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「秋の京都で偶然に重なる出会い、晩年にともる希望の灯りと人生の賛歌」

『秋の灯り 』


・出会い


隆介は、このツアーに申し込んだことを少し後悔していた。妻に先立たれて五年。

一人で過ごす時間に慣れたつもりでいたが、旅先で一人というのは想像以上に手持ち無沙汰で、

夫婦連れや友人同士で賑わう周囲がやけに浮ついて見えた。


「次はこちら、世界遺産、天龍寺の境内を散策します。自由時間は一時間ですので、集合場所と時間をお間違えのないようにお願いしますね」

ガイドの声が響く中、隆介は人波から少し離れ、曹源池庭園へと続く石段を見上げた。

青々とした木々の合間から、多宝殿の屋根がわずかに覗いている。


ふと、足元の小石に躓きそうになり、とっさに手すりに手をかけた。

その時、隣に立っていた女性が「大丈夫ですか?」と優しげな声をかけてきた。

視線を向けると、彼女はオレンジのスカーフを首元に巻いた、上品な雰囲気の女性だった。

奈緒子という名だとは、この時はまだ知らない。


隆介は照れくさそうに「ええ、少し足元が覚束なくて」と答えた。

奈緒子はふわりと微笑み、「お気をつけて。この石段、少し高低差がありますから」と付け加えた。

それだけの、他愛ない会話だった。二人はそれぞれ別の方向へ歩き出し、その場はそれで終わりかと思われた。

ところが、曹源池庭園の畔で、隆介は再びその女性の姿を見かけることになる。


池に映る嵐山の借景を、熱心にスケッチしている。

隆介も若い頃に水彩画を少しかじったことがあり、思わず彼女の描く線に興味を引かれた。

そして、さらに奇妙な偶然が重なったのは、その日の昼食時だった。


指定された食事処のテーブル席は相席が基本で、隆介の向かいに座ったのは、まさに今朝と天龍寺で見かけたあの女性だったのだ。

「あら、また」と、彼女は少し驚いたように目を丸くした。隆介も「まさか、こんな場所でご一緒するとは」と苦笑する。

ガイドから配られた食事券に書かれたグループ番号が同じだったらしい。


「私、奈緒子と申します。どうぞよろしく」

差し出された細い指先に、隆介は少し戸惑いながらも「隆介です。こちらこそ」と応えた。


昼食は、地元の食材を使った素朴な料理だった。

二人きりのテーブルではなかったが、奈緒子は向かいの隆介にそっと微笑みかけ、場の雰囲気を和ませてくれた。

彼女の穏やかな話し方は、隆介の心にじんわりと染み渡るようだった。

「絵がお好きなんですか?」

隆介が尋ねると、奈緒子は少し恥ずかしそうに頷いた。


「ええ、下手な横好きですが。あの庭園の池に映る景色が、あまりに美しくて、つい手が動いてしまいました。」

「私も若い頃は少し…水彩画ですが。奈緒子さんの絵、拝見しても?」


隆介の言葉に、奈緒子は快くスケッチブックを開いてくれた。

そこには、隆介が見たままの借景が、しかし彼女の優しいタッチで、さらに生き生きと描かれていた。

筆致には迷いがなく、それでいて力みがない。隆介は、亡き妻が生前、時折趣味で描いていた花の絵を思い出していた。

旅は進み、二人はまた別の観光地で偶然顔を合わせた。


渡月橋のたもとで、隆介がぼんやりと川の流れを眺めていると、土産物屋から出てきた奈緒子が隣に立った。

「ここも、もう少ししたら見事な紅葉になるんでしょうね」


奈緒子の言葉に、隆介は初めて、この嵐山の秋の景色を想像した。

今の青々とした木々が、燃えるような赤や黄金色に染まる姿を。

「きっと、息をのむほどでしょうね」


隆介の声は、どこか遠い場所を想像しているかのように響いた。

その日、ツアーの全日程を終え、解散の時が来た。奈緒子とは、二度と会うこともないだろう。

そう思うと、隆介の胸に、今まで感じたことのない一抹の寂しさがよぎった。

彼女の柔らかな笑顔や、澄んだ声が、妙に心に残っていた。


数日後、隆介は静岡の自宅で、撮りためた旅の写真を整理していた。

庭園の池、渡月橋、そして五重塔。画面に映る風景は確かに美しかったが、なぜかどれも物足りなく感じられる。

写真には写らない何か――奈緒子の笑顔や、彼女の声が蘇るたび、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。


