忠誠心
ややあって、マークからは淡々とした答えが返ってきた。
「いいえ、昨夜はお帰りではありませんでした」
「じゃあ私を運んでくれたのはマークなのね」
「……ええ、そうです」
マークはふいっと横を向いた。表情が見えないからか、迷惑そうに聞こえる。
「あの、ありがとう」
「……礼には及びません。それより、もうあの部屋で待たなくて良いです。伯爵はしばらくの間、ここには戻りませんから」
「そんな、どうして? まさか、本当に書類上だけの契約結婚にするつもりだとでも? それにしたって、せめて話し合う余地くらいあってもいいじゃない……」
おそらくは私のお母さんを納得させるために提案された『白い結婚』だけれど、それを契約結婚に留めるか、そこから前進するのか、それは私と彼の意思次第だと思っていたのに。
「もしかして、旦那様には、もうすでに愛していらっしゃる女性がいるの? その方のところにいるから帰ってこないんじゃ……」
「いや、そんな甲斐性はないな」
「マーク!?」
そんな失礼すぎることを断言しなくても!
というか、伯爵はあなたのご主人様でしょう!?
「あなた、昨日から思っていたけど、自分の主人への忠誠心はないの?」
「忠誠心とは別では」
「言い訳しないで。私はここに来たばかりだし、自分自身には何の位もないけど、それでも伯爵の妻でありここの女主人なの。その私に伯爵の悪口を言うなんて! そんなのいけないわ」
私は背の高いマークの、見えない顔を睨みつけた。ずいっと一歩踏み出すと、マークはのけぞって一歩後退する。
「伯爵はあなたを家令に取り立ててくれた人でしょう? グロウス伯爵家の家令だと言えば、それだけで誰もが一目置くわ。お給料だってそれなりに貰っているはず。もしここが嫌になっても、再就職先を選ぶことだってできる。そんなに大事にされているのに、あなたって人は!」
「…………」
「これ以上失礼なことを言ったら、旦那様に言わなくちゃいけなくなるわ。そうなったら、あなたこそクビになっちゃうかもしれないのよ? 伯爵をどう思おうと自由だけど、それはせめて心の中だけに留めておいてちょうだい!」
一気にまくし立てると頭がクラクラした。こんな風にした誰かを叱るなんて初めて。深く呼吸しようとしたら、マークに手首を掴まれた。
「!」
「俺を、庇うのか? なぜだ」
驚いて、男性の熱い手に触れられていることにさらに驚いて、動揺して、心臓が早鐘のように鼓動を打っている。マークの長い前髪に隠れた目が、私のことを見ている。きっと。
「庇うって……、だって旦那様はあなたのことを信頼しているから。あなたがこれからもそれに応えるつもりがあるのなら、追い出す必要はないと思ったの。だって、仕事はちゃんとしているんでしょう?」
「…………」
マークの手の力が緩んだ。その隙に、手を引き抜くと、マークはまた一歩後退した。
「すみませんでした、以後、気をつけます」
「そうしてください。ありがとう」
ぎこちない空気になってしまった。でも、そのまま立ち去り難くて、咄嗟に他の話題を探す。
「だ、旦那様は、今どこにいらっしゃるのかしら。ホテルとか?」
「ああ。街の中に領主館があるので、おそらくそこで雑魚寝でしょう」
「ざ、雑魚寝!? 領主なのに! じゃあ、お食事は?」
「保存食かな。何か齧ってるでしょう」
「そんな、せめてお食事くらいお店に行くとか、料理人を連れてくるとか……」
「男所帯なんて、みんなそんなもんですよ」
結婚式で見た旦那様は、冷たくて傲慢な印象だったけれど、マークの目を通した旦那様は、何だか不思議と良い人に思えた。そうよね、こんな失礼な家令を雇っているんだものね。
「ふふっ、なら、差し入れに行かなくちゃ」
「やめておいたほうがいい」
「どうして?」
「えっと、多分風呂にも入ってなくて臭いだろうから」
「嘘でしょ!? それはさすがに冗談だって言って!」
「ふっ……ははっ!」
マークが、笑ったわ。
今までずっとムスッとして、必要以上に口を動かさなかったのに。けっこう大きく開くのね、あの口。
「何か?」
「いえ、何でもないの」
不躾に見つめていたのがバレてしまった。私は恥ずかしくなってクルリと後ろを向く。今、この顔をマークに見せられないわ。
「では、他に何もなければ、遅くなりましたが昼食の用意をするように言ってきます」
「お願いします。その代わり午後のお茶はいらないわ」
「わかりました」
「あの、マーク」
「はい?」
ほんの少し、マークと仲良くなれた気がする。だから、マークになら聞いても大丈夫かしら。マークは知っているかしら。
『旦那様が奴隷商人から子どもを買ってきて、切り刻んでるって噂は本当になの?』って。
ああ、でも、そんなこと聞けるわけない。私が入ってはいけない地下室、そこにきっと答えがあるんだ。そしてそれを伝えてくれたマークも、その件に関わっている?
もしかして屋敷に人を置かないのも、秘密を知る人間は少ないほうがいいから? まさかアイビーたちメイドも、知っていて沈黙させられているの?
「どうしました」
「ええと、その、私が入ってはいけないのは、地下室なのよね」
「ええ、まぁ」
「じゃあ、他の部屋には入ってもいいの? どこでも?」
「そうですね」
「執務室も、ね?」
「…………」
マークを取り巻く空気の温度が下がった気がする。また、心の距離が開いてしまったかも。マークは相変わらず表情の見えない顔と声で言った。
「その条件なら、執務室ももちろん入っていいでしょう。ただし、鍵はお預けしないので、開けているときに来てくださいね」
「わ、わかったわ」
「それでは、また後で」
マークはゆっくり立ち去っていった。
地下室には、いったい何があるのだろう……。




