専業主婦は見た!③
専業主婦は見た!③
中村美月
様々な手続きを済まし、家を探し、わたしたち親子は柳川に引っ越してきました。右を見ても左を見ても知る人のいない新しい土地です。心細くはなかったかと言われれば、正直なかったとは言い切れない。しかし、娘の前でわたしが心細そうな顔をするわけにはいきません。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
家の玄関で、新しい制服を着てやはりどこか憂鬱そうな顔をして出てゆく娘を見送る。我が家にはここしばらくなかった光景でした。毎日祈るような気持ちで、娘の背中を見送った。
神様、どうぞお願いします。二度とあの娘にひどいことが起こりませんように。
手探りで続くような毎日でした。そろそろと手で探り、足で探りながら前へ進むような毎日だった。ところが、ある時を境に毎日憂鬱を纏っていた娘の様子が変わりだした。憂鬱という名のうすい灰色のベールのようなものを脱ぎ捨てたように、くっきりとした輪郭で、もともと若い子が持っている溌剌とした様子で毎日を過ごすようになったのです。
それこそ、目に見えて変わりました。
「あのね、お母さん」
「うん」
「今日、春菜ちゃんが……」
遅くなる主人を待たずに2人で囲む食卓。娘が新しくできた友達の話をする。その明るい笑顔。
他のお宅では、こんなことは本当によくある何でもない普通の出来事なのかもしれません。ただ、あの頃のわたしや主人にとっては、奇跡でした。お茶碗とお箸をその場において、涙ぐんでしまいそうなほどでした。大袈裟に反応すれば、芽衣がまたそれを気にして感情を乱すかもしれないと、努めてなんでもないように相手をして涙など落とさないように気をつけた。
もう少し経つと、芽衣は突然、バレー部に入りたいと言い出した。
「え、芽衣が?」
「うん」
「運動部?本当に?」
「うん」
その、新しくできたお友達の春菜ちゃんがバレー部なので、自分も入るというのです。最初にポカンとしてその後にその春菜ちゃんって一体どんな子なのだろうと思いました。
「お母さん、春菜ちゃんに会ってみたいな」
「え、ダメダメ」
「え?」
拒否されてしまった。
「なんで?いっつも話だけ聞いて。お母さんも芽衣の大好きな春菜ちゃんに会ってみたい」
「やだよ。お母さん、なんか余計なこと言いそうだし」
「ええ?」
そして、芽衣に続いて、自分もまた何か知らず知らずのうちに被っていた薄いベールのようなものを脱いだ気がします。心の中にしこりのようにずっとあった重い何かが外に出て、やっと安心できる毎日に帰ってこられた気がした。
運動が苦手な娘は結局、バレー選手になることはありませんでした。ただ、マネージャーとして活躍することになった。娘はみんなの間に自分の居場所を作ることができた。ほどなく公式戦があってわたし達も見に行きました。そこでやっと噂の春菜ちゃんに会うことができた。
「いつも芽衣がお世話になってます」
主人と一緒に頭を下げた。
「もう、そういうのがやなんだよっ」
芽衣が顔を真っ赤にして怒った。その横で、試合用のユニフォームを着て芽衣より大きい女の子が爽やかな笑顔で笑いました。
「いやいや、お世話なんてしてません」
春菜ちゃんはわたしと主人がどんな気持ちで頭を下げたのか、知らなかったでしょうし、これからも知らなくて良いのです。ただ、世の中にはいろんな人がいる。出て行った先で、いい人に出会うこともあれば悪い人に出会うこともある。それは運なのです。
親がどんなに祈り、努力をしても、子供の行先にあるすべての災いを払うことなどできない。
だからこそ、我が子の進む道の途中に、味方になってくれる大切な人がいたら、やはり親はその人に対して自然に頭を下げるのだと思います。
親が子供のためにできることなんて、そのくらいしかないのですから。
あっち行っててと追い払われて体育館の2階の応援席のすみっこの方に2人で座る。試合をする女の子たちとコートの外でそれを見ている娘の様子を飽きもせずに夫婦で眺めていました。
「可愛いね」
「そうね」
きっとわたし達はその試合が5時間連続で続いても、そのまま2人で飽きもせず上から試合を眺めていられたと思います。
***
それから目まぐるしく日々がすぎ、娘は無事、高校生になりました。わたし達の中で、あの悪夢のような日々も遠くなりはじめてました。
「ちょっと出てくる」
「また、コンビニ?」
「うん」
娘が最近、時々夜に近くのコンビニへ行って、しばらく戻らない。何してたのと聞くと、立ち読みといいました。それについては特に気にしていませんでした。1時間もしないうちに帰ってきますから。
