松尾君は絶対勘違いしています③
松尾君は絶対勘違いしています③
松尾俊之
モヤモヤとした日々を過ごしている中で、父は大騒ぎした割には術後の経過もよく1週間ほどで退院し、徐々に仕事にも復帰した。父が倒れて動けなかった時には、うちの海苔の納め先である曙屋の当主が口をきいてくれて、他の生産者仲間が交替でうちの海苔の手入れをしてくれていた。
とある日に学校から帰ると、母から綺麗に包装された箱を手渡される。
「飯塚さんのお宅に届けてちょうだい」
「母さんが行ったほうがいいでしょ?」
そう言うのは大人の世界の話のはずだ。制服姿で鞄を下げたままで、母親に向かってしかめ面をした。しかし、母はキッパリと続ける。
「いや、かえって大袈裟になるから。あんたが持ってってちょうだい。女将さん、あんたのこと気に入ってるし」
「えー」
「わたしが行くと返って角が立つこともあるのよ」
疲れてるとかそう言うことではなくて、なんだかやだなと思ってもう一度反論しようとして、ふと考えが変わった。春菜の家に行けば、春菜に会えるかもしれない。春菜は芽衣のそばにいるから、芽衣の様子を聞けるかも。
「わかった」
「いいの?」
「自分で言っといて、なに?これ、持ちにくいから何かに入れてよ」
手渡された菓子箱を母に一旦戻し、2階の自分の部屋に上がる。カバンを置いて着替えてもう一度一階に降りると、母親が用意した贈答品を持って歩き出した。生まれた時から住んでいる町。目隠ししたって歩けるかもしれない。春菜の家は歩いてすぐのところだった。春菜の家に向かいながら、自分は芽衣の様子を思い浮かべていた。
変なものだ。
会えない時間が長くなればなるほど、自分の中で何かが重くなっていくような気がする。それは少し、気持ち悪いと思うんです。だから、人に知られたくはないのだけれど、でも、どうしようもないものなんだな。こういうものってどうしようもないものなんだ。知らなかった。
気持ちというものは時に自分自身の気持ちであったとしても、自分で止められない。
***
勝手知ったる他人の家、本当なら生垣のところで呼び出しを押すところなのだろうけど、ここに鍵がかかってないのは知ってるし、勝手に入って庭の飛び石伝いに歩く。玄関にたどり着くと、引き戸を開けて奥へ呼びかけた。
「こんにちはー」
スタスタと廊下の奥から人が来る。女将さん、春菜のお母さんだった。
「あら、トシ君」
「お久しぶりです」
「どうしたの?」
「これ、母から預かってきました」
早速、手にした紙袋を持ち上げて見せた。
「ええ?」
「この前は父が倒れた間、ご迷惑かけまして」
「あらやだ」
エプロン姿のおばちゃんは、頭を下げた僕の上で、声をあげる。
「困ったときはお互い様なのよ。そんなことでお礼を言う必要なんてないのよ」
「それもそうなのかもしれないけど、何もしないってのも違うと思うんで」
「あらあら、トシ君がそんなこと言うようになるなんて」
明るい顔に明るい声、春菜のお母さんは昔っからいつも元気だ。
「こんなところで、トシ君相手に押し問答してもね。それじゃ、遠慮なくいただきます」
そう言って、紙袋を受け取ってくれた。
「貰うものだけもらって帰すってのもね、上がっていって。光がいるし、それに、春菜もそのうち帰ってくるから」
「あ……」
いつもの自分なら悪いですからと帰るところなのだけれど、今日はそれが目的で来てたのだった。
「すみません、じゃ、ちょっとだけ」
「どうぞどうぞ」
春菜の家の広い玄関、すべすべの木の床でゴソゴソと靴を脱ぎ、出してもらったスリッパに履き替える。
***
居間で畳の上に座って弟の光君と話していると、しばらくして春菜が帰ってきた。
「お、久しぶり」
「お帰り。部活帰り?」
「そりゃ、この格好で分かるでしょ」
