発作
理佐が亡くなってから、治一の生活は荒んだ。
ソトの仕事の度に、女と関係を持つようになった。
ソトの女性は、皆髪が短く、時には、髪の色さえ黒では無くて、何も理佐を思い出させるところが無くて、そうして過ごしている時間は、治一は気が楽だった。
治一はもう、此れ以上、悲しみになど、触れたくは無かった。
其れでも、ふと、失ってしまった家族や、理佐を思い出す度に悲しくて如何したらいいのか分からなくなった。
―悲しみを、見て見ない振りをする以外に、如何やって忘れたらいいのかな。
此の儘ではいけない事は、よく分かっていた。
もう十月だが、今年の十二月二十一日、治一も十八歳になる。
そろそろ、『水配り(ミックバイ)』で、結婚の相手も決まるだろう。
―こんな状態で、結婚なんかしても大丈夫なのかな。
治一は、自分の身の処し方が分からないでいた。
其の点、ソトで遊ぶのは、実に、後腐れが無くて良かった。
忘れたくて苦しくて、時々、治一は、集落中を歩き回った。
集落は、理佐を思い出させるものばかりで、其れは時として、余計に治一を苦しめたが、其れでも、何かをせずにはいられなかった。
ある日、戯れに、治一は、竹林の中に入った。
十月ともなれば、秋が次第に深まってきて、竹林の中は、湿ってひんやりとした空気だった。
土の臭いがする。
此の竹林は、ほんの十五年程前に植えられた孟宗竹だったらしいが、幼かった治一は、竹林が無い状態の事を思い出せない。元は、たった数本の竹だったと聞くのに、其の繁殖力たるや凄まじく、気付いた時には、手入れが必要な状態になっていたという。
戦後の食糧難の後、筍を採る為に植える計画は有ったらしいのだが、竹の手入れは手がかかるので、世相が落ち着いてから、という事で、延び延びになったらしい、というのは、伝え聞いた話である。
治一は、竹林の中を歩いた。見事な孟宗竹の林である。
ふと、竹に触れてみる。指先に白い粉が付着する。
指を擦り合わせて粉を払う。
ふと、目の端に、何か鮮やかな色の物が映った。女物の着物である。
よく見ると、女が倒れている。
慌てて駆け寄ると、其れは早佐だった。
早佐を担いで竹林を抜けると、其の儘、瀬原家の裏庭に通じている事が分かった。
以前、理佐の部屋だった場所に、早佐を連れて行く。
其処は、理佐が嫁いだ後、早佐の部屋になったらしく、治一の記憶の中とは、調度が違っている様に思われた。
部屋の中は、ひんやりとしていて、人気が無かった。
敷かれた儘の乱れた布団の傍に置かれた水差しの盆が、如何にも病人の部屋、という感じがした。
「有難うございます。もう、大丈夫ですから」
治一の背中の方から聞こえる声は、息も絶え絶えだった。
早佐を背中から降ろし、足袋を脱がせて布団に座らせると、早佐は、少し落ち着きを取り戻し、枕元の水差しの水を飲んだ。そして、水差しの傍に有った何かを吸引した。ソトで、クライアントが使っているのを見た事がある。エアゾルだ。
「喘息の発作か」
治は窓を閉めてやった。秋の風が障るかもしれないと考えたからだ。早佐が喘息持ちだとは知らなかった。顔色が酷く悪い。
尤も、幼い頃の彼女は何時も顔色が悪く、治一は、早佐の頬が薔薇色をしているのを見た記憶も無かったのだが。
「ええ。うっかりしていました。マスクでもしていれば良かったのに」
早佐は、喉をゼイゼイ言わせながらも、少し落ち着きを取り戻し、もう一度、水差しの水を飲んだ。
「…誰も居ないのか?」
病弱で、滅多に外に出ない筈の娘である。
侍女が部屋に一人も居ないのは、不自然であった。
「ええ。鬱陶しいので、食事の時以外は下がらせてあります。大抵の事は、一人で出来ますから」
そう言うと、早佐は、着ている朱華色の小紋の裾を見る様にして、目を伏せ、俯いた。未だ、呼吸の音は整っていなかった。
「何で、あんな所に居た?」
早佐は、身動ぎもせず、俯いた儘だった。
一番聞かれたくない質問だったのだろう。
何せ、此処は隠れ里。長の許可なしに、集落の外に出る事は許されていない。
「…まあ、いいや。今度から気を付けろよな」
「…他言はしないと、御誓いくださいますか?」
早佐は、ゆっくりと顔を上げた。
早佐の動きに合わせて、艶やかな髪が、さらりと流れた。
治一を見返す目は、力強く、真剣其のものだった。
青白い頬に、目ばかりが輝いているというのに、其処には何時もの、病弱な十五歳の儚げな佇まいは無く、凛々しい、美しい一人の女が居た。
確か、今年の八月十五日に十六になったのである。
此方も、そろそろ『水配り』の年だった。
治一は、息を飲んだ。
―不味い。此の女は、良くない。
「他言しないでいてくださるなら、御話します」
―話を聞いてはいけない。
「ですが、御話を聞いてしまった以上は、治様は、私に協力しなければなりませんよ」
「…何だ?」
―聞いてはいけない。
いけないと思うと余計に、治一は、早佐の顔から目を逸らす事は出来なかった。
「私は、ソトに行きたいのです」