弟
軽いグロ描写、非倫理的描写があるため15禁です。
どんな事があろうと、日常は続く。
弟が死んだ翌週は、雲ひとつない青空が広がっていた。
いつも通りにアラームに起こされ、コーヒーを少しさまして一気に喉に流し込む。
顔を洗ってカフェインが効いてきたら、ジャケットを羽織って部屋を出る。
家の前の道路沿いの石段を降り、一呼吸。
冬の澄んだ空気は私の肺を綺麗に冷やし、出ていった。
電車にぎゅうぎゅうに詰められるのも、
100人はいるだろう広い教室の中ひとりで隅に座るのも、いつも通りの光景だ。
窓際の席に陣取り、スマホで今日のニュースをチェックする。
愛らしい猫がティッシュボックスで遊ぶ様子をレポートしたものや、最近起きた殺人事件を流し読んだ。
もちろん、弟の葬式については載っていない。
弟の死は、なんとも歯切れの悪いものだった。
苦しみを吐露した遺書があった訳でも、加害者がいた訳でもない。
確かなのは彼は高所から落ち、死んだということだ。
ただ状況から自殺の可能性を警察には仄めかされていた。
一体何が弟を自殺に追い込んだのか。
弟、と言っても血の繋がりは半分の弟だが、彼は良い人間だった。
真面目に勉強をしていたし、コミュニケーション能力の欠如した頑迷ともいえる私にもフレンドリーに話しかけてくる、数少ない人物の一人だった。
明るく快活で友人も多くいるようで世渡りも上手く、前途洋々とした人生であるはずだった。
「おはよう、ひさしぶり。七尾がサボりなんて珍しいよね。」
授業前に考え込んでいると、
校内の唯一の友人、ミサキが声をかけてきた。
ミサキは友人が多い。
なにしろ私のようなコミュニケーションする気があるのかわからない人間にも話しかけてくるぐらいだ。
ミサキが話したことのない人間は同じ学年にはいないのではないだろうか。
恋人も友人も沢山いる奴だったが、いつも一人でいる私のことも気にかけてくれていた。
基本的にやさしいのだ。
「風邪でもひいた?」
「まあ、そんな感じで。ところで、もう少しシャツを閉めたほうがいいんじゃ?」
弟の葬式なんてヘヴィな話題を朝から出すわけにはいかず、曖昧に答え話題をミサキの開きすぎた胸元にすり替える。
「セクシーすぎて気になる?気になっちゃう?」
胸元を寄せてにやにや笑うミサキにため息をついて、否定する。
年末ということで、外で酒を飲んだ。
何故か、ミサキとミサキの恋人と一緒に。
ミサキの恋人のひとり、城崎はバンドのメンバーで痩せ型でいつも黒いジャケットを羽織っている奴だった。
ミサキはセイちゃんと呼んでいる。
城崎は綺麗な指を持っていたが、皮が一部硬くなっているようだった。
私では指が足りないからギターを弾くのは難しいのだろうか、とぼんやり考える。
ミサキが選んだ店は和洋折衷なつまみを置いたチェーン店の居酒屋だった。
店名が書かれた赤いのれんをくぐり、席に着く。
パネル操作で注文を済ませると、明るくミサキが校内の噂話や最近の流行りの音楽やドラマの話をし、城崎がバンドの近況を話しだした。
私はというと、正直気まずいので終始鮭とばをかじりながら薄い酎ハイを飲み、うんうんと相槌をうっていた。
店を出る時には足がよろけ、視界が歪んでいた。
久しぶりのアルコールに、体がついていけなったようだ。
「飲み過ぎた?」
「いや、大丈夫。大丈夫だけど…」
脳が痺れ、心地よい酩酊に身を任せると何かから解放された気分になった。
雨がぽつぽつ降り始め、色とりどりの傘が空に向けて花のように開いていく。
冷たいブルーのネオンサインや滲んで見える街灯が、まるでモニターの向こうの映像のようで。
非日常的に思える世界に目がくらみ、座り込んでしまう。
ふと弟が、もしかしてこの世はなにもかも見かけだけの作り物じゃないかな、と言っていたのを思いだした。
愉しいとか、哀しいとか、そういう現象は実在を物質的に証明できていない。
つまり、そんなものはただの現象であって本当は存在していないのかもしれない。
そんなことを弟は言っていたが、私には今それが小さな救いになっていた。
この、弟が死んで悲しいという心情も存在しないなら消え失せるだろう。
冷たい雪が積もっているようなもので、雪はきっといつか溶けて消える。
そういえばミサキに君を友達だと思っているけど、この感覚は本当に存在するんだろうか?とついつい聞いてしまったことがあった。
その時のミサキは大笑いしていた。
ミサキが心配そうにこちらを見つめる。だが、それもなにか現実感がない。