ジャージ姿のいつもの春菜だった。しばらくなんということはない会話をして、そして、はたと困る。芽衣の様子が聞きたいのだけれど、どういうふうに話を持っていっていいのかわからない。時計を見る。もうそろそろ夕飯の時間、時間切れだなと。また、別の機会を探ろう。春菜なら家は近くだし、会おうと思ったら会える。
帰ろうとしたら、ご飯を食べてってとおばちゃんに誘われた。これにのったら後で母親に図々しいと叱られる。断って玄関へと向かう。すると、奥から春菜が来た。
「見送りなんていいのに」
「うちは母ちゃんがうるさいからさ」
玄関の引き戸をカラカラと横に引いて、外に出る。空はさっきよりも夕闇に沈んでいる。てっぺんに近いところは、群青色。まだ闇に呑まれずに輝いている夕闇の空を夜が追っていくグラディエーションを目の当たりにした。僕の心はそのとき、かすかな悲鳴をあげていた。
美しいものを目にすると、想う人がそばにいないことがより心に迫る。このままだと僕は、芽衣に会うことができない。一生会えないってことはないと思うけど、その回数は限りなく少ないだろう。
春菜は横で僕の背が伸びたと言って、そして、自分の背が伸びなくなったというようなことを話していた。来た時のように飛び石をつたって、生垣のところまであっさりとたどり着いた。
「じゃあねぇ」
門のところで手を振って、春菜はくるりと回って家に戻ろうとする。
「あ、春菜」
「ん?」
呼び止められて、春菜がこっちを振り向いた。
「なに?」
「あ、あのさ……」
そして、また、さっきと同じ。どう切り出していいのかわからない。
「その……」
「うん」
「あ、やっぱなんでもない」
たださらりと芽衣は元気かと聞けばいいのに、できない。この時、自分で自分が嫌になった。もういいや今日はもういい。帰ろうとすると、春菜が追ってくる。
「いやいやちょっと待って」
肩に手をかけられた。
「気になるから、言って。なに?」
「うん、いや、大したことじゃないんだよ」
「じゃ、いいなよ」
「その……、みんな、元気?」
そう、みんなはどうかと聞きながら聞けばよかったんだ。今日は、どうかしてる、俺。というか、最近ずっとどうかしてるかもしれない。
「みんな?」
「うちの中学から春菜の高校行った子達」
「はぁ……」
春菜は首を傾げてちょっとはてなな顔をした。
「元気です」
「そっか……」
そして、理性は僕に続けて芽衣の様子を聞けと伝えているのだけれど、口が動かない。
「え、なに?それだけ?」
「うん」
「誰のことが気になってるの?」
「……」
勘の鋭い春菜が僕のことを探り始めた。
「みんななんて言ってさ」
「あ、いや……」
「たけし?かほ?」
理性は、堂々と春菜に芽衣の様子を聞けと相変わらず伝えている。
「あ、じゃあ、俺、帰るから」
しかし、僕の体は勝手にその場から逃げ出した。
それは、慣れない感情でした。自分が誰かを好きだなんて。人に言ったり見せたりしないうちに、その感情は少しずつ重くなるし、持て余してた。初めてのことだった。どうしていいかわからなかったし、なんだかとても恥ずかしかったんです。
***
子供だったなと思う。あの頃の自分。だけど、今、思い出せばそんな自分がそんなに嫌いではないのだから、不思議なものだ。
もしも、春菜がいなかったら、きっと僕たちはどうにもなってなかったんだろうなと思う。まず、99.9%、どうにもなってなかったんだろう。春菜というのは、芽衣にとって、そして、僕たちにとっての鍵のような人だったんです。
これもまた、巡り合わせのようなものなのかなと、僕は男だし、運命とか縁とかをそこまで信じているわけじゃないけど、ただ芽衣とのことに関してだけは、間に春菜という縁を繋ぐ人がいたと感じているし、感謝している。
***
届け物をして、僕が春菜から何も聞き出せずに逃げ出してから数日後、今度は春菜が家に来た。その時、僕は母に頼まれて近くのコンビニに醤油を買いに行ってました。帰ると家のリビングに家族に混じって春菜がいる。僕の顔を見るとソファーから立ち上がってこちらへと来た。
