松尾君は絶対勘違いしています②
松尾君は絶対勘違いしています②
松尾俊之
最寄りのバス停で下りてノロノロと家に帰る。家への最後の曲がり角を曲がって自分の家が視界に入った時に、そんなふわふわとした気分が一気に吹き飛んだ。
家の前に救急車が止まっていて、近所の人たちもザワザワと路上に集まっている。慌てて駆け寄った。
「ちょっ、何があったんですか?うち?うちですよね」
「あら、俊之くん」
近所のおばちゃんが僕を見上げる。
「ちょうどいい時に帰ってきたねぇ」
「……」
いや、いい時?まぁ、いい。すると家の中から救急隊員が担架を抱えて出てくる。後ろから母が出てきた。慌てて駆け寄った。担架に寝ているのは父だった。
「あの……」
「ああ、ごめん、どいてどいて」
覗き込んだのを隊員によけさせられた。早々に運ばれていく父はぐったりとして唸っていた。
「母さん」
「ああ、俊之」
自分は多分、青い顔をしていて、しかし、母は多少青ざめているものの、しゃんとしていた。いざとなると女の人ってしっかりしているものだ。
「どうしたの?」
「よくわからない。急にひどく痛がって」
後ろの方から救急隊員が母を呼ぶ。
「奥さん、乗ってください」
「ああ、はい」
母はそちらに返事をすると、
「よかった。あんたたち、鍵を持ってたかどうか心配で」
「いや、父さんの心配しなよ」
言われてチラリと救急車を見る。
「きっと大丈夫よ。じゃあ、留守番頼んだわよ」
「いや、俺も病院行く」
「何言ってんの、えりが鍵を持ってるかどうかわからないし」
奥さんともう一度、野太い声で呼ばれた。それで僕は細かい説明をさせるのを諦めて母をせかした。
「ああ、もうわかったわかった。いいから早く行って」
「夕飯は適当に……」
「大丈夫だから、父さんのほうが大変でしょ」
それでやっと母はスタスタと救急車の方へとゆく。母を乗せるとバタンと後部座席をしめ、ファンファンと音を鳴らして救急車は遠ざかっていく。何が何だかわからない。今朝までずっと普通に平凡に暮らしていたのに。
救急車が去ると、野次馬の人たちがやれやれと散っていく。その中の一人のおばちゃんが、僕に声をかける。
「俊之くん、うちでご飯食べる?」
「あ、いや、大丈夫です」
家に入った。家の中は今朝出てきたままの同じ家だった。ただ、誰もいない。靴を脱いで上がると、学生服のままでソファーにどさりと座った。着替える気力がなかった。どうしたんだろう?父さん、なんかひどい病気なのかな?
父親が突然どうにかなってしまったら、俺らどうやって生きていく?
細くて長い穴にでもストンと落ちてしまったみたいだ。生きた心地がしなかった。そんな時、傍のカバンの中のスマホが振動している。
「はい」
「報告がないぞ、どうだったんだ?」
圭介の明るい声が耳に飛び込んでくる。
「ごめん、それどころじゃない。取り込み中」
「え?」
「明日な」
「ああ、明日」
ぷつりと切った。スマホをソファーの前のテーブルに置くと、頭を抱えた。それからふと顔を上げて、テレビの横に並んでいる家族写真を眺める。年代別に並べられた写真。平凡な家族の平凡な写真を眺めながら、思う。
当たり前の幸せは、本当は当たり前のものではないのかもしれない。失うかもしれない時に初めて、それは本当は奇跡的なことなんだって思うものなのかもしれない。だけど、人は失う時までそれに気づかず、それに感謝をしていないものなのかもな。
父に何かあったらどうしよう。改めて思った。
「ただいまぁ」
玄関の方で妹の声がした。
「あれ、なんで暗いの?」
家に上がってきてリビングに入ると、パチリと電気をつける。
「なに、お兄ちゃん、いたの?ていうか、お母さんは?お父さんもいないの?」
朝が早い父は、この時間にはいつも家にいる。妹はカバンをダイニングチェアに置くと、冷蔵庫に向かう。
「えり」
「なあに?」
冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いでいる妹に向かって言う。
「父さん……」
「父さんが?」
「……ちょっとそれ持ってこっちに来い」
「ん?」
怪訝な顔をした後で、麦茶のピッチャーを冷蔵庫にパタンとしまい、ペタペタとこちらへきた。
「ここ、座れ」
「ああ」
ソファの横をポンポンと叩くと、素直に横に来た。
「どうしたの?お兄ちゃん、怖い顔して」
「それ、置け」
