松尾君は絶対勘違いしています 12
松尾君は絶対勘違いしています 12
松尾俊之
芽衣の電話を切ったところで、春菜たちに取り囲まれた。夏帆がまるで男子学生みたいに肩を組みつつ体をドンとぶつけてくる。
「なにやってんの?誰、待ってんの?」
「ちょっ、夏帆」
それを別の子がひっぺがした。
「なによ」
「いつまでも小学生のノリで、もー」
一瞬、お母さんのようでした。
「みんな見てるって」
「え……」
それで、夏帆を含めみんながキョロキョロと辺りを見渡す。少し遠巻きにして、確かにみんなが俺らを見てた。
「あんたが、トシの待ってた人だって思われたよ、今」
「わたしが?」
学生鞄を片手で肩に担ぎ、夏帆はもう片方の手で自分を指差す。
「え、やだー」
そして、みんなで腹を抱えて大笑いした。
「やだ、それ、ウケる」
「夏帆、そこで、ウケてちゃダメなんだって。ほんとは」
「でも、ウケる」
そんなふうに笑ってるみんなの一番後ろで、1人だけ事情を知ってる春菜が微妙な顔で僕を見た後にそっと周りを見渡した。いつの間にか芽衣がいないことに気づいたのだろう。さっきまで一緒にいたはずだ。
「ね、誰を待ってるの?」
「ああ……」
僕は空を見上げた。
「振られた……」
「え……」
飛行機雲が見えた。
「というか、会いたかったんだけど、もう学校を出たみたい」
「誰、誰、誰?」
「そこは武士の情けで聞かないでもらえるかな」
「誰だよ、トシを振るやつって」
「うまくいくことがあったら教えるね。じゃあ」
「へ?」
さっと手を上げて立ち去ろうとすると、好奇心に燃えたみんなが追い縋ってくる。
「そんな、誰か教えろって。うちの子なんだろ?みんなで協力するって。トシのためならさ」
また、夏帆が俺の肩に手を回してくる。
「あれ、トシ、背が伸びた?」
「うん」
昔っから夏帆はこんなふうに肩に手を回してきた。女子の割にひょろっと長身の彼女には長年肩に手を回された挙句見下ろされてきたのです。
「ほらほら、離してあげなって」
春菜がそういって夏帆を背中からポンポンと叩く。
「あれ、そういえば芽衣は?」
皆が芽衣がいないことに気づいた。
「あ、ほんとだ。芽衣がいない」
「忘れ物したんだって」
「え、うそ」
「今日はもう先に帰ってって」
「待ってようよ」
「勉強あるでしょ?」
「えーーー」
みんなが一様に嫌な顔をした。その顔が似ているのが不思議だ。
「芽衣を待ってる時間ぐらい、大したことないでしょ?」
「いいから、さ、帰るよ。じゃあね、またね、トシ」
春菜が僕らの会話を終わらせる。みな、その言葉を皮切りにブツブツと言いながら歩き出す。
「じゃあな、トシ。うまくいったら相手が誰か教えろよ」
「バイバーイ」
皆が離れてゆく。春菜にだけわかるようにそっと片手をあげて小さくお辞儀した。
そして、バス停の方へゆく皆とは反対の方向へ歩き出した。
ところどころ石垣の残った道を進み、ゴロゴロと置かれた石の一つに適当に腰掛ける。向こうに芽衣たちの学校の校舎とグラウンドが見える。
そして、芽衣が現れるのを待った。
今日は芽衣はどんなふうに現れるだろうと想像しながら。
芽衣は犬に似てるんです。トイプードルみたいな一生大きくならないような犬。ショパンの子犬のワルツ*11に出てくるみたいな。春菜のそばにいる芽衣はあの軽やかな楽曲の中の子犬のように楽しそうに跳ねてる。
今日はあんなふうに僕に向かって軽やかにかけてくるだろうか。
しばらくしてその答えを知る。ああ、トイプードルも怒りながら走るというか歩くということがあるのだな。芽衣がずかずかと歩くところを初めてみた。体全体で怒りを表現してました。
芽衣は僕に向かってまっすぐに歩いてくると、なにも言わずにどさっと僕の隣に座った。そして、数秒後、ふと気づいたというふうに腰を軽くあげ、僕から少し離れて座り直した。僕はそれを自分の膝に肘を載せて頬杖をつきながら見てました。
「そこ、きちんと距離取るんだ」
「誰に見られるかわかりませんし」
「2人でいるとこ見られたら、この距離がこのくらいか、それともこのくらいかで何か変わる?」
自分の手でその距離の差を表しながら話す。
