専業主婦は見た!②
専業主婦は見た!②
中村美月
不思議な感じでした。
その頃のわたしたちは、泥沼のような毎日を過ごしていたのです。いつ終わるかわからない暗くて長いトンネルを疾走しているような日々でした。主人もわたしも疲れていて、だけど、一番傷ついて疲れているのは娘の芽衣で、そのことを思えば、立ち止まることなんてできる訳がない。子供が傷ついているのに、立ち止まって休もうとする親なんていないでしょう。
そんな毎日を過ごしていて、それなのにその日の朝は、心がものすごく軽かったんです。どのぐらいぶりでしょうか?夢の中で泣いたからだろうか。雨が降ってあたり一面を洗い流して去った後のように、心が軽かった。
いつもより早く起きてキッチンに立ち、お湯を沸かして朝ごはんを作る。主人が起きてきて、ニュースを見て食事をして出て行った。しばらくしてからパジャマ姿の芽衣が起きてきた。
「おはよう」
「おはよう。お父さんは」
「もう会社に行ったわよ」
その頃の芽衣は、カウンセリングを受けながら、時々学校へゆく日々を過ごしていて、午前中はたいてい家にいて、朝はゆっくりと起きてきていました。
「パンがいい?コーンフレークがいい?」
「コーンフレーク」
「ちょっと待ってね」
キッチンで上の戸棚からコーンフレークの箱を取る。カサカサと揺れる箱から音が漏れました。
「お母さん」
「ん?」
対面式のキッチンの向こう側にパジャマ姿の娘が立ち、話しかけてくる。
「わたし、東京を離れたい」
「え?」
「東京を離れて、わたしのことを誰も知らない場所でもう一回やり直したい。ダメかな?」
「……」
「やっぱり、だめ?」
芽衣の目はまっすぐ前を向いてました。その目にはちゃんと光があった。
「ダメじゃないよ。ダメじゃない」
慌てて箱を置いて、キッチンから離れた拍子に箱が倒れて中身が床にサラサラ落ちる音が聞こえたけど、どうでもよかった。娘の立っているところまで回り込んで芽衣に抱きついた。
「ごめんね」
「謝んないでいいよ」
「なんでお母さんが泣くの?」
「ふ……」
ダメな母親だなと思いました。本来ならもっと強くなくてはダメなのだろうに。でも、タガが外れてしまったように止まらなかった。
娘はもう一度立ち上がった。誰の手も借りずに自分の足で。
そして、自分で決めて前へ進もうとするのです。
それほど遠くない未来にわたしの背を追い越すであろう娘の体を抱きしめながら、そこにきっちりと抱きしめられる娘の体があることが嬉しかった。
***
芽衣は悪くないのに一方的に傷つけられて、負けたままでいては前に進めない。勝つためにがむしゃらに裁判を起こそうと頑張っていた主人でした。ですが、わたしたちにとって大切なのは、娘が前向きに生きていくことであって、娘を辛い目に合わせた人たちに報いを与えることではなかったのです。
わたしたちの娘は生きているのですから。
とある日、珍しく早く帰ってきた主人が明るい顔でわたしたちに言う。
「今週末は旅行に行くから。準備をしておいてください」
「どこに行くの?」
「九州」
「九州?」
娘と二人で驚いて、素っ頓狂な声をあげた。わたし達の驚いた顔を見て主人は満足そうに笑いました。
「柳川ってね、結構有名な観光地なんだよ」
そして、まるで旅行会社の添乗員のようにIPADで写真を見せながら説明をするのです。
「北原白秋の生誕の地で」
「へー」
次々と画面をスクロールしながら、娘に柳川の説明をしている主人の顔を見ていました。こんな顔を久しぶりに見たなと。ずっと別人のように厳しい顔をして、言葉も少なかった。
新幹線で行けるような距離ではなくて、飛行機に乗る。飛行機が飛び上がる時、芽衣はじっと足の下の東京を飛行機の窓から見下ろしていた。
悪夢のような日々、地獄のような場所。でも、人は本当はその気になればその場所から飛び立てるのだと、そんなことを娘の背中越しにわたしは思ってました。
福岡の空港に降りて、初日は福岡を見て回った後、翌日に柳川へと行きました。普通の親子連れのように観光を楽しんだ。旧藩主邸が旅館として営業している、夜はそんなところに泊まりました。*1
「すごーい」
まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようなお屋敷と部屋に、芽衣と2人で嬌声を発し、お部屋に至ってはわたしの手を取って走り回る。
