07
「あ~~~……」
聞きたくもない話に澪は切り株から立ち上がろうとしたが、ものすごい力で押さえつけられていて少しも動くことができなかった。
「いつも通りに女の子に言い寄られてたんだ」
出てきた文脈に思わず体の力が抜ける。
「……自慢?」
「自慢なわけないよ、寧ろ僕にとって迷惑な事なんだから。でね、知らない子、あーーいや、えーっとああそうだ……ゼミが同じの子だった、それだけなのに僕に惚れて勝手に付き合ってるって思っちゃってね……」
「……」
今のあんたと同じじゃん、そこまで喉から出かかったがさっさと語り終えてほしいので黙っていることにした。
「で、8号棟の人のいなさそうな教室、確か848号に呼び出されて」
そこまで聞いて澪はようやく思い出す。
「ああ……あそこで痴話喧嘩してたカップル?」
「だからカップルじゃないんだってば、付き纏いってやつだよ。しかもそのあと刺されそうになって」
「ああ、ナイフのあれ……」
「そうそう!やっぱり忘れたなんて嘘だったね澪ちゃん」
澪はその時のことを鮮明に思い出していた。
澪たちの通っていた大学の8号棟はめったに授業で使われない棟で、特に4階の端っこの教室、848号室はほとんど使われないのに日当たりはよく、昼休みや空き時間にこっそりと入って動画を見たり、ご飯を食べたり、時には昼寝をしたりと自分だけの秘密基地のように自由に使っていた。
ある日、いつも通りイヤホンをはめて動画を見ながら長椅子の上に寝転んでいるとカップルと思わしき男女が入ってきた。女のほうは大学のミスコンで顔を見たことがある綺麗な女性だから覚えていたが、男性は背面しか見えていなかったし身長の高い人と言うことしか認識できなかった。
もしかしてここで愛の営みでも始めるのか、だとしたらおっぱじめる前に出ていかないと、そもそも大学ラブホテルじゃないんだぞ……。と不愉快な感情を向けながら音楽を止めて二人の動向を見守っていたが、最初こそ温和に話していた女が数分後にいきなり目を向いて金切り声を上げてバックから何かを取り出したのが見えたのだ。
西の窓の光に鈍い色が反射したのを鮮明に覚えている。それはどう見ても刃渡りが十五センチはある大ぶりの刃物だった。流石にこのままここで刃傷沙汰が起こっても困る。グロテスクな殺人事件の目撃なんてしたくない。しかも第一発見者になったらいろいろと面倒に巻き込まれることになる。
澪は音をたてないようにスマホとイヤホンをポケットにしまい、ゆっくりと長椅子やカーテンなどの遮蔽物の間を移動して、女が刃物を振り上げた瞬間横からタックルをかました。からんからんと音を立ててナイフが落ちた音を聞いて、すぐさま誰もいないほうに蹴り飛ばす。
女は、自分に起こった事態を理解し、唐突に激昂して襲ってきたので今度は足払いをかけて転ばせて、後ろから押さえ込んだ。
自分より遥かに小柄な女に投げ飛ばされたことで唖然とし、あまりの唐突な事態に声も出ないようだった。澪は女を抑えたまま警備員を呼ぶように男に指示をしてそのまま暴れようとする女を横固めでホールドして警備員と男が帰ってくるのを待った。
結局誰も怪我をしていない事、男から女への処罰感情がない事などからお咎めなしでこのプチ事件は終わり、それから何事もなく澪の記憶からも次第に消えていったのだった。大学を出て社会人になってからこんな昔のことを思い出さされるとは思ってもいなかった。
「完全に思い出したけど、あの時の男があんただったの」
「そう。命かけて助けてもらったからお礼しようと思ったのに、大したことはしてないって……クールでかっこよくて……」
長い睫の生えそろった目を嬉しそうに細めて、
「きっと僕のこと好きだから命をかけて助けてくれたんだって思って……」
うっとりと頬を染めながら語る。
「……あんたあの子とお似合いだったんじゃないの」
澪がそれをみてドン引きと軽蔑の表情を浮かべていることに気づかないまま千影は続ける。
「命を懸けて助けてもらったんだから、今度は僕が命を懸けて守らないとって。だから、全部知って、全部理解して、全部奪って、僕しか知らない場所に閉じ込めて……そこで一生守ってあげるね」
「はあ……そうです……」
発言を一度スルーしかけたが
「……奪う!?」
ありえないフレーズに思わず聞き返す。
「澪ちゃんは僕が奪って、代わりに守ってあげる。恩返し」
「どこが恩返し……な……んむっ」
顎を掴まれて顔を強制的に上げさせられた。
真っ黒な溝川の底みたいな暗い暗い色の瞳は千影の暗い欲望の色そのもので、その欲望に吸い込まれそうになる。
「澪ちゃん、好き」
蛇に睨まれた蛙のように固まって動けない澪の唇に千影の唇がゆっくり近づいてくる。
澪は、はっとして千影の頬を親指と人指し指でぎゅっと掴んだ。うっとりと薄暗い表情のまま頬が押しつぶされて唇がアヒルのようにとがる姿はひどく滑稽に見えた。
「あんた、良い度根性してる。恩を仇で返すとか最低な野郎ね」
「むぅ、むっ……んっ……ふ……」
頬を掴まれたままだからうまく喋れないらしい。
この理解不能かつねじ曲がった性格を叩き直せば、あちらに帰ってもどこかに拉致られることもないのではないか?そう思い、
「その狂った考え方も根性も叩き押してやる」
逃げる選択肢を一度捨てて、この男をどうにかしてまっとうにしてやると思った。たぶん向こうに戻ってもこの男は今まで通りに付き纏ってくるだろう。
最悪本当に手足を切られて拉致されて閉じ込められてしまうかもしれない。だったらこっちにいる間になんとかしたほうがいい。覚悟を決めてぱっと頬から手を離す。くっきりと赤い痕と食い込んだ爪の模様が両頬に残っていた。
「澪ちゃん……」
千影は掴まれた頬と爪痕でへこんだ頬を数度撫でて、
「澪ちゃんからの初めてのプレゼントだね……」
涙をにじませ薄気味悪い笑みを浮かべた。
「は……?」
「嬉しい、爪痕なんて残してくれて……澪ちゃんはそういう激しいのが好きなんだね」
「……本気で言ってるの?」
「もちろん。ああ、これすぐ消えちゃうんだろうなあ……」
名残惜しそうに頬を摩る千影にぞっとし先程までの決意が揺らぐ。やっぱり隙を見て逃げたほうがいいんじゃないかとすら思う。
「よし、そろそろ歩いても良いかも」
どうしたものかと考えていると、唐突に千影が立ち上がる。いつの間にか手を握られていたのでぐっと引っ張られて澪も立ち上がった。
「じゃ、行こ」
「……はあ」
やっぱりこんな気が触れたやつからは逃げるが勝ちなのか、本気で覚悟を決めて正すほうが見の安全的に良いのか……。どっちのほうが自分にとって安全なのか。澪は悩みながら千影の隣を進むのだった。