿もあるのだ。こちらにも同じような仕掛けがされているかもしれない。
「じゃあ、いずれは誰かが儀式を執り行うかも」
「そう、可能性は高い」
ピドーが床を叩いた。
「冗談じゃない! じゃあ何の為にレイナーが死んだ? このままにさせてたまるか。俺の為に死んだっていうなら、俺が最後まで背負ってやる。契約を完了させる」
レイナーをせめて天国へ送りたい。
「ちょっと!」
マリアが立ち上がった。だん、と足を鳴らす。
「何が起こるか分かんないのよ!」
「だから確かめるんだよ!」
ピドーも床を蹴るように立った。
「おい、黒カマキリ」
「...ルプレヒト・ヴィプリンガーだ」
返事をしてしまうあたり、自分が肉食系の昆虫に見られているという自覚はあるらしい。眉間を人差し指でこすっている。
「『東の赤』神殿にまだ石板はいっぱいあったんだろう?」
「そうだ」
頷いたのを確認すると、手を打ちつけた。
「よし。もう一度石板を手に入れる。南の物も。ぶっ壊してやる」
確実なヒントでもあり、まずは中立地帯の東州へ向かった方がよさそうだ。
ジーノチカが確かめるように言う。
「最初に何が足りないと言われたのだ?」
「聞こえなかった」
「思い出せ」
「う~ん...。何かが足りないって...。でも、昨日ティーガの子供に会った時とは違った気がする」
「じゃあ一回目と二回目で、違った持ち物は?」
ピドーは考え込んだ。言葉としては告げられていないながら、最初に手にしていたのは石板、生贄の七面鳥としてのレイナー。何かがいないと言われた。次にあったのは七面鳥、司祭。無いのは石板だ。
「組み合わせると...」
石板、司祭、生贄。
「この三つが揃う必要があるのかな」
「あとは日付だな」
ジーノチカが補足する。
「『東の赤』ならワシの日に儀式を執り行い、一回りする間に完了させねばならないのだろう。夢によるカウントダウンはおそらくそのお知らせだ」
マリアがまた足を鳴らす。
「司祭って誰よ? 石板は手に入れられるかもしれないわよ? だけどその人はどこにいるの? やめてよ。どうしたってレイナーはもう生き返らないのよ。もうソフィアに帰って! やる事はたくさんあるでしょう」
「俺は東州へ行く。そこに石板があるんだろう? 必要なんだから、まずは揃える」
ピドーの瞳はまっすぐで揺るがなかった。
「ジーノチカさん、その神殿はどこにある?」
「ここだ」
示された場所は、東州の海側にあった。
ひときわ風が強くなったようだ。遠くの森から葉のざわめきが聞こえてくる。
「そういえばチカンがいたな。覗きとは何が楽しいかと聞いたら逃げようとするのだ。逃げるという事は怪しい。だから追いかけて蹴ってみた。そうしたら抵抗するじゃないか! ますます怪しいから次は殴ってみた。当たったぞ! やましい処がないなら黙ってごめんなさいをすればいい。それなのにまだ逃げようとするから、もう投げるしかないじゃないか!」
マリアは段々と脱力してきた。彼と話すとエネルギーが吸い取られていくようだ。
「投げて...どうしたんですか...」
「引きずったに決まっている。おんぶなんかしてやる筋合いはない。返事はしないし、白目を剥いているし、自分で歩こうとしないのだ、仕方が無い。僕が運んでやるしかないだろう。ありがたく思ったに違いないぞ。それで警察署があったので預けてきた。町の人間ではないそうだ。なおさら覗きなど許さんぞ」
おそらくジーノチカの投げ技によって気絶していたのだろう。
「家に近づけば石が鳴るはずなのに」
「そこだ! 彼もそこで悩んでいたのだ。どうやれば音がしないのか試行錯誤だ。しかも他にもいる覗きども二人を追い払おうと企んでいたようだ。怪しい!」
ジーノチカはいきなりシュペトレーゼに向き直った。