ミサキの夜景を反射する瞳が、ガラス玉のようだった。
リアリティを感じられない頭で酔いに任せ、胸につかえていたことをつい吐き出してしまう。
「弟がいたんだけど。
先週死んだんだ。
それで休んでいたんだ。」
はあ、と酒臭いため息をついて私は続ける。
「あいつはさ。
良い奴だったんだよ。
とても、良い奴だったんだよ。」
私はそればかりを繰り返した。
悪いところも勿論あったけど、
本当にいい奴だったから。
ミサキをぼんやりと見上げる。
ぱたぱたと頭に落ちる雨が、あごを伝う。
もしかしたら、涙だったのかもしれない。
ミサキはそっか、とだけ言って。
城崎は何も言わずに頷いてくれた。
帰り際に二人になった時、
慰めのつもりか城崎が教えてくれた。
「ミサキにも妹が居たんだよ。
殺されて、指を切り取られたんだって。」
よろけながらもなんとか歩き、
家にたどり着く。
玄関でホームセキュリティによりパッとやわらかい光が注がれる。
母の寝室はいつも通りに冷たく静かだった。
夢を見た。
弟の夢だ。
弟はいつも通りに朝食を食べている。
私に気がつくとおはようと挨拶をくれて、コーヒーを淹れてくれる。
私がお返しにヨーグルトをだして置いておくと、ありがとうと笑ってくれる。
つられて私も笑顔になる。
毎朝がそんな風だった。
そんな朝が好きだった。
他人とズレた感覚をもっている自分でも、毎朝分かり合える弟と話せるのが救いだった。
これは夢なのか、記憶なのか。
そんなことを考えていると、朝が来て全て消え失せる。
目が覚めたものの、早朝だった。
まだ外は暗い。
冷気を吸い込んで決心する。
アレを返してあげよう。
ミサキはいい奴だから。
メールでミサキを人気のない校舎の裏に呼び出した。
「なにー?告白?」
いつも通りにニコニコ笑っているミサキをみながら、おもむろに手のひらより少し大きな箱を鞄から取り出す。
不思議そうな顔をしたミサキに、箱を開いて見せた。
弟の『趣味のもの』が詰まっている箱だ。
ミサキが息を飲む。
「弟のなんだけど。この中にミサキの妹のも、あるとおもう。返した方がいいと思って。」
ミサキが目を見開いている。
口も開かれ、だが何も言葉を発することなく閉じられる。
ミサキが虚ろな表情をする。
ネガティヴな感情を見せることなんてそうそうないミサキが。
少し俯いて、顔をあげた時にはミサキの表情からは何も読み取れなくなっていた。
「七尾の指も、弟にやられたんだ?」
私は静かに頷く。
「もう捨てたから、この中にはないけど。そうだよ。」
弟は良い人間だった。
他人の痛みがわからないことを除けば。
初めて弟が人の指を切ったのは、五年前。
私の指を切りおとし、私の首を刺そうとしたところで家族が減るのは嫌だからと思い直して殺さなかったのが最初だった。
その後薬液に浸すこともしなかったため指は腐って土に埋めることになった。
埋める時に弟が酷く哀しそうな顔をしていたのを、覚えている。
あの指がすきだったんだ。姉さんの、繊細な動きをするあの指が。
そう言って、似た指を求めて夜な夜な女性を襲うようになったのが二年前。
殺さなくてもいいんじゃないかと伝えたこともあったが、彼はただいたずらな笑顔でこういった。
でも、その方が僕はいいと思うんだよ、姉さん。
口が三日月のような弧を描いていた。
母はこのことを知った翌日に首を吊って亡くなった。
すこし首が伸びてしまった母を見ながら、二人だけの秘密にする約束をした。
母が死んだ時、私達はあまり哀しみを感じなかった。
通夜でお悔やみを言われ、神妙な顔をし続けるのは大変だった。
これが少し普通ではないことは私達にもわかっていた。
弟の手による殺人が感覚を鈍くしてしまったのかもしれないし、生まれながらにそうだとも思えた。
その日の夜は二人で公園に行き、冷たいベンチに腰掛けた。
星がよく見える夜だった。
弟はのんびりと白い息を吐き出しながら、話し出した。
姉さんの首は切らなくてよかった。
父さんはいないようなものだし、ひとりになるところだった。
姉さんがいないと、僕は嫌だな。
その時の弟の笑顔は、めずらしくあたたかく見えた。
「七尾は、弟を恨んでないんだ?」
「恨んではないね。」
「指を切りとられたのに、犯罪者なのに。どうして。」
結局、ミサキは指を受け取らなかった。
どうして恨んでいないかって?
私たち姉弟にしか、わからないものがあったからだ。
頭のおかしな、私たちにしか。
もう誰にも伝わらないこの思いは、
私のいびつな心に沈んでいった。
閲覧ありがとうございました。