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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第一章 竹林
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其蛇將咋(そのへびくはむとなせば)

 次の日も、治一は、竹林の同じ場所に足が向いてしまった。


 やはり、昨日と同じ場所に、早佐が居た。


 今日は、藤色の小紋を着ていた。

 光が当たると、地模様が光って、何かの花模様が入っているのが分かる。


 淡い藤色から、裾に行くにつれて濃い紫のグラデーションになっていく。

 其の肩口の藤色の淡さが、早佐の顔の辺りの印象を柔らかく見せていた。


 治一は、今日はもう、理佐と早佐が似ているとは、微塵も思わなかった。


 早佐は、治一と目が合うと、頬を染めて俯いた。


 今更、こうも恥らわれると、治一は、如何(どう)したらいいのか分からなくなった。


 何故、今日も此処に来てしまったのだろうかと、治一は自問したが、分からなかった。


 早佐は俯いた(まま)(きびす)を返して、屋敷の中に戻ろうとした。後姿から、儚げな雰囲気が立ち上っていて、治一は、何故だか、胸が締め付けられる(よう)な気持ちになった。


 治一は、思わず手を伸ばして、早佐の肩を掴んでいた。

 早佐は、びくりと肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら、恐る恐る振り返った。


 何か言わなければならないと思ったのだが、早佐の真っ赤な顔を見たら、治一は、何も言葉が出なくなってしまった。


 結局、早佐の肩に置いた手を離した。

 指に、早佐の髪が、さらりと触れた。


 あんな事の後なのに、肩に触れただけで、こんなにも恥ずかしいのは、治一は、自分でも不思議だった。


 此れまで、こんな気持ちになった事は無かった。


 見詰め合っても、結局言葉は出ずに、早佐は、ゆっくりと部屋に戻って行った。


 治一は、ゆっくりと竹林の中を歩いた。

 治一は此のところ、理佐の事を思い出す時間が減っていた。


 理由は、何と無く分かっていて、そして、そんな自分を、治一は嫌悪した。




 次の日も、同じ場所に、治一と早佐は居た。


 あの日着ていた朱華色(はねずいろ)の小紋を着た早佐は、治一を見て、ぎこちなく微笑んで、言った。


「御茶でも如何(いかが)ですか。聞いて頂きたい御話も有りますし」


 治一は、意外に思いながらも、早佐の後について、部屋の中に入った。


 今日は、布団は敷かれていなかった。

 何と無く、治一はホッとした。


 早佐が自室のポットで煎れて出された茶は熱く、美味かった。


「…(はる)様を、姉の友人と見込んで御話が有るのですが。姉の死因について、如何(どう)思われますか?」


 早佐は、言い(にく)そうにそう言って、手にした湯呑の中をじっと見詰めた。


「噂では、自殺とか」


 治一は、自分で言って、苦々しい気持ちになってしまった。

 嫌な事を思い出したと思った。


「其れなのですが。私には、其れが納得いかないのです」


 早佐は、決心した(よう)に、畳に湯呑を置いて、そう言った。


「私は、姉が御産の時、会いに行かせてもらっていたのです。御産を済ませた後の姉は、幸せそのものの(よう)に見えました。其の姉が、あんな小さい息子を置いて、自ら死を選ぶとは、私には信じられません。…産後は、気持ちが不安定になるとは聞き及んでおりますが…」


 やけにキッパリと、そう言う早佐を、治一は、驚きの目で見た。


 そう言われると、其の言葉は、すんなり、治一の頭に入ってくるのであった。


 そう、何か、納得のいかない苦しい思いを自分は抱えていた。


 何と無く、治一は、其の疑問の解決の糸口を探り当てた気がした。


 早佐は続ける。


「私は、実は姉が亡くなった現場というのを見せてもらったのです。鴨居には縄がついていて…でも、如何(どう)見ても、あれは…」


「…首吊りか?」


「…実方の家の方々は、そう思っている様子ですが。私には、そうは思えませんでした」


如何(どう)いう事だ?」


「鴨居の下が、妙に綺麗だった、というのも気になりますが…少し太めの縄が、妙に上手く、鴨居に結ばれていたのです。私の力では、とても、上手く結ぶ事など出来そうにありません。勿論、私は姉より、きっと非力ですけれど。其れでも、女性の力ですから、もっと細い紐ですとか帯締めですとか、他にも有りそうなものを、あんな、立派な縄を用意して、あんなに高い位置に、綺麗に結べるものなのでしょうか。太さは、そうですね、此のくらいでしょうか」