「他の二人は護衛でよろしいですな? だからそちらは許しました、遅摘み酒殿!」
エフェレットきょうだいはきょとんとする。ジーノチカはシュペトレーゼに対しては敬語なのだ。シュペトレーゼの息が大きく弾んだ。組んだ指がかすかに震えているようだ。声が上ずった。
「わ、分かりません...僕はただの歴史研究家です」
「そうでした、僕がジーノチカであるように貴殿はシュペトレーゼ・シュルツ氏でした。まあよろしいでしょう、それで結構です。そしてあの男は覗き、二人は護衛なのです。そうだな? 黒カマキリ」
ルプレヒトが黙ってジーノチカを睨んだ。
ジーノチカを残して四人は宿へ戻った。マリア用にもう一部屋用意してもらった。既に夜だが相変わらず快く迎えてくれる。外来者には親切だ。
男三人は昨日の部屋だ。ティッシュバン家を出てから会話は殆どない。ルプレヒトはもともと口数が少ないし、シュペトレーゼはずっと暗い表情だ。ソファに座って俯いたままだ。
食事も済んでいる。後は寝るしかないのだが、誰も横たわろうとはしない。
ピドーはベッドに座っている。シーツの上に地図を広げて見ていた。
「お前ら、どうすんの?」
シュペトレーゼに尋ねたのだが、答えたのはルプレヒトだった。
「ラドクリフに戻る」
窓際に立っていた彼は、はっと顔を上げたシュペトレーゼを無視した。
「マリア嬢を通じて命令が来たからには、従わなくてはならない」
「少尉さんだもんな」
「...だから、今は出向中で歴史研究所の職員だ」
「もう白々しい言い訳は要らねえよ。そうまでしてお守りをしなくちゃいけない奴って誰なんだよ。シュペートはハンナさんをいきなり呼び捨てしてたじゃないか。ハンナさんだって、頼まれる前から紅茶にミルクを入れてた。知り合いなんだろう? ジーノチカさんとも」
彼は全くごまかそうとしていなかった。もうバレバレだ。
「でも王太子じゃないって? マジかよ」
一瞬目を上げたが、すぐにシュペトレーゼは下を向いた。
ドアがノックされた。間髪いれずにピドーが返事する。
「開いてるぞ!」
ルプレヒトが構える。だが扉を開いたのはマリアだった。
「ちょっといい? あーあ、雰囲気が暗いわーむさくるしいわー」
昼間の服のままだ。後ろ手にドアを閉める。救急箱を持っていた。
「何だよ」
「フロントから薬箱を借りてきたの。ガーゼは取り換えた?」
「ハンナさんに換えてもらったよ」
「ふぅん...会いたかったなあ」
ピドーは顔を上げ、きょろきょろした。鼻をこする。廊下から一瞬だけながれこんだ空気が気になるようだ。
「どうしたの」
「マリア...じゃないな。なんだか甘いような匂いがしたような...」
「ああ、廊下に誰かいたわ。小柄な...爽やかだけど甘い薫りがしてた。その人かしらね。男の人もいたけど、お年寄りだったしね。ああいう感じの香水を使うかなあ」
マリアはピドーほど鼻が利かない。既に何も感じないようだ。他の二人も首をひねった。
「ふうん? 樹木系の甘さみたいだ」
ピドーはわざわざドアを開けた。廊下には誰もいない。壁のランプが木の内装を照らすだけだ。ワックスに混ざってその薫りが残っている。
「何が気になるのよ」
「...何だか分かんねえ。サンダルウッドに似ている気もするけど...違うな」
それは別名白檀で、甘い香りを放つ香木である。そのままでも香るが、蒸留した精油は薬用にもなる。芳醇だが爽やかさも併せ持つ。
「あんたが知ってる香りなんてラベンダーとミントくらいじゃないの?」
馬鹿にしているわけではない。ソフィアにはあまり香料が揃っていないのだ。
「舐めんなよ。俺は一度嗅いだら忘れない。爺ちゃんの工房にはすげーいっぱいあった。知っているような気がするんだ。なのに分かんないってのが気持ち悪い」
嗅覚には自信がある。それなのに判断が付かなかった。
