アポロ計画捏造説
「おはよおおおおおおおお! おやすみいいいいいいいいい!! 寝るなあああああああああああ!?!? みんな、元気ぃー???」
ぶわーっと画面の中のコメントが更新されていく。そのどれもが、彼女の可愛さを讃えるものだ。
いや、「彼女の」というには誤りかもしれない。なぜなら画面の中に写っている配信者の姿は、アニメ調の3Dモデルだからだ。
だから、あえていうなら、「画面の中の彼女」という言い方がふさわしいのかもしれない。画面の中の彼女の可愛さを讃え、仮想の存在に対する無数の祈りが、祝詞のように繰り返される。
電気をつけない、広く暗いラブホテルの一室で、ちかちかとパソコンの画面が明滅している。ぽちっと手元の小さなリモコン状の機器を操作すると、現実の彼女は表情一つ動かさないまま、画面の中の3Dモデルが糸目になって笑った。
「何やってんだ、もち…………委員長」
よほど自分の中に入り込んでいたのか、あるいは神楽のように何かが取り憑いていたのか。そこでようやく望月遥香は振り向いた。
――何、親フラ?――
――今聞こえたのって 委員長 じゃね? 設定じゃなくてマジで学生だったの?――
――こんこん大丈夫? セックスする?――
猛烈な速度で流れるコメントを、機械音声が読み上げているようだ。望月がつけているヘッドセットから、音が漏れている。機械音声の音は、気が抜ける。
「とりあえずそのうるせえの切れば」
覧が言うと、望月は黙ってその通りに従った。画面からキャラクターが消え、おそらく音声も切れたのだろう、画面の中は、いなくなってしまった配信者を惜しむ声でいっぱいになった。
「あなた達は何? わたしに用事? 私に用事?」
※
ラブホテルの一室は、機材によって埋め尽くされていた。一つ一つはあまり大きくない。きっと全て集めても、一つのリュックに収まるだろう。それでもカメラやパソコンが部屋の一角を360度取り囲んで配置されていて、ファンシーなラブホテルの一室を、本当に占領していると感じる。
「スタジオってわけか。望月専用の」
防音がしっかりしており、邪魔が入らず、専門のスタジオを借りるよりは安い。
少し高めの値段のラブホテルを選んだのはおそらくそういった損得勘定を弾いた結果なのだろう。
「何しにここへ来た? 私を追っていたのも、これを暴くためか?」
「そうなのかな? ラン、そうなのか?」
「暴くためではないです。貴方を治すためです」
「意味がわからない。私の素顔に興味があったのか?」
「素顔に興味があるってのも意味がわからないな。お前ここで何やってたの望月?」
「何も知らないで、ここに踏み込んだのか? それこそ意味がわからない」
めちゃくちゃになる会話の中、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して、望月は独り言を呟いた。
「四天王クラスでなくても、今どきは有名な二次元配信者ならば一動画十万再生は軽い。某広告代理店のありがたい介入によって、二次元配信者の裾野は一気に広がった。この動画配信サイトで広告サービスと契約すると、一再生につき十分の一円私に入ってくる。私は複数の人格を所有しており、一回につき二時間、平均三つ程度の動画を取り、外部の動画編集技術者に委託した。毎日毎日視聴者たちに動画を再生させ、私はアルバイトの給金も含めて月に三十万円程度の金を手に入れる。好きな自分で生きていく――私はそれができているはずだった」
「そうなんだすごい。すっげえ。すごいじゃん」
無感動な性分のため、傍から聞いていると全然すごいと思ってないと思われてしまうかもしれないが、覧はそれなりにびっくりして、感心していた。
自分の力で、フェアに、金をきっちり稼いでいるなど、想像の埒外の遥か先だ。
うらやましい!
かっこいい!