「お母さん、見て見て」
「なになに?」
「ひろーい」
それは、本当に素敵なお部屋でした。ベッドのあるスペースと奥は和室になっていて、窓を開け放すと一面に日本庭園が広がっているのです。
「芽衣ちゃん、小学生に戻ったみたいだな」
後ろからついてきた主人がニコニコと言う。
「お姫様になったみたい」
「あなた、これ、いくらしたの?」
ちょっと呆れて振り向くと、やはりメガネの奥の目をニコニコと細めながら主人は言いました。
「今回は特別だよ」
その声に含むしんみりとした響きに、自分の心も少しジンとした。そして、もう一度美しい庭園を眺めました。まるで、別人になったような気分にさせてくれるその美しい景色。
「こっちはどうなってるんだろ?」
パタパタとそれこそ主人が言ったように小学生の子供のように走り回る娘。この娘が、こんなにはしゃぐ様子を見るのは、本当に何年ぶりと言っても大袈裟ではないと思います。
何もかもが取り戻せたような気分になりました。
夜は、有名なお堀に貸切ぶねで乗り出し、舟から月を眺めました。
「ちょっと今日は天気がねぇ」
船頭さんが渋い声を出しながら舟を操ってましたが、ほどなく雲が切れ月が現れた。
「あ、見えた。お母さん、早く早く」
「こんなカメラじゃ、たいした写真撮れないわよ」
「じゃ、お父さん」
主人のスマホの方が高いので、写真の解像度が違うのです。急かされて写真を撮る様子を船頭さんがニコニコしながら見ていた。興奮のピークが収まり舟も着岸点に向けて滑り出した頃、主人がそっと言いました。
「どう芽衣ちゃん、気に入った?」
「うん。気に入った」
「この街はどうかな?」
その真面目な声音にわたしも芽衣もやっとこの旅行がただの気晴らしの旅行ではなかったことに気づいたのです。
「どうって……」
改めて旅人の視点ではなくて別の視点で舟の上から美しい夜の景色を眺めました。
「九州は遠すぎるかなぁ」
「……」
「東京から遠いというのは、反対にいいのかもとも思ったんだけどな」
のんびりとした声を出しながら、主人がすごく娘に気を遣っているのが見てとれた。そっと触れなければバラバラに砕け散ってしまう、まるで一瞬にして凍りついた薔薇に触れるかのようにそっと話しかける。
「どうぞ、足元にお気をつけください」
夢見心地な舟の上から硬い地面に再び舞い降りた。柳川へついてからはしゃぎっぱなしだった芽衣は、途端にまたいつものおとなしい芽衣に戻ってしまったのです。ですが、その顔はおとなしくはあっても沈み込んでいるようには見えなかった。
旅館の部屋へ向かってきた道を辿りながら主人は言葉を続けた。
「福岡なら、お父さんの仕事がありそうで」
「えっ……」
その言葉にパッと顔を上げた。
「転勤できそうなんだ」
「お父さん、東京を離れるの?」
「ダメかい?」
「だって、東京の方がいろんな大きい仕事があるんじゃないの?」
主人とわたしの会社は大手広告代理店。東京や大阪などの都会が中心となると言われればやはりそうでしょう。
「福岡は伸びてきている地方都市で、これからが楽しみな都市なんだよ」
「……」
「新しいことをするって意味ではむしろ意義があるってお父さんは思ってる」
芽衣は、肩をすくめて硬い顔をして俯きがちに前へと進んでいました。
「芽衣は、お父さんは東京に残るって思ってたの?」
「よくわかんないけど、なんとなくそう思ってた」
「そうか」
「ごめんなさい」
突然学校へと行けなくなってから、何度娘は親に向かって謝ったでしょうか。
「芽衣ちゃん」
美しい月の下で、親子3人歩きながら、主人は娘に言いました。
「家族というのは一緒に舟に乗っている仲間なんです。もしもその中の1人に何かがあったら、残りの人はその1人のために何かする。助け合うんだ。それが家族として当たり前のことなんだから、謝る必要なんてない」
それでも娘は憂鬱な顔をして歩を進める。しばらくしてまたぽつりと言った。
「福岡で働くのなら、福岡に住んだほうがいいんじゃないの?」
「それはそうなんだけど……」
主人は言葉を濁した。
「福岡だとあまり東京と変わらないような気がしてしまって……。お父さんの偏見なのかもしれないけど、都会のような大きな街よりもう少し小さい街のほうがいい気がしたんだよ」
「……」
「色々調べていて、柳川はすごく特別でいい街のような気がしたんだけど、芽衣ちゃんはどう?」
