胎動
どうん・・どうん・・
鈍く心臓が脈動するような音が、不気味に壁に響いている。
暗い洞窟の中なのだろうか。
雨水がしたたり、湿気が辺りに漂っている。
湧き水の流れる音も、くぐもった音となり岩肌に反射して不協和音を奏でている。
人工的に削られたような広く開いた空間に、男が一人立っていた。
いくつかのランプが灯されているが、部屋は薄暗い。
闇色のローブに身をまとい、フードを深くかぶったままで、その顔の表情までは灯りに照らされていない。
ローブ越しにも、男の体系が痩せ細っており、骨ばった容姿ということが分かる。
スラリとした長身が、さらにその風貌をみすぼらしいものとしていた。
その空間の中心に、柱のように天井と床をつないだ赤い物体が数本立ち並んでいた。
それは不規則に脈動し、あたかも心臓の鼓動を思わせるように蠢いている。
男はそのすぐそばで、地面から腰の高さまで盛り上がった杭のように突き出た岩の塊りに寄りかかっていた。
そこには、水晶球を半分に切ったような、半透明のレンズがあり、男はそれを無言で見つめていた。
ブツブツと何やら呪文のようにも聞こえる言葉を、その半透明のレンズに向かって投げかけているかのようだ。
男が痩せ細った右腕をレンズに伸ばし、そっと触れると、そのレンズはグニャリと形を歪め、男が手を離すと、また半円状のレンズへと戻るのだった。
そのレンズは柔らかく、暗い岩屋の中ではまるで人の黒目のようでもあった。
ちょうどその時、柱の一つが激しく鼓動を始めた。
男は黙ってその柱を凝視する。
ビキ・・ビキビキ・・パチ・・
耳に心地よくない音が辺りに、こだまする。
男は柱に近づき、柱に手を伸ばして触れた。
「おまえは・・まだ出てきてはいけない・・まだ・・だ・・時が来るまで・・まだ待て・・」
すると激しく脈動していた柱は、徐々に動きが遅くなり、そしてまた規則正しい鼓動のような脈動になっていった。
「それでいい・・それで・・お前はまだ・・善と悪すら・・知らないのだから・・」
男は引きつったように口元を歪め、押し殺したように音を出さぬ声で笑った。
男は満足したように、きびすを返すと洞窟の空間から伸びる複数の横穴のうち、そのひとつの闇のなかへ静かに消えていった。
その同じ時刻。
赤い柱のある、その洞窟から数キロ離れた場所を走るものがいた。
月明かりが照らす静かな森の中。
道なき道を、必死に走りながら、何かから逃げようとしているかのように、何度も後ろを振り返っている。
木々の開けている場所で、月明かりが照らし、その走る物影を映し出した。
中学生くらいの少年だった。
あちらこちらが破けた学生服、手には皮の学生かばんを握りしめている。
息が苦しそうで、吐く息と吸う息が不規則になっていた。
(だれか!たすけて!)声にしたいのだが、息が続かず声に出ない。
足の裾は泥で汚れ、裂けたズボンの太ももあたりから、ぬらぬらとした血液が黒く、月明かりに照らされて鈍く光っていた。
(どうして!なんで!・・なんで僕が!!)
何度も転びそうになりながら、雑木林のような山肌を下っていく。
額には玉のような汗が噴出しており、それが顔中を流れて目や鼻や口をびしょびしょにしていた。
それが涙なのか、鼻水なのか、よだれなのかも分からないでいた。
くぐもった唸り声のような、獣の咆哮が後方から迫ってくる。
(やばい!・・やばい・・!!・・ああ!)
