冷たい結婚
このままじゃ、いつまでたっても結婚できないのじゃないか、と思った。グロウス伯爵の忍耐力にも限度があるだろうし。叔父さんからは何度もお母さんを説得してくれと頼みこまれているけれど、こればっかりは仕方がない。
なぜって、私からも頼んでいるけれど「具合が悪いのよごめんなさいね」で押し切られるんだもの。でもお母さん、さすがにこのまま粘られると私、婚期を逃します。もう二十六歳の誕生日迎えちゃったのよ。他に相手なんて無理なのよ……。
しばらくしたある日、グロウス伯爵から手紙が届いた。そこには、この結婚がいわゆる「白い結婚」を前提とする契約結婚であることが記されていた。隅々まで読んでみても、そうとしか取れない文面で、しかも伯爵の印章が捺してある本物だった。どうしてこのタイミングで、伯爵側からこんな提案が……? 疑問は尽きないけれど、そのおかげでお母さんも揃っての結婚式を挙げることができたのだった。
うちの領地で行われた結婚式は、さすがに豪華だった。王室からの祝辞まで届いて、お父さんと叔父さんはとても嬉しそうだった。結婚式の飾りつけは、すべてをお母さんが準備したおかげでとても上品で、お客さんたちもみな褒めてくださっていた。
でも実は、ちゃんと見ればお母さんお手製のレース飾りにお母さんのガーデンから摘んできた生花に、お母さん手作りの料理と、地味なところで節約されている。もちろん私も手伝ったけれど、レース飾りやリボン飾りなど、お母さんが長い時間をかけてコツコツ用意してきたものには敵わなかった。
お母さんが受け継いできたウェディングドレスに身を包み、婚約の証に貰った真珠の首飾りを着けて、初めて彼の前に立つ。
エドモン・グロウス伯爵。
長身で、漆黒の髪を後ろに撫でつけたオールバックがよく似合う、パリッとした立ち姿の美男子だった。ニコリともしないまま、彼は私を値踏みするように下ろす。灰色に見える不思議な薄青の、冷たい目をしていた。
この人が、私の旦那様になる男性……。
私の心は自然と重くなった。こんな失礼で無愛想な人間と上手くやっていけるのかどうか。彼の真意はその鉄面皮からはまったく読めない。
煙草の匂いのする冷たい口づけで私たちは愛を誓いあった。でも、式の後のパーティーにすら参加せず帰っていく新郎を見てみな何を思っただろう。正式にグロウス伯爵夫人になったのに、一緒に祝われる立場の旦那様が不在だなんて。彼はきっと、あの氷のような目と同じくらい心の冷たい人間なのだろう。あんな噂なんて信じていなかったけれど、もしかしたらと思ってしまう。
子どもの手足を切り刻むなんて……。
そんなの嘘よね?
それも確かめたかったのに、彼とは話すことすらできなかった。でも、いいでしょう。すぐに彼の領地まで追いかけていくことになるんだから。一緒に暮らせば、この疑念も晴れるはず。実際、私は次の日には馬車に乗っていた。
「マリッサ、この指輪を持って行きなさい」
「お母さん、でも、これはお母さんの大切な物でしょう?」
最小限の荷物と一緒に馬車に詰め込まれる私の掌に、お母さんが自分の指にはめていた古い指輪を無理やり持たせた。これはお母さんの実家、ルルトーシェ伯爵家のもの。お母さんが何より大事にしていた、お祖母様の形見の指輪。
「これは貰えないわ、お母さん」
「聞いて、マリッサ。もしも貴女がどうしても逃げ出したくなった時には、この指輪を売って旅費にしなさい」
「お母さん!」
「貴女だけが我慢することないのよ。後のことはどうにかします、だから……必ず、頼ってちょうだい。いいわね、マリッサ。約束よ」
「はい……、必ず! お母さん……!」
私は涙の奥からようやくそれだけ言うことができた。みなに見守られて出発して、国を横断してグロウス伯爵領に向かう。行く先々でお母さんの知り合いという貴族のお屋敷にお世話になりつつ、私は一週間かけて、これから終の棲家になるべき場所に辿りついた。
「ようやく、ね」
丘の上にポツンと建つ石の城は寂しげだった。この地方の湿っぽい空気も関係あるのかもしれない。街に立ち寄って噂について聞きたかったのに上手く行かなかったから、何もわからないまま来てしまったのが心残りだけれど。
私一人とトランク一つを置き、馬車は戻っていった。お城の門は開いていたから、勝手に中に入らせてもらうことにする。石畳の道の両側には、ひなびた花壇があって、雑草に埋まっていた。歩いていくとまた壁と門が見える。所々が苔むした石壁。石細工のアーチをくぐり壁の内側に入ると、荒れ果てた大庭園が広がっていた。隅の方には割れたガラスの温室もある。
「寂しい場所……」
広い前庭を歩いて玄関ポーチへと向かう。重苦しいライオンの貌をしたノッカーを叩くと、ややあって内側から扉が開いた。どこか怯えた雰囲気の若いメイドがぎこちなく頭を下げて挨拶をする。
「いらっしゃいませ。……奥様」
「ありがとう。荷物をお願いしてもいい?」
「も、もちろんですとも!」
半分もぎ取られるようにしてトランクを預け、案内されるままに一階の応接室のソファに腰を下ろす。お城の中と言っても内装は普通のお屋敷と同じみたいだ。そのことに少しホッとしながらも、なぜ案内された先が応接室なのかと少しだけ不満だった。
「奥様、あの、足をお休めになられた後で、お部屋にご案内いたします。お茶はいかがですか。お好みがあれば教えてください」
「お気遣いありがとう。案内とお茶は後で良いので、旦那様に私が来たことを伝えてもらえる? 先にご挨拶したいの」
「え……。あ、旦那様は、いらっしゃいません」
なん、ですって?