其蛇將咋(そのへびくはむとなせば)
次の日も、治一は、竹林の同じ場所に足が向いてしまった。
やはり、昨日と同じ場所に、早佐が居た。
今日は、藤色の小紋を着ていた。
光が当たると、地模様が光って、何かの花模様が入っているのが分かる。
淡い藤色から、裾に行くにつれて濃い紫のグラデーションになっていく。
其の肩口の藤色の淡さが、早佐の顔の辺りの印象を柔らかく見せていた。
治一は、今日はもう、理佐と早佐が似ているとは、微塵も思わなかった。
早佐は、治一と目が合うと、頬を染めて俯いた。
今更、こうも恥らわれると、治一は、如何したらいいのか分からなくなった。
何故、今日も此処に来てしまったのだろうかと、治一は自問したが、分からなかった。
早佐は俯いた儘、踵を返して、屋敷の中に戻ろうとした。後姿から、儚げな雰囲気が立ち上っていて、治一は、何故だか、胸が締め付けられる様な気持ちになった。
治一は、思わず手を伸ばして、早佐の肩を掴んでいた。
早佐は、びくりと肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら、恐る恐る振り返った。
何か言わなければならないと思ったのだが、早佐の真っ赤な顔を見たら、治一は、何も言葉が出なくなってしまった。
結局、早佐の肩に置いた手を離した。
指に、早佐の髪が、さらりと触れた。
あんな事の後なのに、肩に触れただけで、こんなにも恥ずかしいのは、治一は、自分でも不思議だった。
此れまで、こんな気持ちになった事は無かった。
見詰め合っても、結局言葉は出ずに、早佐は、ゆっくりと部屋に戻って行った。
治一は、ゆっくりと竹林の中を歩いた。
治一は此のところ、理佐の事を思い出す時間が減っていた。
理由は、何と無く分かっていて、そして、そんな自分を、治一は嫌悪した。
次の日も、同じ場所に、治一と早佐は居た。
あの日着ていた朱華色の小紋を着た早佐は、治一を見て、ぎこちなく微笑んで、言った。
「御茶でも如何ですか。聞いて頂きたい御話も有りますし」
治一は、意外に思いながらも、早佐の後について、部屋の中に入った。
今日は、布団は敷かれていなかった。
何と無く、治一はホッとした。
早佐が自室のポットで煎れて出された茶は熱く、美味かった。
「…治様を、姉の友人と見込んで御話が有るのですが。姉の死因について、如何思われますか?」
早佐は、言い難そうにそう言って、手にした湯呑の中をじっと見詰めた。
「噂では、自殺とか」
治一は、自分で言って、苦々しい気持ちになってしまった。
嫌な事を思い出したと思った。
「其れなのですが。私には、其れが納得いかないのです」
早佐は、決心した様に、畳に湯呑を置いて、そう言った。
「私は、姉が御産の時、会いに行かせてもらっていたのです。御産を済ませた後の姉は、幸せそのものの様に見えました。其の姉が、あんな小さい息子を置いて、自ら死を選ぶとは、私には信じられません。…産後は、気持ちが不安定になるとは聞き及んでおりますが…」
やけにキッパリと、そう言う早佐を、治一は、驚きの目で見た。
そう言われると、其の言葉は、すんなり、治一の頭に入ってくるのであった。
そう、何か、納得のいかない苦しい思いを自分は抱えていた。
何と無く、治一は、其の疑問の解決の糸口を探り当てた気がした。
早佐は続ける。
「私は、実は姉が亡くなった現場というのを見せてもらったのです。鴨居には縄がついていて…でも、如何見ても、あれは…」
「…首吊りか?」
「…実方の家の方々は、そう思っている様子ですが。私には、そうは思えませんでした」
「如何いう事だ?」
「鴨居の下が、妙に綺麗だった、というのも気になりますが…少し太めの縄が、妙に上手く、鴨居に結ばれていたのです。私の力では、とても、上手く結ぶ事など出来そうにありません。勿論、私は姉より、きっと非力ですけれど。其れでも、女性の力ですから、もっと細い紐ですとか帯締めですとか、他にも有りそうなものを、あんな、立派な縄を用意して、あんなに高い位置に、綺麗に結べるものなのでしょうか。太さは、そうですね、此のくらいでしょうか」
早佐は、右手の人差し指と親指で、直径三センチ弱程の円を作った。
「あんな縄、何処に有ったのだろうかと、少し訝しんでいたのですが。最近、気付いてしまったのです。あれは、うちの廟で、喪服を仕舞う大きな行李の封印に使っていた物です。姉の葬儀の準備の為に入った時、確認したら、一つ、無くなっていましたから」
早佐は、震えを堪えるかの様に、自身の両腕を抱いた。
瀬原本家は、家の中に、歴代の当主の遺骨を納める廟が在ると聞くが、其処の事であろう。
「其れは…」
「はい。此処に其の縄は有りませんし、証拠も有りません。姉が、うちの廟から態々持ち出したのかもしれませんし。疑ってしまえば、限が無いのですが。でも、うちの廟に入れる人間なんて、限られているとは思いませんか?私には、瀬原の家の人間の誰かが、姉を、自殺に見せかけて殺したとしか思えませんでした。此の集落に、未練が有るとすれば其れです。出来たら、本当の事が知りたいものですが」
治一は、急に恐ろしくなった。
「…警察には?」
「此の集落は、ソトにとっては禁忌の里ですよ。ろくに調べられもしなかった様子です。だから、自殺で処理されたのではないですか?」
そう、此の集落は、要人の機密を握っている。
ソトの仕事に起因しているのだが、其の為、此の集落自体が、社会自体から、ほぼ切り離されている。
