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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第一章 竹林
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爲目合而(まぐはひして)

 ソトに出たい、と、早佐は言った。


 治一は、我が耳の(たが)いかと思った。


「何でまた。だから、あんな所に?」

「姉が言っていたのです。竹林から、ソトに抜ける道が存在する、と」


 其れを理佐に言ったのは、治一だった。


 治一は焦って、誤魔化す(よう)に言った。


()(ばる)本家の御嬢様(オゴイサァ)。冗談言っちゃいけない。兵糧の備えも無しに、手ぶらで。第一、あそこは凄い崖地だ。そんな軽装、まして、小紋なんかで登れない」


「…此れしか、自分で着られる(よう)な服が無かったのです。後は寝巻か振袖。私は、滅多な事では屋敷から出してもらえませんから。其れでも、髪くらいは結わえるべきだったかしら。そうね、食べ物も。確かに、用意が足りませんでした。軽率でしたね」


 早佐は、拗ねた(よう)に、そう言った。

 見れば、先程脱がせた草履も、細工の豪華な余所(よそ)行きである。


―部屋着か余所行きしか与えられていない、ってのは、確かに…。何か、異常な感じはするな。


「…何でまた、そんなにソトに行きたいのか、聞いても?」


「…姉が亡くなったので。もう、此の瀬原集落(せばるしゅうらく)に未練が無いのです」


 早佐は、そう言うと、また目を伏せた。


 早佐の言葉は、ぐさりと、治一の心を抉った。

 自分の心を読まれている気分になった。


「私には、姉だけでしたから。屋敷を出してもらえない私にとっては、姉が、此の集落の全てでした。其の姉も死んでしまって、死因すら分かりません。甥の(りゅう)にすら、(ほとん)ど会わせてはもらえません。もう、此処に居るのは嫌なのです」


 早佐の語る言葉の一つ一つが、治一には突き刺さる(よう)に痛かった。

 しかし、彼女が恐ろしい事を言っているのだけは分かった。


御嬢様(オゴイサァ)。此の里では、(おさ)は絶対だ。あの人が駄目だと言っている限り、其れは叶わない。其れは分かってるんだろ」


「だからコッソリ竹林から抜け出そうとしたのですよ。いいから、協力してください」

「…何を言って…」


 早佐は、また強い目をした。


―不味い。此の女は良くない。


 しかし治一は、早佐に抗えない自分に気付いていた。


「最初に申しましたでしょう。聞いた以上は、協力して頂きます。貴方(あなた)、ソトに御仕事に行かれる事が有るでしょう。出る方法は御存じの(はず)。其れに、(はる)様は、坂元本家の方でしょう。本家の娘の一人くらい、逃がしてくださりませんの?」


