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VSシステム

 間接照明がどことなく雰囲気を演出する小さな部屋の中で、二人の男女が向かい合っている。

 男の方は青年と言った風貌だ。特に特徴はないが、少し垢抜けない印象がある。

 その事をよくよく観察し、前の面接から特に風貌に変化はないかだけ、チェックする。優秀な同業さん達のように特殊なテクニックを勉強することはできないが、クライアントの変化に気を配ることだけは、怠ってはならない。


「じゃあ、すみません。今日もよろしくお願いします、縫先生」


「はい、よろしくお願いします」


 両手を合わせてにこっと笑って、縫と呼ばれた女の子は笑った。


 彼女の名前は森弧もりこぬい。ブランシェ・夕野と友人関係の、女子高生コミュ症科医だ。少女というには成熟しているが、女性というには未熟な年頃で、天然パーマか人工パーマかは不明だが、ぐりんぐりんうねっている無秩序な長髪とは逆に、端正な顔立ちが、上品でシックな服装で飾り立てられている。


 森弧の治療はコミュ症科医としては少し特殊な形を取る。通常コミュ症科医は、臨床心理学を補強した西洋的な学問体系を使うことが多い。しかし、森弧は違う。森弧は、祖父が生み出した精神病の民間療法、「森弧療法」を主に使う。森弧療法とは「全ての精神病の源泉は『○○しなければいけない』という義務感だ」という基礎理念のもと、田舎での共同生活等、さまざまな方法によってそのヒステリー的義務感を取り除く療法のことだ。

 使う、と言っても意識的に使っているわけではない。森弧縫は、祖父森弧晶馬から森弧療法を、森弧療法という概念を知らないうちに、生活の中で叩き込まれた。だから、森弧療法を――たった一人の老人から生み出されたにも関わらず西洋医学にも通じる一つの治療体系を――無意識のうちに行使できる。


 だから、そう、男女二人で何をやっているかといえば一つしか無い。カウンセリングだ。


 青年は元鬱病。親の介護とまあまあ激務な正社員の職の間で板挟みになり発病、その後は非正規雇用で細々と食いつなぐ毎日とのこと。いつ潰れるかわからないし、親の介護で拘束時間が長いので、正社員職はやれない。


 世間では無視されがちだが、コミュ症患者の仕事はコミュ症に対する対応だけではない。寛解(※病状が落ち着くこと)した元精神病患者のケアも代表的な職務の一つだったりする。

 コミュ症を独自の理論で華々しく解決し、それを喧伝して実績をつけていくようなコミュ症科医は多いが、森弧はこういう仕事も断らずに行う。

 確かに、コミュ症科医はコミュ症の治療が本懐、と言えなくもないのだが、結局の所人々の心の健康をなんとかする職業であることを考えるなら、予後ケア系の仕事から逃げる道理はない。


 カウンセリングは概ね順調に進む。資格の勉強は順調のようだ。勉強するのはいいことだ。いま頭がどのくらい動いているか、体感的にわかるから。資格が取れれば在宅だの時短勤務だのの条件のいい仕事にありつける確率も高くなる。ただ、お父様の病状が良くない。不安でたまらないようだ。薬を使っても不安から逃げることはできないから、丁寧に聞いて、気持ちの全てを人に吐き出せるようにする。

 他人の問題は切り離して考えなければならない。自分が職業を演じているという意識を忘れず、定期的にカウンセラー向けのカウンセリングを受ける。そうしなければ暗闇を覗き込んで暗闇に落ちてしまう。

 森弧のカウンセリング技術は、祖父から受け継いだ、西洋医学と切り離された独自の体系だが、基本と根本は相違ない。


 そしてカウンセリングの最後に、「そういえば」と青年が話題を振った。


 給料が一割足りない。らしい。

 お金の足しにするため、日雇い派遣に登録して、働いた日中に給料が振り込まれるような仕事を何回かやった。

 すると、給料から一割引かれて支給されていることに気づく。

 中抜きされているのか、そういう慣習なのか、クライアントは測りかねている。


「それは、源泉徴収だね」


「源泉、徴収……?」


 青年は不思議そうな顔を作った。

 たしかにそんな顔をする理由もわかる。

 結構意味不明な日本に存在する不思議制度の一つだ。


 森弧は両手をこめかみに当てて説明を考えようとした。


 だが、できなかった。



 頭痛が、する。


 なぜ、この青年は、これまで曲がりなりにも社会人としてやってきて、源泉徴収を知らないのだろう。



 説明しよう。

 源泉徴収とは、大雑把に言えば、税金の自動前払いシステムである。会社や個人が行うさまざまな取引の際、予め動く金額の一割を、国に納めることをいう。つまり、彼の今回の相談の場合、会社が個人に与える給与や報酬から、前もって一割、国に持っていかれたのだ。