「きっと、もう会うことはないだろうな…」

自分にそう言い聞かせ、苦笑する。


それからひと月ほど経ったある日。

市の文化会館で「市民美術展」が開催されると新聞で目にした。気晴らしになるかもしれないと、隆介は出かけてみることにした。

会場の一角に「水彩画・風景部門」と書かれた展示スペースがあった。


ふと目に留まった一枚の絵――それは、天龍寺の曹源池庭園を描いた作品だった。

池に映る嵐山の借景が、柔らかな筆致で表されている。


隆介の胸がどくんと跳ねた。

「これは…」

どこかで見た線の運び、温もりを宿す色遣い。間違いない、あの時の奈緒子のスケッチが、ここで完成された姿を見せている。

その瞬間、背後から声がした。

「――あら、やっぱり。隆介さんですよね?」


振り返ると、そこに立っていたのは、オレンジ色のスカーフを身につけた奈緒子だった。

彼女は少し驚いたように目を丸くし、やがて嬉しそうに微笑んだ。


「まさか、こんなところでお会いするなんて」

「それはこちらの台詞ですよ」


互いに小さく笑い合う。

奈緒子の頬は、絵を前にした時の熱をまだ宿しているように見えた。


「この絵、あなたの作品だったんですね」

隆介が言うと、奈緒子は少し照れながら頷いた。

「ええ。出品するなんて柄じゃないと思ったんですけど、知人に勧められて…」


隆介はその絵から目を離さずに言った。

「見れば見るほど、あなたの優しさが滲んでいます。旅先で拝見した時も思いましたが…本当に素敵です」

奈緒子の頬がほんのり赤く染まった。


隆介は展示された奈緒子の絵を前に、しみじみと呟いた。

「京都というのは、不思議な場所ですね。季節ごとにまるで違う顔を見せてくれる。

去年は夏に訪れましたが、今度は秋の景色を見てみたいと思っていました。」


奈緒子は目を輝かせ、少し身を乗り出した。

「まあ、奇遇ですね。私も同じなんです。去年、東寺のライトアップを見に行ったんですけれど…あいにくの雨で、ほとんど楽しめなかったんです。だから、紅葉の季節にもう一度訪れてみたいなと。」