 其の言い方に、治一は、ぎくりとした。


 坂元本家には、昔、(よし)という女性が居たのだが、其の女性は婚礼の日の後、急に婚約者と一緒に駆け落ちした。


 其れは、集落を形成する五つの家の、本家の血筋の人間が、此の集落を出た最初の一人になってしまった。


 集落の中で、(よし)は裏切り者扱いを受け、坂元家の集落での立場は、思わしくないものとなった。


「…だからこそ、だよ。出るのが、そして、出た後が、どれだけ大変か。ソトに出たいだなんて、馬鹿を言っちゃいけない。そんな体で」


「そうですか、協力をお願いして、ソトに出してもらえないかと思ったのですが」

 早佐は、まるで動じていない様な目をして、追い打ちを掛ける(よう)に、そう言った。


―ああ、嫌だ。


 先刻(さっき)から、早佐が自分に強い態度に出る度に、理佐の顔がちらつくのである。


 ソトの女達はいい。理佐にまるで似ていない。


 でも、早佐は、ちっとも理佐に似ていない(はず)なのに、時折、理佐を思い出させるのだ。


 あの髪がいけないのだろうか。此の白い肌がいけないのだろうか。


 深く考えようとするとすればする程、治一は混乱した。


「…何で、そんなに急ぐんだ」


「来年の正月には、私の婚姻の儀が執り行われる(よう)なのです。其れまでには、集落を出たかったのです。如何(どう)しても御協力頂けないのですか」


「…悪いけど」


 其れが、どれ程の危険を伴うか。


 此の集落を出るのは命懸けだ。

 大正末に夫と出奔した(よし)とて、戦争やなにやらが重なり、有耶無耶(うやむや)になっているが、今でも、集落では、口さがなく言われているのだ。

 大正より、遥かに自動車や交通網が発達した、此の平成という時代に、如何(どう)やって逃げ(おお)せようと言うのだ。


 早佐の事は気の毒だと思うが、治一は、とても協力する事は出来ない。


「…そうですか」

 そう言うと、早佐は、治一の目を見詰めた。


 其の目に、何か、熱っぽいものを感じて、治一は、たじろいだ。


―いけない。此れは、良くない。


 布団の(かたわ)らに座っていた治一は、立ち上がって去ろうとした。


 其の手を、早佐が掴んだ。


 細い指は、少し湿っていて、ひんやりとしていた。

 治一の肌に、吸い付く(よう)だった。


 思わず、治一は座り込んだ。


 其の(まま)、早佐は、治一の腕を引いた。


 早佐が、治の胸に(もた)れ掛かった。

 小紋から、甘い、白梅の香りがした。


 治一は、(とろ)ける(よう)な気分になった。


 早佐を抱き寄せる。


 美しい髪が、長く、うねる(よう)に布団に広がっているのが見えた。


 治一は、早佐の髪に、耳の下から両手の指を突っ込んで掻き回し、頭を掴んだ。


 其れは、理佐の美しい髪に、してみたかった事だった。


 其れから治一は、(むさぼ)(よう)に早佐の唇を吸った。




「…御嬢様(オゴイサァ)(なん)で、こんな事を?」


 治一は、脱ぎ散らかした白装束を自分の方に引き寄せ、敷き布団の上に胡座を掻いた。

 (かたわ)らには、赤黒い血が付いている。


 早佐は、何か考え込んでいる(よう)な顔をして、枕元の水差しを眺めていた。


 布団に俯せに寝て、頬杖をつく早佐の髪が、彼女の白い裸身に(まと)わりついていた。


 思ったよりも、早佐の肉置きは良く、体付きだけ見ていると、彼女の年齢を忘れる程だった。


 早佐も、自分の脱いだ着物を自分に引き寄せた。

 彼方(あち)此方(こち)に、帯締めや肌襦袢が散らかっている。


「特に意味は無いです」


 治一は、腹が立ってきた。

 理性の効かなかった自分にも、自分を誘う(よう)な事をした早佐にも。


 重罪である。


 あと三ヶ月もしないうちに婚姻の儀を控えた、本家の娘、しかも、(おさ)の妹に手を出した。


 治一は、額に手を当てた。

 (おさ)に知れたら、八つ裂きにされても文句は言えないだろう。


「意味がなくて、こんな事を?」


貴方(あなた)は、意味が無くても、こんな事が出来る人だと思いましたから。ソトで、随分遊んでいらっしゃるのでは?」


 治一は、黙るしかなかった。


 早佐は、裸身の(まま)敷布団に正座に座り直し、急に、俯いて、ボロボロと泣き出した。


 治一は、心底慌てた。


「…だって、私はもう、此処から出られないのでしょう?せめて(あらが)わせてください。一つくらい、自分の事を、自分で決めても良いでしょう?自分の持ち物の事くらい。私が持っている物の使い方くらいは。此処を一人で抜け出せる程、物も知らない、体力も無い。私は、此の、丈夫ではない体くらいしか、自分の物を持っていないのだから」


 治一は、早佐の肩を抱きながら、自己嫌悪の溜息をついた。

 早佐の(なめ)らかな肌に、治一の指が食い込む。

 (あらが)いがたい柔らかさだった。

 白い、美しい裸身である。


 例え、同じ時が何回やってきても、結果は同じだと思った。


 あの時の(よう)に、早佐に腕を掴まれれば、きっと自分は早佐を拒むまい。

 重罪だと分かっていても。

 残念ながら、自分は、そういう、理性に掛けた人間なのだ。


「私は、私は兄が怖いのです」

 早佐は泣き続けた。


 治一とて、(おさ)に此の事が知れるのは怖い。

 何を言っているのだろう、と思った。


(おさ)が怖いのは皆、同じだろ。なら、如何(どう)して、こんな事を?」


「いいえ、分かってはもらえないでしょう。怖かった、兄が。怖いのです」


 早佐は泣きながらも、決して、治一に(すが)りつこうとはしなかった。


 治一は、其の(まま)、無言で身支度を整え、瀬原(せばる)家の屋敷を後にした。

 我ながら卑怯だとは思いながら。




 古くて広い、御手伝いも雇うのをやめてしまって久しい坂元本家の中二階で、一人、食事も喉を通らず、治一は煩悶し続けていた。

 家族が死に絶えてからは治一の一人暮らしだが、立派な、古風な民家で、座敷も多く、囲炉裏も残っているのだが、平屋なのに、養蚕を遣っていたとかいう中二階が有って、薄暗い。其の暗さが気に入って、昔から、其処に布団を敷いて寝室にしているのだが、今日は、其の、体に(まと)わり付いてくる闇も何もかもが、湿度と粘度を持っている(よう)に感じて、治一は気詰まりだった。


―あの(まま)、戻ってきてしまって良かったか?此の事が他人に知れたら、如何(どう)したらいい?あれで良かったのか?いいや、良い(はず)は無い。重罪を犯した事実に変わりはない。


 混乱する頭は、隙を見て、今日の秘め事を反芻した。


 治一は、増々自己嫌悪に陥った。


貴方(あなた)は、意味が無くてもこんな事が出来る人だと思いましたから。ソトで、随分遊んでいらっしゃるのでは?』


 頭の中で、早佐の声が繰り返し響いた。

 畳の上に仰向けに寝て、目を閉じる。

 両手で目を覆った。

 声は止まなかった。


 誰彼(だれかれ)構わず相手にする(よう)な人間だと思ったから治一を選んだと、ハッキリ言われた。


 図星だっただけに、其の言葉に、治一は傷付いた。我ながら矛盾しているとは思ったが。


 別に自分は、聖人君子の心算(つもり)は無い。ソトで女と関係を持っていたのは事実だ。でも、自分は、心の何処かで其れを正当化しようとしていたのだろう、と思った。

 どの女も、理佐の代わりに抱いていたのだろう。


 多分、早佐の事も。


 貴方(あなた)は、意味が無くてもこんな事が出来る人だ。だから、選んだ。

 頭の中で響く声は、止まない。


 好き勝手にソトで関係を持っていたのに、自分が同じ(よう)に扱われると傷付くのは、何故なのだろうか。


―やっぱり、良くない女だった。そんな気はしてたのに。


 八月の半ばに十六になったばかりの、三つも年下の女に、まんまと引っ掛かったのだ。


 其れでも治一は、泣いている早佐を其の(まま)置いてきてしまった事に、拭い去れない罪悪感を持った。


 其の日は結局答えが出ない(まま)、外が白んでしまった。


 鳥の声が(うるさ)いくらいだった。


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