そして、食器を片付けてリビングに戻り、出さなければならない郵便があったのを思い出した。別に明日でもよかったのだけれど、なんとなく散歩がてら外に出たくなったんです。封筒に買い置きしてある切手を貼って、郵送先の住所を書く。
立ち上がった時にふと思い出す。
あ、芽衣……
鍵を閉めてしまったら、あの子、鍵持ってないし帰ってこられないじゃない。やっぱり明日にしようかなと封筒を眺めました。でも、ポストはコンビニの前にあるんだし、もし芽衣がわたしより先に帰ってくるなら路上ですれ違うわと。
それで、家のドアを閉めて歩き出しました。そして、コンビニの前のポストに郵便を入れて、顔をあげて雑誌コーナーにいるだろう娘を探したのです。
でも、娘はいませんでした。
そこで、初めておかしいなと思った。ここに来るまでに芽衣とはすれ違っていません。うちの娘はどこにいるのでしょうか。コンビニに入って店内を一周巡ってみる。やはりどこにもいないのです。
背筋が突然ひんやりとする。わたしが路上で娘の姿を見落としたのだろうか。でも、芽衣とすれ違わないかと気にしながら来た道です。そんな大きな幅の道路でもない。
普通なら、別にそのうち帰ってくるだろうと気にせず家へ帰れるのでしょうか?ただ、自分は過去のことがあったせいなのかどうか、元気になったはずの自分の心が一気に乱れてゆくのです。
また、何か嫌なことが起こってるのじゃないか。
娘はどこにいるのだろう?何かあったんだろうか。
コンビニを出る。今の自分にとっては、このコンビニの出入り口の音は能天気に過ぎるように思われました。どこを探していいのかわからないまま、コンビニの周辺の店を一つ一つ覗き、それから、家に向かって歩きながら左右を見回しつつ進みました。見つからないまま自宅まで辿り着く。玄関の前に娘はおらず、ドアは施錠されたままびくともしない。
もう一度回れ右をしてコンビニに向けて歩き出す。そしてふと気づいた。そう、家からコンビニまでの間に公園があるのです。その公園の中まで覗いてなかったなと。
入り口からそっと入って行って、公園の奥を覗いて腰を抜かすほど驚きました。
娘がいたのです。ただ、1人ではなかった。自分のいる所からは角度が悪くてよく見えないのですが、相手が若い男だった。服装から見ると社会人などではなく学生ではないかと思うのですが、高校生なのか大学生ぐらいなのかわからない。パーカーを羽織っててフードをかぶっているので、その相手の男の顔がよく見えないのです。
別に雨が降ってるわけでもないのに、フードをかぶっているその様子がなんだか不吉に思えました。顔が見えないようにしながら娘と会って何をしてるのでしょうか。
そして、最近そういえば娘が夜にたまに家を空けてたなと思う。1時間もしないうちに帰ってきてたから娘の話を信じてました。でも、この男に呼び出されて会っていたのじゃないかと思う。
何のために?
その時、ぱっと頭に浮かんだのは、何か弱みを握られて、所謂カツアゲというんでしょうか?金銭を要求されていたりするんじゃないかと。わたしの財布のお金、不自然に減っていたことがあったかしら。記憶を探っていた時です。
2人が立ち上がった。男が傍に停めてた自転車を引いて、2人並んでこっちに向かって歩いてくる。慌てて後ろにあった木立ちの陰に隠れました。
通り過ぎざまに2人の話す声が聞こえた。
「家の前まで送らなくていいの?」
「絶対にやめて」
「でも、夜だし」
「お母さんがいるし、万が一見られたら困るんです」
「はいはい」
公園の出入り口までたどり着いたところで、娘は家の方へ向かって歩いてゆく。男はしばらくその後ろ姿を自転車には乗らずに眺めていました。
その時、何も考えてませんでした。飛び出して何をしようとか、何を話そうとか。
ただ、娘がもしも脅されているのなら、すぐにどうにかしなきゃと思って。
木立ちの後ろから飛び出し、駆け足で公園の出入り口へ向かった。男はしばらく娘の後ろ姿を見送っていた後に、被っていたフードをおろし、自転車に跨った。
「あの」
「はい?」
突然話しかけられて、自転車に跨っていた男はこちらを振り返りました。
その男は、芽衣と同じ高校生くらいの男の子だった。
「……」
「なにか?」
我ながら一瞬、言葉を失った。何もいえずにいるわたしを彼はきょとんと眺めてました。
「ここらへんに引っ越してきたばっかりで」
「はぁ」
「まだよくわかんなくって、その……、ここら辺、コンビニってなかったでしたっけ?」
「ああ、コンビニ」
彼は、さっきわたしが行ったばっかりの方向を指差しました。
「ここ真っ直ぐ行って右に曲がるとすぐですよ」
「あ、そうですか。どうも」
「いいえ」