「これはむしろ、周りの人に見せるためというよりわたしとトシ君の間でのけじめみたいなもんですっ」
「ケジメ……」
笑ってしまった。
「笑うとこじゃないでしょ?」
「ごめん」
芽衣がなにをしてても、なにをいっても、それを見てるとほっとするし、意味もなくおかしく思ってしまう。
「じゃ、今日は手を繋いじゃダメってことだ」
「……」
そして、僕は、そっと腰を浮かせると少しだけ芽衣から離れて座り直しました。
「なんですか?」
「いや、ケジメ」
「……」
自分から離れといて、でも、僕が少しだけ彼女から離れると芽衣はとても複雑な表情をした。
「好きな子のすぐ近くにいると、頭ではダメだと思ってても触りたくなっちゃうんで」
その複雑な表情が、別の表情にゆっくりと変わるのを眺めてました。
「そんな恥ずかしいことをよくもまぁ、すらすらと」
「いや、でも、ほんとのことだし」
芽衣の小さな手を自分の手の中に包み込んだあの感触を、今でも覚えてる。あのままずっと地の果てまで歩き続けろと言われたら、僕ははいと答えただろう。
「芽衣ちゃんに嫌われたくないんで」
「トシ君を嫌ってなんてないですよ」
「……」
それから、僕は、かつては城だった、今は青々と草の茂った空間を眺める。緑を眺めながらぽつぽつと言いました。
「直前に言ったことと矛盾するようですが」
「はい」
「嫌われた方が楽かも」
「……」
「芽衣が俺を嫌ってるってはっきりこの目で見て実感できたら楽かも」
この世にこんな形の苦しみがあるなんて、ほんの少し前までは知らなかったのにな……。
「何年経っても、あの時もしかしたらああしてたらうまくいったんじゃないかとか、こうしてたらうまくいったんじゃないかとか、そんなふうに後悔しながら生きていたくない」
「そんなに?」
「ごめん」
つい、そこでポロリと謝ってしまった。
「なんで謝るんですか?」
「芽衣が俺に好きになってくれと頼んだわけでもないのに」
「……」
「芽衣からしたら、事故に巻き込まれるようなもんだよね」
ため息が出ました。
「他の人ならともかく」
「うん」
「わたしのなににそこまで……」
一応そこで、少し考えてみた。どうしてこんなに芽衣が好きになったんだっけ?
「よくわかんない」
芽衣が呆れた顔で僕を見た。その顔も好きでした。
「俺を利用してしまいそうって書いてあったけど、あれってどういう意味?」
その時、風が吹いて、芽衣の髪が揺れた。僕は彼女の横顔を見ていて、風が彼女の前髪を攫ったので、額が見えた。そういうなんでもない瞬間が、宝物のように貴重でした。僕にとって芽衣と一緒にいる時間が、全然足りなくて。目に映るなんでもない瞬間、なんでもない会話、それは僕にとっては全てかけがえのない物だった。記憶に焼き付けたい。
「わたしは誰かを好きになったことがないし」
「うん」
「トシ君と一緒にいてあなたを好きになるかどうかもわからない」
「うん」
「ただ、自分のことを好きな人間がいるというのはそんなに捨てたものでもありません」
「はぁ」
「一方的に利用すれば、カイロのように役に立つ」
「……」
そこで、自分がカイロになって芽衣を温めている図を想像してみようとした。うまく想像できなかった。
「最初はダメだと思ってても、そのうち、一方的にあなたを利用することに無感覚になってくでしょう。それは下衆のすることでしょう?」
ふっ
また笑ってしまった。
「だから、笑うところじゃないですよね?」
「でも、なんか芽衣の話すことって独特で……」
「わたしは……」
芽衣ちゃんが、50mぐらい一生懸命走った後の人のように少し顔を赤くして話してる。
「昔っからなんか、変なんです。黙ってたら目立たないけど、口を開けば開くほどなんかみんなと違うんですよ」
「そうなの?」
「だから、普通の人が普通にするような恋愛とかは、わたしには無理なんです」
「はぁ」
「わたしは人とコミュニケーション取るのが苦手なんですよ。トシ君にはそんな問題がないんですから、もっと普通の女の子と付き合ってください」
「また振られた」
「はい?」
「これで何回目だろ?」
目を瞑って指を折りながら数えようと思ったけど、うまくいかなかった。何回、振られた?