ベッドに戻る。待ってました、とばかりにマリアが頭を捕まえた。
「いいってば」
「はいはいはい、分かった分かった」
それでも、一応は包帯をほどく。振り払おうとするピドーの頭を小突きつつガーゼを取った。
「あーもう塞がりそうね」
手際良く消毒しながら、ピドーの肩越しに地図をのぞいた。
「アディートに行った方が近いかも」
「え?」
「どうせ東州に行くならまずアディートかな。この愚弟!」
ため息まじりだった。止めても聞かないだろう弟の性分を分かっているのだ。消毒薬を片手に地図を指す。
海峡を渡れる橋は二本しかない。上流と下流に一本ずつだ。上流のマイン橋は破壊されている。残るレルヒ橋はマイン橋よりも規模が大きい。ただし南州にある。歩行者と車道用はもちろん、東西を結ぶ鉄道も通っていた。渡し船などは橋ができた時点で少なくなってしまった。陸路が物流の主役になってからは、船着き場なども減った。
キルヒェガルテンは南と北の境界に近い。ここから北州だけを通って東側に渡るには、北上してから渡し場を使うしかない。そこから東に入り、南下だ。交通と時間的な効率は悪い。神殿に至るまで二、三日かかるかもしれない。
逆に南下してアディートという町へ出るルートもある。北州と南州の境だ。ここには東西鉄道につながる鉄道の路線があった。こちらを使えれば、乗り継ぎしだいで明日には到着だ。
グリンクラフト連邦は、首都が西州にある。商業で栄えた東と結ばれる為に、どうしても東西間の交通や物流が盛んで便利が良い。逆に南北の方向の移動が不便なのだ。
「期限があるんでしょ? なるべく早く行ける方がいいんじゃないの? 内戦中だけど、あなた民間人だし」
ジーノチカが州を越えて活動しているように、民間人の移動は禁止されていない。香水の材料調達という言い訳もできる。さらに内戦の戦場からは離れているので、交通のチェックもさほどシビアではないはずだ。ただし現在の状況ははっきりしないから気を付けないと、とマリアは念を押す。
「明日イーブが迎えに来てくれるから、乗せて行ってもらおうね。さっき連絡したの」
「えっ、こっちに来てるの?」
「うん。私はイーブの車でここまで来たの。アディートで物資調達だって」
もっと早くに行く予定だったが、ソフィア襲撃の後始末などがあってずれこんだらしい。
「まだ居てくれて助かったわ」
ガーゼだけではなく、砂まみれになっていた包帯も取り換えた。外にいるだけでも風が砂を運んでしまうようだ。
「じゃあ明日ね」
マリアは廊下に出た。宿の中は静かだ。既に夜中に近い。客もあまりいないようだ。空気がひんやりと肌にまとわりつく。ソフィアやラドクリフよりもかなり暖かい地域だが、やはり夜は冷える季節だ。
(もう寝よう...。またあの夢を見ちゃうかな...)
自室に戻り、服のままベッドに横たわる。体中が重い感じだ。ソフィア襲撃の前後から、嫌な夢が続いている。まるで誰かに暗闇から呼ばれているような。
色々と頭の中で整理できていない。一気に色々と聞いたからだ。
(太陽神話? ティーガ族? 知らない事ばっかり)
ただレイナーの死とピドーの悪夢が関係あるというのは理解できた。ピドーが何かをしようとしているのも。弟もジーノチカも先住民の神話を信じ、それに沿って行動しようとしている。正しいかどうかはマリアには分からない。
(愚弟が無茶しなければいいけど)
眠気が襲ってくる。電気が付いたままだ。消す気力も、もはやない。何とか毛布の下へ潜り込んだ。勝手に瞼が下がってくる。
突風がガラスを揺らした。二、三度と続いて止んだ。しかしマリアの耳には届かない。しばらくして宿の前に車が到着した。それが出発するのにも気が付かなかった。
糸杉がひときわ激しく揺れた。砂塵が舞い上がり、夜の闇に一時の澄んだ黒を取り戻していた空をかすみに包む。枝が鳴り、葉がざわめく。森の入口にぼんやり光る白い靄がった。