妹は、水滴のついたグラスをことりとソファーの前のローテーブルに置いた。
「俺がちょうど帰ってきた時に」
「うん」
「家の前に救急車が止まっていて」
「え、なんで?」
妹は目を見開いて僕を見た。
「父さんが運ばれた」
「お母さんは?」
「ついてった」
「え、なんで?」
「わかんないんだよ。急に痛がってって言ってたけど」
「お母さんに電話する」
妹が自分のカバンをガサゴソとやり出した。
「いや、もうちょっと待て。というか、向こうから知らせてくるだろ」
そして、そのまま、まんじりともせずに二人で時を過ごす。静かなのがなんだか落ち着かなくて、見ないのだけれどテレビをつけた。誰も喋らない部屋に音が跳ねる。妹がテレビ画面を見ながらぽつりぽつりと話す。
「お父さん、どっか悪いのかな」
「わかんない」
「取り返しのつかない病気だったら、どうしよう?」
「うん……」
それから、妹は壁の時計を見上げた。
「お母さん、電話してこないね」
母が父と病院へ向かってから、3時間ほど経っていた。もうそろそろいいだろうと僕はスマホを取り上げて、母に電話した。
「お母さん」
「ああ、俊之。えりは?」
「横にいるよ」
「ご飯食べた?」
母のいつもと同じ、のんびりとした声を聞いた時に、張り詰めていたものが緩んだ。僕の横で妹が泣きそうな顔で僕を見ている。
「そんなことより、父さんは?」
「ああ、手術してるわよ」
「ええっ」
僕が大きな声を出したので、妹がビクッとした。
「緊急手術になったわ」
「なんで?」
「そんな慌てなくても大丈夫よ」
コロコロと笑ってる。
「胆石だって、急性の胆石」
それで、僕の当たり前の日常が戻ってきた。本当は当たり前ではないのだけど、当たり前ではないということを忘れている日常が。
「えり、父さん、胆石だって」
「胆石?」
「今、手術してるって」
「それ、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
僕たちがこっちでやりとりしているのを母は聞いた後、
「入院することになるから、着替えをとりに帰ろうと思ったのだけど、手術中は離れちゃいけないんだって」
「俺が、届ける?」
「いや、いいわよ。1日くらいどうにかなるでしょ。母さん、今日は父さんについてないと。あんたたちは、あんたたちでご飯食べて、それから……」
「ああ、大丈夫。こっちの心配はしなくていいから」
電話を切ると、妹が僕を見て、呟いた。
「お兄ちゃん、お腹すいた」
いつの間にか何もしないうちに結構な時間になっていた。
***
母は手術をした父に一晩中ついていたため、帰ってくることはなかった。次の日、僕は朝起きて顔を洗い、着替えて自分の分と妹の分のトーストを焼いた。
「パンだけ?」
「贅沢言うなよ」
「お母さんいないと不便だな」
妹はそういうと立ち上がって牛乳とグラスを取り出してくる。
「お兄ちゃんも、欲しい?」
「グラスに半分ぐらい」
「もっと飲みなよ」
強制的に並々と注がれて渡された。ひんやりとした牛乳を受け取る。
「今日はお母さん帰ってくるかな?」
「わかんないけど、手術したばっかりの父さんにはついてないといけないんじゃない?」
「じゃあ、今日のご飯どうする?」
「お前、食うことの心配ばっかしてるな」
「お母さんいないと不便だな」
妹はもう一度そういった。不便ぐらいならどうにでもなる。もっとすごいことにならないでよかった。
まだどこか、非常事態宣言のようなピリッとした感覚を自分の中に残したままで登校する。昨日までの平凡な街並みや通りの景色が違うものに見えた。
「な、昨日、どうだったんだ?」
教室に入ったところで、圭介に捕まった。
「どうだったって、胆石だった」
「は?」
「ん?」
男同士でしばし見つめ合う。父親が病院に運ばれたことで、その前に起こったことを綺麗さっぱり忘れていた。昨日、帰宅してからのことをかいつまんで教えた。
「うん。その、おじさんが大変だったんだな」
「まぁ、でも、胆石だったから」
そんなに胆石を軽く見てはいけないのかもしれないが、でも、死にはしないだろう。手術もしたんだし。しかし、圭介が聞きたいのは親父の胆石についてではなかった。
「で、それ以外の方はどうだったんだ?」
「ああ、それ以外……」
思い出す。あの、数分の出来事を。なんか遠い昔に起こった出来事のように思えるのはなんでだろう?
