たどり着いた灯り2-2
教室の後部、窓側に立つ覧を見据えて、廊下側に立つ坂谷が、――廊下の扉に背を向けた坂谷が、声を紡ぐ。
「私がそもそも服飾をやるようになったのは瑞人くんがいたからだよ。向こうだってその認識があるに決まってる。だったら責任を取らないとね。えへ、大丈夫。何年も付き合いはあるけど、あいつ、そのへんを間違えるやつじゃないからさ。へへ」
『成長するごとに世界は広がるが、自分もそれに合わせて広がるとは限らない。だから恐怖する。恐れれば人はどうするか? 脅威から目をそらす。彼女にとってのその手段は、夢を追いかけて走ることから逃げ、隣で走っていた人間が、自分を助けに来てくれる妄想を大切に育てることだった』
「真っ白いらくがき帳に何かを書こうとして、最初の一筆目で止まった経験は? 歩いていて、ここから先に進めば後戻りできない場所に進むと理解して、足がすくんだ経験は? 自分のもの以外全てがものすごい速さで巨大化する夢を見たことがある? 私、最近そんな経験ばっか。学校に来るのだって嫌になった。夢が必ず叶うっていう言い回しは公害の一種だよ。でも、瑞人くんがこの場所にいるって知ってたから、毎日ここに来れてるとこある。これって要するに、瑞人くんも私のことが好きってことでしょ? 彼はきっとこつこつ努力してる。そして、迎えに来るんだよ。暗い部屋の中一人ぼっちでうずくまる私を見つけて。だから待つの」
『そこにあるはずなのに絶対に見つけられない幸せの印が、向こうから飛んできてくれる、妄想を』
「約束なんてしてないけれど……」
『坂谷あかり――彼女の持つコミュ症を、』
「きっと彼がアタシをこの狭い街から連れ出してくれるって信じてるから!!」
『“アイデンティティクライシス:青い鳥”と診断します!』
瞬間、覧は幻視した。坂谷あかりの足元に、ちょうど彼女から見えない位置に、鳥かごを。中には青い鳥が入っている。飼い主はどこか別の場所を探しているから、いつまで経っても籠から出してもらうことも、飛び立つこともできないでいる。
目をこする。
よく見なくても、坂谷あかりの目は、完全に瞳孔が開ききっている。
ホラー映画に出てくる殺人犯のような狂人の顔つきだ。
だが、恐怖は感じない。はじめから他人事だ。あるいは、ランの呼びかける声が聞こえているからか。
『落ち着いて下さい。プレコックス線に呑まれないで。どうしようもないと思い込んだことに対する狂気くらい誰でも持っている。私たちは今からそれを治すんです。彼女を治すことで、覧を治す!』
「……大丈夫。すごく落ち着いた。いやはじめからずっと落ち着いてる」
とりあえずランの指示通りに動いてやればいい。そのことだけはわかった。
「なあに?」
完全にキマった表情の坂谷が、覧を見据える。
『そんなお前にプレゼントだ』「そんなお前にプレゼントだ」
「え?」
「『これを見ろ!!』」
ばーんっ!! 覧はタブレット端末を教室後部側の黒板に叩きつけた。「え? え?」坂谷は困惑している。覧も困惑した。少し叩きつけすぎたかもしれない……。液晶が割れてたらどうしよう?
「それは?」
「電子書籍アプリの入ったタブレット。安い中華タブレットだけどな」
「そう。……ええと、それが?」
一度目の質問だけじゃわからなかったようで、もう一度質問が飛んできた。
「この小さな端末の中には二万冊程度、ファッション関連の書籍が入っている」
「そうなんだ。……。……? ……!? そうなんだ!?」
二人で画面を覗き込む。勢いよく黒板に叩きつけたが、幸い表示に亀裂が入っているようなことはなかった。覧がぺちぺちと画面を指で叩き操作すると、(22014)という、アプリの中の蔵書数が目についた。
「プレゼントだ! 読め! 叩き込め!」
「ほんとだ。ほんとにたくさん本入ってる……」
「やる」
「ええ……」
「やるって」
「いや……あのさ……」
「何」
瞳孔が開いたまま、困惑しているようで、何度かほっぺたを指で掻いた。
「意味がよくわかんないっていうか……多分私が頭ついていってないんだね……そもそも二万冊って何? そんなに読めないし……というか、ねえ藤堂くん、犯罪とかしてないよね? セールで一冊百円だったとしても、二百万円だよ?」
心外な疑われ方をしてしまった。他の人間ならともかく、藤堂覧が犯罪行為を行うなどありえない。人に迷惑をかける犯罪者は、全員殺処分すれば良いと思っている。
このタブレットを、ランの指示に従いながら、どうやって入手したか説明する。
「自分はとある心の病気にかかっている」。「それをどう治すか主治医と相談した」。「治すには、周囲の人を助けて回ることが必要ということになった」。「このタブレットはその主治医が用意したものだ。金持ちな主治医なので普通に買ったものだ。安心して構わない」。
「また急に早口になったね? 凄く怪しいんだけど……」
全く納得してもらえなかった。
「嬉しくないのか」
「いやいやいや、嬉しいとかそういう気持ちすら無いし! こんなもの、『やったーありがとう』、で貰えないって」
完全な拒絶に向かっている。これは大丈夫なのだろうか? 覧は訝しんだ。それにしても、よくわからない……。やりたいことがあって、それをするのに役に立ちそうなものが目の前にあるのに、なぜ手を伸ばさないのだろう。自分には、それが両方ないから、わからないのかな。
