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「浮かねえ顔じゃねーか、ミオちゃんよォ」
「そりゃそうでしょ……」
澪は窓の外に目をやる。窓の外では千影が変態の格好をしたネロリに追いかけ回されていた。ネロリの心底楽しそうな声と千影がネロリを追い払うためにバカスカ放つ魔法の音が聞こえる。
「もう1週間もこの調子だし」
西方教会、北方教会、東方教会の三つの教会で集約機と呼ばれる石を壊し祝賀会を行ってから丸1週間。澪と千影はロキたちのアジトで何をするでもなく平和な時間を過ごしていた。千影の方は暇さえあればネロリに襲われているので平和とは無縁そうだが少なくとも澪はアジトの中で暇を持て余す程度には平和そのものだ。
アジトはそこそこの広さがある。数十人のメンバーが常に出入りし生活をしているので部屋数自体は多いし、倉庫や食堂、古い教会の施設を再利用しているらしいので礼拝堂のような大きくて整備された場所もあるし庭もネロリと千影が暴れまわれる程度に広さがある。ただここには娯楽のようなものはない。広さとレジスタンスメンバーの生活があるだけ。
最初は何かがあるかもしれないと緊張していたが、本当になにもなく日々が過ぎていくと焦燥感に駆られてしまう。さっさと終わらせて元の世界に感じたいと強く思う。
「次の作戦の決行は新月の晩だから明後日だ」
ロキは落ち着いた様子で、先程メンバーが運んできた昼食をむしゃむしゃと食べている。
「焦ったってどうしようもないだろ?」
最後のひと切れをごくんと飲み込んで唇についたマヨネーズを割れた舌で拭ってから澪を見て言う。
ロキから聞かされた次の作戦、基、教会をぶっ潰す本番作戦の決行は次の新月の晩らしい。なんでも月の光がない夜は負の黒い魔力が強化されるからその日が一番クレセントムーン側に有利なのだとか。
「まあ、ミオちゃんの焦りは早く作戦結構したいとかじゃないってのはわかってるけどよ」
「……どういうこと?」
「今のままじゃ嫌だって思ってんだろ?」
ロキはにやりと口角を上げて牙を見せる。
「現状、自分がお荷物だって思ってるんだろ?」
「……」
ロキの言っていることは当たらずも遠からずだ。早くこんな事は終わらせたい。命をかけるような暮らしからは、直ぐにでもおさらばしたいから早く決行の日が着て欲しいと言うのももちろんあるにはあったが、それ以上に今の自分の現状について悩んでいた。
確かに、ロキを始めとした黒い魔力を自在に操るクレセントムーンのメンバー。トリガーハッピー戦闘狂のネロリ。そして千影は聖女の加護と言う名の負の魔力を受け入れて人外レベルの力を手に入れた千影。あきらかになんの力もない自分はお荷物だろう。
ただ、そんなことよりも……
あんなにも嫌っていたストーカー野郎に守られているこの現状。
そして、もし……もしもこの守られている状態のまま元の世界に戻ったら本気で誘拐されかねないし籠絡されかねないという未来。この前の祝賀会の夜もクスリ入りのドリンクを普通に飲んでしまった、簡単に飲食物を受け取ってしまった自分の落ち度だ。自分はストーカー野郎を信じ始めている。その心の移ろいが信じられない。
このままフィジカルでもメンタルでも対抗手段がなければ、すべてがストーカー野郎、千影の思い通りになってしまう。それが嫌でたまらない。
あそこまで人外じみた力を手に入れた千影ならおそらくロキたちと協力すれば教会なんて簡単に潰せるだろう。でもその後、エイレンを脅しゲートを開けさせて元の世界に戻った時、千影が望む監禁エンドになってしまう。そんな予感に身震いする。
「大丈夫だってミオちゃん。あんたも強くなれるから」
ロキは黙り込んでいる澪の頭をぐしゃぐしゃっと犬を撫でるように乱雑に撫でると、部屋に飾ってある趣味の悪い人型のインテリアの指から何かを取り外す。
「ほらよ」
ぽいっと何かが投げられる。澪は反射神経でそれをキャッチして手を開いた。
「指輪……?」
まるで玩具の指輪のようにチープな発色の赤紫の宝石がついた少し大きめの指輪があった。
「これは……」
「身体強化用のアクセサリー。俺が丹精込めて魔力と祈りを注ぎ込んだブツ」
澪は机に置かれた指輪を指でつまみ上げる。
「これつけると何が出来るの?」
「めっちゃシンプルに身体能力が強化される。ミオちゃん投げ飛ばしたりするの得意だろ?かなりの重さでも対応できるようになるし、身のこなしだってネロリ程度……あー、それは流石に無理だな、うちのメンバーと同等くらいにはなれる」
「千影と同じくらい動けるようになる?」
「まあ、あんな馬鹿みたいに高威力ぶっぱし続ける化け物にはなれねーけど、動けはするんじゃねーの?だって、あんたはかなり身体能力高いだろ?俺のこともぶっ飛ばしたし、ほら、最初の森のところで俺の部下も投げ飛ばして気絶させたし」
そういえばと思い出す。真っ黒な格好で羽のない男だった。あの男もクレセントムーンのいち員だったのかと。
「最初から全部見てたってことね」
「そりゃ当たり前だろ。特に今回はイレギュラーにイレギュラーが重なったから期待して見てた」