住民に、集落の外に出る事を制限している代りに、外部からの介入も制限されている。
警察が本当に調べに来たのか如何かさえ、よく分からない。
「長を疑っているのか?」
「…おかしいでしょうか。」
「いや、御嬢様がそう思っているのであれば、あの怯え様は理解出来る」
治一が、早佐を揶揄する為に呼び始めた『御嬢様』という呼称だったが、今になってみると、妙に早佐に馴染んでいる。
本人も、呼ばれ慣れている呼称なのだろう、あまり嫌そうな顔はしない。
「本当は、其れだけではないのですが。」
「え?」
「…此の話は、流石に信じてはもらえないでしょう。自意識過剰だと言われても仕方がありません」
「信じるか如何かは俺が決める。信じられない時は、信じないよ」
早佐は、急に吹き出した。
「何が可笑しい」
「いいえ、すみません。御話します。そうですね、信じてくださらなくても、一向に構いません」
そう言って、早佐はクスクス笑った。
治は態と渋面を作った。
早佐に対しては何故か、他の人間に対する様な普通の態度が取れず、普段より口調が少しキツくなっているのが、治一は、自分でも分かっていた。
早佐はさぞ、自分の事を、愛想の無い人間だと思っている事だろうと思った。
「兄と一緒に居ると、何というか、貞操の危機を感じる事が有るのです」
そう言う早佐からは、先程の笑みが消えていた。
「触られると、ぞっとします。見られていると、何だか、嫌な気持ちになるのです。そして、兄は私を、屋敷の外に出そうとはしません。其れは確かに、私は、病弱だからという建前がありましたが。もし姉も、私の様な体質だったら、兄は、家から出したがらなかったのではないかと思うのです。あの、兄の目」
「目?」
「姉を見る目です。あの目を見ると、私は何も言えなくなったものです。よく、あの人が、姉を実方家に嫁がせたものだと思う程、兄の姉を見る目は、何というか、異常でした」
「異常?」
「恋人というか…いえ、もっと、粘っこい視線でした。執着の塊の様な目です」
早佐は、其処まで言うと、一つ、大きな深呼吸をした。
「姉が嫁いだ後、其の視線は、私に向けられる様になりました。私は、恐ろしくて堪りませんでした。実の兄に貞操を奪われるくらいなら」
早佐は震え出した。
其の先の言葉が出てこない様だった。
「…ああ、其れで」
俺と、という言葉を、治一は飲み込んだ。
「はい。自分で決めた事ですから、後悔は有りません」
何故か、其の話を聞いた治一は豪く傷付いていた。
一体、早佐のどんな言葉を期待していたのかと、自分が滑稽に思えるくらいだった。
「…兄でなければ、誰でも良かったのか?」
「如何受け取られても構いません」
早佐はキッパリと、そう言った。
「此処から出られない人間の細やかな抵抗です。兄に何もされないのだとしても、此の儘、よく知らない人に嫁ぐのは嫌でした」
「ああ、一つぐらいは」
「ええ、自分で決めたかったのです」
「其れで良かったのか?」
「ええ。私は、そう思います。ソトに出られる方に、理解してもらおうとも思いません。此の行動が、善悪の何方なのかは、私には分かりません。けれど、私は、此れで望みが叶ったのです」
「そうか」
二人はまた、見詰め合った。
早佐は、人間と、病の闇を覗き続けてきた様な、諦観しきった、けれど強い目をしていた。
治一は未だ、傷付いた気分から立ち直れていなかった。
治一は、そっと、早佐の頬に触れた。
―誰でも良かったのか。
自分に触られるのは、嫌ではないのだろうか、と、治一は思った。嫌なのなら、もう、せめて、困った顔をしてほしいな気がした。
早佐の頬は、また、みるみる、赤く染まっていった。
治一の手に伝わる其の体温は、急に暖かくなった。
結局また、こうなってしまった。
―…今回は布団も無かったのに。
治一は、脱ぎ散らかした白装束を自分の方に引き寄せた。
畳は、汗ともつかない何かで濡れてしまっていて、所々に、薄赤い部分があった。
幸い、湯呑は倒れていなかった。
治一は、また自己嫌悪に陥りながら、懐紙で畳の染みを叩いた。
多少は薄赤い色が落ちたので、ホッととした。
治一は、あの高価そうな小紋を汚さなかっただけマシだと思うことにした。
早佐は、また、俯せに寝て、頬杖をつきながら、何かを考え込んでいる様な顔をしていた。
早佐は、背中に、畳の跡がついてしまっていた。
裸身の其の跡の上に、長い髪が、艶やかに纏わりついている。
「御嬢様、嫌じゃないのか」
「教えません」
早佐の声は、キッパリとしていて、つれなかった。
治一の方を見ようともしない。
治一が、小憎らしい奴だと思って相手を見ていたら、早佐は、裾避けと肌襦袢を引き寄せて立ち上がり、治一に背を向けて、サッサと身支度に取り掛かりだした。
治一は、こん畜生と思いながらも、其の儘、無言で身支度を整え、また、瀬原家の屋敷を後にした。
其れにしても、恐ろしい話を聞いてしまったものだ、と、治一は思った。
早佐も、よく自分など話したものだと思った。
―少しは信頼されてるのかな。
否、此方は長の妹に手を出したという弱みを握られている様なものであるし、他言する勇気も無い人間なのだと思われているのかも知れないが。
治一は、自室で寝転がりながら、早佐に聞いた話を反芻してみた。
―長が、理佐の死に関わってる?そんな、まさか。何の証拠も無いのに。
しかし、早佐の話には、妙な説得力が有った。
少なくとも、彼女は、自分の兄を疑っているのだ。