『覧、私の言葉に従い、坂谷あかりに話しかけて下さい』
再度、今度はランの言うとおりの言葉を紡ぎ、坂谷を説き伏せる。
『このタブレットは既に服を作る人間にしか役立たないものになっている。服を作る人間にしか役に立たないのだから、坂谷あかりが手に入れるのは当たり前』『私は貴方という可能性に投資した。そう、既に投資してしまった想いを、買い戻すことなどできはしない』『俺の主治医は俺だけではなく貴方も応援したいと願っている』『心の問題は時に死に繋がる問題だ。なのになぜ、人を死から救うためには何でも許されるこの世界で、人を心から救う際には何でも許されるということはないのか。心の問題を癒やすためなら、何をしても許されるのが正しい。このことに関しては、世間は全て間違っている』
「え? うーん……確かに?」
延々十分くらい説得すると、坂谷はぐるぐる目をまわした。
『よし、おーけー。最後の一タップを押して下さい。――あー残念だ、やっぱり、坂谷はアナログ派か。わかるよ、俺もスクラップとかしたいし』「ダメか? うーん。……やっぱり、坂谷はアナログ派ってか? わかるよ、俺もスクラップとかしたいし」
行き場がなく、反応の方法がわからない話題の終わりをようやく見つけて、それに飛びついてくる。
「そ、そうそう、スクラップとかね。デザインのネタを集めるためにスクラップとかしないといけないから電子書籍だと足りないからごめん、そんなものは受け取れ――」
「そういうと思いましたッッッ!!」
女子小学生の絶叫が拡声器をもとに町内に響き渡る。そして続く同一人物の絶叫はなおさら大きく濁点まみれだった。
「オ゛ラ゛ァ゛!!!」
キィイイイインバキィガリバリガリバリ!! 大声に伴うマイクの啼き声のあと、メチャクチャな音を立てて、校舎が振動した。「うっそだろお前」「え何」二人は窓――音と揺れの発生源に駆け寄る。3トントラックの尻側が校舎の壁をぶち壊して突き刺さっていた。もうもうと土煙が立つ。
「ファッション雑誌のバックナンバーです!! 適当に出版社駆けずり回っただけですけど、そのタブレットの中と同じくらい入ってます!! 直にお届け! 好きなだけスクラップしてくだざい゛!!!!」
二人は呆然とした。一応、覧は前もって、「物理的な保険としてトラックに大量にファッション誌を積んでくる」とは聞いていたが、保険って何? これのこと?
「校舎をスクラップにしろとは言ってねえ!」
というかよく見るとランが座っているのは運転席だ。
「免許は!? 道交法を守れ!!」
「道交法ぉ? あんなもん誰も守ってませんよ! 高速に行けば皆さん120出してますからっ!」
「速度違反と無免は流石にちげえだろぉ!?」
「同じですうううーー~~!! 同じ法律違反ですぅぅぅぅーー~~っ!! 違いを論理的に説明してくださいぃぃいいいいーー~~っ!!」
「子供か!」
覧の言葉を無視し、ラン――コミュ症科医師ブランシェは、改めて拡声器のスイッチを入れた。
「逃げないで! 邪魔者はブッ殺せ! 邪魔物はブッ壊せ! データを集めるんです! 足りないならかき集めましょう!! 鳥は一見生まれつき飛べるように見えますけど、最初はなんかこうキモい毛が生えた恐竜の出来損ないみたいなやつが、空を飛ぶことを諦めずに、うん千万体の同胞の死体を踏みしめて、今地球の空を制圧してるんです! 青い鳥なんて一匹残らず焼いて食ってしまえばいいっ、そのためのデータを何万冊分だって集めるんだ、私にできるお手伝いは、しますからっ!!」
そこまで言い切ると、はぁはぁと荒く息をつく。
しんとした。覧も坂谷も何も言わない。
ランは、本当に疲れたのか、あるいは自分の発言に照れたかなんかしたのか、二十秒くらい呼吸したあと拡声器のスイッチを切らないまま子供特有の舌っ足らずな声で一言ぼやいた。
「はあしかし疲れました……帰ってスマホゲームがしたいです……」
とうとう坂谷は笑った。
「ぷっ」
一度笑いだすと止まらない。ハイになっているのと合わさって、やけくそみたいになって、肩を震わせて笑う。
「あは、ふふ、あは、滅茶苦茶……マジ滅茶苦茶だよこれ……ぷくっ、ぷははははっ」
「どうした? 頭おかしくなったのか?」
「頭おかしいのは君らだよ。これどうすんの?」けらけらと笑う。「収拾つかないじゃん」
「? まあ、でも学校なんていくら壊れても誰も困らないだろ」
「私は困るよ、友達たくさんいるもん」
そうして二人で話していると、
「何やってる!?」
大声の、男の叫び声が聞こえた。多分教師だったっけ? 窓から顔を出さないように外に耳を傾けると、女の声、男の声、放課後でだいぶ遅くなったからか生徒たちの声はあまり聞こえないが、騒ぎになっていることは間違いない。
当たり前だ。騒ぎにならないはずがない。
「ヤベエ、せんせーだにげろ!!」
ランはそれを見るやトラックを駆り一撃でこの場所から逃げ出した。
「アイツ手慣れすぎぃ! って俺らも逃げないと。思いっきり会話しちゃって、無関係は装えないだろうし。行こう! 走ろう! 逃げよう!」
覧は坂谷に向かって手を差し出した。
「ぇ……? ぁ、うん」
一瞬呆気にとられた坂谷。
だが、不思議そうな目でじっと覧を見つめてから、やがてその手を握り返した。