出見(いでみて)
間の悪い事に、ソトでも仕事は暫く無かった。
煩悶する事にも疲れて、治一はまた、竹林に向かった。
竹林を歩き、昨日早佐に出会った辺りに来て、明るい方を、そっと見遣った。
瀬原家の屋敷が見える。
ふらふらと屋敷の裏庭の傍まで近寄ると、何と其処には早佐が居た。
驚いた様に目を見開いている早佐と、目が合った。
藍色の小紋には豪華な扇の模様が幾つも有り、小紋だが、金糸が織り込まれていた。銀糸の織り込まれた袋帯には扇の柄の刺繍が施されていて、此れもまた、豪華だった。確かに振袖では無いが、普段着に相当するものを持ち合わせていないというのは本当なのだろう。
「…御嬢様、今日の御召し物も、山登り向きじゃないな」
治一は、不貞腐れた顔をしながら、精一杯の皮肉を言った。
「そうですね」
竹林の方まで近寄ってきた早佐は、ふふ、と寂しげに笑った。
「…こんな所に居るとは思わなかった」
「あら、此処は私の家ですよ。治様こそ、もういらっしゃらないかと思っていました」
此れには、治一は返事が出来なかった。
涼しい秋風の吹く竹林からの木洩れ日が、柔らかに早佐を照らした。
早佐は、何か、憑き物が落ちたかの様な、穏やか顔をしていた。
「もう、此処から出られなくてもいいのです。此れから起こる事を、私は受け入れます」
風が、サラサラと、爽やかに早佐の髪を撫でた。
諦観とか達観とか表現すべき何かが、竹の葉擦れの音と共に早佐を包んでいた。
治一は一人で、悔しかった。
全く、本当に、あんな事があったのに、早佐は、治一を置いて、勝手に自己完結してしまったのだった。
酷い女だと思った。
早佐には、治一の存在が、あまりにも関係が無い様に見えた。
誘われた治一ばかりが、湿って粘り気の有る煩悶の闇に絡め取られていて、誘った方の女は、爽やかな竹林からの風の渡る、明るい場所に居る。
竹に隔てられて、竹林と瀬原本家の裏庭で、まるで世界は、明と暗に分けられてしまったかの様だった。
明るい場所に立つ早佐は美しかった。
腹立ち紛れに、治一は、首だけ伸ばして、自分の唇で、早佐の唇を塞いだ。
自分でも思いがけない行動だった。
しかし、次に起こった事は、もっと思いがけない事だった。
早佐は真っ赤になって、走って、自分の部屋の中に入って行ってしまった。
窓は、ぴしゃりと閉ざされた。
屋敷の中から、微かに、早佐の咳き込む声が聞こえた。
治一も、自分の仕出かした事に気付いて、頬が染まるのが分かった。
治一は、其の儘、夢中で、竹林の中の崖を駆け上がった。
かなり駆け上がったところで、竹が途中、途切れている空間があった。
立ち入り禁止区域だった。
此処より先は、集落の禁足地だった。
治一は、其の場に座り込んだ。
動悸が激しいのは、走ったせいだけではなかった。
―俺は何をやってんだ?
竹林を渡る秋風が、ゆっくりと、治一の汗ばんだ体を冷やした。