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マークとの対決

 私はすぐに部屋を飛び出した。いったい、どこから? でも、きっと地下室に違いない。私の部屋はお屋敷の左翼にあって、中央の階段よりも廊下の突き当りにある細い階段の方が近かった。スリッパを履く時間すら惜しんだせいで、ざらざらした石床に薄い皮膚が悲鳴を上げる。


「どこなの!? 返事をして!」


 もう悲鳴は聞こえてこない。私は大きな声で叫んだ。地下室の場所がわからないから、声を上げてくれないと助けに行けない。いっそすべての部屋をノックしようかと思ったそのとき、ドアが開いて中からマークが出てきた。


「何事だ」

「マーク! 子どもの声がしたの、きっと地下室にいるに違いないわ!」

「……気のせいでしょう。さぁ、部屋に戻って」

「でも!」

「何て格好だ。淑女が、はしたない」

「!」


 その、心底見下げ果てたような冷たい声に、私の心は折れてしまった。マークは私を寝室まで運び、汚れた足を拭いて、クリームまで塗ってくれた。けれど私は、それに対してまともな感謝も謝罪もできずに彼を帰してしまった。


 一人きりになると、涙が勝手にこぼれ落ちてくる。私はベッドに仰向けに落ちると、しばらく目を閉じてぐちゃぐちゃになった感情を整理した。


 悔しさと、恥ずかしさと、子どもを救えなかったかもしれないという罪悪感。もしあれが聞き間違いじゃなかったら? 地下室で拷問が行われていたら?


「そうなったら、私も、共犯者だわ……!」


 思わず口にした言葉に愕然とする。噂は噂だと、グロウス伯爵は人間を切り刻んで愉しむようなサディストではないと、一度はそう信じてここへ嫁いできた筈なのに。


 縁もゆかりもない貧乏伯爵領を救うために、行き遅れの年上女と婚約して、大金を注ぎ込んで借金を返済してくれた恩人なのに。その上、嫁の母親は結婚に反対で、一年も結婚式が伸びるし。書類だけの契約結婚だし。


 何一つ、良いことなんてない。

 結婚しても得になんてならず、損にしかならない。


 それが、私。


「でも、だったら、それこそきちんと確かめなくちゃ。昨日の声が私の妄想だったとしたら、それでもいい。地下室に入って離縁されるなら、それも受け入れましょう」


 見て見ぬ振りはできない。それこそ、貴族の矜持に反するわ。たとえ落ちぶれても、私はコンウェル伯爵家のマリッサなのだから。


 明日、マークと話し合いを持つ覚悟を決めた私は、ベッドに入り就寝することにした。睡眠を取らなければ、マークと戦うことはできない。そして目覚めた私は、アイビーたちの前では何事もなかったかのように振舞い、機会を待った。彼が執務室に入る、その時を。


「マーク、ちょっといいかしら、話をしたいの」


 ノックをして返事を待つ。しばらくしてドアが開いて、不機嫌そうなオーラを放つマークが出てきてくれた。


「足は、もう良いのですか?」

「ええ。このとおりよ」

「良かった。それで、何の御用でしょうか。奥様がご自分からいらっしゃらずとも、誰か呼びに寄越してくだされば良いので、次からはそうされてください」

「ここで話したかったの。入ってもいい?」

「…………」


 執務室にいる時に来いといったのはマークだ。それなのに、彼は入口に陣取ったまま動こうとしない。不機嫌に黙り込んで、何かを考え込んでいるみたい。


「マーク?」

「いえ、どうぞ、中へ」


 まずは一歩前進だ。招き入れられた旦那様の執務室は、とにかく書類に埋まっていた。机の上にはバインダー、本、巻物が積み重ねられていて、床の上にも同じものが層をなしている。


「すごい量ね。これ、全部このお屋敷の仕事のための……?」

「いえ、伯爵が一時的に置いているだけです。そのうち片付けます」

「そうなの」


 マークはソファに一人分のスペースを作ると、私に座るよう勧めてくれた。


「ありがとう、マーク」

「御用件は」


 突き放したような事務的な言葉に、昨日のような冷たさは含まれていない。大丈夫。私は息を吸って切り出した。


「昨日のこと、私にはやっぱり、気のせいとは思えないの。地下室を見せて、マーク」

「それがどういうことか、分かっていて言っているんですか」

「ええ。エドモン・グロウス伯爵の言いつけを破り、彼のこれまでの厚意と信頼に背く行動だと分かっています。このことが原因で離縁されても構いません。グロウス伯爵が出してくださったお金はすべて、お返しする覚悟です!」


 精一杯、背筋を伸ばして毅然と言い放つ。たとえ愚直と言われようとも、これだけは、譲れない私の矜持だから。


 マークは大きく溜め息をつくと、首許を緩めて執務机に軽く腰掛けた。


「マリッサ・グロウス伯爵夫人」

「……はい」

「貴女は、傷病兵のための病院へ慰問へ行った経験はありますか?」

「えっ?」


 マークの口から、思いがけない質問が飛び出してきた。貴族として推奨される慈善活動のことだと思うけれど、うちは戦地から一番遠かったから、私は帰還兵の元気な姿しか見なかった。傷病兵がいたとしても、それ専門の病院を建てるほど多くはなかったし、見舞金を出して終わりだったと記憶している。


「正確に答えてください。傷病兵を見舞いに行ったことがありますか? その傷口を見たことは? なければ、大きな事故で身体を損傷した人間でもいい。貴女は四肢を失うほど怪我をした人間を近くで見たことはありますか?」

「……ありません」


 血の気が引いていくのがわかる。四肢を失うって、つまり、腕や脚がなくなるということ、なのよね? 私には、そんな経験は、ない。


「本当に、地下室を覗く覚悟が貴女にありますか? 今ならまだ引き返せます。円満に離縁ができるよう取り計らいましょう」

「それは……! 地下で何か、犯罪行為でも行われているのですか」

「さぁ。受け取り方によってはそう取れなくもないでしょう。ハッキリ言おう、生半可な気持ちなら迷惑だ」

「っ、私は! 本気よ! あなたたちが子どもを傷つけているのが本当だったら、何としても証拠を掴んで貴族法廷に突き出してやる、脅してもムダなんだから!」


 私はサッと立ち上がり、ドアの方へ下がった。マークが逆上して掴みかかってきたら、全力で逃げなくちゃ。でも、マークはそんなことはしなかった。ただ、優しく微笑んで、私に手を差し出してきた。


「いいだろう。マリッサ、貴女をグロウス伯爵家の地下室へ案内しよう」

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