01
「大丈夫、絶対にシアワセにしてあげるから」
そう言って男はポケットから小さな注射器を出す。組み敷かれた女、光坂澪は力いっぱい抵抗をするがしょせん小さな女。組み敷かれ腕を拘束されてしまえば男には到底敵わない。
「無理、ほんとに、あんただけは嫌……!離せクソ男!!」
「えー?なんで?僕はこんなに好きなのに」
ストーカー男、姫野千影は眉を八の字にして首を傾げる。さらりとした色素の薄い髪の毛が揺れて前髪に隠された切れ長の瞳があらわになる。
「好きな相手にクスリ打とうとするの、無理、まじきもいよ」
澪は逃れようと体に力をぐっと入れる。普段なら澪のほうが確実に強いはずなのは確実なのだが、火事場の馬鹿力によるものなのか、千影の細い腕からは想像もできない強い力が澪の体を抑え込んでいる。
「大丈夫。ちょっと眠くなるだけだし、目が覚めたら新居だよ」
必死に睨みつけながら抗議をするものの、この男には基本的に話が通じない。切れ長の瞳を更に細めて半月な目を薄く歪めて笑みを作るだけだった。
「大人しくしててね、大丈夫だから」
注射器を弄るために拘束が一瞬外れた隙を見計らって
「ふざけんなっての!」
「う゛えっ……!!」
澪は千影の薄い腹を思い切り膝で突き上げるとそのまま大きな影の下から這い出て逃げ出す。
玄関から逃げるのがベストなのだが、このストーカー野郎のために鍵を三重にしていたのが仇になっていた。先程この男ががちゃがちゃとかけていた二重ロックとチェーンロックを外している間に追いつかれるだろう。
だったら自室の窓から飛び降りるしか無い。幸いここは2階で地面までそこまで遠くない。澪の身体能力と体の軽さならちょっとした怪我をする程度で済むだろう。そこまで思考して、もう一度転がっている千影を蹴って、半開きになっていた奥の部屋への扉を開けた。
カーテンを開けて窓の鍵に手を伸ばす。誤算だったのが窓のロックもこのストーカー野郎の対策のために二重にしていたこと。
焦りで開けるのに手間取ってしまい、気がつけば追いつかれ、澪は後ろから体を引っ張られて千影の腕の中に収まってしまった。
「澪ちゃんは痛いことをするのが好きなんだね。僕はあんまり好きじゃないけど」
背中に固いものが押し当てられる。明らかに金属を彷彿とさせる硬さに澪は固まってしまった。
「お仕置きは気持ちいいのより痛いほうが好きみたいだから」
耳元で低い声が響く。澪が一瞬死を覚悟した時、電気はついていない部屋のはずなのに背後から光を感じた。
「……何?」
千影が振り向く。澪も一緒に振り向いた。
「変な鏡……」
鏡が光っていた。いつもは自分のコーディネートを見るための全面鏡のはずなのに今は強烈な光を放っている。しかも薄っすらと鏡の向こうに自分の部屋ではない何かが見える。もしかして何かの入口になっているんじゃないか。そんな突拍子もないありえない考えが頭に浮かんできた。
――聖女様、聖女様、声が聞こえるならどうか。どうか私達をお救い下さい。
変な声が鏡の中から聞こえる。このままじゃ殺されるかどこかに連れ攫われる。だったらあの鏡に飛び込んだら逃げられるかもしれない。救って欲しいのはお前じゃなくてこっちじゃ!と思いながら澪は油断として力の入っていない千影の腕に噛みつき再度拘束から逃れると
「じゃあね、ストーカー野郎っ!」
捨て台詞を吐いて鏡の中に飛び込んだ。
ふんわりとした温かい光に包まれて意識がふっと溶けていく。こんなファンタジーな方法でストーカーから逃げたのはきっと私が史上初だなと思いながら澪は光と浮遊感に任せながら目を閉じた。
「せ、い……聖女……せ、聖女様?」
声がする。そっと目を開けて飛び込んできたのは想像しうる異世界というのがふさわしい光景だった。真っ白で天井の高い広々とした広間。天井は硝子になっておりきらきらと太陽光が降り注いでいる。奥の階段の上には女神のような美しい女性を模した像がそっと階下を見下ろしている。そして、澪の周りにはシスターのような格好をした女たちと修道士や司祭のような格好をした男たち。
彼らは一様に困った顔をして澪を見ているのを除けば、異世界ファンタジーの始まりの光景にしか見えない。
「聖女……え、うーん……」
一際困った顔をしている司祭らしき男は何度も首をかしげていたが、ぐるりと周囲を見渡してすぐに原因がわかって唖然とする。
「ここどこ?」
きょとんとした顔の千影がいた。
「澪ちゃんここどこかわかる?」
あの鏡が一人しか通れないなんてそんなことはなかったらしい。ストーカー野郎も一緒にこちら側にやってきたようだ。ならここに居る人間たちはきっと二人もやってきたことに驚いているのだろう。そう思って澪は司祭のような男に話しかける。
「こいつは関係ないです」
「……え、酷いよ。僕達ニコイチでしょ?」
司祭らしき男は澪と千影を見て、もう一度澪を見た。
「あの、すみません。えっと……その……確かに、確かに……私たちが呼んだのは聖女様……貴方のはず、はず……なんですけど」
司祭は気まずそうに目をそらす。周りにいるシスターたちも俯いたり目を逸らしたりとこちらをまともに見ていなかった。
「聖女の加護は……そちらの男性に……ついてしまったようで」
「ごめんなさい、言っている意味が一から百まで全てわかりません」
「えーっと……」
司祭はどこから話すべきかと上を向いて考えていたが、まとまらなかったらしく、とりあえずこちらへと困惑を取り繕うともしないまま、澪と千影を大きな広間から連れ出し応接室のよう場所に案内する。
二人はどうしたら良いかもわからないので、こちらもとりあえずこの騒然とした場にいたくないという思いで司祭に案内されるがままその場を後にした。