主人はそこで足を止めてそっと娘の方にかがみ込んだ。娘はそう言われて俯きがちだった顔をそっとあげた。
「柳川だったら、いいことありそうかな?」
黙る娘の横でわたしたちも顔をあげて辺りを眺めました。少し離れたところに今晩泊まる藩主邸がライトアップされて闇夜に白い優雅な姿が浮かんでいた。
もう一度やり直したい。
嫌なことを全部忘れてもう一度、家族みんなでやり直したい。
切ないとも言える気持ちで見上げる目にその風景が優しく美しく迫った。
芽衣が息を吸い込んだ。
「悪くはないかな」
そしてぼそっとそう言った。
「そうか。悪くはないか」
「いい線行きそう」
「うん」
主人に気を遣ったのか、後から少し娘は言いなおした。
「あなた、お金を奮発した甲斐ありましたね」
「また、美月ちゃんはつまらないことを言う」
わたしがそう言いながら主人の肩を叩くと、文也さんが少しおどけたとも言える調子で応える。その声音に明らかにホッとしたものが含まれていました。親の傍でそっと芽衣がふっと笑う。
「さ、帰ろう、帰ろう」
子供の頃よくしてたように、主人とわたしの間に娘を挟んで、左腕は主人が取り、右腕はわたしが取りながら旅館の部屋まで戻った。
***
その夜、一度寝て起きた。ふと見ると主人が起き上がり窓を少し開けて外を眺めながら窓際の椅子に座っているのが見えました。そっとベッドから出ると近くへ寄った。
「眠れないの?」
「ん?」
お互い浴衣姿で、見つめ合う。見慣れたお互いの、出会った頃よりは歳取った顔を。
「いや、これからのことを色々考えて」
「そう」
座っている主人の横に立って、片手を主人の肩にそっと載せてました。そして、ところどころのライトを残して、今は真っ暗になった庭園を、主人が見つめているものを後ろから一緒に眺める。
「芽衣、大丈夫かな……」
思わずぽろっと口に出た。主人が肩に置いたわたしの手にそっと手を重ねました。
「芽衣を信じよう」
「うん」
しばらくそのまま、自分の手に重ねた主人の手の温かさを感じてましたが、ふと思い出し笑いをした。
「なに?」
「あなた」
「ん?」
「芽衣を驚かせたかったのはわかりますけど、わたしにまで秘密にする必要はないでしょう?」
「あ……」
「普通は奥さんにこういうことは相談してから子供に話すでしょう?」
「すみません」
「もう」
「怒った?」
笑いながら答えませんでした。
「怒った?美月ちゃん」
困った顔で見上げてくる。
「芽衣が元気になるのなら、わたしはどこへだって行きますから」
「うん」
「いいですよ。別に」
「うん」
そして、片手を重ねたままで何も見えない窓の外を夫婦で2人しばらく見ていました。
「ありがとう、あなた」
「ん?」
「あなたと結婚してよかったわ」
素直にそう思えた。心の底から。
「やだなぁ、突然」
「え?」
たいしたことを言ったつもりはなかったのですが、主人は照れてしまったようです。
「あなた、東京を離れちゃって本当にいいの?」
「いや、東京に残ったから出世できるわけでもないしね」
「あら」
「芽衣ちゃんには言わないでね」
「はいはい」
その時、もう一度、会長とそして祖母に言われた言葉を思い出しました。
人生は意外と長い
結婚を前にしたとき、わたしは結婚して子供を持った自分にこんな未来が待っていることなど露にも思っておりませんでした。それで、ただ出世しそうな前途有望な人を探していたように思います。だけど、人生に起こる嵐をあの時は予測できてはなかったのだよな。だって、それまでの短い人生で経験したことのないことが色々あって……。
本来であればこの先どのような嵐が来るかを知った上で、生涯の伴侶を選ぶのが間違いのない人生なのかもしれないけれど、でも、それは出来ない相談で……。だって、結婚しようと思っている時、人は若輩者なのですから。
昔の自分がこだわっていたことが、不思議なくらいどうでも良くなった。だってきっと、わたしが昔重要だと思っていたような、モノでは、この嵐は乗り切れないと思うのです。仕事を第一とし家庭を顧みてくれないような人が主人であったなら、こんなやり直しを3人揃ってするチャンスなんてなかった。
大丈夫だよ、大丈夫
祖母の声がもう一度聞こえた気がした。そう、明けない夜はない。ないのだと自分に言い聞かせた。
*1 柳川藩主立花邸 御花
柳川藩主の末裔が営む宿泊できる藩主邸。江戸時代からの歴史のある建物と庭園。