声
お腹も膨れたので、ドーゼンとリオにお礼を言ってキッチンを後にした。とにかく、地下室を探さなければ話にならない。お屋敷の中を歩き回るのも良いけれど、今の時間だと、アイビーたちの邪魔になってしまうかしら?
寝坊したせいでお屋敷の中を見て回ることも、誰がどんなスケジュールで動いているのかもわからない。いっそ外から探してみるのも一つの手だと思い、私は庭に出た。
まずは玄関側の前庭。広い石畳の上にまだ新しい泥が落ちている。やっぱり、昨日の馬車は夢じゃなかった。ここからお屋敷の中に入るとして、玄関からでは誰かに見られるから避ける……と思う。断言できないけれど。
裏へは回れない造りになっているから、ここから行ける近い場所に地下室への入口がある筈。私はお屋敷の壁沿いを歩いていった。玄関から見て右に、左に。でも、どこにもおかしなところはない。
「そうだわ、温室……」
硝子が割れて骨ばかり、中も朽ちてしまっている。棚の残骸で奥は見えないけれど、端っこを通れば行けないこともなさそうだ。一歩踏み出したとき、後ろからダンッと足を踏み鳴らす音がした。
「何を、しているんです……!」
「マーク」
「下がるんだ、そう、ゆっくり。足をこっちに、俺の手に掴まって、……よし」
マークの指示するまま、私はそろそろと足を運んで、マークの厚い胸板に抱きとめられた。
「きゃっ!」
触れられただけでも心臓がおかしくなるのに、まさか抱きしめられるなんて! 初めての経験に胸がまた早鐘のようにガンガンと打つ。でもこれは相手がマークだからじゃないわ、きっと。挨拶のハグよりも近くなったからっていうだけのことよ。
そう、自分に言い聞かせていると、マークが私の肩を両側から挟んで、少し身体を離した。かと思うと、彼は私を怒鳴りつけた。
「何考えてるんだ、危ないだろう! 貴族の奥方が聞いて呆れる。とんだお転婆だな、君は!」
「な、なんてこと……!」
「こんな場所に近づいてはいけないことくらい、子どもにだってわかるだろうに。……ともかく、怪我がなくて良かった。屋敷へ戻りましょう」
あんな失礼なことを言っておいて、マークは何事もなかったかのように使用人の顔に戻った。私を抱きしめて、怒鳴りつけておいて。こんなにも動揺させておいて。口を開けば泣き出してしまいそうで、私は黙って指で目許を拭った。
「掴まってください。連れていきます」
「えっ、あっ」
マークは私の返事も聞かずに、私を膝から掬うように抱き上げた。
「お、下ろして!」
「話は後で聞きます」
「マーク!」
まるで足がすくんで動かないのを見透かしていたみたい。私の抗議を無視して、マークは私をお屋敷の中に運んでいった。ティールームのソファに下ろされ、息を整えている間に、マークは呼び鈴で誰かを呼んで紅茶を用意するように言いつけていた。
「なぜ、あの場所へ? 危険なのは遠目からでもわかった筈でしょう」
マークが厳しい声で尋問する。まさか、地下室を探していただなんて言えない。こそっとマークの様子を窺うと、彼は立ったまま腕組みをして私を見下ろしていた。顔は隠れているけれど、きっと睨みつけられている。
「あの、庭を、その……」
「庭を?」
「庭を綺麗にして、花を植えたいと、思ったの。温室も、職人に依頼すれば修理できるかもしれないって。何かこのお屋敷のためになることをして、それを母への手紙に書きたかったの。私はここで、楽しく過ごしていますって」
「……明日にでも職人を呼びます。園丁も探しましょう」
「ごめんなさい、マーク。ありがとう」
お母さんのことを持ち出したからか、マークの声が優しくなった。騙しているようで気が引けるけれど、これも私の本心であることには違いないし、いいわよね。
「庭いじりがしたいなら、裏庭に行くといいでしょう。あそこには薬草園があるので。ただ、摘み取るときは料理長に確認をした方がいいかもしれません」
「まぁ、薬草園があるのね」
「昔から、グロウス伯爵領では薬草や香草の栽培が推奨されているんです。籠城したときに病気や怪我を治すのに重宝したようですよ」
「そう、じゃあ、大切にしないとね。マークはここに詳しいの?」
「ええ、まあ。長くいるので」
意外に思った。ここにいる使用人たちはみな、私が来るのに合わせて雇われていたのに。しかも面接をしたという家令はマークではなく別人だった。なら、マークも同時期に来たんだと思ったのに。もしかして、昇進して家令に取り立てられたのかしら?
「マークは、いつからここにいるの? ここで働いている人たちを面接したのは、あなたじゃないって聞いたわ」
「ああ、クライドはその、一時的にここを離れたので、自分が代わりに勤めています。しばらくしたら戻ります」
「そうなの。どうしてか尋ねてもいいかしら」
「あー、腰をやってしまって。もう高齢なものですから」
「大変じゃない! ちゃんとお医者様に来てもらえているかしら。お見舞いに行かないと」
「そこまで酷い怪我じゃないので、安心してください。医者にも診てもらっています」
「ここで看病して差し上げれば良かったのに。馬車で移動させるなんて酷だわ……」
ただでさえ酷い乗り心地なのに、腰を痛めた状態で馬車に乗るなんて苦行だわ。私だって旅してきた中で、足腰がガタガタになったっていうのに。
「お年寄りに重い物を持たせたり、腰に負担がかかるようなことをさせてはダメよ、マーク。あなたがちゃんと見ていてあげないと」
「いや、俺のせいじゃ……」
「言い訳しないの」
私が強めに言うと、マークはなぜか優しくフッと笑った。そんな小さなしぐさにドキッとするのは、なぜかしら。もしかして、私、彼に惹かれているの……?
「では、自分は仕事に戻ります」
「待って、マーク。昨夜のことだけ聞かせてちょうだい。お屋敷の前に馬車が停まっているのを見たの、あれは旦那様だったの?」
「……ええ」
「起こしてくれれば良かったのに。次からはぜひ、そうして欲しいの」
「お返事はできません」
「どうして!」
「まだ伯爵の許可が下りていないので」
私は、何も言えなかった。マークのこと、そして旦那様のことを考えると、胸がモヤモヤして眠れない。ダメよ、しっかりしなくちゃ。ここでの安定した生活のためには、マークに恋するわけにはいかないんだから。
噂を確かめること、旦那様に会ってちゃんと話し合うこと、それが一番の目的でしょう。結婚したのに、そのお屋敷の使用人を好きになってどうするの!
そのとき、また馬車の音がした。今度こそ下りて行って、旦那様を捕まえるべき? これからのことを、ちゃんと話し合いましょうって言うべきかしら。でも、マークは「まだ許可が下りていない」と言った。それはつまり、私のことを信用していないということ。
待つべきか、それとも……。
迷いながら部屋を往復していた私の耳に、子どもの小さな泣き声が届いた。