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赤い闇


その日の1限目の授業は古典の授業だった。


ハルナは授業後に提出しなければならなかった課題のプリントを、クラスメイトの美咲に借りて写し、なんとか事なきをえた。


しかし、カニ先生とあだ名される古典の先生の授業は、例えるなら、お経か念仏のような抑揚のない一定の話し口調で、とても眠くなるのだ。


まるで眠りの呪文をかけられたかのように、授業開始15分を過ぎるあたりからクラスの半数が眠りに落ちていく。


残りの半数も、なんとか眠りの呪文に抵抗しているものの、授業の終わりまで起きていられるのは、ほんの数名に違いない。


ハルナも例外なく、課題のプリントを写した後に、猛烈な眠気に襲われて眠りの世界へ落ちてしまっていた。


眠りの世界から目覚めたのは、授業の終わりのチャイムが鳴った時だった。


短い休憩時間が終わり、2限目が始まる。次はたしか数学だった。課題は出ていない。小テストも今日はない。


2限目の数学の授業は特に眠くなるような話し方ではないのだが・・

また授業の開始早々に眠りに落ちてしまった。


3限目、4限目も同じように眠ってしまった。


あっというまに放課後になり、帰宅する時間になった。


最近とくにこの1週間くらい、体調がどうもおかしい。

体調自体は特に悪くなく、むしろ調子が良いほうだと感じるのに、眠気が猛烈に襲ってくるようになったのだ。


入学から緊張していた生活が続いて、2週間経った今ごろになって気が緩み、ちょうど疲れが出てきたからだろうか?


それもあると思った。でもそれだけじゃない。なんかこう・・変なのだ。

今までそんなに眠気に襲われ続けたことはない。


頭がボーっとする。

教室を見渡すと、クラスメイト達が教室からぞろぞろと出て行くところだった。


私も帰ろう。

カバンに教科書やノートを詰め込み、スクっと立ち上がった。

軽いめまいがして、景色が揺れた。


「いけない、いけない。やっぱりちょっと体調がおかしい」

寄り道せずに、早めに家に帰ろう。


教室を出て、1階の靴箱に向かう途中、美咲が声をかけてきた。

「どうしたの?顔が疲れてるよ?さては・・恋の悩みで眠れなかったとか?」


美咲はクスクスと悪戯っぽい笑顔を浮かべている。


「違うよ!もぅ!そんなんじゃないってば!なんか調子が悪いのよ」

実際、だれかに恋をしているわけでもないから、照れることもないのだが、なぜか顔が赤くなってしまう。


美咲は少し心配した表情を浮かべ、今日は早く帰って寝たほうがいいよ?と言ってきた。


うん、そうする。ありがと。

すこし笑顔を浮かべ私は、バイバイ、と軽く手を振った。


美崎は何か用があるのか、笑顔で振り返り、手を振りつつ小走りに走り去っていった。


早めに帰ろう、その思いとは裏腹に、家に帰りたくないと思ってしまう。


家族と仲が悪いというわけではないのだが、最近なぜか居心地が悪いのだった。

落ち着かない、と言ったほうが正しいだろうか。


学校から自転車で15分ほど走れば海へ出る。そこはハルナのお気に入りの場所だった。


夏でも数組の家族連れしか来ないような、小さな砂浜。毎年、海の家も1軒しか出ない。


今は春だから、まるでプライベートビーチのように、人気が無い。

夕方は、ジョギングをしている人や、近所の人が散歩している姿が、ちらほらと見かけられるくらいだ。


学校の裏庭に近い塀のすぐ外に停めてあった自転車に乗り、その場所へ向かった。

何か気分が落ち込んでいる時など、その場所へ来るのが定番になっていた。


天気の良い日は、夕焼けが水平線に沈んでいくのがとても綺麗に見える。

海はキラキラと夕日を映して、まるで有名な画家が描いた美しい絵画のように見えるのだった。


今日も、天気が良く、薄い雲が所々にかかっているだけの晴天だった。

砂浜に着くと、堤防沿いの小道に自転車を停め、10段ほどの堤防の階段を上り、小道から少し低い高さにある砂浜に降りた。


堤防から、波打ち際まで50mはあるだろうか。

砂浜の横幅は300mくらいで小さなほうだと思う。


ハルナは、砂浜を少し歩いたあと、波打ち際までは行かず、堤防の方へ戻って、コンクリートの階段の砂を手で払い、腰を掛けた。

そして、大きく息を吐いた。


夕日はもうじき水平線に入ろうかというところだった。

オレンジの光を映してキラキラと揺れる海をぼんやりと眺めていた。

波打ち際から聞こえる波の音が心地良い。

潮の香りを含んだ風が、肩まで伸ばしてある髪をサラサラと揺らしていく。



なんか最近疲れてるのかなあ・・

無意識に独り言を呟いていた。


どれくらい時間が経っただろう。

夕日はほとんど水平線に隠れ、さっきまでキラキラと光っていた水面も、徐々に夕暮れの闇をまとい始めた。


夕暮れの海の美しい景色を眺めていると、少し気分がスッキリした。


よし!今日は、もう帰ろう。家に帰って晩御飯を食べ、熱いシャワーを浴びて早めに寝よう。

今日の晩御飯は何だろう?昨日はカレーだったから、今日は炒め物かな?