 早佐は、右手の人差し指と親指で、直径三センチ弱程の(えん)を作った。


「あんな縄、何処に有ったのだろうかと、少し(いぶか)しんでいたのですが。最近、気付いてしまったのです。あれは、うちの(びょう)で、喪服を仕舞う大きな行李(こうり)の封印に使っていた物です。姉の葬儀の準備の為に入った時、確認したら、一つ、無くなっていましたから」


 早佐は、震えを堪えるかの(よう)に、自身の両腕を抱いた。

 瀬原(せばる)本家は、家の中に、歴代の当主の遺骨を納める(びょう)が在ると聞くが、其処の事であろう。


「其れは…」


「はい。此処に其の縄は有りませんし、証拠も有りません。姉が、うちの(びょう)から態々(わざわざ)持ち出したのかもしれませんし。疑ってしまえば、(きり)が無いのですが。でも、うちの(びょう)に入れる人間なんて、限られているとは思いませんか?私には、瀬原(せばる)の家の人間の誰かが、姉を、自殺に見せかけて殺したとしか思えませんでした。此の集落に、未練が有るとすれば其れです。出来たら、本当の事が知りたいものですが」


 治一は、急に恐ろしくなった。

「…警察には?」


「此の集落は、ソトにとっては禁忌の里ですよ。ろくに調べられもしなかった様子です。だから、自殺で処理されたのではないですか?」


 そう、此の集落は、要人の機密を握っている。

 ソトの仕事に起因しているのだが、其の為、此の集落自体が、社会自体から、ほぼ切り離されている。


 住民に、集落の外に出る事を制限している代りに、外部からの介入も制限されている。


 警察が本当に調べに来たのか如何(どう)かさえ、よく分からない。


(おさ)を疑っているのか?」

「…おかしいでしょうか。」


「いや、御嬢様(オゴイサァ)がそう思っているのであれば、あの怯え(よう)は理解出来る」


 治一が、早佐を揶揄(やゆ)する為に呼び始めた『御嬢様(オゴイサァ)』という呼称だったが、今になってみると、妙に早佐に馴染んでいる。

 本人も、呼ばれ慣れている呼称なのだろう、あまり嫌そうな顔はしない。


「本当は、其れだけではないのですが。」

「え?」


「…此の話は、流石に信じてはもらえないでしょう。自意識過剰だと言われても仕方がありません」


「信じるか如何(どう)かは俺が決める。信じられない時は、信じないよ」


 早佐は、急に吹き出した。


「何が可笑しい」


「いいえ、すみません。御話します。そうですね、信じてくださらなくても、一向に構いません」


 そう言って、早佐はクスクス笑った。

 治は(わざ)渋面(じゅうめん)を作った。


 早佐に対しては何故か、他の人間に対する様な普通の態度が取れず、普段より口調が少しキツくなっているのが、治一は、自分でも分かっていた。

 早佐はさぞ、自分の事を、愛想の無い人間だと思っている事だろうと思った。




「兄と一緒に居ると、何というか、貞操の危機を感じる事が有るのです」

 そう言う早佐からは、先程の笑みが消えていた。


「触られると、ぞっとします。見られていると、何だか、嫌な気持ちになるのです。そして、兄は私を、屋敷の外に出そうとはしません。其れは確かに、私は、病弱だからという建前がありましたが。もし姉も、私の(よう)な体質だったら、兄は、家から出したがらなかったのではないかと思うのです。あの、兄の目」