靄の中心には人影があった。風が止むと光も消えた。森の奥からかすかに届く管理人の明かりと星だけが光だ。風景の闇に溶けてしまいそうな服をまとった姿が現われる。
レースの黒いベールは唇の下まで隠している。顎が埋まるほどふんわりとショールを首に巻き付け、ゆったりした長い上着は膝まであった。細身のパンツには不釣り合いなほど、足元はごついショートブーツだ。身につけている物はすべて黒だった。髪は隠れている。夜の中でわずかに露出した顎の先だけがやたらに白く浮き上がる。ちょっと頬をこすったが、手袋も黒い。
首だけ振り返る。町の明かりは遠い。家々の窓は暗かった。
「そこにいる? チビさん。分かるよね、僕だよ、ルーカだ」
声は低く細い。わずかに擦れている。
「もしかしてハンナ・ティッシュバンに会いに? 僕も会いたかったよ。懐かしすぎて殺しちゃいそうだ」
返事がなくとも一人で続ける。
「昨日の午後『東の赤』が光ったよね? チビさんも見に来たんだ?」
森の柔らかい地面を踏み、ぼろぼろの靴がわずかに見える。太い幹の陰から顔を半分だけ出した。鼻から下だけがのぞく。フードに隠れて真っ黒だ。小さな肢体はすっかり木に隠れている。ピドーと遭遇したティーガ族の子供だった。
「それで? 逃げないって事は僕に話がある? 一緒に西へ戻る? それとも『東の赤』を連れて行こうか」
返事はない。それでもどこか楽しそうだ。
「アウゲンがハンナの孫にのされちゃったって。情けないなあ。後で僕も蹴りの一発でも入れてあげよっと。せっかく来てやったのに『東の赤』はまだ本格的に目覚めていない。そうだろう?」
子供はまだ無言だ。
「ソフィアは面白かったなあ。まあ石板は無くなるし奴は完全に復活しなかったし、もっとたくさん死んでもらうつもりだったのに! あんたの故郷みたいに、千の単位じゃないと復活はダメってわけでもない。もっとも僕には太陽の復活はどうでもいいんだ」
ちらりと木の陰を見るが反応はない。肩をすくめて続ける。
「ダムを破壊! 面白かったよ。僕が吹っ飛ばしてやったんだ。火を点けた奴は、ちょっと反撃くらったからって泡くって転んで足を怪我しちゃった。口を割られても困るから」
と、人差し指で首を切って見せる。
「ま、何も知らなかったんだけどね。ちょっとお仕置き」
その口調は、まるで宿題を忘れた子供を叱りつけた程度のようだった。命を奪った重さはない。
「どうやったら太陽が復活するんだろう? 僕もチビさんも偶然の産物なのかな。もう十年もかけているのにねえ。気になる? ねえ、契約期間はいつまでだろう? 知ってる? 確か半カトゥンって『あのひと』に聞いたなあ」
風が枝を揺らす。
「本当に愛想がないねえ。...北事変から十年だから...そうかあ、もうそろそろ期限が来る」
落胆の調子は無い。何について話していても、明日のピクニックの計画をしている感じだ。
「どうして『東の赤』に近づく? ティーガ族でもやっぱり確実な復活の方法を知りたい? 分かったら教えてよ。そうだ、『東の赤』を連行してしめあげよう」
まるで精気のなかった子供の顔に鋭い緊張が走った。丸い瞳がさらに大きくなる。フードの周囲に小さな火花が散って光った。ルーカを射抜くように見つめる。
「だめ」
低くて震えた声だった。
「あはは。奴を守る為に僕とやりあうつもりかい? 受けて立つよ」
ルーカは背中をのけぞらせて笑った。
「僕らは仲間だろう。一緒だよ。太陽の亡霊に取り憑かれてる。世界を滅亡へ導く為だ。そうだよね? どうせなら殺し合おうじゃないか。『北の黒』、絶望の虎!」
ティーガの子供はフードを顎まで下げた。すっと木の後ろに隠れる。
「誰か来る? 僕もソレが出きればなあ。やっぱり君は『忌むべきもの』だよ」