「女の子だったのだろう?」
「……」
確かに井上は性別から言うと女の子でした。
「お前が思っているような、そんな話じゃなかったんだよ」
「え?」
「まぁ、いわば、そうだな」
ちょっと目を瞑り考え込む。目をキラキラさせている圭介を横目に見ながら。
「な、井上って隣のクラスの井上真央だよな?」
「え、隣のクラス?」
そんな近かったのか。全く嬉しくないな。
「それ以外に井上っているのか?」
「なんだよ、お前、名前聞かなかったの?」
「……」
確かに、名前ぐらい聞いておけばよかった。ややこしい。
「その、井上真央を見せてくれ」
「そんなん、自分で隣のクラス行って、見てくれば」
「いや、できれば、向こうに気づかれないように確認したい」
そこで、廊下から男子高校生二人で隣のクラスを覗き込んだ。
「誰か探してるの?」
後ろから声をかけられて、振り向くと、そこに昨日の御仁がいました。
「おはよう。松尾君」
「……おはよう」
「もしかして、わたしのこと、探してた?」
「あ、いや」
「そういえば、昨日、大変だったみたいね」
「え?」
井上は至近距離で首を傾げて僕を見上げた。
「お父さん、病院に運ばれたんでしょ?」
「なんで、知ってるの?」
度肝を抜かれました。後もう少しでそのままそこにへたりこみそうなくらい。
「わたしはあちこちに伝手があるのよ」
「……」
「大変だったわね。何か困ったことがあったら言って」
「あ、どうも」
そこでニコッと笑うと、隣で黙って俺らのやり取りを見ていた圭介にもちょっとだけ笑いかけてから教室に入って行った。やっぱり、今日も背中が凛々しかった。
「今のが……」
「あ、そう」
もう、極力、話したりとか色々したくなかったのに、昨日の今日で会話を交わしてしまった。やっぱり色々な意味で、この人、怖いんだけど。やれやれと隣のクラスに戻る。どうしてうちの父親が倒れたって、昨日の今日で知ってたんだろう?……悪寒がする。するとそんな僕には構わずほのぼのと圭介が言う。
「なんか、いい感じだな、二人」
「どこが?」
お前の目は節穴か?圭介。思わずクワッと振り返ってしまった。
「いい雰囲気じゃん」
「どこが?」
「でも、そう言う話じゃなかったの?昨日」
「昨日のあれは……」
「あれは?」
「どちらかというと、奴隷契約?」
「なんだそりゃ」
「とにかく、ないから」
「ああ……」
自分たちの席につく。しばらく黙った後で、圭介がボソボソという。
「でも、結構可愛い子じゃん。というか、綺麗系か?」
「圭介」
友人のために僕は何か言わなくてはと思う。女を外見だけで判断すると、人生で入らなくてもいい袋小路に入り、元の道に戻るのに長い時間を要することもあるんだぞ。
「お前はあれがシンデレラに見えるか?」
「へ?」
「それとも、継母の連れてきた二人の姉のどちらかに見えるか?どうだ?」
「なんの話かさっぱりわからないんだけど」
「とにかく、ないから」
キッパリと言い切った。
「そうなの?」
「ない」
彼女なんかがいて、その人に振り回される毎日なんていらない。それより今まで通りがいい。
今まで通り。
でも、今の毎日に僕をほっとさせる女の子はいない。
***
井上真央のことはただひたすらに苦手だけど、だけど、前にも言った通り、あの前向きな姿勢には少々感服する。彼女にとって、好き、と言うのは認識したその次の瞬間には間髪いれず、付き合うために行動するものらしい。本当に好きかどうかすらも関係なく、可能性があれば即行動。
それが必ず正しいかどうかは別にして、自分自身について考えさせられるきっかけにはなった。
3ヶ月以内にどうにもならなかったら、それは一生どうにもならない。失恋決定だと言い切られもしたし。
そんなことはないだろうと思うのだけど、でもだからと言って、何もせずに何かが起こることも変わることもない。雪が消えるように気持ちが消えて、そして、新しい花が咲くように新しい女の子が気になるようになる。そんなものでもないような気がする。
そのくらい、実は、いつの間にか、芽衣が自分にとって特別になっていたのだと、結局、井上の事件を通して自覚することになったわけで。
何か言ったりしたりして、どうなるのかはわからないけれど、でも、何もせずに淡々と過ごしていってしまっていいんだろうか?あんな蒸気機関車のように前に激しく動いていくような人もいる一方で、さ。




