瀬原理佐
瀬原理佐は、婚礼衣装の仮縫いの時間が、嬉しくて、嬉しくて堪らなかった。
―早く仕上がればいい。
理佐は、早く、婚約者の実方岐顕と一緒になりたかった。
岐顕と一緒に居られる。ずっと一緒に居られる。
頭の何処かでは、其れは、幼い、考えの浅い事だというのは、理解していたのだが。
理佐が岐顕の事を想う程には、岐顕は理佐の事を想ってくれていないのは、理佐にはよく分かっていた。
岐顕の視線は、何時も遠くにあった。
集落ではない場所、『ソト』と呼んでいる場所に、思いを馳せているのだろうと、理佐は思った。
岐顕は、時々、ソトに仕事に行く。
ソトは、どんな場所なのだろう。どんな楽しい事があったら、そんなに、何時も、ソトに思いを馳せている様な顔が出来るのだろう。
一緒について行きたくて、理佐は何時も、悲しかった。
―岐と一緒に居たい。
しかし、ソトに一緒に行くことは許されなかった。理佐は、隠れ里である瀬原集落の有力者の妹なのだ。他の集落との接触を極力断っている此の隠れ里に暮らす以上、長の許可無しには、特に女性は、此の集落を出る事は許されない。
だから、理佐は、一度も、此の集落を出た記憶が無い。
其れでも、岐顕の視線は、相変わらず、遠くへ向けられていた。
理佐は、時々虚しくなる。岐顕は、一生、自分という人間を見てくれる事は無いのではなかろうか、と思ってしまうのである。
そう思ってしまうと、理佐は、堪らない気持ちになる。
理佐が必死に掴もうとすればする程、岐顕の事を捕まえる事は出来ないのではないだろうか。
理佐は、岐顕と結婚する事が決まっている。
其れを、理佐も疑った事は無かった。でも、其の、一生一緒に居るしかない相手が、自分の事を、一生見てくれないのだとしたら。
理佐は如何すればいいのだろうか。
理佐は時々、自分が、結婚する相手だから岐顕の事が好きなのか、岐顕が、岐顕だから好きなのか、分からなくなるのである。
自分も、岐顕の事を本当は見ていないのではないかと思ってしまうのだが、考えても答えは出ない。
理佐が焦がれ、求めるのは岐顕だけであるが、岐顕を求めるという事は、同時に、今、自分が居る場所の閉塞感を見てしまう事でもあった。
―でも、此の、婚礼衣装が仕上がれば。
少しは、岐顕も、理佐の事を美しいと思ってはくれないだろうか。
淡い期待は、やがて、唯一の希望へとすり替わっていった。
少しは、理佐の事を美しいと思ってくれたなら、岐顕も、理佐に興味を持ってくれるかもしれない。
婚礼衣装が完成した日。
理佐は、周囲が止めるのも聞かず、真っ直ぐに、岐顕の元に走った。
早く岐顕に会いたい。早く岐顕に見てほしい。
婚礼の衣装は重かったけれど、裾を絡げて、実方家の裏庭まで、理佐は一目散に走った。
実方家の裏庭に在る枝折戸を開け、敷地の中に入ると、岐顕は、理佐との共通の友人、坂元治一と一緒だった。
坂元本家の一人息子の治一は、岐顕より一つ下で、今年十七歳になる、理佐の一番の友達だった。
理佐を見つけた二人の反応は、見事に、理佐の期待を裏切った。
治一は、まるで、貴いものでも眺めるかの様な、うっとりとした目つきをしていた。
岐顕は、何時もの様に微笑んで、良いね、と言った。
「衣装出来たの。よく似合ってるよ、理佐」
理佐の大好きな、優しい微笑みだった。大好きな、何時もの優しい声だった。
理佐は、二人に微笑み返し、ゆっくりと、実方家の庭から出た。
実方家から離れた、竹林の前まで来ると、理佐は、涙が止まらなくなってしまった。
涙を誤魔化す為に、理佐は自分の屋敷まで、また、一目散に走った。
―失敗した。
此れは、全くの失敗だった。全然、駄目だった。
岐顕は変わらなかった。何も変わらなかったのだ。
―其の代りに、治の、あの顔。
友人の、自分を見る目付きに、理佐は、誰か知らない、大人の男の人を見た様な気分になっていた。
理佐は、友人を失った、と思った。
もう、前の様には一緒に居られない気がした。
―こんな筈ではなかったのに。
理佐は恐れた。
何よりも、自分の心が倦んでしまう事を恐れた。
岐顕を求める事に、もし、倦んでしまったら。
此の先の人生、如何やって生きていったらいいのだろう。
理佐は、岐顕と家族と友達の治一以外に、大事なものを持っていなかった。
そして、治一という友達は、今日失った気がしてしまっていた。
此の上、岐顕を求める事さえ失ってしまったら。
抜け殻の様な人間が、一切の興味を持たれず、ただ岐顕と一緒に居るだけの人生になるのだろうか。
―其れは、分からない。…一緒になってみない事には。
其れでも、岐顕に興味を持ってもらえるかもしれないという、淡い期待を抱き続ける事は、身を裂かれる様に辛かった。
此れから先の道は、如何進んでも苦しい。
岐顕の愛情を求める事も、岐顕の愛情を諦める事も。
其れは分かっていても、理佐には、岐顕以外との結婚は考えられなかった。
―其れでも、縋ろう。
あの、理佐の大好きな、岐顕の笑顔に、縋っていこう、現実を受け入れよう、と、理佐は決心した。
傍らで竹林が、枝を渡る風に、サラサラと葉を鳴らした。
何時だったか、治一が言っていた。
此の竹林から、こっそりソトに出られる道が在るのだと。
そんな話を信じていたわけではないが、其れを聞いて以来、辛い時は、此の竹林を眺めると、心が慰められた。
此処は、ソトに繋がっている。