 税金を払いすぎていると思う個人は多くとも、税金を払うこと自体に文句がある個人はいないだろう。だから、源泉徴収分を国に持っていかれたというのは別に悪いことではない。この源泉徴収は、あくまで「追加の税ではなく」、「前払い制度」である。あとで支払う税金と差し引きできるというわけで、大部分の個人や企業にとっては、どうせ支払うことになる税金だ。


 ……大部分の個人や企業にとっては。


 日本の所得税は累進課税制度を採用している。給料が増えれば増えるほど税金が上がっていく。その税率は、年収約200万円までは5%。そして年収400万円までは、200万円を超えたぶんだけ10%。単純に考えた例で、たとえば年収300万円なら、200の5%と100の10%で、20万円の税金を払うことになる。

 極めて単純な例だが、源泉徴収制度を黙って受け入れると支払いは30万円で、「払い過ぎる」。


 一応、ではその分は払い損で、戻ってこないのかといえば、そうではない。

 書類を書けば、払いすぎた分は戻ってくる。還付の申請をして、全額きっちり取り戻すんだ。

 森弧は枠組みとしてはフリーランスの社会人であり、パソコンや仕事用の服や本を買えば、経費として利益と税金を削減できる。このカウンセリング室は市内の事務所を借りていて、全額経費で落とせたりするし、税理士、トラブル時用の弁護士、セルフメンテナンス用のカウンセリング代、さまざまな支出があって、かつ源泉徴収制度は支出のことなんて気にせず一割持っていく。だから、毎年払いすぎた分の還付金が戻ってきて、森弧は毎年それを、ちょっとしたお小遣いとして楽しみにしているフシさえあった。


 でも、それは還付金を申請しているからの話だ。

 当然、目の前の青年が、源泉徴収を知らないけど、昼寝中に夢遊病者のように飛び起きて、税務署に行き、申請書類を書いて、また部屋に戻ってきてぐっすり寝て、すっかり忘れてまた起きる、なんてことは有り得ない。有り得るはずがない。


 彼は人生でたくさんの金額を損している。


 貧乏で、お金がなく年収が一定ラインを超えず、その上で知識がないから、年に数万円以上の金額を、無為に失う。


 ……彼が悪いのか?


 ……そんなはずはない。


 では、……こんなシステムを作った人間が悪いのか?


 そうではない。源泉徴収制度がなければ、税務署の仕事が積み上がる。だって、わざわざ全部確定申告を請け負わなければいけない。今よりずっと、監視の目を厳しくしなければならない。

 少しでも社会に出たことのある人間にはすぐにわかることだが、国家の犬とは激務である。

 今より仕事を増やせば、辛い思いをする人はきっと出る。


 確かに税務署の人間が、広く源泉徴収制度について知らせる努力を怠っているのは事実かもしれない。だが、駆け出しの頃、税理士を雇うなんて発想がなかった頃、税務署の職員にはとてもお世話になった。彼らはとても親切な仕事をやっている。本当に、そう思う。これ以上彼らに求めるのは無理だ。

 教育でカバーする? 二次識字率(※最近できた概念。中学教科書程度の文章の文脈を理解する力のこと)が40%を切っているこの国でか?


 誰もがちゃんと確定申告をして納税しているわけではないから、源泉徴収をなくせば未払いの税金も増えて、税収もいくらか減るかもしれない。

 そうすれば道路も学校もいつかはボロボロになって消えていく。


 では、……誰か税金を奪っている者がいるのか?

 誰かこの世界に悪者がいて、そいつがこの国の税金を掠め取っているのか?

 たとえば、政治家か?