「すごくなどはない!! こうして、私自身を暴かれた!!」
叫び、よくわからない名前で彼女を呼んでいた、パソコンの方を向く。「仮想の存在は暴かれてはならない。仮想の存在は仮想の存在だから憧れを集め想いを浮かべる。そう、私はこの領域において優れることを放棄した。世界からの侵略に、敗北した」
「えーっと? 大丈夫?」
「私は、失敗した」
「何が?」
「私は、失敗した」
※
望月は繰り返し「失敗した」と呟く。
呟く度に、望月の瞳から光が失せる。
最早覧たちの姿など視界に入ってないみたいだ。そう感じた。
失敗した、失敗した、小声で何度も何度も呟き、自分を攻め立てる。
そして、行き着いた先は――
「失敗した。私は、失敗した」深い呼吸。「……だから、次の私を作ろう」
「次の私」とやらだった。
ふらふらと歩いてたどり着き、望月はパソコンの画面を操作し始める。「何やってんの?」覧が聞くが、返事はない。「アセットストアと簡易3D作成ツールですね」ランが指摘する。「何それ?」「他人が作った3Dモデルを買えるんです。そしてそれを直感的な操作で簡単に改造できるツールで、簡素ながらもオリジナルのモデルを作っているんだと思います」
覧はあっけにとられる。
「バレたから次ってのか。もう感覚の意味がわからん。というか俺らを追い出さなくていいの?」
「……覧、彼女の手をよく見て下さい」
かたかた、かたかた。キーボードを打ち込む音ではない。ベッドに乗せたパソコンに縋り付く彼女の手が、薬物依存症患者のように震えていた。顔は酷く青ざめて、もともと白い顔がさらに真っ白く病的に歪む。何本か自分の髪の毛をねじって抜いた。
どうやらヘッドセットマイクを細い指で摘んで、キャラを変えながらボイスチェンジャーの設定も変えているみたいだ。「こんにちは。私は皆さんにFPSの面白さを教えるために宇宙からやってきました、Vtub○rの津堂と言います」大人の落ち着いた声。「こんにちはー! ウチは、新しくVtub○rを始めることにしたノヨルって言います! 趣味は将棋と麻雀です。石川県出身だよ!」ケロケロした甲高い声。
「念入れすぎだろ」
「そういう病理です」
「病理って。ウケる。なあ、やめとけって」
言葉で止めても、望月は全く意にも介さない。
覧は、時が経つにつれ、だんだん見ていて恐ろしくなった。「好きな自分で生きていく」と言った彼女は、配信を楽しんでいるのではなかった。異なる自分になることを、彼女なりの価値観で楽しんでいたのではなかった。だって、どう見ても、楽しんでいる表情に見えない。だらしなく緩む口は、酸欠に喘いで深い呼吸を繰り返す。ギラギラと暗く輝く赤い瞳は、むしろ、ヒステリーを起こしている。「自分」を暴かれたショックで、周りなんてもう見えていない。
「侵略。侵略。侵略。侵略を止める! Vtub○r望月遥香、今日はタワーディフェンスをやります!!!!!!!!!!」
こうなると、さっきまでは機材にしか見えていなかった十台のカメラ、彼女の手足に取り付いたモーションセンサ、ヘッドセットマイクが、今はまるで彼女を取り囲む檻みたいだ。
唐突だが、覧はとあるアニメ調3Dエロ動画の投稿サイトが好きだ。ジャンルとしてはキャラクターがダンスを踊る動画を好む。
けれど、ただ卑猥な格好をした3Dモデルが曲に合わせて踊っているだけのものは好きではない。
好きなシチュは、目を閉じさせている間に不思議パワーで全裸にするとか(キャラクターたちは自分が全裸だと気づかないまま踊ることになる)、不思議パワーで下着を脱がしスカートを捲りあげてその上で手を拘束し、そのまま無理やり踊らせて、その中継動画を全世界に流している設定だとか、徹底して人格や尊厳を破壊するタイプのシチュエーション。
「――まるで風邪を引いた時に見る悪夢のようだな」ランが呟く。