自分がなぜ、森のような、山のような場所を走っているのかも分からない。
「あっ!!」
声に出たと同時に、少年は足元を滑らせ、山の斜面を転がり落ちていた。
地面から突き出た細い木々、大小の石や岩、枯れた枝などが容赦なく顔や背中を叩きつける。
そして最後に垂直に崖から落下した。
数メートル先の国道へ、少年は放り出され、硬いアスファルトで激しく肩を打ち、膝をぶつけながらようやく体の回転が止まった。
その時、国道を通行するトラックが勢いよくカーブを曲がってきた。
運転手は曲がりくねった山の国道の、ちょうど真ん中で倒れている人影を見つけ、急ブレーキを踏んだ。
だがしかし間に合わない。減速が追いつかないのだ!
このままでは轢いてしまう!そう思った刹那、運転手は山の斜面へ向かって本能的にハンドルを切っていた。
ガシャン・・バリバリ・・ギギギギギ・・
間一髪、少年を避けて山の斜面へ激突したトラックは、30mほど先で動きを止めた。
ボンネットからは、うっすらと白い煙が噴出している。
ハンドルを切った際に方向指示器に当たったのか、左の指示器が点滅したままだ。
運転席は静まり返ったまま、中の人影が動く気配がない。
ブレーキランプがついているのだが、緩くアクセルも踏んだままなのか、後輪はまだ緩く回転したままで、ギュルギュルと音を立て、焦げ付く匂いを発生させていた。
いつのまにか降り出した雨が、山道のアスファルトを黒く濡らしていた。
冷たい月明かりのなか、妙に生ぬるい風が、オイルとタイヤの焦げた匂いを漂わせていた・・・
フクロウが寂しげに、ひとつ、ふたつと鳴いた。
静寂が辺りを包んでいる。
風がそよぐだけで、あたりには街灯もない。真っ暗な山道だ。
時だけが静かに、無情に過ぎ去っていく。
しばらくして、その事故現場を、轟音を轟かせながら数台の改造バイクが通過していった。
その中の何人かが、「おい!なんだこれ!」とか「うわ!!」とか言いながら急ブレーキをかけ、後輪がロックして波打つように蛇行し、少年を何とか避けて倒れそうになりながら止まった。
そのまま勢いを殺せず、通り過ぎてしまった仲間のバイクも数台、少し先で止まり、Uターンを始めた。
そして徐々にバイクが集結し、バイクのヘッドライトで山の斜面に突っ込んだまま動かなくなったトラックと、道の真ん中で倒れたままの少年を照らした。
ひとりが震えながら言った。
「事故かな・・?」
しばらく経っても、車の通行は無かった。もともと交通量の少ない道なのだ。もしかすると30分経っても自分たち以外には誰も来ないかもしれない。
一刻を争う事態だった。
「おい!それより救急車だ!ケータイ使えよ!誰か!」
「駄目だ!おれ、圏外だよ!」
「私もダメだ!」
「なんだよ、こんな時に、どうすれば・・」
言葉を失ってしまっていた。しかし誰かが叫んだ。
「とにかく・・乗せて街まで降りてやろうぜ!みんな、手を貸せよ!早く!」
集まった仲間たちは、自分たちが日ごろ、家族や学校にどんなに悪態をついているのかも忘れ、なんとかこの場をどうにかしなければ、という気持ちで一致していた。
「とにかくその男の子、おれの背中に背負わせろ!」
赤い髪をした青年の呼びかけに、慌てたように仲間たちが倒れたままの血まみれの少年を抱え、数人がかりでバイクに跨った青年の後部シートへ跨らせる。
少年はぐったりとしていて意識がない。しかし細く弱々しいが息があった。
「おい!もう一人後ろに乗れ!背中の男の子を支えてやってくれ!」
「わかった!わたしが乗る!」
背の低い小柄な女の子が少年を抱きしめるように後部座席のさらに後ろに飛び乗った。
少年の体は、ぐにゃりとしていた。足や腕の骨が折れてるのかもしれない。
「おい、おまえら、トラックの方も頼む!おれは先に街まで降りるぞ!どっかの病院につれてく!」
少年を乗せたバイクの青年が叫ぶ。
「分かった!」
口々に応じる仲間の声を背中で聞きながら、耳をつんざくような爆音で、少年を乗せたバイクは走り出していた。