遠くに光の点が見えた。やがてどんどん近付く。ランプが激しく揺れていた。黒服の男が足早にやって来た。
「ルーカ? ルーカ! ここか」
彼はランプを掲げて人影を確認すると、ほっと息を吐いた。明かりの輪に浮かんだのは、夕方にジーノチカに投げられたアウゲンだった。左の頬が腫れている。
「おやアウゲン。保釈されたんだ。容疑は痴漢だっけ?」
「まさか、やるもんか! ティッシュバン家の傍にいただけなのに、全くもう。『あのひと』に連絡が取れたから良かったけど、後が怖いなあ...」
やたらに首をさすっている。蹴られたり殴られたりもしたのだ。あちこち痛いのだろう。
「こっちは頭脳派でね。格闘は得意じゃない」
「ふうん、ただの情報屋だろ?」
「まあな。ここで何をしていた? 宿の奴にこっちへ向かったって聞いて、何かあったら大変だなと」
「あはは、心配するふりか」
ルーカはまた大きく笑った。
「絶望を追いかけただけだよ。僕が何をするのか情報が欲しいだけだろう。見せてやるよ。チビさん、まだいる? ちょっと吹っ飛んでごらんよ」
突然、空気が震えた。ルーカの体が白く光る。砂が舞い上がり、渦を巻いた。つむじ風が巻き起こる。アウゲンの足元を通り過ぎ、体を叩く。彼はあおりをくって倒れた。髪が縦横に乱れる。
風は更に勢いを増した。枯葉や小石を巻き上げ、森へ進む。糸杉が巻き込まれた。幹がきしむ。数本がなぎ倒された。小さな竜巻が木々を吸い込み、奥へと向かう。
稲津が光った。空ではない。地上だ。地面を這う。飛び上がりかけた木を襲った。枝が飛び、幹が裂けた。火花が散る。
そして静かになった。
アウゲンは尻もちをついた形のままだった。ぽかんとしている。ランプは転がっていた。
「今の風はあんただな。電撃も出せたのか?」
「出せる、と言いたい所だけど。雷はティーガのチビさん」
「えっ、本当か。居るのか?」
あわてて立ち上がる。ランプを拾い、追いかけようとする。ルーカがまた笑った。
「やめといたら? チビさんは『忌むべきもの』だよ。人魂なら離れていても見る事ができるらしいじゃないか。暗闇での追いかけっこだよ。あんたに勝ち目はないね」
アウゲンには彼が見えないが、あちらは彼の居場所を感じ取れるのだ。
「黒こげにされたいなら行けよ」
「いやいやいや。雷を自在に...それが冥界の太陽の力...」
「そう、『北の黒』。それで東の七面鳥は何だっけ」
アウゲンは服の埃をはらった。
「少しは太陽神話を信じる気になったよ。それで、これからどうするんだ?」
「僕から情報を引っ張るなんて高いよ。教えてやるから貸しておくよ。南州に用があるんだ。ここには『東の赤』が開いたから見に来ただけ。絶望のチビさんに会えるとはね。でもあいつが一緒だと下手に手を出せないじゃないか。つまんないな」
「『東の赤』ってのは包帯をした子か? 一緒にいるのは、本当に遅摘み酒なのかな?」
「へえ、まさか! 本物? ちゃんと見た?」
「うーん。本人確認が取れなかった。でも護衛がいたからな。やっぱりそうかな...連絡は来ていたんだが...」
「どっちにしろ、とりあえず連れて来れば遊べたのに。そういえばホテルの廊下にも爺さんがいたね。やたら体格が良かった。奴も護衛かな? まとめてやっちまおうか」
森の奥を見る。ティーガの子供の気配はない。闇を風が吹き抜けるばかりだ。
「絶望のチビは厄介だなあ。まあいいさ。またチャンスはある。ああ、早く遅摘み酒を吹っ飛ばしたいな。まず足首もぎとって逃げられないようにしておいて、一本ずつ指を切ろう。手足をもいで、耳と鼻をそぎ落とす。腹を裂いて腸を引っ張り出すのも楽しそうだ。首に巻いてやる。それを見せてから目を潰して最後に首」
声の調子に笑いが混じる。足踏みがダンスのようで楽しそうだ。暗がりでも分かるほどだった。
