プロローグ
ギシッギシッ
ベッドの軋む音が鳴り響く。
その悲鳴にも近い音に構わず男は腰を動かした。
その間を縫うように女の喘ぎ声が耳に届く。
女は男の動きに合わせ、その妖艶な身体を前後に揺らす。実に美しい光景だ。
一つ不満を言うのであれば、その裸に似つかわしくない首輪を外して欲しかった。
首輪といっても見た目は磁気ネックレスに近い形をしている。
だが、男はその不釣り合いなネックレスに対して女に何も言わなかった。なにせ自分も同じ物をつけているのだから。
コトを済ますと、そのまま寝落ちてしまった。窓から差し込む日差しで目を覚ます。
女はまだ寝息を立てている。二度寝するほど眠くはなかったので、持っていた読みかけの本に手を伸ばした。
ちょうど腕に蚊が止まっているのに気付く。考えるよりも先に左手で息の根を止めた。
八月になり、虫も精力的に活動しているようだ。
ベッド脇にあるティッシュを一枚抜き取ると、腕をきれいに拭き取った。
横になったまま部屋の隅にあるゴミ箱に向かって投げ飛ばすが、ゴミ箱の縁に当たって、そのままぽとりと床に落ちた。拾いに行くのも面倒だったので、諦めて本の世界に戻った。
昨日初めて会った女だった。店で食事をしていた時に彼女が目に入った。一人で食事をしていたので、彼女が店を出たタイミングで自分も店を出た。
そして、偶然を装って話し掛けた。夜道は危ないと彼女を言いくるめ、家まで送る事にした。
そのまま女の部屋にあがりこむと、流れるようにベッドへと吸い込まれていった。
男には特別な感情はなかったが、溜まったモノを発散したい気持ちがあった。女の方もきっと似たような感じだろう。
こういった関係は一夜限りが好ましい。そうした方が後腐れがない。
そもそもいい女であれば、そう簡単に男を部屋にあげない。
今までの経験がそれを証明している。
こうして出会った女と関係を続けると、ヒステリックだったりメンヘラ女だったりで、ろくな事はなかったのだ。
「ハァハァ…」
女は目が覚めたのか、ゆっくりと起き上がる。すると、男の上に馬乗りになる。
「なんだよ、まだシたいのか?」
女は答えない。
髪が顔にかかって、表情がよく見えない。何かを求めているように息遣いが荒い。
朝からお盛んである。だが、男自身もその誘われ方に満更でもない気分だった。
女が着ているネグリジェを脱がそうと手を伸ばす。
「あんた、顔に似合わず…」
男が言い終える前に、女は彼の肩に勢いよく顔を振り落とすと、彼の肉を抉るように噛み千切った。
「ああぁぁああぁああ」
男は今まで出した事がない悲鳴を上げた。反射的に女の顔を殴りつける。
その衝撃で女は男の身体から振り落とされる。
男はすぐさま起き上がると、脱いだ下着を咄嗟に持った。
このまま外には出れないと理性が働いたのかもしれない。命の危機だというのに冷静な自分に驚いた。
男は慌てて扉を開け、外に出る。
痛みが遅れてやってくる。男の眼から涙が零れている。
右肩がジンジンと熱いが、まだ手は動く。
あの女は一体どうしたというのだ。
急いで下着を履くと、後ろを振り返る。
女はゆらりと扉から出てきた。長髪の隙間から見えた眼は、真っ赤に染まっていた。
あれは人間じゃない。
男は非常階段へ向かうと急いで駆け下りる。
勢いよく階段を何段か飛ばしていると、着地に失敗して足を挫いた。
だが、もう痛みを気にしてる場合ではない。一刻も早くこの場を離れなければいけない。
男は足を引きずりながら、どうにか団地の敷地を出る。
もう一度振り返ると、真っ赤な瞳が男を見据えながら階段を降りている。彼女はまだ三階辺りにいた。
思っていたより距離を離せた事で、男は安堵する。これなら逃げ切れそうだ。
その時、マンション前に止まっていた車が目に入る。渡りに船だった。
男は車に駆け寄ると、サイドウィンドウを強く叩いた。
仮眠中なのか、運転手は席に座ったまま起きない。
「開けてくれ!早く!」
運転手に伝わったのか、後部座席の扉が開いた。男は開いた扉の方に回り込む。だが、扉の前で足が竦んでしまう。
なぜなら、そこには先客が居座っていたからだ。
目を見開いた老人が首を背もたれに預けている。老人の首筋からは赤黒く固まった血が流れ出ていた。
どう見ても死んでいる。
あまりの異様な光景に、男は一歩ずつ後ずさりする。
すると、運転席側のドアが開き、運転手が転がり落ちてくる。
運転手はゆらりと起き上がると、男に向かって迫ってくる。
その眼は、あの女と同じ血に染まるかのごとく真っ赤だった。
「た、助けて…」
耳元に荒い息遣いが聞こえてくるのに気付く。
そこに何がいるかはわかってはいたが、男は恐る恐る後ろを振り返った。
男の背後に迫る女は、昨夜抱いたときとは打って変わり、血管の浮き出た面立ちに赤く染まった瞳で男を捉える。
女は彼の血で濡れた口を大きく開くと、男の首にかぶりついた。
男の首筋から鮮血が噴き出し、ドサッと倒れる。動かなくなった身体から、赤い液体が地面を這うように流れ出ていた。