「芽衣ちゃんのその言い方だと、男は引きずっちゃうんだよ」
「へ?」
「あなたが嫌いだってはっきり言ってもらった方が楽だって」
「あなたが嫌いです」
「僕のどこが嫌いなの?」
「ええっと……」
芽衣が小首を傾げた。それも僕の好きな仕草。
「しつこいところ」
「それは間違いないな」
「言いましたよ。嫌いなところ」
小学生が100点とってお母さんにそのテスト用紙を見せてるようなドヤ顔をしている。
「まだ足りないな」
「はぁ?」
「憎しみが足りないな。こう、2度と顔も見たくないぐらい言ってもらわないと」
「……」
芽衣はその時、そのセリフを言おうと思ったのかもしれません。口を開きかけて、それから、やめた。やっぱり複雑な表情をしてた。
「どうしたの?」
「トシ君は……」
僕から目を逸らして少し離れたところを眺めていて、僕は芽衣のその横顔を眺めていた。
「人から本気で拒絶されたことがないから、2度と顔も見たくないなんてセリフ、どうとも思わないのかもしれないけど」
「うん」
「わたしは冗談でもそんなセリフを口にしたくはありません」
「……」
「誰かに傷つけられたことがあっても、自分は誰も傷つけないというのは、わたしにとって結構大切なことなんです」
その寂しそうな顔を見ていると、頭の中が真っ白になりました。過去も現在も未来も、自分が今何歳なのかも忘れてしまった。
向こうを見てた芽衣がパッとこっちを向いた。じっと僕を見てくる。それで気づいた。
「ごめん……」
人と人との境界線を越えたいという瞬間が人には訪れるようで、そして、その時、自分で自分がなにをしているかに人は気づかない。僕は芽衣の手を握っていた。あの手、小さな柔らかな手。
僕が手を離すと、芽衣は隣で身を小さく固くした。
「この前、夢を見たんです」
「どんな夢?」
「昔のクラスメートがわたしの周りを囲んで、いろいろ悪口を言ってくる夢」
「……」
そして、それから芽衣は泣いてしまった。小さな声で何か言った。
それが聞こえなかった。
「え、なに?」
「トシ君も、いたの」
「え?芽衣を囲んでたの?」
「違う」
芽衣は小さくイヤイヤをした。
「あなたも囲われていたの」
「……」
「一緒に悪口を言われてたの」
外にいるのに全ての音が消えてとても静かなように思えた。
「絶望しました……」
芽衣がどんなに傷ついたか。時間が経っても癒えない傷を抱えているのか……
本人以外、きっと誰も知らない。
「わたしは病気なんです」
「うん」
「あなたと一緒にいたら元気になれるのかもと一瞬思いました」
「うん」
「だけど、あなたまで引き摺り込んで……。あなたがわたしを好きだと、あなたまで人に拒絶される下の人間のようにわたしの脳は認識するんですよ」
「陰キャってやつか」
「わたしを好きなあなたはおかしいと、何度も何度ももう1人のわたしがわたしに囁くんです」
「……」
「そうすると、トシ君もわたしと同じ種類の人間に見えてくるんですよ」
僕の目の前で泣いている芽衣を見ていると、自分も泣きたくなりました。
「わたしは気持ち悪いんです」
「気持ち悪くなんてないよ」
「汚いんですよ」
「汚くなんてない」
「わたしと一緒にいるとトシ君も汚くなるよ」
「そんなの言った方が間違ってるんだよっ」
そして、また、自分としては珍しく、僕は声を荒げていた。
「誰に言われても、諭されても、消えないの……。みんなみたいに綺麗に笑えない。いつだって、いつまたあれが始まるかもしれないと怯えて……」
「元気になりたいの?」
「……」
「芽衣は元気になりたいの?」
「なりたい。でも、そんなの無理」
芽衣は何度1人で泣いたのだろう?何度……
ドラマや映画の中の男の人のようになれた手つきで自分の腕の中に芽衣を抱きしめられたら、どんなに良かったろう。この時、僕は、自分が大人の男ではないことが憎らしかった。
僕にできたことはただ、やっぱり芽衣の手の上に僕の手を重ねて握ったことだけ。そして、馬鹿みたいにただ黙って彼女が泣いている横にいました。
自分は木偶の坊みたいだなと思って、そして、宮沢賢治の雨にも負けず*12をなぜか思い出していた。
雨にも負けず、風にも負けず
賢治がああいうものになりたいと言ったのであれば、僕はどんなものになりたいのだろう?
