爲目合而(まぐはひして)
ソトに出たい、と、早佐は言った。
治一は、我が耳の違いかと思った。
「何でまた。だから、あんな所に?」
「姉が言っていたのです。竹林から、ソトに抜ける道が存在する、と」
其れを理佐に言ったのは、治一だった。
治一は焦って、誤魔化す様に言った。
「瀬原本家の御嬢様。冗談言っちゃいけない。兵糧の備えも無しに、手ぶらで。第一、あそこは凄い崖地だ。そんな軽装、まして、小紋なんかで登れない」
「…此れしか、自分で着られる様な服が無かったのです。後は寝巻か振袖。私は、滅多な事では屋敷から出してもらえませんから。其れでも、髪くらいは結わえるべきだったかしら。そうね、食べ物も。確かに、用意が足りませんでした。軽率でしたね」
早佐は、拗ねた様に、そう言った。
見れば、先程脱がせた草履も、細工の豪華な余所行きである。
―部屋着か余所行きしか与えられていない、ってのは、確かに…。何か、異常な感じはするな。
「…何でまた、そんなにソトに行きたいのか、聞いても?」
「…姉が亡くなったので。もう、此の瀬原集落に未練が無いのです」
早佐は、そう言うと、また目を伏せた。
早佐の言葉は、ぐさりと、治一の心を抉った。
自分の心を読まれている気分になった。
「私には、姉だけでしたから。屋敷を出してもらえない私にとっては、姉が、此の集落の全てでした。其の姉も死んでしまって、死因すら分かりません。甥の龍にすら、殆ど会わせてはもらえません。もう、此処に居るのは嫌なのです」
早佐の語る言葉の一つ一つが、治一には突き刺さる様に痛かった。
しかし、彼女が恐ろしい事を言っているのだけは分かった。
「御嬢様。此の里では、長は絶対だ。あの人が駄目だと言っている限り、其れは叶わない。其れは分かってるんだろ」
「だからコッソリ竹林から抜け出そうとしたのですよ。いいから、協力してください」
「…何を言って…」
早佐は、また強い目をした。
―不味い。此の女は良くない。
しかし治一は、早佐に抗えない自分に気付いていた。
「最初に申しましたでしょう。聞いた以上は、協力して頂きます。貴方、ソトに御仕事に行かれる事が有るでしょう。出る方法は御存じの筈。其れに、治様は、坂元本家の方でしょう。本家の娘の一人くらい、逃がしてくださりませんの?」
其の言い方に、治一は、ぎくりとした。
坂元本家には、昔、富という女性が居たのだが、其の女性は婚礼の日の後、急に婚約者と一緒に駆け落ちした。
其れは、集落を形成する五つの家の、本家の血筋の人間が、此の集落を出た最初の一人になってしまった。
集落の中で、富は裏切り者扱いを受け、坂元家の集落での立場は、思わしくないものとなった。
「…だからこそ、だよ。出るのが、そして、出た後が、どれだけ大変か。ソトに出たいだなんて、馬鹿を言っちゃいけない。そんな体で」
「そうですか、協力をお願いして、ソトに出してもらえないかと思ったのですが」
早佐は、まるで動じていない様な目をして、追い打ちを掛ける様に、そう言った。
―ああ、嫌だ。
先刻から、早佐が自分に強い態度に出る度に、理佐の顔がちらつくのである。
ソトの女達はいい。理佐にまるで似ていない。
でも、早佐は、ちっとも理佐に似ていない筈なのに、時折、理佐を思い出させるのだ。
あの髪がいけないのだろうか。此の白い肌がいけないのだろうか。
深く考えようとするとすればする程、治一は混乱した。
「…何で、そんなに急ぐんだ」
「来年の正月には、私の婚姻の儀が執り行われる様なのです。其れまでには、集落を出たかったのです。如何しても御協力頂けないのですか」
「…悪いけど」
其れが、どれ程の危険を伴うか。
此の集落を出るのは命懸けだ。
大正末に夫と出奔した富とて、戦争やなにやらが重なり、有耶無耶になっているが、今でも、集落では、口さがなく言われているのだ。
大正より、遥かに自動車や交通網が発達した、此の平成という時代に、如何やって逃げ果せようと言うのだ。
早佐の事は気の毒だと思うが、治一は、とても協力する事は出来ない。
「…そうですか」
そう言うと、早佐は、治一の目を見詰めた。
其の目に、何か、熱っぽいものを感じて、治一は、たじろいだ。
―いけない。此れは、良くない。
布団の傍らに座っていた治一は、立ち上がって去ろうとした。
其の手を、早佐が掴んだ。
細い指は、少し湿っていて、ひんやりとしていた。
治一の肌に、吸い付く様だった。
思わず、治一は座り込んだ。
其の儘、早佐は、治一の腕を引いた。
早佐が、治の胸に凭れ掛かった。
小紋から、甘い、白梅の香りがした。
治一は、蕩ける様な気分になった。
早佐を抱き寄せる。
美しい髪が、長く、うねる様に布団に広がっているのが見えた。
治一は、早佐の髪に、耳の下から両手の指を突っ込んで掻き回し、頭を掴んだ。