そんなことを考えながら、立ち上がり、紺色の制服のスカートについた砂を両手で払う。

そして何気なく、水平線の先に沈んだ夕日を見ようと視線をやった。


その先に・・・


ハルナは信じられないものを見た。いや、視界に嫌でも入った、というべきだろうか。

その姿が異様だったからだ。


辺りはすっかり夕暮れの闇に包まれ、薄暗くなりはじめていた。

海の色も光を反射しなくなってきて黒く、暗くなってきている。


その視線の先に、波打ち際を歩く一人の少年と一匹の大型の犬が居た。


少年は、小学校低学年だろうか。季節感の無い半ズボンに白い無地のTシャツを着ていて、一匹の犬を散歩させていた。


リードにつながれて一緒に歩いているから、一見、ただの犬の散歩に思えたのだが・・


明らかに、不自然な感覚を覚えた。

少年はいたって普通のどこにでも居るような、普通の小学生だった。


だが、連れている大型の犬が、あまりにハルナが知っている犬という動物の姿と、違いすぎるのだ。


犬の背の高さは大型犬程度なのだが、首が太く少し長い。胴の形が馬のようであり、不自然に骨格がガッシリしているのだが、アバラ骨が浮きだっていてガリガリに痩せ細っていた。



特に、その毛並みの色がおかしかった。


赤いのだ。


いや、ただの赤ではない、血の色、とでもいうのか。どす黒く湿った赤。

最初は夕日の色に染まって見えたのだと思ったけれど、夕日は水平線に沈んだ後であり、それはありえない。


毛がもともと赤いのではなくて、白い毛が血と泥で染まっているように見える。


目を凝らしてみると、犬の体が自ら発光しているように見えた。


よく見ると、犬の全身は本当に血で濡れていて、腹の毛先部分から、血がポタポタと落ちている。


ハルナは体が硬直したように立ちすくんだ。

少年に連れられて、犬が視界を横切って行きながらこちらを振り返った。


その犬の目の白目部分は、漆黒の闇のような、暗い洞窟を思わせる窪みであり、そして黒目の部分が不気味に赤く光っているのだった。


姿が異様にアンバランスだったので気がつかなかったが、犬の顔は、痩せ細った人間の老人の顔だった。


長く白い髪は、不ぞろいに抜け落ちてまばらで、顔に無造作にかかっていた。

鼻はつぶれているようで、形が歪んでおり、何かで殴られたかのように、口と鼻から、血ともヨダレともとれぬ液体を、垂れ流していた。


口は半開きで、ちぐはぐに生えた歯の隙間から、ダラリと長い舌が垂れ下がっていて、その舌の先から糸を引きながらダラダラと地面に落ちていく赤黒い粘りのある唾液は、遠く離れているハルナにも血なまぐさい匂いを運んでくるかのように思えた。



恐怖で硬直する体。



息がうまくできない。意識が薄れていく。


細い鎖で繋がれている犬の首輪の部分がグニャリと歪んでいるように見える。猫の首輪ほどに細いのか、それとも馬の首ほどに大きな首輪なのか、実体が掴めない。

歪んで見えるのは、首輪の辺りだけではなかった。


その犬自体が、蜃気楼のように揺れているのだ。


自分の意識が朦朧としているからなのか、それとも目の錯覚なのか・・


犬を連れた少年は何事もないかのように、犬のリードを片手に持ち、スタスタと視界の端へと消えていこうとしている。



過呼吸なのか、貧血なのか、キーン・・という耳鳴りがし始めた。

目の前の視界がぼやけ始める。


ヤバイ、体、お願い、動いて・・・私・・逃げないと・・



後ろを振り返り、海に背を向けて堤防の階段をふらつく足取りでのぼり始める。

ポケットから携帯を取り出して、リダイヤルボタンを押した。

もはや、文字がかすんで見えない。誰にリダイヤルしているのだろう。それももうわからない。


堤防の上まで登ったところで、視界が真っ白になりはじめ、耳鳴りは頭いっぱいに広がり、何も聞こえなくなってきた。


最後の力を振り絞り、携帯の通話ボタンを押す。

何度かコール音が鳴ったのだろうか。よくわからない。


「助けて・・赤い犬に・・殺される・・たす・・け・て  砂浜なの・・・・砂・・浜」

受話器の向こうから、留守番電話サービスの乾いた音声が、かすかに聞こえてきたように思えた。


こち  らは 留  守番・・発信音の後  に ご・・用・・・件


「助け・・・て・・赤い・・大きな犬に・・ころさ・・れ・・る・・たす・け・・」


プツリ・・


通話が途切れた。


受話器を持つ腕に力が入らなくなっていた。


グラリ・・


景色が揺れて地面が急速に目の前に迫ってきた。


何かが地面にぶつかる鈍い音、激しい振動が体に伝わった。


最後に見た景色は、赤かった。


かすれゆく意識の端で、老人の顔を持つ犬が、こちらを振り向いて不気味に笑ったかのように感じた。


ああ、きっと自分は死ぬのだ・・

こんなことならもっと好きなことをしておけばよかった。

何気ない一日のはずだった。


なのに・・


そんな・・・・


わたし・・




夕闇の暗いベールに包まれながら、薄れゆく意識の中で絶望を噛み締めていた。


そして、ハルナは暗い闇へと落ちていった。


暗い、暗い闇の中へ・・・・

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