指輪を眺める。そこそこ大振りな指輪だから澪の細い指だとぶかぶかになりそうだ。親指なら外れることもないだろうと右手の親指に装着する。
「……う”っ!?」
その瞬間、体中に何かが流れ込んできた。自分に絶対に入ってきてはいけない黒いもの。黒くて冷たい何かが侵食してくる。千影が言っていた何かが侵食してくる感覚とはこのことだろうかと自分の中に入ってこようとする存在に対抗しながら頭の片隅で思う。
ロキは何も言わずに頭を抱える澪をただ見つめていた。
「はーー………はーーー……」
やっと侵食するような感覚が収まってきて、緊張していた体の力が抜ける。
「お疲れ」
「……聖女も毎回こんな感覚に襲われるなんて大変ね」
額に浮いた脂汗をさっと拭って目の前に置かれていたぬるくなった水を一気に飲み込んだ。
「っていうか、前々から聞こうと思ってたんだけど……白い魔力とか黒い魔力とかってなんなの?」
「白い魔力は人間が正の感情……例えば楽しいとか嬉しいとか幸せだとかそういうのを感じた時に出る魔力。逆に黒い魔力は怖いとか苦しいだとか辛いだとか、そういう負を感じた時に出る魔力だ。この世界に住むすべてのヤツから常に魔力は生成され続けてる。だからこの世界には魔力が溢れていて基本的に誰でも魔法が使える」
こんな風にな、とロキはくるくるっと指を回すとなにもない空中から棒付きのキャンディーが現れてロキの手の中に収まった。
「これは白の魔力の力ってこと?」
彼はキャンディーを口に咥えたまま続ける。
「いーや、別にこういうのに白だの黒だのは関係ねェよ。どっちの魔力だろうと魔力というものが漂っている場所ならこの程度の魔法は使える」
「じゃあ、別に黒の魔力……負の魔力だけ集める必要はあるの?」
「教会の奴らにとっちゃあるだろうよ」
「人間は正の感情より負の感情のほうが放出されやすい生き物だからね」
がちゃっと扉が開いて、ネロリが入ってくる。千影は一緒ではないらしい。おそらく逃げられたのだろう。
「黒い魔力が放出されすぎると、負の感情がはびこるようになるから、この平和は保てなくなるんだよ。今、この国が……というか世界が限りなく平和で長閑なのは負の黒い魔力を集約機で集めて君たちの世界に送りつけて、白の……正の魔力で世界を満たしているから」
ネロリはそのまま澪の隣に座りソファの背もたれに腕を回す。
「白が多ければ、人間はあまり問題を起こさない。もちろん負の感情を持つことがあってもそれが諍いや争いにまではあまり発展しない。そして、その少しの可能性すら黒を吸い取ってしまうことでなくしてるんだ」
「なるほど……っていうかネロリさん近い」
「いやね、ミオちゃんからすごく良い魔力を感じてね……」
ほぼ裸状態のまま体を押し付けられて、変な意味でドキドキしてしまう。澪はネロリを押しのけて立ち上がりロキの隣に座り直して続ける。
「吸い取るって、祈ることで?」
「いや、羽だよ羽」
「……羽?」
ネロリが背中を見せるように後ろを向き見やすいように髪の毛をかきあげる。ほとんど布がないことで肩甲骨あたりから生えた羽がよく見える。飛ぶにしては小さすぎるお飾りのような羽。
「この羽から負の感情、黒の魔力になる前のものを吸い取って送ってる。これは羽の形を模した収集器でしかねェんだ。だからこれで飛ぶことはできない」
「……生まれた時にすべての民が洗礼の名目で教会から植え付けられる外部装置さ」
「なんで、そんな羽の形なんて……」
ネロリは首を少しだけこちらに向けて薄く微笑む。
「そのほうが、天使みたいで美しいから」
なんだかゾッとした。たしかに最初この世界に住む人間はいわゆる天使のように見えた。少し長い耳とすべての人についた白い羽で幻想的なファンタジーの世界に迷い込んだのだと思った。
でも、実態は何もかも違った。平和で長閑で美しく見えたのも、一部を奪われてそうさせられているだけだったなんて。ショックで呆けてしまう。この世界は知れば知るほどに汚い物を他者に押し付け自分たちだけが美しくあればいいと思っている傲慢な人間たちが他者から奪った幸せを享受する搾取によって成り立っている楽園なのだ。
「俺達で世界を変えようぜ」
ロキの言葉は重い。
確かにこの世界は自分たちの世界をゴミ箱のように扱い、聖女をコマとして扱い、人々が本来持っている負の感情を奪っている狂った世界だが、部外者である自分が義憤にかられて世界に革命を起こそうとは澪には思えない。
「私の目的は、元の世界に帰ること。あなた達のことは手伝うことしかできない」
「ああ、それでいい」
歯を見せて笑うロキ。
「よろしく頼むぜ、俺達の女神サマ」
「女神……?」
初めてそんな呼び方をされて思わず聞き返す。
「そー。幸運の女神とか勝利の女神って言うだろ?」
「……それに値するかどうかはわからないけど」
「いーや、ミオちゃん、あんたは女神だ。聖女のおまけとしてここにやってきたんじゃない。あんたは俺達の女神にここにやってきたんだよ、きっと」
「……そうだといいけど」
勝手に盛り上がるロキとにこにこと微笑むネロリから目をそらす。
澪にはロキもなにか隠しているように思えてならなかった。なぜなら先程澪が黒い力の侵食に苦しんでいた時、ロキは心配するどころか口元も目元も綺麗な弧を描いていたのだから。