「詩」の可能性 〜信じる心がジャンルを越える〜
皆様今晩は! シサマという者です。
私がこのサイトに来てから2年9ヶ月。
正直、今までは自分の書きたい作品を書くだけで、ユーザーへの配慮は余りしていなかったのですが、先日初めて自作品のシリーズ分けを行いました。
その理由は、作品数が100を超えてマイページでの検索に手間がかかる様になってしまった事と、いただいた感想やレビューなどから私の読者層が小説、エッセイ、詩でそれぞれ比率が近い事が分かったからです。
私が行ったシリーズ分けは、単純に「小説」、「詩」、「エッセイ」のジャンル3分類だけですが、この作業を行って気づいた事がありました。
私はこの2年9ヶ月で118作品、約175万文字を執筆しています。
そのうち105万文字を看板連載小説『バンドー』が占めており、140万文字近くを執筆している「小説」が私の本業であると言って問題はないでしょう。
しかしながらその内訳は、118作品中「小説」は21作品、「エッセイ」が46作品、「詩」が51作品と、単純な作品数では「詩」が本業といってもいい数字でした。
私は長い間アマチュアミュージシャンをやっており、作詞・作曲をしてきたので、「詩」を書く事には慣れています。
更に、歌詞の形であれば韻を踏んで文字数を抑えるなど、既定のフォーマットを利用する事でちょっとした閃きから執筆が可能です。
シリーズ分けをして、改めて「詩をこんなに書いていたんだなぁ……」と実感しました。
さて、本エッセイのテーマはタイトルにもある通り「詩」の可能性ですが、これまで「詩」のジャンルを盛り上げて欲しいといった内容のエッセイはあっても、「詩」の可能性について言及していたエッセイはなかったと思います。
もっとも、「詩」というものは作者自身の魂の叫びとでも言うべきか、エッセイと並んで小説よりも作者の価値観や美意識、思想などがダイレクトに出るもの。
それ以上でも、それ以下でもないでしょう。
ネット社会の隆盛により、個人の価値観や美意識、思想などを表現する事が容易になった現代。
だからこそ現代の詩は、無意識のうちに情景などの「詩的表現」を駆使して剥き出しの自己を抑え、政治や特定の個人などを批判する様な作品も余りありません。
その批判の矛先は、むしろ自分自身の弱さや怠惰に向かう事が多いですね。
ここで私の作風に話を移します。
私の場合、短編の詩と連載の詩集というふたつの形を採用しているのですが、前者は対外的なメッセージを込めたもの、後者はより個人的な内容になっています。
従って、私自身が共感や評価が得られそうだと感じたものは、短編として投稿していると思っていただいて構いません。
基本的に、私の詩は「歌詞」という形式を取っていますので、Aメロ→サビ、或いはAメロ→Bメロ→サビといった曲の構成を意識し、最低限の押韻や文字数の調整を自発的に行っています。
その作業の中で、自身の美意識や価値観、思想を守る事を優先すべきか、より分かりやすい表現や題材を選ぶべきなのか、無駄に言葉を詰め込んででも、読者が100%誤解しない様に結論までしっかり完成させた作品にすべきなのか……といった検証を経て方針を決め、それに合わせた形で投稿する訳ですね。
その結果、私と同じ様な経験をしていないユーザーには内容が伝わりにくい作品がある一方、多くの共感や賛同を得てランキングを上り、レビューをいただく様な作品も生まれました。
ここで強調しておきたいのは、低い評価の作品があってもそれを恥じたりせず、高評価を得ても、味をしめてその後に続編や似た作風の作品を連発したりはしない……という事です。
共感や賛同は自然に訪れた時こそが最高の成果であり、それらを狙って取りに行こうとするのは、自分の経歴を華やかな嘘で盛る様な行為。
それは、フィクションの小説で想像力を駆使している時には何の問題もありません。
しかし、自身の価値観や思想がダイレクトに出やすいエッセイや詩のジャンルでは、自分の姿に隠し事があると、例えば時折突きつけられる批判に的確に対峙する事は難しいでしょう。
過激な思想や排他的な価値観を含んでいたとしても、無名の新人の初投稿が炎上する事は殆どありません。
炎上や感想欄の荒廃が起こるのは、かつて得た共感や賛同に味をしめて同系統の作品を連発する過程で、その思想や価値観を徐々に尖鋭化させてしまった結果です。
分かりやすい言葉にすると、「何となく鼻につく様になった」、これに尽きますね。
私もかつて、色々と失敗した経験があります。
ですから、そんな作品を眺めて「今、ここで胸のモヤモヤに耐え、静かに引き下がればこの作者はリスペクトを集める事が出来る」と期待するのですが、殆どの作者はそこを耐える事が出来ずに、二の矢、三の矢を放ってしまうんです。
その結果、その作者は大きく傷つきながら身を潜め、怒りが限界まで蓄積された時に復活して、同じ事を繰り返してしまいがちですね。
私を含めて、作家という人種は不安定でありながら承認欲求と自己顕示欲が強いので、作品に対する批判や称賛は気温の寒暖、或いは人間としてのバイオリズム程度に考えておく事が重要だと、最近考える様になりました。
それでは、私の考える「詩」の可能性とは何なのか?
それはつまり、情景などの「詩的表現」を駆使して剥き出しの自己を抑える事で、尖鋭的な思想や価値観も炎上させずに表現出来るというものです。
先述した様に、私の短編の詩には対外的なメッセージが込められています。
それは、形式こそ歌詞の形を取ってはいますが、問いかけと個人への結論、そして対外的な結論を網羅した、エッセイ的な内容のものが大半。
エッセイを書くと数千文字になってしまう内容も、詩にすれば数百文字で表現する事が出来るのですね。
しかしながら、無駄な言葉を削ぎ落としつつ、更に情景などの詩的表現を意識して盛り込めば、エッセイの様に伝えたい事を漏らさず100%誤解のない作品にする事は恐らく不可能。
そこは自分の表現力に対する自信がないと難しいですし、自分の力が足りない時は、評価や感想が貰えないリスクを承知して、ユーザーの読解力を信じなければいけません。
裏を返せば、自分とユーザーを信じる心があれば、ジャンルを越えてより快適な創作活動が可能なのです。
私の作品で、『悲しいほど正直なこの世界』という詩があります。
この作品は、ネットでの炎上や引き下がれない承認欲求、自己顕示欲を描いたものですが、もしこの内容を数千文字のエッセイとして書いて投稿していたら、恐らく感想欄は荒れていたでしょう。
また、『この世界は狂ってる』という作品も、詩だからこそ波風が立たなかったと思います。
エッセイでは時に賛否両論を呼ぶ「強い言葉」ですが、詩の世界では主人公の怒りとともに、ポジティブな動機として機能していたのですね。
今では、「エッセイのネタが浮かんだけど、時間ないから詩にして書くか」と言える私ですが(笑)、毎日のランキングを眺めてみると、既にエッセイと呼べる詩も沢山ある事に気づきます。
作者の美意識や価値観、思想を味わった後に「詩的表現」を味わうという、贅沢な楽しみ方が出来る作品が増えているのです。
作者の皆様が、評価や共感、賛同の奴隷として毎日を過ごすのは勿体ないですし、承認欲求や自己顕示欲と引き換えに、定期的に心をすり減らすのも寂しい限り。
自分の表現力とユーザーの読解力を信じて、ジャンルを飛び越えてみませんか?