 政治家の給料は、よく非難の的に上がる。

 「彼らは庶民の我々と比べ貰いすぎている」と。

 だが、彼らは勘違いをしている。

 「政治家が給料を貰えない国では、賄賂が横行する」。


 それに当然、給料が下がれば、政治家になりたい人間が減るために、政治家の質も下がっていく。この国に政治力がないのは、ひとえにいって政治家が憧れの職業ではないからだ。クソみたいな政治家が多いといいたいのなら、まず政治家の給料を上げる必要がある。

 現実を直視しなければならない。給料を下げるとは、責任を支払わないということだ。

 最後のバッドエンドには、今よりももっとずっと無能な政治家の政治的失敗によって、お隣さんのミサイルが、きっとこの国のどこかに落ちてくる。


 確かに、政治家なんていらないほど幸せな世の中になれば……税金なんて払わなくて済むのはその通りだ。

 では、……お隣さんの国の指導者が悪いのか?


 悲しい~~~~~~~~~~~~!! 悲しい~~~~~~~~~~~~~~~~!!!


 泣き叫ぶデブを幻視した。彼は泣き叫んでいる。

 今この瞬間、彼には発生したのだ。この国を率いる責任が。


 攻撃戦だっ! 攻撃戦だっ!!


 大国が立ちはだかっても足踏みはしない。雷のように浸透、ギリギリの外交を行い、発覚するたびに謝罪し、最後は大国を直接攻撃できる程の技術力を手に入れる。前へ前へ前へ……前へ!! 「あれ」さえ作ってしまえば防衛力の保持は最低限でも済む。「あれ」を作ることで国際的な非難は浴びるが、やりようなどいくらでもある。では聞くが、「あれ」を放棄させる理由は何だ? 筋が通らないだろう、なぜ今すぐにお前らは、その「あれ」を捨てないんだ?

 守りを固めることができたら、ベトナムを参考に国を作り変える! もっと豊かな国を! もっと豊かな生活を!


 父祖から受け継いだこの国を、世界に名だたる国にするのだ!

 一人でも多く、この国の国民を幸福にするのだ!!



 いない。いない。探しても、探しても、探しても、探しても、どこにも悪者がいない。

 特定の悪者がいない。

 いるとすればそれは……「仕組み」だ。

 世の中の人間を特定の方向に動かしている、見えない力。

 眼の前の青年も、税務署職員も、政治家も、独裁者も、全員、見えない力によって操られている。その自覚があるかないかは属性によって違うだろうが、その力から逃れることは決してできない。この世界に生きる以上は。生きていく以上は。


 バーサス、システム。

 システムだった。わたしが今、悪いと考えなくてはいけないのは、システムだった。

 悪い相手とは、戦わなくては。お伽話の中ではそうなってる。

 でも、システムと戦うなんて、人には無理だ。


 ブランシェが好むような、主人公が超強力な力を持つタイプのウェブ小説の主人公とかだったら、世界を全部敵にまわして戦っても、なんとかできるんだろうか。魔力で、意思で、約束で。現代なんて言葉を使ってるくせして、未発達で、目の前の青年クライアントさえ救済のザルで掬えない、世界という名の中世も、ウェブ小説の主人公になれば倒せるだろうか。

 避けられない理不尽もこれ以上がないシステムも起きてしまった過去も、全部まとめてぶっ壊せるだろうか。

 でも、わたしはちっぽけなコミュ症科医だから、起きてしまった悲しい出来事の、発生してしまった苦しみの、傷をごまかすことしかできない。



 しゃくりあげた。


「っ、ひぅっ……っ」


 青年が怪訝そうな顔をしたのが見えた。けれど、止められなかった。


「っ、っひっ、……なんで、なんだろうね。なんで、なんだろうねえっ……っ……」


 森弧はいつの間にか泣いてしまった。

 ぽろぽろと流れる涙を、指と、手のひらで拭い取る。

 淡くつけている化粧が崩れるのがわかるが、いまさらどうしようもない。


「どうしようもないの……どれだけ考えても、どうして……」


「はぁ……?」


 青年は呆気にとられている。

 変な人なのは理解しているが、ここまでとは思ってなかったという顔。肩に手を当て、事態をおさめようと、「大丈夫ですか?」と聞く。


 試みは無駄に終わった。

 森弧はいつまでも泣いている。

 いつまで経ってもただ泣いてるだけなので、だんだん青年も泣けてきた。


 カウンセリング時間を大幅に超過して、三十分間、青年とずっと泣いて過ごした。

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