「物騒だな。やめてくれよ。でもこれからホテルに戻ろう。あんたが護衛を何とかしてくれ。遅摘み酒はクロイツベルクに連れ戻す」
「面白そうだ。でも絶望のチビがいる。どういうつもりか知らないけどダメだってさ。『東の赤』と一緒にかかってこられたら不利だね」
「あんたでも怖いものがあったのか」
「はぁ? 無いよ。ふざけんな。分かった、行ってやるよ」
突き刺すような調子のルーカの声にしわがれた怒鳴り声が重なった。森の奥からだ。ランプを揺らして男が歩いて来る。管理人だ。倒れた木々を踏み越え、きょろきょろしている。
「誰かいるのか? 何だ、この嵐は?」
一瞬の竜巻は既に止んでいる。管理人には一体何が起きたのかさっぱり分からないだろう。風の吹き荒れる音や稲妻に驚いて様子を確かめに来たようだ。森の端の灯りを見つけて声をかけたらしい。
「あんたらは無事か? 何だ? こんな夜中に苗か、花か? 明日にしろ。こんな妙な嵐は初めてだ」
「そっちこそ誰?」
帰りかけていた管理人は顔をしかめて振り向いた。
「管理人を知らんのか? ここはお前らの遊び場じゃない。とっとと帰れ」
しっしっ、と手で払う。それだけではない。落ちていた枝を拾って二人に投げつけた。彼にしてみれば森は神聖な場所である。そこが荒らされた。見かけは自然の脅威のせいだ。しかし墓標の幾つかが乱されてしまった。管理者としての責任感や子供の霊に対しての想いなどがあったのだろう。多少はイライラしていても仕方が無い。
けれども殆ど野良犬扱いを受けたと感じたようだ。ルーカの唇が尖った。すぐに笑みの形に戻る。
「遊び場だよ、僕にはどこでも」
体から光が溢れる。白いドームが現れた。アウゲンは数歩下がった。自分でも無意識だった。本能的な恐れは、彼だけではなく管理人も感じたようだ。
「何を」
そう言ったきり、口は開いたままで固まった。じりじりと森へ下がる。倒れた木に足を取られた。後ろ向きに倒れる。ランプがどこかへ飛んで消えた。
風が吹く。管理人の体をなぶる。彼は立ち上がれなかった。手を付いた。四つん這いのままで逃げようとする。体が浮いた。地面から吹きあがる空気が持ち上げているのだ。言葉にならない呻きを上げながら手足をばたつかせる。枝葉が渦を巻いた。その場所だけに発生する竜巻だ。風の柱がみるみる管理人を高く舞い上げる。土や葉を巻き込む。既に彼の姿は見えなかった。
一瞬で風はやんだ。ばらばらと色々な物が落ちてくる。地面に落ちて乾いた音を立てた。だが管理人がいない。
はるか頭上で葉が鳴った。
アウゲンが見上げても暗闇ばかりだ。
すぐに音は止む。
「ひっかかっちゃったみたいだね」
ルーカの光は消えていた。ランプの薄明かりに浮かぶ笑顔は邪気がない。
「ねえねえ、そのうち落ちて来るかな? それとも刺さっちゃって、ぶら下がったまんまだと思う?」
ぼたぼた、と飛沫が散った。梢から赤い雨が降る。管理人の血だ。ルーカは声を立てて笑った。
アウゲンはしばらくルーカを眺めていた。かちかち鳴っているのが自分の歯だと気が付き、あわてて顎を押さえる。その手も震えていた。
二人がホテルに戻った時には、シュペトレーゼとルプレヒトはホテルを去った後だった。
ツヅク! 次回 第四話 北州アディート 北と南の境界の町
お読みいただきありがとうございます!
本当にごちゃごちゃと情報が多い話なのに、読んでいただけるとは…(感涙)!
今回の主な登場人物 (主要人物以外)
ジーノチカ・L・ヒンメル 西州在住の占い師兼産婦人科医。ハンナ・ティッシュバンの孫。
おそらく頭が良すぎて、こうなってしまったのでしょう。
ルーカ 黒衣の人物。『西の白』、怨嗟の猿。風を操る。
謎の少年 ティーガ族の生き残り。『北の黒』、絶望の虎。