望月遥香を取り囲むカメラは、何をどこに流しているのか。目の前のそれが、誰かと仲良くなりたいとか、誰かにちやほやされたいとか、そんな健全な生物だとはとても思えなかった。彼女が何を破壊されているのか、あるいは自分の何を破壊しているのか。
「やめさせよう……見てられん」
「同感です」
「なあ望月、落ち着けよ」
肩を掴んだ。
「うわっ」
掴んだ手を折られそうになる。ためらいが一切なく、関節が逆方向に曲がりかけた。「おっふっ」自分から飛んで逃げて、背中から床に飛び込んで息が漏れた。中学校の柔道の授業がなければ、飛ぶことを思いつかず、折られていたかもしれない。
「私を、私を侵略するなぁっ!!」
絶叫が耳にうるさい。今度は慎重に行く。ランもパソコンを取り上げて手伝った。ギリギリこっちが筋力で上回っている。慎重に行けば、なんとかなった。
「あ、あ……ああ……ああああああ……」
残酷なお伽噺の、大切な娘が目の前で攫われようとしている母親みたいに、望月遥香は慟哭した。
そして、駄々をこね始める。
「パソコンを返して……大事なものなの……私にパソコンを返して……」
何これ? ちょっとおもしろい。なんで泣きそうなんだろう?
ランはバツが悪そうに目を逸らす。覧には何故彼女が目をそらすのかよくわからなかった。これは治療に必要なことのはずだ。大体、パソコンを取り上げられて泣き言を言うとか、ドキュメンタリー映像に出てくるひきこもりじゃあるまいし。あれだって、きっとやらせのはずだ。
だが、もっともっとよく考えればだんだん理解できてきた。もみ合いになるかといえばそうではない。声で抵抗するだけで、望月はさっきからされるがままだ。抵抗しない女の子を一方的に虐待してるかのような状況。よくないに決まってる。
体を抑え込むうちに、彼女が体に巻いていた包帯が緩んできた。
「包帯邪魔だな」
言われると、びくっと体を震わせて、悲鳴のような声をあげる。
「いい加減落ち着けって。マジで普通の状態じゃねえぞ、お前」
何かの弾みの怪我をするトリガーとして機能するかもしれないし。取り除く。そのために手をかけると、望月はいやいやをするように首を振った。
「いや……いやぁ……取、らないで……取らないで取らないで、取らないで……。それはっ、おかーさんにまいてもらった、包帯なの……っ……取らないで……取らない、で……」
見れば、さっきまで平然と会話していた高校生の少女が、涙をじわりと滲ませて、怯えていた。
「……」「……」
二人は沈黙した。
これは本当に治療なのか? 覧は心の中で訝しんだ。だって、まるで目の前の女子は、まるで――傷口をこじ開けられているような反応を見せる。
事実そうなんだろうか。治療のためには、彼女の状況を無理やり変える必要がある。
だが、彼女から状況を奪うことが彼女を傷つけることに繋がるのなら、永遠に健常へとたどり着けない。
びくっ、体が震えた。覧の体でもない、遥香の体でもない。震えたのはランの体だ。
「どうした?」
覧が聞いた。ランは驚愕に震える手でタブレットを操作する。
※
さっきまで、診断AIは「キツネツキ」だけを示していた。
さっき、行動を入力したら「ナルシスト」が入った、
そして、今この瞬間、彼女の情報を再び入力しきったあと、リストをぶわっと精神病が埋め尽くした。
精神障碍「PTSD」
「×病」
「××××」
「××××症」
人格障碍「×××性人格障碍」
「××性人格障碍」
「××性人格障碍」
コミュ症「ライナス」
「アイデンティティクライシス:抑圧」、……(14)
※
「埋まってる……」
「?」
「終わりがない。診断AIの表示の枠に入りきりません。一体……どんな精神構造をしているんですか、この患者は。ありえるはずがない。人格が崩壊しかねない無数の病理を、たった一つのさらなる病理で隠すなんて」




