此岸2
ほとんど同時期に、日本のどこにでもあるような家庭に、一人の女性が帰宅した。
「あなた、ねえあなたあ、どうしよう」
「どうしたんだ」
「首に、なっちゃった」
この二人の、一人息子である藤堂覧は、寝室ですやすや眠っている。貧乏なこの家に生まれたことで、いつも不安に押しつぶされそうになっている少年だが、それを親に隠し通す能力だけはあった。
「お前。……首になったってお前。……今度の更新で正社員にして貰えるって言ってたじゃないか」
「ごめん。……ごめんなさい。ただの口だけだったみたい」
「……」
二人は沈黙した。
父親にとっては不本意ながら、今はこの母親こそがこの家庭の稼ぎ頭である。
父親はフリーターをやっている。
「どうするんだよ、絣。お前、お前が働けなかったら、……覧を育てるなんて。どうしよう? どうしよう?」
フリーターというか、ぶっちゃけ日雇いの肉体労働者だ。月収はだいたい十万円程度。もう少し頑張れば十三万円程度にはなるかもしれないが、それで一家を養うには程遠い。体力は今でぎりぎりだし、社会保障だってボーナスだってないし、いつまで肉体労働なんてやっていられるか。
「わかってる、わかってるよお」
絣と呼ばれた女性は、夫の言葉に反応し、しばらく目に涙を貯めて沈黙したあと、ぽろぽろ涙をこぼして暗い食卓で俯いた。
「なんでなんだろう。なんで上手くいかないんだろう。私だって一度トップコーダーにちょっともう少しで手が届くとこまで行ったのにな。セキュリティ選手権だって、あとひとつだけ順位が上だったら本戦参加だった。私は、私は天才技術者なのにな……」
実際のところは天才とは程遠い。
そして天才ではない、代えが効く技術者は、誰からも必要とされない。
うまくいくと思っていた。中卒の土方が大切に育てられた箱入りを親からさらって駆け落ちする。物語の中ではハッピーエンドだ。現実ではそうはいかないらしく、エンディングのあとも物語は続いてしまう。
うまくいくと思っていた。
愛さえあればなんとかなると、思っていたんだ。
「ねえ、ねえ絣、どうしよう?」
「………………」
絣は、しばらく俯いたあと、笑った。
社会が我々に害を成すなら、我々が社会に害を成すのは正当な復讐である。
「大丈夫。大丈夫だよ、あなた。私が、なんとかする」
「ほんと? やった! でも大丈夫なの?」
「大丈夫!」
「そうなんだ、すごい!」
覧の父親は、何も考えずに喜んだ。「これからどうなる」、「これからどうする」、この二つを考えられる人間は数少ない。
数少ないどころか、世の中にはほとんどいない。
多くの人間は考えていると頭が痛くなるし気分が悪くなる。だから忘れる。
覧の父親も、「考えられない人間」だった。
なぜなら、親から大切に育てられすぎたから。
元来、成人が子供を作るのであって、子供が子供を作るべきではない。そういう意味では、この場にいる二人は二人とも不適格だった。
「任せなさい。私は天才技術者だもん。天才IT土方だもん。なんとかする。……うん、なんとかする」覧の寝ている部屋を見ながら絣は薄暗い声で囁いた。「だから安心して、あなた。直にみんなで笑って過ごせるようになる。毎日国産牛のすき焼きが食べられるようになる。きっとだよ!」そして胸を張って笑った。
彼女の瞳には、当時のブランシェでさえ容易く診断できるほどの、
刻み込まれたかのようなプレコックス線が走っていた。