「無理じゃないよ」
「……」
「無理じゃないよ、きっと」
「……」
その時、芽衣のただただ切なく空気を切り裂くようだった彼女にまとわりついた雰囲気が、色をふんわりと変えた。
「これでも」
「うん」
「努力して何度も変わろうというか、変えようというか」
「うん」
「でも、元気になったと思って何かに挑戦しようとすると、やっぱり弱い自分がいて……」
「うん」
「ていうか、なんでこんなことトシ君に話してるんだろ」
そして、彼女は涙を拭いた。そして、平静に戻りました。
「ごめんなさい。取り乱して。忘れてください」
「……」
「どうかしてました」
もう一度見えない壁を取り出された。透明な壁。
「芽衣……」
呼ばれて僕の方を見た。すぐ近くに芽衣がいた。
「1人で悩まないで」
「悩んでなんかいません」
「そんなふうには見えないんだけど」
「これは終わったことなんです」
「終わったこと?」
「もう諦めました。いいんです」
さっぱりとした顔でそう言われた。
「諦めたって、元気になること?」
「わたしは他の子と同じにならなくてもいいんです。それで、楽になりました」
そうサバサバとした顔でいうその横顔が、僕の夢の中で自転車に乗って通り過ぎてゆく横顔と重なった。それも、確かに、一つの生き方なのでしょう。
「芽衣ちゃん、ごめん」
「はい?」
「俺は諦められない」
「……」
人は1人で生きているのかもしれない。でも、生きている中で出会う人の中には、自分にとって特別な人というのが混じっているのかもしれない。特別な人の生き方にはどうしても、手を出して干渉しようとしてしまうのかもしれない。それは、干渉というその行為が自分が生きていくためにどうしても必要だからです。
「そんなこと言われても」
そして、芽衣は困った顔でため息をついた。
「芽衣ちゃんが元気じゃないと、俺、生きていけない」
「なにを……」
困った顔が呆れた顔になった。それから、芽衣は両腕を大きく振り回しながら言った。
「わたしは元気です。大丈夫です、別に」
「さっきまであんなふうに泣いといて、よくいうね」
「だから、普段はあんなの誰にも見せないんですよ。忘れてください」
「忘れられない……」
「……」
「あんなん見せられると、芽衣に助けてって言われてるって思っちゃうんだよ」
「そんなん言ってませんよ」
「本当にそう思う?」
「……」
「俺は、芽衣に何度も助けてって言われた気がしてる」
2人の話は堂々巡りをしていて、そして、太陽は少し位置を変えてくる。芽衣はしばらく黙ってた。
「勉強しないと」
そして、ぽつりとそんなとってもつまらないことを言われた。
「結論が出てないのに」
「今日はもう諦めました」
「なにを?」
「結論を出すことを」
「はぁ」
そして、芽衣ちゃんは立ち上がる。
「ちょっと待って」
「はい」
「僕の扱いはどうなるんだろう?」
「保留」
さっさと歩き出した。慌てて立って横に並ぶ。
「その保留は……」
電話をかけてもメッセージを送っても完無視される保留ですか?
「なに?」
「いや、なんでも」
ここは聞くだけ損だなと思った。聞けば、何かしらの制限を芽衣は考えて口に出す。そんなことはしないに限る。そして、僕は手を伸ばした。芽衣は、僕を振り向いた。その目は三角に吊り上がってはなかったけど、ニコニコ笑ってるわけでもない。
「だんだん図々しくなる」
僕はただ笑って芽衣の横に立っていた。芽衣の手を取りながら。
「トシ君と手を繋ぐのはやです」
「そっか」
「そう言われてなんで離さないんですか」
「いや、次、いつ会ってもらえるかわからないし」
「……」
「ちなみになんでやなのか聞いてもいい?」
「トシ君とこんなことしてるのを誰かに見られたら、ややこしいからです」
「そればっかじゃん」
ため息が出た。いつになったらこの制限、なくなるんだろうか。俺にどうにかできることじゃないと思うんだけど。
「また、こんな顔に生まれるんじゃなかったなんて暴言を吐くんじゃないでしょうね?」
「僕の発言を先読みして言うのはやめてくれないかな?」
「図々しい、こんな人だと思わなかった」
「ね、あそこまで、あそこまで行ったら離すから」
僕は、お城跡の出入り口の方を指差した。
「ほら、勉強しないと。テストだし、行こう」
そして、芽衣の手を引っ張る。近くに制服姿の人がいないかとビクビクしながら、僕の傍で芽衣は縮こまってた。
*11 子犬のワルツ
ワルツ第6番変ニ長調作品64−1は、フレデリック・ショパンが作曲したピアノ独奏のためのワルツで、晩年の1846年から1848年にかけての作品である。デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人に捧げられたこの曲は『子犬のワルツ』の通称で知られている。
(Wikipedia参照)
1846年というと日本は江戸末期ですね。ペリーが浦賀に来航して、それを受け入れたのが1853年ですが、この1846年にもビッドルが浦賀に来航して通称を要求し、断っているのだと。結構昔の人なんだな、ショパン。( ; ˙꒳˙ )よく分かってなかったぞ。
*12 雨にも負けず
宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモである。一般には詩として受容されている。この詩について肯定と否定の立場から論争が起きている。(Wikipedia参照)