それからちょこんとわたしにお辞儀をするとペダルを踏み出して行ってしまった。しばらく呆然とその後ろ姿を眺めていました。それから、てくてくと家へ向けて歩く。心ここにあらずの状態でした。
「お母さん、どこ行ってたの?もー」
家の前に、いつもと変わらない芽衣がいる。俯いていた顔をゆっくりとあげた。
「芽衣」
「ん?」
「誰?あの男の子」
途端に芽衣が、あ、しまったという顔をしました。子供の頃から見慣れている、いたずらを見つかった時の顔。
「誰でもない」
「……」
とりあえず玄関の鍵を開けた。芽衣をほっといてバタンと家の中に入る。靴を脱いで上がってから後ろを向くと、芽衣が玄関のドアを開けてこっそり覗いている。
「何やってるの?上がりなさいよ」
「うん」
リビングのソファーにとすんと座り、手に持ってた鍵をかちゃりとローテーブルに置いた。抜き足差し足で芽衣が2階へ上がろうとしているのが視界の端に見える。
「芽衣、ちょっとこっち来なさい」
「……」
しぶしぶと娘はこちらにくると、わたしから少し離れて座った。
「あの男の子、誰?」
「だから誰でもないって」
「そんな幽霊でもない限り、名前があるでしょ?」
「……」
「最初は顔がよく見えないから、なんか悪い人かなんかと思ったけど、声かけてみたら普通の子だったし」
「え、なに?声かけたの?」
芽衣の声がひっくり返る。
「別にあんたの母親だなんて名乗ってないわよ」
「……」
はぁとため息つかれた。
「びっくりした。ほんっと。フードおろしたら、めちゃめちゃかっこいい子なんだもん」
「……」
「ね、あの子、なに?芽衣の彼氏?」
芽衣ちゃん、眉間に皺寄せて嫌な顔でこっちを見た。
「あ、ごめん。芽衣は好きだけど、彼氏ではないのか」
「違うっ」
「でも、こんな夜に2人で会ってて友達って言われても……」
「ああ、だからやだったのに」
その娘の不機嫌な顔を見て、そして、わたしは盗み聞きをした2人の短い会話を思い出す。家の前まで送って行こうかと男の子が言って、やだと言ったのは芽衣だった。
「もしかして、あの子の方が芽衣ちゃんを好きなの?」
さっき見かけたあの様子をもう一度思い出した。思わずため息が漏れそうなくらい、綺麗な顔した男の子でした。
「いいなぁ……」
男は顔ではない、とは思いつつ、ただ、自分の人生ではあそこまでのイケメンとお近づきになるような機会はありませんでした。思わず心の声が漏れてしまった。
「ね、なんであんな綺麗な顔してんのに、フード被って顔を隠してたの?」
「顔が見えて一緒にいられるところを見られるのが嫌だから被ってろって言ってるの」
「え……」
あの綺麗な顔の子に偉そうに命令している娘の様子を思い浮かべようとする。
えー、なんて勿体無いというか、可哀想なことを。
「ね、なにがどうなってあんなイケメンな子と付き合うことになったの?」
「だから、そういうのじゃないんだってば」
芽衣はそこまで言うと、ぱっと立ち上がって逃げて行ってしまった。
じゃあ、どういうのなんだろうと思いながら、1人ソファーに座ったままぼんやりとしてました。それにしても、あの芽衣が……
そして、赤ちゃんのころの芽衣を思い出す。今だってあの頃とたいして変わってないような気がするのだけど、まだまだ全然子供だと思ってたのに……。それにしても、かっこいい子だったなぁ。あんな子、こんな地方にいるんだ。
……
それから、2人がこのままうまくいって、いずれ自分が、あんなかっこいい娘婿にお義母さんなんて呼ばれている未来を想像してみた。悪くなかった。
「ただいまー」
主人が帰ってきました。玄関で靴を脱いでから上がる音がしてペタペタと足音がした。
「どうしたの?」
主人が帰ってきても相変わらずソファーでぼんやりしてたらそう言われた。ね、あなた、聞いてと瞬間話し出したい気持ちがなかったわけではない。
「……」
「どうした?」
あまりにわたしがぼうっとしているので、もう少し心配そうな顔になって主人が尋ねてくる。
「なんでもありません」
「そう?なんかぼけっとして」
「食事は?」
「外で済ましました」
「そう」
主人があたりを見回す。
「芽衣ちゃんは?」
「自分の部屋です」
「そう」
それから、主人はカバンをダイニングチェアに載せると、ネクタイを緩める。わたしはテレビをつけました。流石に今回の件は、主人にもショックだと思いますし、主人が知るのはもっともっと先でいいんじゃないかしら?本人もあんだけ嫌がってるし。
上着を脱いでこれもチェアにかけると、ペタペタと冷蔵庫の前へゆき冷蔵庫から缶ビールを出している背中を眺めつつ、あのイケメンにお義父さんなどと言われながらしかめ面をしている主人の様子を想像してみました。
2023.09.08