隆介は思わず頷き、口元に笑みを浮かべた。

「今度こそ晴れた夜に見られたらいいですね。」


奈緒子の頬に柔らかな光が差し、少し照れたように微笑んだ。

そして、小さな声で続けた。

「…あの、もしご迷惑でなければ、どこかでご一緒できませんか?紅葉の季節に、嵐山や東寺のライトアップを歩いてみたいんです。」


その言葉に、隆介の胸に温かな灯がともった。

偶然の積み重ねが、ようやく導いた必然のように思えた。


「ぜひ。今度は、私の方からご案内させてください」

二人の間に、静かに、しかし確かに、新しい時の流れが生まれていた。」



・京都へ


十一月。

まだ夜の帳が残る静岡駅のホームに立ちながら、隆介は胸の奥が小さく高鳴るのを感じていた。

早朝の冷たい空気の中、新幹線のライトが線路を照らし、遠くから到着のアナウンスが流れてくる。


「おはようございます」

声をかけてきた奈緒子は、薄いグレーのコートに、鮮やかなオレンジ色のスカーフを巻いていた。

その色合いは、夜明け前の空に差し込む一筋の光のようで、隆介は思わず微笑んだ。


「今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。いいお天気になりそうですね」


二人は並んで新幹線に乗り込み、窓際に腰を下ろした。

車窓の向こうでは、東から昇る朝日が稲穂の名残を黄金色に染めている。

奈緒子が窓に視線を向けるたび、その横顔が淡い光に照らされ、隆介は言葉を失った。

知り合ってまだ日が浅い。けれど彼女の纏う雰囲気には柔らかな優しさが満ちており、そこに漂う品の良さは、隆介がこれまで触れたことのない種類のものだった。

――どうして、こんなに惹かれてしまうのだろう。



・嵐山の朝


午前九時過ぎ、京都に到着。

電車で嵐山へ向かうと、車窓からすでに紅葉に染まる山並みが見えてきた。

渡月橋に立つと、朝の光を浴びた川面に、赤や橙の葉が鏡のように映り込み、きらめいていた。


「まあ、なんて美しいんでしょう」

奈緒子は小さな声で呟き、川面を覗き込んだ。

隆介はその横顔を見つめ、心の奥が熱くなるのを感じた。

――この景色よりも、あなたの姿のほうが美しい。


竹林の小径を歩けば、朝の光が縦に落ち、緑と紅のコントラストが幻想的な世界をつくりだしていた。

奈緒子は立ち止まり、バッグからスマホを取り出すと、光の角度を確かめながらシャッターを切った。


「奈緒子さん、写真がお好きなんですね」

隆介が声をかけると、奈緒子は恥ずかしそうに笑った。

「いえ、実は絵を描くときの参考にしているんです。見過ごしたくない一瞬を、そのまま残しておきたくて」


画面には、竹林に差し込む光と影が柔らかく切り取られていた。

「まるで最初から絵になっているみたいだ」

隆介が感嘆すると、奈緒子は少し頬を染めた。


「構図を考えるのが好きなんです。あとで描くとき、この光の入り方を思い出せますから」


その言葉と笑みは、隆介の胸に深く沁みた。

――優しさ、雰囲気、そしてあの上品さ。知り合ったばかりなのに、どうしてこんなに心を奪われるのか。



・京料理の昼食


昼食は川沿いの料亭で、湯豆腐を中心とした京料理だった。

窓から見える桂川には紅葉が舞い落ち、川面に波紋を広げている。


「やっぱり京都は、五感で味わう場所ですね」

奈緒子は湯気の立つ小鉢を手に取りながら微笑んだ。

「見ても、食べても、香りまで…」


隆介はその言葉を聞きながら思った。

――あなたと一緒だからこそ、五感すべてが冴えるようだ。


「そして、こうしてご一緒できるから、なおさら特別ですね」

言葉にしてみると、奈緒子は少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かに笑みを返した。

その笑顔は、料理よりも景色よりも、隆介の心を満たしていた。



・三十三間堂


午後、二人は三十三間堂へ。

長い廊下を歩くと、千体の千手観音像が整然と並び、黄金色の光に包まれている。

その荘厳な光景に、二人は言葉を失った。


「圧巻ですね…」

奈緒子の声は、ほとんど囁きに近かった。


隆介は観音像を見上げながら思った。

――人は皆違うのに、これほどまでに調和している。

だが、自分にとって唯一無二の存在は、今、隣に立つこの人だ。


奈緒子の姿を横目に捉えるたび、隆介の心は抑えようもなく彼女へと傾いていった。



・東寺、月の下で


日が暮れ、二人は東寺へと向かった。

境内に足を踏み入れると、冷たい夜気が頬を撫で、群青の空に五重塔が浮かび上がる。

ライトアップの光が闇を切り裂き、池の水面に逆さに映った塔が揺らめいていた。


「去年、ここに来たんですけど…あいにくの雨で、ほとんど楽しめなかったんです」

奈緒子の声は、少し寂しげで、それでも期待に満ちていた。


「では、今日はリベンジですね」

隆介は笑みを浮かべて応えた。

「晴天の夜に、しかも月まで出ている」


雲間から顔を出した月が、五重塔の背後に静かに浮かんでいる。

光と影が溶け合い、まるで夢の中の景色のようだった。


奈緒子はスマホを構え、月と塔と紅葉を一つの画面に収めてシャッターを押した。

「絵にするとき、夜の光は記憶だけでは難しいんです。だから、こうして残しておくんです」


その姿を見つめながら、隆介は胸を締めつけられた。

――優しさに包まれた雰囲気、凛とした品の良さ。これまで自分の人生で触れたことのない感覚が、目の前にある。


「見てください」

奈緒子が画面を差し出す。そこには静寂と荘厳を閉じ込めた一枚が写っていた。


「素晴らしい…」

隆介は自分のスマホでも同じ景色を撮ったが、奈緒子の写真には、自分には撮れない温もりが宿っていた。

彼女が切り取る世界を、自分も一緒に見ていたい。そう強く思った。


奈緒子がふと笑みを浮かべて呟いた。

「どうしても、あとで誰かに伝えたくなる景色ってありますよね」


隆介は、胸の奥からこみ上げる想いを押し殺しながら、静かに応えた。

「ええ。今日の私は、まさにそれです」


二人は並んで池の水面を見つめ、時の流れを忘れた。

紅葉と光と月が織りなす景色の中で、隆介の心はただひたすらに奈緒子へと傾いていた。



・おくりもの


数日後、隆介が帰宅すると、ポストに小さな不在票が差し込まれていた。差出人は奈緒子。

胸が高鳴り、彼はすぐに郵便局へ向かった。


小包を開けると、中には緑の葉を愛らしく広げた「ペペロミア・オルバ」が、透きとおるようなアクアテラポットに収められていた。

隣には、落ち着いた色合いのタンブラーカップ。そして小さなカード。


「先日は楽しい一日をありがとうございました。ささやかですが、旅の記念に。」

流れるような筆跡に、奈緒子らしい上品さが滲んでいた。


隆介はその鉢植えを書斎の窓辺に飾った。

ふと机の引き出しから、孫がくれたマリオのフィギュアを二体取り出し、気まぐれに両脇へ並べる。

「守衛さん付きか」

思わず笑みがこぼれた。


それからの日々、隆介は朝夕にペペロミアへ声をかけることを欠かさなくなった。

夜には霧吹きをかけ、「今日もありがとう」と呟く。

まるで奈緒子へ語りかけているようだった。


深夜の仕事には、タンブラーカップに注いだドリップコーヒーとフィナンシェ。

湯気の向こうに、奈緒子の笑顔が浮かぶ。



・人生賛歌


窓辺のペペロミアは、静かに葉を揺らしている。

両脇のマリオたちは、まるでその成長を見守るように佇んでいた。


隆介は小さく息を吐き、心の奥で思った。

――人生の終盤にきて、こんな贈り物を受け取るとは。


老いることは、ただ終わりへと向かうことではない。

思いがけない出会いと、そこから生まれる希望や喜びが、まだ待っている。

奈緒子との縁も、この小さな鉢植えも、神様からのプレゼントに違いなかった。


「人生も捨てたものじゃないな」

独り言は夜の静けさに溶け、心に柔らかな灯をともした。


隆介は窓辺の緑を見つめながら、これからの時間を慈しみたいと深く願った。

人生は終盤にあってなお、新しい彩りを添えてくれる。

そのことを知った今、老いは恐れではなく、感謝と賛美に変わっていた。

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