其れは、理佐の美しい髪に、してみたかった事だった。
其れから治一は、貪る様に早佐の唇を吸った。
「…御嬢様、何で、こんな事を?」
治一は、脱ぎ散らかした白装束を自分の方に引き寄せ、敷き布団の上に胡座を掻いた。
傍らには、赤黒い血が付いている。
早佐は、何か考え込んでいる様な顔をして、枕元の水差しを眺めていた。
布団に俯せに寝て、頬杖をつく早佐の髪が、彼女の白い裸身に纏わりついていた。
思ったよりも、早佐の肉置きは良く、体付きだけ見ていると、彼女の年齢を忘れる程だった。
早佐も、自分の脱いだ着物を自分に引き寄せた。
彼方此方に、帯締めや肌襦袢が散らかっている。
「特に意味は無いです」
治一は、腹が立ってきた。
理性の効かなかった自分にも、自分を誘う様な事をした早佐にも。
重罪である。
あと三ヶ月もしないうちに婚姻の儀を控えた、本家の娘、しかも、長の妹に手を出した。
治一は、額に手を当てた。
長に知れたら、八つ裂きにされても文句は言えないだろう。
「意味がなくて、こんな事を?」
「貴方は、意味が無くても、こんな事が出来る人だと思いましたから。ソトで、随分遊んでいらっしゃるのでは?」
治一は、黙るしかなかった。
早佐は、裸身の儘敷布団に正座に座り直し、急に、俯いて、ボロボロと泣き出した。
治一は、心底慌てた。
「…だって、私はもう、此処から出られないのでしょう?せめて抗わせてください。一つくらい、自分の事を、自分で決めても良いでしょう?自分の持ち物の事くらい。私が持っている物の使い方くらいは。此処を一人で抜け出せる程、物も知らない、体力も無い。私は、此の、丈夫ではない体くらいしか、自分の物を持っていないのだから」
治一は、早佐の肩を抱きながら、自己嫌悪の溜息をついた。
早佐の滑らかな肌に、治一の指が食い込む。
抗いがたい柔らかさだった。
白い、美しい裸身である。
例え、同じ時が何回やってきても、結果は同じだと思った。
あの時の様に、早佐に腕を掴まれれば、きっと自分は早佐を拒むまい。
重罪だと分かっていても。
残念ながら、自分は、そういう、理性に掛けた人間なのだ。
「私は、私は兄が怖いのです」
早佐は泣き続けた。
治一とて、長に此の事が知れるのは怖い。
何を言っているのだろう、と思った。
「長が怖いのは皆、同じだろ。なら、如何して、こんな事を?」
「いいえ、分かってはもらえないでしょう。怖かった、兄が。怖いのです」
早佐は泣きながらも、決して、治一に縋りつこうとはしなかった。
治一は、其の儘、無言で身支度を整え、瀬原家の屋敷を後にした。
我ながら卑怯だとは思いながら。
古くて広い、御手伝いも雇うのをやめてしまって久しい坂元本家の中二階で、一人、食事も喉を通らず、治一は煩悶し続けていた。
家族が死に絶えてからは治一の一人暮らしだが、立派な、古風な民家で、座敷も多く、囲炉裏も残っているのだが、平屋なのに、養蚕を遣っていたとかいう中二階が有って、薄暗い。其の暗さが気に入って、昔から、其処に布団を敷いて寝室にしているのだが、今日は、其の、体に纏わり付いてくる闇も何もかもが、湿度と粘度を持っている様に感じて、治一は気詰まりだった。
―あの儘、戻ってきてしまって良かったか?此の事が他人に知れたら、如何したらいい?あれで良かったのか?いいや、良い筈は無い。重罪を犯した事実に変わりはない。
混乱する頭は、隙を見て、今日の秘め事を反芻した。
治一は、増々自己嫌悪に陥った。
『貴方は、意味が無くてもこんな事が出来る人だと思いましたから。ソトで、随分遊んでいらっしゃるのでは?』
頭の中で、早佐の声が繰り返し響いた。
畳の上に仰向けに寝て、目を閉じる。
両手で目を覆った。
声は止まなかった。
誰彼構わず相手にする様な人間だと思ったから治一を選んだと、ハッキリ言われた。
図星だっただけに、其の言葉に、治一は傷付いた。我ながら矛盾しているとは思ったが。
別に自分は、聖人君子の心算は無い。ソトで女と関係を持っていたのは事実だ。でも、自分は、心の何処かで其れを正当化しようとしていたのだろう、と思った。
どの女も、理佐の代わりに抱いていたのだろう。
多分、早佐の事も。
貴方は、意味が無くてもこんな事が出来る人だ。だから、選んだ。
頭の中で響く声は、止まない。
好き勝手にソトで関係を持っていたのに、自分が同じ様に扱われると傷付くのは、何故なのだろうか。
―やっぱり、良くない女だった。そんな気はしてたのに。
八月の半ばに十六になったばかりの、三つも年下の女に、まんまと引っ掛かったのだ。
其れでも治一は、泣いている早佐を其の儘置いてきてしまった事に、拭い去れない罪悪感を持った。
其の日は結局答えが出ない儘、外が白んでしまった。
鳥の声が煩いくらいだった。