「どうしたの?なんか用?」
「どうしても気になっちゃって」
ここでちょっと嫌な予感がした。
「なにが?」
「この前トシが様子を聞きたかったのって」
「え……」
「芽衣?」
頭の中では繰り返し響いていても、ここ最近他人の口から聞いてなかったその名前を耳にして、僕はこれでもかと動揺した。
ごんっ
そして、買ってきたばかりの醤油をコンビニの袋ごと落とした。
「やだ、俊之、何してるの?ガラスじゃなくてよかったわ」
母のいつもののんびりとした声が、遠くに聞こえる。咄嗟に母親にだけはこの今の顔を見せたくないと思って、慌てて春菜を引きずって外に出る。
家の外に出ると、空気はひんやりとしてて、僕ののぼせた頭を冷やすのにちょうどよかった。
「どこ行くの?」
「公園」
「ああ、はい」
春菜はそれだけ聞くと、大人しく僕についてきた。
子供の頃には自分も砂遊びをしたりした公園で、古びたブランコに並んで座る。座った途端にため息が出た。本当に慣れない、こういう自分。制御不能だ。
「ねぇ、なんでそんな芽衣のことが気になってんの?」
「……」
なんで春菜はすぐにそこにたどり着いたのか。そこまでわかりやすかったのかと思う。女の人って妙なところで勘が鋭いな。春菜は僕の返事を待たずにサバサバと言った。
「ま、今更か。でも、なんか意外だな」
「意外?」
「どこがいいの?」
屈託なくそんなことを言う。ちょっと呆れた。
「一番仲がいいくせにそんなこと言うの?」
「え、いや、でも、ほら、女同士のそういうのと違うじゃん。やっぱり」
よくわかるような、わからないような……。春菜は僕たちにはもう小さいブランコを漕ぎ出した。キィと軋む音が、懐かしい。そして、僕は、今まで誰にもいったことがないことを口にした。
「なんか見てるとホッとする……」
「へー、ほー」
体に合わないブランコを漕ぎながら、どちらかといえば重い僕に対して、これでもかというほどに軽く相槌を打たれた。それだけで、まるでなかなか飛ばなかった凧が一気に空に舞い上がったような、そんなふうに気持ちが楽になったのはどうしてだろう?
「誰にも言ったことないのに」
ついちょっと責める口調になった。でも、本当は誰かに言えたことでホッとしている自分もいた。
「で?」
「でってなに?」
「いや、芽衣は相変わらず元気にしてるけど、それをただ聞いて満足なわけ?」
「……」
もしも、みんなと一緒ではなくて、僕と二人で並んで歩いたり、向かい合って座ったら、芽衣はどんな表情をして、どんなことを話すのだろう?そう思うと、少し苦しくなる。そして、会えない日々を重ねることにはもう耐えられなくなってた。
「会いたい」
「ああ……」
「別に様子を見ていられたらそれで良かったんだけど、学校がかわっちゃったから……」
「そうねぇ」
春菜はちょっとしんみりと相槌を打った。
「卒業式の時に勇気を出してとも思ったんだけど」
「ああ、そういう子たちいたね。学校がバラバラなるからってさ」
「うん」
「何人かうまく行って、今、付き合ってるじゃない」
「……」
付き合ってる、という言葉と自分と芽衣を並べてみて、そのギャップというか違和感に僕の顔から表情という表情が全て消えました。なんだか低い声が出た。
「ね、春菜、どう思う?」
「どうって?」
この界隈で彼女の親を除いて一番芽衣のことをよく知っている春菜に聞いてみた。
「俺が、なんかそういうことを中村に言ったりしたりしたらどうなるかな?」
「あー」
春菜が困った顔になって笑った。その表情を見て、やっぱりそうだよなと思う。
……うまくいく気が全然しない。春菜がちょっと慌てて言葉を付け足す。
「いや、他の女子なら、まず、トシを断る女子はいないと思うんだけど」