「目?」


「姉を見る目です。あの目を見ると、私は何も言えなくなったものです。よく、あの人が、姉を実方家に嫁がせたものだと思う程、兄の姉を見る目は、何というか、異常でした」


「異常?」


「恋人というか…いえ、もっと、粘っこい視線でした。執着の塊の(よう)な目です」


 早佐は、其処まで言うと、一つ、大きな深呼吸をした。


「姉が嫁いだ後、其の視線は、私に向けられる(よう)になりました。私は、恐ろしくて堪りませんでした。実の兄に貞操を奪われるくらいなら」


 早佐は震え出した。

 其の先の言葉が出てこない(よう)だった。


「…ああ、其れで」

 俺と、という言葉を、治一は飲み込んだ。


「はい。自分で決めた事ですから、後悔は有りません」


 何故か、其の話を聞いた治一は(えら)く傷付いていた。

 一体、早佐のどんな言葉を期待していたのかと、自分が滑稽に思えるくらいだった。


「…兄でなければ、誰でも良かったのか?」


如何(どう)受け取られても構いません」

 早佐はキッパリと、そう言った。

「此処から出られない人間の(ささ)やかな抵抗です。兄に何もされないのだとしても、此の(まま)、よく知らない人に嫁ぐのは嫌でした」


「ああ、一つぐらいは」

「ええ、自分で決めたかったのです」


「其れで良かったのか?」


「ええ。私は、そう思います。ソトに出られる方に、理解してもらおうとも思いません。此の行動が、善悪の何方(どちら)なのかは、私には分かりません。けれど、私は、此れで望みが叶ったのです」


「そうか」


 二人はまた、見詰め合った。


 早佐は、人間と、病の闇を覗き続けてきた(よう)な、諦観しきった、けれど強い目をしていた。


 治一は()だ、傷付いた気分から立ち直れていなかった。


 治一は、そっと、早佐の頬に触れた。


―誰でも良かったのか。


 自分に触られるのは、嫌ではないのだろうか、と、治一は思った。嫌なのなら、もう、せめて、困った顔をしてほしいな気がした。


 早佐の頬は、また、みるみる、赤く染まっていった。

 治一の手に伝わる其の体温は、急に暖かくなった。




 結局また、こうなってしまった。


―…今回は布団も無かったのに。


 治一は、脱ぎ散らかした白装束を自分の方に引き寄せた。


 畳は、汗ともつかない何かで濡れてしまっていて、所々に、薄赤い部分があった。


 幸い、湯呑は倒れていなかった。


 治一は、また自己嫌悪に陥りながら、懐紙で畳の染みを叩いた。

 多少は薄赤い色が落ちたので、ホッととした。

 治一は、あの高価そうな小紋を汚さなかっただけマシだと思うことにした。


 早佐は、また、俯せに寝て、頬杖をつきながら、何かを考え込んでいる(よう)な顔をしていた。


 早佐は、背中に、畳の跡がついてしまっていた。

 裸身の其の跡の上に、長い髪が、艶やかに纏わりついている。


御嬢様(オゴイサァ)、嫌じゃないのか」


「教えません」


 早佐の声は、キッパリとしていて、つれなかった。

 治一の方を見ようともしない。


 治一が、小憎らしい奴だと思って相手を見ていたら、早佐は、裾避けと肌襦袢を引き寄せて立ち上がり、治一に背を向けて、サッサと身支度に取り掛かりだした。


 治一は、こん畜生と思いながらも、其の(まま)、無言で身支度を整え、また、瀬原(せばる)家の屋敷を後にした。




 其れにしても、恐ろしい話を聞いてしまったものだ、と、治一は思った。

 早佐も、よく自分など話したものだと思った。


―少しは信頼されてるのかな。


 否、此方(こちら)(おさ)の妹に手を出したという弱みを握られている(よう)なものであるし、他言する勇気も無い人間なのだと思われているのかも知れないが。




 治一は、自室で寝転がりながら、早佐に聞いた話を反芻してみた。


(おさ)が、理佐の死に関わってる?そんな、まさか。何の証拠も無いのに。


 しかし、早佐の話には、妙な説得力が有った。


 少なくとも、彼女は、自分の兄を疑っているのだ。


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