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あとがきとは言えない中締めのようなもの












   あとがきとは言えない中締めのようなもの














これから更にエピソードを足す予定ですので、これはこの物語のあとがきとは呼べないものなのですが、今、この勘違いについて自分が感じていることをメモするような気持ちで記録しておきたくて、文章を残すことをお許しください。


小説を書きながら、はじめにも書くわ、あとがきも書くわ、私は本当に出たがりな人間だなと苦笑いしております。自分の作品の中途中途に作者として出てきてああだこうだいうのって、本当はあまりよくないのかなと思ってみたりもしてました。


ただ、自分のナルシスト的要素が前に出ちゃうのです。すみませんね。


自分の作品に対する想いを文章としてまとめて、そしてそれもまた一緒に投稿すると、簡単に言えばもっと書こうというやる気が湧いてくるというのもせっせとこういうものを書く理由の一つです。


で、結局、勘違いで何を書きたかったのか。

実はですね、これは、私が書いたかみさまの手かみさまの味①のやり直しのような作品であり、また、変化へんげという名の短編があるのですが、これとも関連している作品です。


かみさま①でもいじめの話が出てくるのですが、その辛さを書き切ることができなくて、同じテーマにはなるのですが、また勘違いでいじめについて書いています。書けなかったから書いている一人の自分がいて、また、自分の中にいるまた別のもう一人の自分は、こう騒ぎ立てていました。


また、恋愛によって救われる話ですか?と。


傷ついた人が恋愛によって救われる話、というのが私の中の一つの型になっているようで、それについて飽きてしまったというか、批判的な自分が自分の中に生まれてしまっていて、それもまた、今回の勘違いの筆が遅くなってしまった原因の一つです。


それでも、また、恋愛によって救われる話を書きました。芽衣ちゃんとトシ君はもう出逢っちゃってるし、そこは外せないのでね。


それで、ある程度形が決まってきて、この勘違いは書き終わる目処が立ってます。目処が立ったところで今後のことというか、もう少し、傷ついた人がどう立ち直るのかという部分について考えたいのです。


私はもう大変だった子供時代を超えて大人になった人間です。だから、まだ、大人になっていない人に向けてこういう物語を届けてあげたいのです。堅苦しい話ではなくて、笑える部分がたくさんあって、読んだ後に元気になれるような。そこに、もう一回、一度閉じてしまったドアを開けてみようかなと思えるような何かがあればいいなと。


この歳になって思うのですが、人間というのは非常に自分本位にできているなと思うのです。でも、子供の頃にはそれが見えないしわからないのだよね。私は子供の頃、自分だけが不幸な人間だと思ってましたね。自分には特別な出来事が起こって、だから普通の子供とは違うと思っていました。悲劇のヒロインになっていたのだと思ってます。


今になって思うのはこういうことで、この世の苦しみや不幸というのは、例えば、いじめだけではないのです。


自分の問題にのみ一生懸命になっているから見えてないだけで、この世にはいじめだけではなくさまざまな苦しみや不幸があり、きちんと冷静になって周りを見渡せば、生きている人たちの大半はやはり何かしらの枷のような苦しみ、或いは、不幸に囚われてます。


大変なのはあなただけじゃないのだから頑張れと言いたいのではないのです。


私が言いたいのは、生きるというのは幸せなことや楽しいことばかりで構成できるものではなく、苦しみや不幸から逃げることはできないということで、大抵の人はその程度の大小はあっても、それぞれ何らかのしがらみにとらわれていると言うことです。


生きるということから、苦しみを切り離すことはできません。だから、それに対峙する力を人は生きながら身につけなければならないのです。


昔は、自分だけが特別に弱く、不幸で、周りのクラスメート達が立派に見えたものでした。

人並みになりたいと思いながら生きてきました。こういう人間はいつも、自分の人より不幸な部分を探しながら生きているものです。


本当にそうなんでしょうか?

自分は本当に不幸なのか、或いは、自分で自分を不幸にしているのか、その区別をつけることが非常に重要です。


自分の人生の途上にも起こってきたことだから、私はいじめられた人について今回も書きました。だけど、いじめられた人だけが不幸で、例えば、いじめた人は敵視すべき人たちなのだと言ったような、そんな単純な世界を描きたくはないのです。そういう私自身が若い頃にはそんなふうに思いこみ、出会う人、出会う人を敵か味方かで分けて人付き合いしていたような頃もありますが。


自分の苦しみにのみ囚われ、人の苦しみが見えず、心を開こうとしない。それもまた、人間の在り方です。そういう姿を書きながら、それでも、そう言った人間が変わる瞬間を、また様々な形で描くことができたらなと願います。


そのために必要なことは、実は、私が実生活で、独りよがりな考えに囚われることなく、周りの人をより理解しようとし、心を開くことなのかもしれません。あるいはそれよりも、私を理解してくれる人を信じること。心を他人に許すこと。


そういう意味では私の今は、人生に訪れた遅すぎる春なのです。


今、もしかしたら、冬のような日々を暮らしているかもしれない、私よりももっと若い人たちへ。未来はわからないものです。今がずっと永遠に続くと思わないでください。辛いところを出てゆく鍵はいつも、自分の手の中に握っているものです。人の中にはさまざまな可能性が眠っているものです。そのあなたの中にもある可能性を、鍵を握りしめたままでどうか潰してしまわないで。


人は自分で思っているよりも実はもっと強いものです。その知らない自分を大切にできるのは自分だけです。


台風の近づく夜に

中国の自宅より

汪海妹

2023.09.01

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