「そうなの?」
「いないいない」
しかし、別に、彼女が是が非でも欲しいとかそんなんじゃなくて、芽衣じゃなければ僕にとっては意味がない。
「ただ、芽衣は……」
「……」
みなまで聞かなくてももういい。もう一度思う。全然うまくいく気がしない……。じゃあ、別にそれでいいのかと言われても、でも、それも嫌だ。
「そんな本人が嫌がるようなこと、望んでるわけじゃないんだけど。ただ、たまに会って話せたらそれで満足なんだけど」
「うん、わかる、わかるよ。わかるんだけど……」
「うん」
「ただ、トシがいいとか悪いとかじゃなくて、芽衣の場合、相手が誰であっても、速攻で無理と言いそう」
春菜の言いたいことが、遠巻きに彼女を見ていた自分にもなんとなくわかる。うっすらと。
「それは、もう少し時間が経てば変わるのかな?」
「普通はそうなんだけどなぁ……」
春菜はそう言いながら上を見上げて、首を傾げる。
「芽衣はほっとくと今のままおばあさんになってそうだ」
「え……」
「綺麗な子どもの心のままで独身のままおばあさんになっていそうだ」
そう言われて、僕はおばあさんになった芽衣を想像した。少し茶色がかっていて細くて少しだけ癖のついたあの髪が、綺麗に真っ白になって、ニコニコと楽しそうに笑ってる。
「なんかそれ、わかる。中村ってそういうところがある」
「ものすごくぼうっとしてるんだよね」
「うん、してる」
電車がホームに滑り込んできて、乗ろうと思うんだけどドアが開いたらこれでもかと人がぎゅうぎゅうに詰まった満員電車だったとする。芽衣は自分の背中に背負ったリュックの肩紐を右手と左手でぎゅっと握ったまま、ポカンとしてホームで電車を見送ってしまうだろう。そんな子だ。だから思わず手を伸ばして、何かしてあげたくなってしまう。
「どのぐらい前からなの?」
不意に春菜に聞かれた。
「え?うーん、よくわかんないけど……」
「トシが芽衣の相手なら、わたしたちはみんな安心なんだけどな」
この言葉にはちょっと照れてしまった。芽衣と一番仲のいい春菜にそう言われると嬉しかった。
「今、周りに中村のこといいなと思ってそうな男子、いない?」
「ううん、その気になって探してみたことないからなんとも言えないけど」
「うん」
「もし仮にそういう男子がいたとしても、告った途端に無理と言われて終わる。相手がどんな人でも」
「ははははは」
笑えない。笑ってるけど笑えない。でも、笑うしかない。
すると、春菜はちょっと真面目な顔になった。
「わたしが言えば」
「ん?」
「わたしが言えば大丈夫かも」
「どういうこと?」
「芽衣はわたしの言うことならなんでも聞くから」
「……」
その言葉に、今まで側から見てきた芽衣と春菜の様子が走馬灯のように横切った。春菜ちゃーんと言いながら嬉しそうに駆け寄ってゆく芽衣の様子を今まで何度も眺めてきた。
「他のやつの話なら聞かないけど、トシの頼みなら聞いてあげてもいいよ」
春菜は真面目な顔でそう言ってくれた。春菜ならきっとほんとにやってくれるだろう。そういう人だから。
その時初めて、わずかな可能性が見えた気がした。
八方塞がりで、慣れない感情を持て余し、戻ることも前に進むことも叶わないまま、苦しんでた。そんな自分に、自分一人では絶対に見えなかったような可能性が見えた気がしました。
見渡す限り曇っている空に、わずかな穴があいてそこから太陽の光が差し込んだような……。そこまで言ったら、流石に大袈裟なのかな?ただ、僕の気持ちというのはそんな風にどんよりと重かったんです。井上真央のそれのように軽くていつでも方向を変えられるようなそんなものではなかった。
春菜がいなければ、僕はきっと思い悩んだ挙句に芽衣を捕まえて、気持ちを伝えてその1秒後に玉砕していたのだと思う。でなければ、いつまでも長くぐだぐだと何もせずにいたのかもしれない。